白い花の唄

笛吹カトリ(karicobo)の日記、一次創作SF小説『神隠しの惑星』と『星の杜観察日記』のブログです。

月夜のピアノ・マン (その2)

2020年04月01日 00時02分54秒 | 星の杜観察日記

 (住吉神社に来たばかりの頃の瑠那とノンちゃんのエピソードはこちら。この漫画描いた頃は、鷹史の設定が今とだいぶん違っていて、普通にしゃべるただの(?)美青年だった。だんだんヘンな奴になってしまった。)

◇ ◇ ◇  ◇ ◇ ◇  ◇ ◇ ◇  ◇ ◇ ◇  

 

 白い砂を竹箒で掃きながら、落ち葉って秋だけのものじゃないのだなあとしみじみ思った。そういえば、松とかスギは季節関係なくちょっとずつ新しい葉と交替するって習ったような。でも桜とかケヤキとかの葉っぱもけっこう落ちてるなあ。毎日掃いても毎日降って来る。
 私の3メートル先にニワトリの家族がいる。こんな白砂に餌なんかあるかな、と思うけど、何かほじくったり啄んだりしている。このニワトリ達は神社の番犬代わりらしい。気が向くと桜さんの野菜畑の周りに卵を産む時もあるが、だいたい回収されずに勝手にひよこになって、勝手に育って新たななわばりを作って、神社を囲む森全体に散らばっているそうだ。ひよこが全部育ったら大変じゃないかと思うけど、そこは弱肉強食で食べられたり食べたりしている、とのことだ。
 ニワトリは新参者の私を見張っているのか、それとも私をガードしてくれているのか、とにかくどの道から神社に帰って来てもどの群れかのニワトリが現れて、つかず離れずついて来る。


どうせ明日も葉っぱが降るんだから、このぐらいでいいかな、と伸びをしていると咲(えみ)さんの声がした。
「瑠那ちゃーん。またちょっとお使い頼んでいい?」
「はーい」
 竹箒を軒囲いに立てて家に入ると、声が聞こえた二階にトントンと上がった。
「ごめんね。佐々木さんが先週来れなかったから、これから浴衣の続きを仕上げに来るのよ。橘さんと吉野苑さんに用事があるんだけど」
 咲さんは、実質この神社の主婦だ。大人数の織居家を切り盛りしつつ、この桂月庵で週3日はお茶、2日はお花、不定期で和裁を教えている。ご主人と息子さんがひとり、関東にいるので、月に1、2度は行き来しているそうだ。私が初めて住吉神社に来た時も、咲さんは留守だった。
 午後のお教室が終わったところで、咲さんは着物を着ていた。ウェーブのある髪を短めに切り揃えていて、ふっくらした体付きと、ふんわり丸顔の咲さんは私の描く、”お母さん”というもののイメージそのものだった。
「このメモを持って行ってね。ここにそれぞれの曜日に届けてもらうお菓子の数を書いてあるから。生菓子の春の新作が4種類出てるんですって。橘さんで見せてもらって、どのお菓子をどの曜日にするか決めて来て欲しいの」
 橘さんは神社の参道沿いの老舗の和菓子屋だ。咲さんやサクヤさんと一緒に何度も行ったことがある。どういうわけか、私が行くといつも大歓迎していろいろ試食させてくださるので、何だか申し訳ない。
「月曜は年配の男性が3人いるから、しっかり甘いお菓子がいいわ。火曜はOLさん中心の会だから華やかな可愛い感じの。木曜は中学生だからちょっと洋菓子っぽいのでもいいかも。瑠那ちゃんの好みに任せるけど、私も食べてみたいから2個ずつ買って来てね」
 そもそもお菓子は配達なのだし、用事は電話で事足りる。それでも私をお使いにやるのは、多分、私が町に早く慣れるように、という気遣いなんだろうなと思う。
「それから、吉野さんとこで花材の注文して来て。リスト、こっちね。それで、桜さんのお部屋に飾る花を見繕って来て欲しいのよ」
「また何かいい香りの花にしましょうか」
 咲さんの顔がぱっと明るくなった。何だか喜んでいる。
「そうなの。よく気がついたわね。桜さん、香りのいい花が好きなのよ」
 スイセン、ストック、ジンチョウゲにフリージア。住吉の大奥様の部屋にはいつも花の香りが満ちている。

