goo blog サービス終了のお知らせ 

 アクアコンパス3 続編

アクアコンパス3が容量一杯になったので、こちらで続きを開始します。

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 14: 平家落人伝説を追って 1

2020-12-21 08:09:49 | 旅行

 

*1

 

 

これから数回に分けて、祖谷の平家落人伝説が残る史跡を紹介します。

今回は、武家屋敷 旧喜多家と鉾杉を紹介します。

訪れたのは2020年6月9日午前9時頃でした。

 

 

< 2. ドライブルート、共に上が北 >

 

朝、かずら橋の旅館を出て、祖谷川沿いを10kmほど上流に沿って走りました。

そこから左手の山の急斜面を車で登って行きます。

 

上: 今回の旅で訪れた平家の史跡はこの範囲に限られます。

詳しくは巻末の観光地図を参考にして下さい。

 

右(東)から左に蛇行しているのが祖谷川と祖谷街道です。

左の方の白い点が武家屋敷への登り口で、赤のバルーンが武家屋敷です。

標高は登り口で510m、武家屋敷が850mで、その間4km以上を蛇行した林間の細い道を走ります。

右端に落合集落が見えます。

その手前、左手の山側に安徳天皇の史跡があり、次回紹介します。

 

下: 武家屋敷 旧喜多家までのルートを拡大

赤矢印が旧喜多家、白矢印が登り口です。

 

 

< 3. 旅館を出て祖谷街道を行く >

 

この辺りの道は広いが、突如狭くなる所がある。

下の写真では、土木工事の多くの作業者が準備を始めていた。

走っていると幾度も道路工事を見かけた。

道路は整備され、便利になり観光開発の目的もあるだろうが、高額な土木工事費が気になる。

過疎地の開発手法に違和感を覚える。

 

< 4. 武家屋敷に向かって登り始める >

 

上: 登り口が分からず、行き過ぎてから戻っているところ。

左は祖谷川への断崖、右は切り立つ斜面に挟まれた細い道。

 

中央: 右手に登り口が見えた。

 

下: 登り始めた。

 

 

< 5. やがて現れた >

 

急斜面を曲がりくねって進む細い路を行く。

対向車が来ないことを祈るばかりでした。

幸いな事に、まったく出くわすことはなかった。

 

下: もうすぐ峰に届くかもしれないと思ったが、どうやら路は行き止まりで、少し開けた土地に出た。

農家の左側に茅葺の大きな屋敷が見えた。

 

 

< 6. 屋敷の敷地へ >

 

上: 石垣の擁壁の右側に階段があり、登った。

 

下: 雨戸はすべて閉まっていたが、大きな屋敷が出現した。

 

 

< 7. 屋敷の周囲 >

 

上: 裏手

左下: 凝った雨戸の戸袋。

右下: 雨戸。

 

< 8.やがて開場 >

 

私が周辺をうろうろしていると、一人の女性が声をかけてくれた。

彼女は他から、車でここに着いたばかりのようでした。

彼女はこの屋敷の管理人で、今から開場するが、中に入りますかと聞いた。

私は時間が無いのでと断り、外から矢継ぎ早に写真だけを撮らせてもらった。

彼女の親切な応対に恐縮した。

 

上外: 玄関の様子。

立派な玄関でした。

 

 

< 9. 囲炉裏と鎧 >

 

< 10. 屋根裏 >

 

茅葺の裏側がよくわかる。

 

 

* 旧喜多家について

この屋敷は1763年の建築で、祖谷地方では最も大きい上層階級の屋敷です。

安土桃山時代、蜂須賀家の命によりこの地を鎮圧した人物の息子が、この地を任され、後に喜多家と名乗り、明治維新まで続いた。

従って、喜多家は平家の史跡ではありません。

 

屋敷の玄関には式台(階段状)や書院風の座敷があります。

部屋の中央には囲炉裏があり、自害するための部屋「入らずの間」もあります。

 

 

< 11. 旧喜多家の前 >

 

絶景が広がる。

しかし納得出来ない。

祖谷に暮らす人の中には、平家を祖先とする家系図を持っている人がおり、位の高かった家格ほど、高い場所にあると聞いていた。

しかし、この高さは尋常ではない。

非常に暮らしにくい、祖谷川に下りるのに途方もない労力がいる。

 

そこで管理人に聞いた。

「いくらなんでもこの高所の屋敷は考えられない」と。

彼女は答えた。

「実は、この屋敷は以前、この下にあったのですが、鉾杉がここにあるので移築しました」と。

移築は1990年のことでした。

 

