「瑠那ちゃん、あなたとお話したかったの」
岩永さんのお母さんが私の手を握って、児童文学コーナーの隅のベンチに誘った。無理に引っ張られたので、ネイルの飾りが私の手に食い込んで痛かった。岩永さんも妙に明るいニコニコした笑顔で並んでベンチに座った。うーむ。私はさながらサバンナのガゼル。メスライオンと子ライオンに狙いをつけられたってところだ。
「さ、座って。私、あなたにお話することがあるの」
私は手に下げていた蘇芳色の巾着を、床に置いたあけび弦のカゴにそっと入れた。蘇芳色は着物に散らした小花の色とリンクしていて、いいワンポイントでしょと咲(えみ)さんが笑った。
「あのね、あなた、織居の家の人からちゃんと話してもらってる? 説明されてないんじゃないかと思ったのよ、あの家の事情」
岩永さんは私の腕を掴んで私に覆いかぶさるように顔を近づけて熱心に話す。声を潜めているようで、かん高い声はけっこう周囲に響いていた。ほら、あそこのお兄さんがこっちを見ている。こっちの女子高生達も。
「私、あなたを助けたいの。あの家から救い出してあげたいのよ、瑠那ちゃん」
私は用心して、というよりやや圧倒されて何もしゃべらなかった。この人はどうしてこんなに一生懸命なんだろう。私に何の関心があるんだろう。
「あの家、変でしょう? 不可解なことばかり起こるのよ、あの神社では」
それは私も否定しない。ヘンテコなことばかりだ。でもそれは知ってる。あそこの人たちはそもそも私に隠そうという気がないみたいだ。目の前で平気で変身したり空を飛んだりしてるもの。
「あなたは知ってるの? あの神社にはおかしな言い伝えがあるの。よく人が死ぬのよ。それに神隠し」
それは聞いた。いろんなソースの情報があった。お化け神社と呼ばれているって。天狗が子供をさらうって。長い黒髪の女の幽霊が出るって。社を囲むあのほの暗い森なら、夜に迷い込んだ肝試しの子供がお化けぐらい見ても不思議じゃない。それに、お化けじゃなくて、黒髪美女から67歳の美魔女に変身する桜さんかもしれないし、空をぷかぷか浮かぶ鷹史さんかもしれないし。
「どんな人が消えるか知ってる? 小さい子供、それから臨月の女の人、そして、よそからあのうちに来た人」
私はドキンとした。
「瑠那ちゃん、あなた、どうして自分が選ばれたと思う? 私少し調べたの。あのホームであなただけ、本当に親戚もいない、天涯孤独。あなたに何かあった時に訴訟を起こしそうな人間がいない。後腐れがないからよ」
何かあった時。何かって何?
岩永さんは声を潜めて、ことさらに私に顔を寄せてささやいた。恐怖に見開いたように見えるその目はキラキラして、なぜかとてもうれしそうに見えた。
「あなた、このままあの神社にいたら、殺されるわよ」
「ただの言い伝えじゃないの。あなた、葵さんの弟さんが5歳で亡くなったの知ってる? そして葵さんのダンナさんも」
葵さんのご主人のことは、何も聞いてない。聞いちゃダメかな、と思って。そのうち話してくれるだろうと思ってた。
「ご遺体もないのよ。ただ、消えたの」
ドキン、ドキンと心臓の音が大き過ぎて、声が時々聞こえない。
「あなた、すごくいいお洋服着せてもらってるんですって? 今日もほら、正絹の小紋。小学生の遊び着に普通こんないいお着物選ばないわ」
それは私も思ってた。どうしてこんなにちやほやしてくれるんだろうって。私が可哀想だから? それは親がいないから? それとも。
「あの神社の人たちは、あなたを身代わりにする罪悪感と哀れみで、こんな贅沢をさせてるんだわ」
身代わり。
誰の身代わり? 私は誰の代わりに死ぬの?