 お菓子を試食して、お花を買って来るおつかい。優雅な仕事だ。

「あ、緋袴のままで出ちゃダメよ」
 咲さんがそう言い出したので、私はぎくっとした。そんな私の顔を見て、咲さんがぷっと吹き出す。
「大丈夫。今日はこれ。桜さんの子どもの頃のものですって」
 若草色に花を散らした着物だった。
「でもこれ、いい着物なんじゃ」
 私が言うと、咲さんはにこおっと笑った。うーむ、似てない親子だと思ってたけど、この笑い方は確かに鷹史さんとそっくりだ。
「着物は着ないと。普段着だから心配しないで平気よ。おいで。苦しくないように着付けてあげる」
「でも、いつもこんなにいろいろ着せてもらって」
 普通の小学5年生はもっとぞんざいな服で走り回ってるんじゃないだろうか。
「いいのいいの。瑠那ちゃんは、うちの看板娘なんだから。このコートは私が仕立てたのよ。聞かれたら宣伝してね」
 明るい菜の花色の和装コート。組紐はあさぎにピンク。
「瑠那ちゃん、来てくれてホント良かったわあ。いっつも言うけど、うち、男ばっかり3人でしょ、女の子が欲しくって。毎日、ホント楽しいのよ? さっちゃんは大きくなっちゃったから、子どもの着物はこれから瑠那ちゃんが着てあげてね」
 もともと関東の人だからか、咲さんは関西弁が出たり出なかったりする。私が住吉に来た当初、咲さんは本気で喜んではしゃいでくれて、何とかハウスのレースどびらーっとついたワンピースとかバレエのコンサートとか、せっせと私にプレゼントしてくれた。レースどびらーにも度肝を抜かれたけど、咲さんがサポーターをしているというバレエ団のリハーサルで、ものすごい目張りメイクともっこりタイツに腰を抜かしてしまい、最近はちょっとクールダウンしている。バレエの衣装とか音楽とか、物語の背景とかは面白そうだったんだけど、傍で見るとシューズの音が大きかったり、メイクがあれだったりで、ビビッてしまった。咲さんは、どうやら私にバレエを習って欲しかったらしい。
 住吉に来て以来、私はすっかり女性陣の着せ替え人形だ。桜さんは着物を取っ替え引っ替え着せてくださるし、葵さんのお姉さんの紫(ゆかり)さんは何かファッション関係のお仕事らしくて”サンプルだから世界中でまだ誰も着てない服よ”なんて言ってお洋服をくださる。さすがにプロで、小学校で着ても浮かない、実用的できちんとした服ばかりだ。私の9歳上の義姉、サクヤさんの趣味は意外や洋裁と編み物だそうで、地味だけどちょっと凝ったデザインの服をくれた。咲さんの和裁、お花、お茶の弟子をしながら、神社では袴、家では着物の和服生活なのに。
 ホームでもきちんとした服を十分にそろえてもらっていたし、食事やお菓子でも不満を感じたことはなかった。でも住吉に来て以来、何だか毎日がクリスマスか誕生日みたいで、正直ちょっと困惑している。そのうち何か悪いことが起こるんじゃないだろうか。
 初めての着物や服を着せられて、『可愛い』と言われる度に私が顔をひきつらせるので、みな気を遣って慎重に『可愛い』というワードを回避するようになってしまった。申し訳ない。いや、社交辞令だってわかってるんだけどさ。大した意味が無いってわかってるんだけど、でもさ。可愛かったら、小学5年生になるまで施設でもらい手がつかないはずないじゃない? わかってるんだから、いいのよ、無理に褒めてくれなくても、なんていちいち引っ掛かってしまう。
 