 

下: 鉾杉に向かって進み、振り返ったところ。

確かに、鉾杉は直ぐ近くでした。

 

 

< 12. 鉾杉と鉾神社 >

 

上: 鉾神社

安徳帝の所持していた鉾を納めたと伝えらている神社。

直ぐ左裏側に鉾杉がある。

 

下: 鉾杉

直径2.5mほど、高さ35mの巨木が立っている。

 

壇之浦の合戦で死去したとされる猛将、平経教(たいらののりつね)が、この木の下に、平家再興を願い、平家守護神の鉾を埋めたと言い伝えられている。

彼はこの地で名を国盛と替え、この大枝の地から南の対岸にある阿佐の地に移り住み、阿佐氏として現在に至る。

その地に平家屋敷、阿佐家がある。

 

 

< 13. 下り始める >

 

上: 南側、対岸の峰が低く見える。

 

下: 東側、祖谷川の上流側を望む。

山腹に数件の集落が見える。

 

 

 

< 14. 下りの路より >

 

< 15.祖谷平家伝説 史跡図 左半分 >

 

「祖谷平家伝説」 https://nishi-awa.jp/heike/html/

「パンフレット」 https://nishi-awa.jp/heike/pdf/heikenaka.pdf

 から借用。

 

今回紹介したのは、この図の六と七と喜多家です。

次回は、九と十を紹介します。

 

 

< 16.祖谷平家伝説 史跡図 右半分 >

 

この左右の地図の範囲を、概ね今回旅しています。

 

次回に続きます。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国の外縁を一周して 58: 中国と北欧、そして日本 3: 食文化について

2020-12-11 07:03:42 | 旅行

 

 

< 1. 成都の麻婆豆腐 >

 

 

今回は、食文化にスポットを当てます。

日々の生活が反映される食文化から、北欧、中国、日本の違いが見えて来ます。

私の北欧旅行は貧乏旅行だったので、残念ながら安い食品の比較に過ぎませんが。

 

 

< 2. 定番料理 スモーブロー >

 

上: ストックホルムの中央駅コンコースのレストランにて

 

フロアでは、弁当のような手軽な食事も販売していたのですが、ストックホルムを離れるにあたって、最後にまともなランチを食べることにしました。

一度はバルト海に面した漁師町で海鮮料理を食べる予定でしたが、交通トラブル(線路不通)の為に行けなかった。

 

選んだ料理は、下の写真のようなオープンサンドでした。

このスモーブローは、スウェーデンやデンマークで多く見かけました。

彩が綺麗で、肉や魚介をパンに乗せたものです。

料金はペッボトル飲料込みで約1900円でした。

 

 

下: クロンボー城のある町ヘルシンゲルのレストランで

 

クロンボー城近くのレストランは開いていたが、街で地元の食事を探そうとした。

ところがこの日、街で祭りのイベントがあり、多くのレストランが休んでいた。

たまたま営業していたレストランでは、数種類の料理しかなかった。

それでまたスモーブローを選んだ。

おそらくこれは作り置きが出来るからです。

 

これは美味しいのですが冷たいので、涼しい6月初旬のテラスには合わないかもしれません。

料金はビール込みで約2300円でした

 

 

< 3.コペンハーゲンにて >

 

共に屋内マーケット、トーベヘルネKBHの写真です。

ここは地下鉄駅Nørreportの近くのイスラエル広場にあります。

 

この手のマーケットに、ストックホルムでも訪れたのですが、食品が高いので一度も食べずじまいでした。

 

北欧の料理価格は日本の1.5倍以上高いと思った。

このようなマーケットやオスロのレストラン(ウインドウディスプレー)も同様でした。

私の昼食と夕食のほとんどは、結局、コンビニでホットドッグやサンドイッチで済ました。

それでもペッボトル1本と食材で600円から1200円が必要でした。

 

ここで物価を比較します。

*4

 

指数の値は異なりますが、食料品が高いことは明かなようです。

 

 

< 5. ストックホルムで知った変化 >

 

Hop On Hop Off のバスで、中心部を周遊していた時です。

日本語の説明をイヤホーンで聞いていると、驚きの情報が入って来ました。

それは下の写真、フムレ公園の横を通過した時でした。

最近、近くに夜の飲食街が出来て、賑わっていると言うのです。

 

私が1984年11月にストックホルムを訪れた時、最も大きくカルチャーショックを受けた一つに、男の夜の繁華街が無いことでした。

当時、現地の人から話を聞いたところによると、仕事を5時に終え、家族の待つ家に真直ぐ帰るのだそうです。

彼はスウェーデンでは共稼ぎの妻と子供達と、週末などに一緒に出かけると言っていた。

当然、この地では日本の男性がくだまく赤提灯は必要無いことになります。

 