「お嬢さん、赤ちゃんが生まれるんでしょう。咲さんも葵さんも、初孫を守りたくて、だから生贄にあなたをもらって来てちやほやしてるのよ」
叫びたいけど、声が出ない。そんなこと信じない。この人は、織居の家が嫌いでイジワルが言いたいだけだとわかってる。でも。
「ウソです! 咲先生がそんなこと、するわけない!」
私の代わりに叫ぶ声が聞こえた。
「ナルちゃん」
鳴海さんが、両手をにぎりしめて、ベンチの横に立っている。今まで全然気付かなかった。
「咲先生、私をなぐさめてくれたんです。私、岩永さんにみんなの前で白ブタって言われて、女の子みんな、給食に豚肉が出るたびにブーブーって私の方見て笑って、残飯食べればいいとか陰口言われて」
ナルちゃんの声がだんだん大きくなって来て周りの人がこっちを見ている。ナルちゃんは太ってない。ちょっとぽっちゃりして色白だけど、別に肥満体型とかじゃ全然ない。ただ大人しくて言い返せないから、一方的にからかわれているのだ。
「こんなこと、お母さんにも話せなくてお茶のお教室の隅で泣いてたら、咲先生がお茶を淹れてくれて、ゆっくり話を聞いてくださったの。ふくよかでなで肩で、お着物が似合うって。だからもう気にしないでって言ってくれたのに」
ベンチコーナーにはすっかり人だかりができてしまったが、鳴海さんは気づいていないようだ。
「ナルちゃん、私、本気で言ったわけじゃ」
岩永さんが言いかけたけど、ナルちゃんは聞いてない。
「今年も岩永さんと同じクラスになってしまって、織居さんと話しちゃダメって言われて、でも藤田さんと一緒に瑠那ちゃんとおしゃべりしたら、またブーブー囃されて仲間はずれにされて……」
ガマンできずに鳴海さんの両目からボタボタ涙がこぼれ始めた。
「なのに、今度は岩永さんのお母さんまで、こんなこと、ひどい、瑠那ちゃんにこんな、どうしてこんなひどいこと」
鳴海さんは私にしがみついて泣き始めた。
「ごめん。瑠那ちゃんごめんなさい。あなたを守れなくてごめんなさい」
「えりな、あなた、学校でそんなこと」
「ママ、違うの。私」
私たちをそっちのけで親子ゲンカが始まっていたが、私の耳には入らなかった。鳴海さんの謝る声も聞こえなかった。
心臓が痛い。頭がガンガンする。身体がどんどん冷たくなる。
「瑠那」
私の肩をポンと叩いたのは、のん太だった。いつの間にか、サクヤさんも鷹史さんもいる。
「瑠那、帰ろう。岩永さん、いいですよね、もうお話は終わったんでしょう」
「え」
人だかりと、のん太達に囲まれて岩永さんはうろたえている。
「瑠那、あれ、今日持って来てるか?」
私はぼんやり頷いて、屈んでカゴから巾着袋を取り出すとのん太に渡した。巾着袋の中にはICレコーダー。のん太が私にくれたものだ。
小学校に行き始めた時、のん太が”お前、イジメられたりしてないか?”と聞いたのだ。
私は否定も肯定もしなかった。ウソを言うのはイヤだったけど、子供同士のことを大人に言いつけるようなのもイヤだった。
のん太が言うには、サクヤさんも小中高とイジメられ生活だったらしい。”お前は泣き寝入りするなよ。さっちゃんの敵を取ってやれ”とICレコーダーを渡されたのだ。
のん太は岩永さんの目の前でレコーダーを再生して見せた。
”生贄にあなたをもらって来て”
岩永さんは真っ青になったり真っ赤になったりしていた。レコーダーが無くても、周りでたくさんの人が今の騒ぎを聞いていた。後で聞いたが、岩永さんのお父さんは市議会のえらい役職にいる有名人らしい。
「何の目的で子供を脅かしてるのかわかりませんが、うちの瑠那は返してもらいます。さ、君も行こう。こんなとこ、出よう」
のん太が私と鳴海さんの肩を支えて、本屋から連れ出した。鷹史さんがタクシーを捕まえて来て、みんなで乗り込んだ。車の中で、鳴海さんはずっと泣いていた。泣きながら、”ごめんね”と繰り返していた。
「瑠那ちゃん、大丈夫? すぐうちやし」
サクヤさんがひんやりした手で私の手を握ってくれた。でもその声は遠くから響くようだ。自分の手がカタカタ震えているのがわかった。
本当にあっという間に家に着いた。タクシーが咲さんのお教室の裏手に着くと、咲さんが飛び出して来て私と鳴海さんを抱きしめた。でもそれも遠い国のことのよう。