 下宿人ののん太に最初に『可愛い』と言われた時、私は逆上してホースで水をぶっ掛けてしまった。どうしてあんなに反応しちゃったのか、自分でもわからない。のん太は、新顔の私をしょっちゅうおちょくったり、ちょっかい出して来た。面倒なヤツだなあ、と警戒してかわしていたのだが、『可愛い』と言われた時かわし切れなかった。水をぶっ掛けて部屋に逃げ込んだ後、なぜだか涙が出てきた。バカバカ。バカのん太。私はもらわれたからって浮かれたりしない。自分が可愛いわけじゃないってわかってる。このうちは、桜さんとサクヤさん、2人病気の人がいて、お手伝いが必要だったのよ。養女だからって、本気でこんないいおうちの娘になったつもりになんかならない。分をわきまえて、ちゃんと仕事するわ。役に立っていれば、捨てられたりしないはず。
 そこまで考えて、またボタボタ涙が出て来た。信じない。私を本気で娘にしたがる人がいるなんて、私は信じてない。信じなければ、がっかりしないもの。

 その後、のん太は水掛けられたことに怒るでも無く、私の泣き顔を見ただろうに突っ込むでも無く、何事もなかったかのように相変わらず私にちょっかい出してくる。バカなヤツ。キューテイコク大の大学院生って、もっと頭がいいものじゃないの?

 桜が満開のあの日、私は人魚を拾ったつもりで拾われてしまった。
 年度が変わるからちょうどいい、とばかりにあっという間に養子縁組、転校が決まってしまった。子供が小さいうちは馴染まなくて泣く子が多いから一週間から一ヶ月ぐらいのテスト期間を設けたりする。私の場合は、3日間、試しに住んでみて、大丈夫かどうか決めることになった。

『大丈夫かどうか、瑠那ちゃんが決めて。私たちの気持ちはもう決まっているから』
 葵さんがそう言った。
『でもこのうちは、何かとちょっと変わっているの。絶対に合わない人もいると思う。だから3日間』
 ちょっとどころでなく、変わったことだらけだった。でも楽しかった。たとえ看護婦代わりだろうと、自分を必要だと言ってくれて歓迎されることがうれしかった。
 お化けホームを出て、お化け神社に。ホームの怪談はただ正体もわからずブキミなだけだったけど、どうやらこの神社はホンモノらしい。上等だ。相手してやろうじゃない。


 春色の着物にあけび弦の籠を下げて、慣れない草履でパタパタ神社の石段を下り始めたところに、下から声がかかった。
「お。瑠那、買い物か? 荷物持ち要るか?」
 相変わらずヘラヘラした男だ。肩まで伸びた髪を、今日はひとつにくくっている。薄手のコーディロイのジャケットに、革のディパック、革の靴。アイビーファッションってやつなのかしら。だいたい大学院生ってこんな早い時間に帰って来ていいのか? 死に物狂いでベンキョーするために院生になるんじゃないの? とはいえ、のん太のいる離れの部屋の灯りがいつも明け方近くまで点いているのを知っている。部屋の床が抜けそうなぐらい、本が積んであることも。
 高山望(のぞみ)。葵さんや桜さん達はこいつをノンちゃんと呼ぶ。咲さんの妹さんの息子だ。高校からこの神社で下宿しているらしい。鷹史さんの弟の麒治郎さんが、のん太と呼ぶので、私ものん太と言うようになった。ちなみに麒治郎さんは、サクヤさんに習ってきーちゃんと呼ぶ。
「荷物なんてないもの。和菓子とお花だけ。ガクセーはガクセーらしく勉強しなさい」
 この家で私がこんな憎まれ口を叩けるのは、そう言えばこいつだけだ。
「橘さんか。いいなあ。俺、あそこの金つば、好きなんだよなあ」
「あんたのオヤツの分はお金もらってないわよ」
「自分の分ぐらい払うさ」
 いつもの応酬をしていたら、のん太がいきなりバランスを崩して石段を転げ落ちそうになった。
「おまっ。いきなり乗るなっ。だいたい誰かに見られたらどうする」
 何とか体勢を立て直したのん太の肩に、鷹史さんがぶら下がっていた。いつもこんな風に空間からいきなり現れる。そしていつも、私を見て5歳児みたいな顔でにこおーっと笑う。
 いつものようにガミガミお小言を言っているのん太に、鷹史さんがメモ紙を差し出す。
「え? ああ、桜さんの買い物か。うわ、何このリスト。こりゃ、荷物持ちが要るな。しかも2人」
 のん太がにぱあっと笑った。鷹史さんもにこおーっとした。