それが最近出来たようなのです。

2018年、北欧を旅した時、スウェーデンの40歳男性に質問しました。

日本人は北欧に暗いイメージを抱いているが、一言で母国を説明するとしたらと聞くと、以下の答えをくれました。

「税金が高い、娯楽が少ない」

彼が言ったのは、おそらく男だけの娯楽で、家族や友人が自然に触れて楽しむ所は多々あります。

スウェーデンも徐々に軟化しているようです、まだアルコール販売は厳しいようですが。

 

 

* 北欧の暮らしの一端が見えた

 

私は、北欧旅行中、午後6時以降、疲れて町にほとんど出ていないが、日中の様子から察するに、今も変わらず人々は定時で直ぐ退社し、友人や家族と過ごすようです。

当然、夫婦で家事と育児を分担します。

そこには男女共に働く社会が今も根付いていおり、平等意識も定着している。

ちなみに専業主婦率はスウェーデン2%、日本38%です。

 

それでは高い食事をどう理解すればよいのだろうか?

日本とスウェーデンの指数を比較してみよう。

以下、すべて2015年のデーター。

 

*6

 

この表からわかるように日本の国民負担率は消費税が低くても、最も高いスウェーデンと比べて遜色がない。

結局、国民所得(GDP)の高い分だけ、重税でもスウェーデン国民は自由に使える金額が多い。

尚、デンマークとノルウェーの一人当たりGDPは日本の1.8~2倍ぐらいです。

 

さらにスウェーデンでは教育費は大学まで含めてすべて無料。

医療は18歳以下は無料、成人も自己負担が年間で約1万3000円、薬代2万5900円までと安く抑えられている。

老人になれば誰でも少ない自己負担、上限が月約2万5600円で、介護サービスを受けられる。

 

結局、町歩きで閉口した高い食事は、一つには消費税の高さがあったのだろう。

 

スウェーデンなど北欧は経済的に豊かで、労働時間が少なく、格差も少ない。

ゆったりと暮らしている人々を見ると幸福度の高いことがうなづける。

私には、北欧が理想の国家に思える。

大戦後に生まれた北欧の高福祉社会の実験は、今も上手く機能しているようです。

 

だが娯楽が少ないとか、格差是正のしわ寄せを負担に感じる高所得の人はいるだろうが。

 

 

 

< 7.中国らしい食事 >

 

上: 麗江のフードコート

このような店は古城エリア内には幾つもある。

多くは一皿300円から500円です(観光地値段?)。

料理は変化に富んでおり、温かい料理が直ぐ出来るのが嬉しい。

 

下: 蘭州の牛肉麺の店

この店はチェーン店で蘭州に数ヵ所ある。

凄いのはラーメン一杯が100円から140円で、美味しくてボリュームがあることです。

残念ながら牛肉はほとんど入っていなかったが。

日本語ガイドの話では、牛肉麺と言っても、牛肉は入っていないそうです。

副菜を足しても一人300円もあれば充分です。

 

 

< 8. 食文化の今昔 >

 

上: 昆明の老街

古風な趣を残した小さな飲食店が並んでいる。

皆、小綺麗な店舗になっている。

しかし提供している料理は様々で、昔ながらの中華料理ではない。

 

下: 廈門の开禾路

ここは昔ながらの商店街で海鮮市場でした。

廈門では、他にもう一つ商店街を訪れたが、开禾路の方が規模が大きく、店舗も大きく衛生的に優れているようでした。

 

中国には、生鮮食品を扱う大型スーパーが至るところにあり、衛生管理は日本と遜色が無いように思える。

しかし、一方でこのような市場が今もまだ利用されている。

 

 

 

< 9. 向上した食文化 >

 

上: 廈門で

 

宿舎の朝食ブッフェ会場の様子。

料理の種類も多く、味も良い。

それにもまして皆さんのマナーが良い。

 

海外旅行先で見るマナーの悪さはなかった。

日本で言う、旅の恥はかき捨てなのだろうか。

 

下2枚: ここは廈門島北部にある海鮮レストラン(海鮮城)

 

私が驚いたのは、水産センターの隣に海鮮城が二十店舗ほど並んでいたことです。

さらに各店舗がまた巨大で、1階に水槽が並び、2階で食事をします。

また水曜日にも拘らず、お客さんは次から次と来て、席は見る間に一杯になった。

 