私はそれから3日寝込んだ。知恵熱か、環境が変わった疲れだろう、とお医者さんに言われた。目を覚ます度、枕元にいろんな人が座っていた。葵さん、桜さん、咲さん、サクヤさん、のん太、きーちゃん、鷹史さん、光さん。
「ナルちゃんは?」
のん太が隣にいた時、聞いてみた。かすれた上ずった声しか出なかったが通じたようだ。
「咲さんが家を知ってたんで、車で送ってった。あっちの親御さんに事情説明して来たって」
良かった。これですっかり解決ってわけじゃないけど、おうちの人が味方になってくれるなら、ずいぶん気持ちが軽くなるだろう。
葵さんは私の枕元でぱたぱた涙をこぼして泣いていた。あーあ。だから言いたくなかったのに。葵さんはくり返し、”ごめんね。瑠那ちゃん、ごめんね”と言っていた。葵さんのせいじゃないのに。
いいの。私、納得した。腑に落ちた。そうか、身代わりか。そうよね、それぐらいしか、私、役に立たないものね。
熱に浮かされてそんなことを考えていた気がする。ノドが乾いて目を覚ますと、部屋が暗かった。家が静まり返っているところを見ると、夜中らしい。身体がギシギシ言うのを、何とか腕を伸ばして枕元のお盆に手を伸ばした。
うーん、届かない。もうちょっと。
私の伸ばした指先に、すとっとお茶のカップが来た。あれ。
急に身体が軽くなった。私は身体を起こしてお茶をひとくち飲んだ。甘い。すうっとノドを通って熱を冷やしてくれる。夢中でカップ一杯飲み干してしまった。
そこで初めて気がついた。布団がない。いや、床がない。もっと言うと天井も屋根もない。私は宙に浮いていた。満天の星の中に。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
天の川だ。
きらきら金の砂。銀の砂。すくってみると指の間を通り抜けた星がことさらにきらきら光る。
ひとしきり遊んでようやく気がついた。星がすくえるわけがない。第一、星空に浮かんで息ができるはずがない。
そうよね。ここどこ。ここ何?
「竜宮」
自分ひとりだと思い込んでいたので、すぐ隣で声がしてびっくりした。しかも声の主は、今まで一度も声を聞いたことがなかった人間だった。
「鷹史さん!」
あぐらをかいて空中にぷかぷか浮いている。かくいう私も星をすくいながら宙を漂っている。ここには上も下もない。
「竜宮って何? ここ、海の中ってこと? 鯛やヒラメが舞踊りってやつ? 織姫さまとかいるの?」
「そ」
初めて聞く鷹史さんの声は、何というか違和感がなかった。頭の中で想像した通り、というか、想像した声をこっちて勝手にあててる、そういう感じ。
「ふーん。じゃあ、あれもある? 玉手箱」
「もちろんある。竜宮だから」
熱が下がって身体が楽だった。ここは温かくも寒くもない。いい気持ち。私は遊園地にでも紛れ込んだように楽しかった。だって星の間を漂っていて、鷹史さんがしゃべっている。これが夢でないわけがない。何だかいろいろイヤーな面倒くさいことがあった気がするけど、もういいや。
鷹史さんが口笛を吹くと色とりどりの魚が集まって来て、小鳥のように宙を飛びながら私たちの周りをすり抜けていった。綺麗で夢みたい。TVでしか見たことない珊瑚礁の明るい海のようだ。透明な水に鷹史さんの銀色の髪がふわっと浮き上がってきらきら光っている。金色の目がことさら明るく見える。
夢みたいだけど夢じゃない。夢にしては鮮明過ぎる。ここはどこなんだろう。私はいったいどこに来ちゃったんだろう。
私はごくりと唾を飲み込むと、覚悟を決めて聞いてみた。
「竜宮って何? 私、帰れるの? 帰ったら、何百年も経ってるとか、玉手箱開けたらお婆さんになっちゃうとか、そういうこと?」
いつもみたいに5歳児みたいな顔でにぱと笑ってくれると思っていたのに、鷹史さんは私の方を見ない。ずっと遠くを見ている。ずっと下の方。海の底の暗がりを。
「瑠那は帰れるよ。俺が連れて来たんだから。それにひとりでここに来ちゃうこともない。ここに捕まることもない」
「捕まる……人もいるのね?」
「そう」
鷹史さんの視線の先。真っ暗な奈落の底から何か聞こえてくる。歌声のような、オルゴールの音のような、幽かな音楽。