 何の罰ゲーム。王子さま2人連れて、参道一周引き回しの刑。

◇ ◇ ◇  ◇ ◇ ◇  ◇ ◇ ◇  ◇ ◇ ◇  


 何の罰ゲームと言いつつ、買い物に連れができたので内心ちょっとホッとしていた。
 住吉参道の商店街だと、みんな声をかけてくれて優しくしてくれるけど、ちょっと逸れて住宅街を歩くと会いたくない人間に会ってしまいそうだからだ。つまり、小学校の同級生やその父兄である。


 小学校の転校初日のこと。担任の澤野先生が私の名前を黒板に書いて紹介してくれた時、『はいっ』と勢いよく手を挙げた女子がいた。指されると立ち上がって妙に明るいハキハキした調子で彼女は言った。
「先生。織居さんは施設から来たばかりで、この町にも今のおうちにも慣れていません。みんなで親切にしてあげたら良いと思います」

 クラスの時間が一瞬止まった。私は前の小学校でも慣れっこだったので、やれやれとこっそり肩をすくめた。澤野先生はちょっと眉をひそめたが、明るい声で答えた。
「岩永さん、提案ありがとう。みなさん、この町や学校のこと、織居さんに教えてあげてくださいね」
「はーい」
 生徒も何事も無かったように返事したが、すぐひそひそ内緒話が始まった。やれやれ。
「岩永さん、後で職員室に来てください」
 澤野先生はきっぱり言ったが、みんなの前では施設の問題に触れなかった。やれやれ。

 ひそひそ内緒話をしたり、目を合わせない生徒が半分ぐらい。残りの半分はむしろ親切にしてくれた。トンチンカンな気配りもあったが、概ね私の味方になってくれるつもりらしい。

 お昼休みにまっすぐな黒髪をおかっぱにした女子が私を中庭に誘った。彼女は、藤田百合恵と名乗った。
「織居さん、岩永さんの言ったことは気にしないでいいわ。あの人、あなたが羨ましいのよ」
 目から星が出るぐらいびっくりした。羨ましい? もらわれっ子の私を?
「あの人の家は裕福だけど、昭和に入って栄えた商家でしょう。この町で織居のおうちは歴史から言っても別格だもの。敵わないからイジワルするのよ」
 私はまだ呆然としていた。
「織居は平安時代まで遡れるおうちでしょ。神社はこの町の中心だし、神主さんは中学校の先生だし、娘さんは大学の先生だし。それにお嬢さんもお婿さんも綺麗だし。太刀打ちできないわ」
 話を聞きながら、私は藤田さんに興味が沸いて来た。キチンとした仕立てのいい洋服にハキハキした話し方。それに何よりキリリと切れ長一重の和風美少女である。この人こそ、いいお家柄の令嬢という感じだ。こんな公立学校では掃き溜めに鶴とまで言わないけれど浮いている。どうして私立に行かなかったんだろう。
「あの、織居ってそんなに由緒ある家なの?」
「あら。あなた聞いてないの? とても綺麗で悲しい伝説があるのよ。ちょっと待って。鳴海さーん」
 藤田さんは中庭を横切る渡り廊下を通りかかった色白ぽっちゃりした女子に呼びかけた。
「鳴海さん、3年生の時に自由研究で住吉神社の伝説を調べて発表したでしょう? 市長賞取ったのよね? あれ、すごく面白かった。織居さん、知らないんですって。話してあげてよ」
 鳴海さんは、明らかにうろたえた様子。最初、私との距離を測りかねてる感じだったが、やがて上手な語り口で話してくれた。