「うちには、時々、竜宮とつながっちゃう人間が生まれるんだ」
「つながっちゃう?」
「そ。つながり方はそれぞれだけど、ただここが見えるだけだったり、この音が聞こえるだけだったり、あるいは身体ごとここに来てしまって……」
「捕まる?」
「そう」
「桜さんや葵さんは、瑠那に秘密にしてたわけじゃない。騙したわけじゃない。説明しようがなかっただけだ。どうしてつながってしまうのか、俺たちが教えて欲しいぐらいだ」
いつもニコニコ子供みたいに笑っている鷹史さんが、今は年相応に見える。
「ここ、何なの? ホントに海の底ってわけじゃないわよね?」
「よくわからないけど、時間の流れが違う空間ってのは確かだと思う」
「異次元とか四次元とかそういう?」
「そうそう。そういうやつ」
とんでもない話を聞かされているはずなのだが、今ひとつ緊迫感がない。何しろ辺りは明るくて色とりどりの魚が飛び交っている能天気な世界なのだ。鷹史さんが言うには、人間はわかるものしか脳で認知できないので、理解しやすいイメージに勝手に翻訳しているらしい。
「サクヤさんや葵さんもつながってるの?」
「うん」
「桜さんは?」
「うん」
「きーちゃんは?」
「あいつは大丈夫。音痴だから」
「ふうん」
私はもう一回、ごくりと唾を飲んだ。これは夢じゃない。夢のようなイメージだけど、竜宮は本当にある。住吉の人たちは、本当にこの異次元にかかわりながら生活しているんだ。
「ねえ。じゃあ、葵さんの弟さんやダンナさんがいなくなったのは……ここに来たの? ここに捕まって帰れなくなっちゃったの?」
鷹史さんはすぐには答えなかった。見張るように、じっと奈落の底を見つめている。
「そう。だからここにいる」
「今も?」
「今も」
「じゃあ、葵さんはここに来ると会えるの?」
「うまくつながればね。でもなかなか難しい」
つながるって、ラジオのチューニングがうまく行くようなものなのかしら。
「桜さんは、最近つかまりやすくなってた。自分でコントロールできなくて、時々竜宮にすべり込んでしまう」
「へ、それ、どういうこと?」
「元に戻れずに、離れた場所に出てしまったりする」
あの時。満開の桜の下で。桜さんは突然現れた。そう。あの土手には直前まで誰もいなかったのだ。
「それほど遠くないところに出られたのは運が良かった」
運が悪かったら? 地球の裏側に出ちゃったり、何百年も未来に出ちゃったりするってこと?
「それに瑠那に会えたのは、本当に運が良かった」
「へ? 私?」
「そう」
鷹史さんが、奈落から目をそらして私の方をまっすぐにみるとにこおっと笑った。うわあ、綺麗。目がチカチカするほど眩しい笑顔。しかしなぜかときめいたりはしないんだなあ。だって何か綺麗過ぎるんだもん。天使様みたいで、邪な気持ちなんか湧かないわあ。
「瑠那とかのん太はね、ホントに特異な存在なんだよ。俺たちが異次元にすべり込みそうになる、そのズレとか隙間とかを無効化してくれる。徹底的に音痴と言ってもいいけど、竜宮を信じないわけじゃないし、こうして見ようと思えば一緒に見れるし、とにかく変わってるよね」
何だかわからないが、バカにされたような気もする。でもま、役に立つならいいや。
「ホントに、ずっと探してたんだよ。のん太ひとりじゃ手が回らないし。良かった、ホントに。瑠那がうちに来てくれて」
またにこおっと笑う。
「そう言うけど、私、実際何もできないわよ。あの時だって桜さんの手を握っただけだし」
「うん。それでいいんだ。瑠那はわからないものを見ても、桜さんを拒絶しなかった。ずっと助けようとしてくれた。今も。わからないまま、受け入れてくれてる」
だって。桜さんが苦しいのがわかったんだもん。何が起こってるのかわからないけど、でも気持ちがわかる。葵さんの寂しさや、いつもニコニコしながら抱えているサクヤさんの孤独とか。
拒絶したりできるはずがない。だってもう、ここの人のことが好きになってしまっているんだもん。
「だから、俺たちは本当に瑠那のことが必要なんだ。瑠那がいなかったら、桜さんはあのまま、あそこに捕まって二度と帰って来なかった」
鷹史さんは奈落を指さした。
「住吉に来たことで、瑠那を俺たちの事情に巻き込んでしまうし、危険なこともあるかもしれない。それを生贄というなら言えるかもしれないけど、でも身代わりとかじゃない」
「うん」
「安心して。音痴な人間は身代わりになれないから」
何かまたバカにされたような気がするけど、まあいいや。何が安心なのかもわからないけど、信じることにする。こんな荒唐無稽でチンプンカンな嘘、ついても仕方ないだろうと思うし。
「何か危険なことがあっても、俺たちちゃんと瑠那のこと、守るから」
「俺たち?」
「まあ、主に俺とか麒治郎とかおふくろ」
桜さんや葵さんは戦力外ってこと? いや、違う。咲さんや鷹史さんは、織居の女達を守ろうとしているのだ。
「あ、そうか。あれは本当のことなのね? 鷹史さんは、ホントに銀の髪の姫の末裔なのね?」
鷹史さんがにぱあっと笑った。明るい水の中で銀色の髪が光っている。
「そう」
銀の髪の姫には3人の妹姫がいた。妹姫たちは姉姫を弔って、里を守るためにすべてを投げ打って祈り続けた。住吉の人たちは、何を守っているんだろう。
「じゃあ、竜神さまは? あれも本当のこと? 今も時々暴れるの?」
「そう」
でも竜神さまって、小さな泉の底に住んでたんじゃなかったっけ? 泉の底ってこんなに広くて深いの? 海の底につながってるの?
その時、ドドオオオオン、という響きとともに奈落が光ると、辺りが揺れた。
「何これ。何、地震?」
私は鷹史さんにしがみついた。
「しばらく落ち着いてたんだけどなあ。また調律に出ないと」
「調律?」
「うん。でも瑠那が来てくれたおかげで、留守がしやすくなったよ。ありがと」
「留守?」
相変わらずチンプンカンプンだ。
「とにかく、戻ろっか。瑠那、もう平気?」
「へ?」
「もう寂しくない?」
トンチンカンな質問をされた気もする。でも私は鷹史さんに負けないぐらいにぱあっと笑ってみた。
「うん。もう大丈夫」
目を覚ますと、母屋の布団の中だった。
まだ身体がギシギシ痛いけど、少し軽くなったみたい。枕元のカップのフタを開けると中が空っぽになっていた。ふむ。すると、さっきお茶を飲んだとこまでは夢じゃなかったらしい。ポットからとぷとぷカップにお茶を注いでぐいっと飲み干す。ああ、美味しい。
布団の横には葵さんが寝ていた。メガネをかけたまま、手には本。何かかけないと、風邪引いちゃう。そおっと布団から出て、押入れの方に歩こうとしていると、すっと襖が開いて咲さんが入って来た。
「あら。熱下がった? どれ」
ふんわりした手を私のおでこに当てる。
「まだちょっとあるかな。でももう大丈夫。起きたならパジャマ着替えようか。それとも何か食べる?」
「き、着替えます。それとお腹すいた」
声が出にくいけど、何とかしゃべった。咲さんはにこおっと笑った。ううむ。鷹史さんそっくりの笑顔だ。
「食欲出たら大丈夫ね。ちょっと待ってて。着替え取ってくる。葵ちゃん、起こしておいて」
身体を拭いて、パジャマを着替えて。2人に支えてもらってトイレにも行って。金柑の蜜漬けを入れた温かいお茶と、冷やしたリンゴのコンポートで真夜中のお茶会をした。
葵さんも咲さんも、何も言わなかった。岩永さんに言われたことも、竜宮のことも、何も。私も聞かなかった。
「リンゴにアイスクリーム載せる?」
「載せます!」
おやつにパクつく私を見て、葵さんは時々涙ぐんでるみたいだったけど、でも何も言わなかった。だから私も今は聞かない。今はまだ、わからないことばかりだけど、少しずつ。
「あの。葵さん、咲さん。えと、ありがとうございます」
「何が?」
2人ともきょとんとしている。
「夜なのに、こうして看病してくださって、あの、私」
2人とも笑った。お母さんみたいに。
葵さんと咲さんには、竜宮はどんな風に見えているんだろう。鷹史さんの声はどんな風に聞こえているんだろう。
「さ。落ち着いたらまた布団に入って。寝て起きたら、明日はもっと元気になってるわよ。明日はフレンチトースト作ってあげる」
良かった。もう安心だ。フレンチトーストにアイスクリーム載せてもらおう。絶対に。
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