 昔、今の住吉神社のある山に銀の髪の姫が生まれた。その頃、山は今の倍もあって、谷筋に澄んだ泉がありそのほとりに大きな桂の木が生えていた。姫があまりに美しいので、泉に住む竜神は見初めて求婚した。竜神に嫁入りするということは、家族と別れて、冷たい泉の奥底の宮殿に住むということ。姫は決心がつかず、あれこれと知恵をしぼっては竜神の申し出を退けていた。
 やがてふもとの村をひどい干ばつが襲った。飢饉が続き、飢えて死ぬ人もいた。姫は雨を降らせて村を救ってもらう代わりに竜神の輿入れすることを決めた。
 ところが、竜神は嫁ごを得る喜びに我を忘れて盛大な雷雨を引き起こし、その嵐は三日続いた。ようやく晴れた時には山は崩れて半分になり、谷にあった泉は尾根筋に、大桂は雷で折れて切り株になっていた。その焼け焦げた桂の根元にこときれた姫の姿があった。不思議なことに村には何の被害もなく、雨に潤った田畑を喜ぶ村人の声が響くばかりであった。
 姫の三人の妹は三人の神に祈って姉姫を弔った。その三人の神こそ住吉の三神である。
 竜神は今も時折、姫を失った悲しみを思い出して、咆哮を上げては嵐を呼ぶ。でも三人の妹姫と住吉三神が守っているので、ふもとの里が流されたり、干ばつに遭ったりことも無く、いつまでも栄えたということであった。

「銀の髪の姫は摂関家にもつらなる貴族だったんだけど、3人の妹姫はすべての財産を捨てて神仏に帰依したんですって」
 ふえええ。貴族。サクヤさんを見てお姫様みたいと思ってたけど、まさかホントにお姫様の末裔だとは。
「それ以来、住吉に住む妹姫の子孫には時々銀や金の髪の子供が生まれるそうよ。ほら、今もいるでしょ。お嬢さんのお婿さん」
「鷹史さんのこと?」
「そう。鷹史さん、素敵よねえ。いとこ同士で、生まれた時からの許嫁。映画みたい」
 藤田さんと鳴海さんは頬を染めて、ほう、とため息をついた。凛とした高嶺の花のような藤田さんを惚れさせるとは、さすが鷹史さん。2人とも境内の庵にお茶を習いに来ているらしい。聞いてみると、同級生や上級生に、咲さんの生徒がけっこういるそうだ。みんな、鷹史さん目当てなんじゃあるまいか。

 鷹史さんファンクラブのおかげで、私は一定数の味方を得ることができた。どうもクラスは岩永さん親衛隊と、それに与しない少数派の藤田さん陣営に別れているらしい。岩永さんはクラス委員で生徒会役員。お母さんはPTAのえらい人らしくて、私の情報もそこから漏れたと推測される。手ごわいけど平気だ。毎日、私の服装はつま先から天辺までチェックされるけど平気。知らないで着ていた服がけっこうなブランドらしいとわかって、へえ、と思うだけだ。でも鬱陶しいのは確か。前の小学校でも、施設の子がクラスにいることに何かと難色を示すPTAがいたものだ。”きちんとしたおうちじゃない子はやっぱり”みたいなことをよく言われた。
 藤田さんは表立って岩永さんに対立しないけど、彼女が誰かにマウンティングを始めると冷ややかな顔で片眉を上げる。そして何かうまく理由をつけては攻撃対象を避難させると、岩永さんに向かってニッコリ笑う。岩永さんは欲求不満でイライラが募っているはずである。そろそろ爆発するかもしれない。

 というわけで、鷹史さんやのん太が一緒に町を歩いてくれると、少し安心なのだ。

 咲さんの用事はすぐ終わったけど、桜さんのリストは細々していた。まずはドイツパンの店で明日の朝食とおやつ。クルミとブルーチーズ入りブロートとシナモンクノーテン、プンパニッケルは必須。それ以外に好きなものを9つ、と書いてあった。種類が多いので、お菓子の家に紛れ込んだヘンゼルとグレーテルみたいに目がくらんでしまった。お店の奥から焼きたてパンのいい香りが漂ってくるし、トレイのパンはどれもこれも美味しそう。ようやく選んで店の外に出た時はぐったり疲れていた。大きな紙袋いっぱいのパン。住吉は大家族なので、これでもあっという間なのだと言う。それから八百屋さんで春キャベツと小カブ、魚屋さんでシラスとカマスの一夜干し、という風にクエストが続く。どのアイテムも家族8人分なので大荷物になる。だんだん足が痛くなって来た。
「次はどこ?」
「えーと。一乗寺茶舗でさっちゃんを回収すること」

 お茶屋さんに入って見ると、すぐ奥に通された。あさぎ色の着物のサクヤさんがご隠居さんと将棋盤を囲んでいる。ふええ。将棋。渋いなあ。サクヤさんの番らしく、うーんと考え込んでいてこちらに気づかないようだ。おかみさんが、私たちに美味しいお茶を出してくださった。
「将棋仲間やった松原さんも瓜生さんも足ぃ悪うして来てくれはらんもんで、お祖父ちゃんずっと元気無かったんよ。さっちゃんが将棋覚えてねえ、この頃時々寄ってくれるやろ。楽しみにしとるんよ」
 慣れない草履でちょっと痛かったので、一休みしてお茶をいただけるのは有難い。
 サクヤさんはまだ、うーんと首をかしげている。いつもふんわりニコニコしてるとこしか見たことないので、眉間にシワ寄せた顔は珍しい。そこへ、鷹史さんが畳の上をいざっていって、サクヤさんの肩ごしに盤面をのぞくと、ひょいっと駒を動かした。
「あ」
「あーっ」
 勝負がついてしまったらしい。
「ひどい。タカちゃん。やっとここまで進めて、ええとこやったのに。いきなり来て王手とか、何やの」
 サクヤさんは半泣きで本気で悔しがっている。珍しい。こうしていると年相応に見える。ご隠居さんはわっはっは、と笑った。
「参った参った。さすがタカ坊。アメリカの大学で博士になっただけのことはある」
 私はびっくりしてお茶を吹きそうになった。
「えっ。博士? 中卒とか言ってなかった?」
「学歴は中卒だよ。間違ってない」
 のん太が解説する。鷹史さんはいつも通り5歳児みたいな顔でニコニコしている。
「アメリカの何やすごい大学にさらわれてって、高校中退になってしもたんやて」
 ふえええええ。
「何の博士やて? 将棋やないよなあ?」
「物理ですよ。俺、通訳に連れてかれたけど、宇宙語かってぐらいチンプンカンプンでしたもん」
「通訳って何。のん太、あんた英語しゃべれんの」
 私はご隠居の前で猫かぶるのも忘れて詰め寄った。
「ちゃうちゃう。その時は俺も高校生やもん。英語わからんけど、鷹史の言うことならわかるから。俺とか咲さんとか、交替でついてったわけ」
「不思議やなあ。わしにはさっぱりわからんねんけど、さっちゃんも桜さんも、タカ坊の言いよること、通じとるんやもんなあ」
 ふえええええ。高校生で、アメリカの大学行って物理の博士。ふええええええ。常々、鷹史さんて宇宙人じゃないかと思ってたけど、これではっきりした。やっぱり宇宙人だわ。
「半年ぐらい行っとったんやろ? ほやのに、しょっちゅうひょっこり帰って来て、うちにもよう寄ってくれよったよなあ。あれ、飛行機代とか、あっちが出してくれとったんか?」
 ご隠居に聞かれても、鷹史さんはニコニコ笑って八つ橋をポリポリ齧っているばかり。ううむ。宇宙人だ。だいたい空飛ぶんだもんね。今更驚かないわ、驚いたけど。アメリカからだって、ひょいっと涼しい顔して飛んで来たに違いない。

 お茶屋さんを出ても、まだサクヤさんはふくれ面だった。鷹史さんが何か私にわからないことを言ってはからかっている。そんな鷹史さんをサクヤさんはポカポカ殴っている。何だ何だ、可愛いぞ。鷹史さんといる時のサクヤさんは、ちゃんと20歳の女の子らしく見える。さすが新婚夫婦。そしてサクヤさんのお腹には2人の間の子供。私はちょっと赤くなってしまった。いいなあ。2人とも綺麗でかしこくて、立派なおうちですくすく育って。世の中にはこんな夫婦もいるんだなあ。そりゃ、鷹史さんが言葉しゃべれなかったり、サクヤさんが身体弱かったり、いろいろあるのかもしれないけど、私から見るとただ眩しいだけだ。その障害さえもおとぎ話のエッセンスのような。丘の上のお城に住むお姫様と王子さま。私はお城に偶然の幸運でもらわれたみなし子。いいなあ。私もいつか魔法のドレス着て舞踏会に出られるのかなあ。

 桜さんのリストの最後は大きな本屋さんだった。趣味の園芸と、フランス語講座のテキストを買ってくること。それから子供たち、ひとつずつ、何でも好きなものを買うこと。
「へっ。好きなもの?」
 のん太が、桜さんから預かってる財布を振ってみせた。
「そ。本でもCDでも鉱物標本でもパズルでも。何なら文房具とかカバンもあるよ。この店にあるものなら何でもいいからひとつ」
「ふえっ」
 住吉の子供は、下宿人ののん太や婿養子の鷹史さんも含めて全員、月に一回、この大きな本屋さんで好きなものを桜さんに買ってもらえる風習らしい。
「本と音楽と教材はどんだけあっても害にならない、ってのが桜さんと光(みつる)さんの持論でさ。おかげで葵さんは本の虫。蔵は本とレコードで埋まってる」
「ふええええええ」
「何買ったか見せて、時々桜さんにも貸してあげるってのが条件だけど」
 なるほど。それじゃ、いかがわしい写真集なんかは買えないわけだ。それにしても。この針入り水晶の大きな標本なんかン万円もするじゃないの。どうすんのよ。
「私、3階見てくるね。1階のカウンターで待ち合わせしよか」
 サクヤさんが提案した時、私はまだふええええええと茫然自失だった。後で知ったけど、3階は洋書コーナーなのだ。専門書から絵本まである。
「じゃ、30分、いや1時間かな。さっちゃん、疲れたらベンチにいたらいいよ」
「うん。大丈夫。本読んでる」
 サクヤさんはのん太ににっこり笑った。サクヤさんにとって鷹史さんものん太も3つ上の従兄弟。でも鷹史さんを選んだんだよなあ。のん太は、サクヤさんを好きになったりしなかったんだろうか。のん太は、この新婚カップルを弟と妹のように面倒見ている。自分はまだ学生なのに、同い年の従兄弟が博士号持ってて美人のお嫁さんがいて、もうすぐ父親になるってどんな気分なものかしら。のん太は、岩永さんみたいに妬んでイジワルとか無縁な気がする、何となく。そもそもパヤパヤしたこの夫婦見てると張り合うのもアホらしくなっちゃいそうだし。
 そうなのよね。私も妬んだりとかは無いんだけど、どうしてこうも違うのかしらって思っちゃう。でもいいの。神社の大量の本はどれでも好きなだけ読んでいいって言われたし。そして今日は新しい本。何でも好きな本、自分の本を買っていいって。それこそ夢みたいだ。目がチカチカする。
 どうしよう。外国の絵本も気になるし。でもこの間映画化した小説も読んでみたかったの。綺麗な飾り窓の写真集も素敵。方解石の標本もいいな。どうしよう。毎月ひとつってことは、来月まで取っておいてもらうのも手段よね。写真集とかすぐ無くなっちゃうかも。待て待て。よく考えなくちゃ。
 再びお菓子の家のヘンゼルとグレーテルになってしまった。片っ端から齧ってみるわけにいかない。ひとつだけ。よく考えて選ばなくちゃ。

 結局その日、私は本を選ぶことができなかった。イギリスの翻訳小説の棚をうろうろしていた私の肩をポンと叩いたのは、にっこり笑った岩永さんだった。ピアノの発表会にでも出られそうなベルベットのワンピースを着ている。巻いた髪にはリボンのカチューシャをして、『小公女』の主役を張れそう。そして彼女の横にはシャネルスーツにコサージュ、ロングネックレスの若くて綺麗なお母さん。うーむ、すごいぞ。絵に描いたようなPTAファッション。ホントにこういう人いるんだ。

「ママ、この子よ。ママが言ってた施設の子」
「まあ。あなたが瑠那ちゃんね。会いたいってずっと思ってたのよ。初めまして」

 いや。私は会いたくなかったぞ。断じて。



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