1階の水槽を見て、魚介類を選び注文します。

私は支払っていないのでよくわからないが、タラバガニに似たカニなどは500gで3000円ぐらいでしょうか。

日本より安いが、私には日頃縁のない食材です。

さらに一料理当たり400円から2000円を支払います。

 

15年前ほど、初めて廈門に来た時、川船で地元料理の海鮮料理を食べたことがありました。

この時は、食べると口に砂が残ったことを思い出します。

 

隔世の感があります。

人々の暮らしが格段に向上していることを思い知らされた。

ちなみに、一人当たりのGDPで、中国は日本の約1/4にまで急伸した(2019年)。

中国では農村部と都市部の所得格差が大きいので、廈門のような大都市の裕福な人々は、あまり日本と差がないのかもしれない。

 

 

< 10. 驚きの光景 >

 

上: 麗江の忠义市场にて、生肉を手に取るお客

 

ここは古城の隣にある大きな市場で、あらゆる食材が売られています。

中でも驚いた光景がこれでした。

15年ほど前、中国福建省の田舎を走っていると、道端でこのような肉の販売風景を見て驚いたことがあった。

今回さすがに、どこに行っても道端の屋台で生肉を扱っているのを見なかったが。

 

やはり衛生意識はまだ低いようです。

もっとも中国では、魚と肉を生で食べることは無いので、問題はあまりないのかもしれないが。

 

 

下: 廈門の内海の浜で

 

朝早く、宿舎を出て浜を散歩していると、ハゼ似た魚を獲っている漁師を見た。

この内海には大きな干潟が広がり、そこには一辺20mほどの四角に仕切られた浅い池が無数にあり、そこで漁をしているようでした。

写真に写っている川は、巨大な団地から内海に排出されている水流です。

 

魚は新鮮だろうが、不衛生極まりない(浄化槽を経ているかは不明)。

個人で食べるのなら良いが、状況から判断して彼はおそらく市場に持って行くのだろう。

 

こんなこともありました。

麗江の忠义市场で乾燥椎茸を、蘭州の大型スーパーで乾燥松茸を買った。

その後、半年ぐらい料理で使っていると、忠义市场で買った椎茸からは蛾が湧いたので捨てた。

スーパーで買った松茸は最後まで美味しく食べた。

 

残念ながら中国の食品は、まだ安心出来ないようです。

しかし中国の生活水準が急速に良くなっているので、いつまでも悪い状況が続くとは思えないが。

それにしても現地で食材を買うのが楽しみなだけに残念です。

 

 

< 11. 夜の賑わい >

 

上: 北京にて

下: 昆明にて

 

共に大都会の夜は、イルミネーションが輝き、若い人で溢れている。

ビルの中の飲食街の店舗は、料理や運営システムを日々革新させていると感じた。

けっして昔のままの姿ではない。

 

 

* 中国と北欧と日本

 

北欧人が求める暮らしとは、自然の近くで家族や友人と共に過ごすことであり、遅くまで仕事をして会社に滅私奉公をすることではない。

また多くの人は夜遅くまで町中で騒ぐことを楽しみにはしていないようです。

もっとも観光情報によれば、ストックホルムではナイトライフを愉しむレストラン街が増えているようでしたが。

 

中国では、精一杯働いて稼ぎ、夜、町中に出て愉しむことで英気を養っているように見える。

彼らには国が発展すると言う確信がみなぎっているように見えた。

これが活力を生んでいるのだろう、かつての日本もそうでしたが。

 

中国と北欧には似た所がある、それは共稼ぎであり男女平等と言えるかもしれない。

だが中国労働者の生活スタイル、労働と娯楽のパターンが日本と同じように思う。

自由経済と急成長がそうさているのかもしれないが。

 

では日本はどうだろうか?

30年ほど前に経済のピークを終え、豊かにはなったが、さりとて北欧のように、会社人間から家庭第一に切り替わる気配は無い。

また家事分担も含めて職場でも男女平等は大して進まなかった。

むしろ経済が停滞する中で、かつての栄光の余韻に浸り、昔ながらの愉しみを引き摺っているように思える。

 

ただ中国の一部の衛生観念の低さを見るにつけ、東アジアと北欧の違いが目に付く。

推測に過ぎないが、中国の報道機関が適正に働いていないことが、最大要因では無いだろうか。

報道機関が、日々の生活上の問題、例えば公害や衛生問題などを厳しく指摘するようになれば、社会は日常的に是正されて行くはずです。

この点に中国の弱さがあるように思う(将来の日本も)。

 

ちなみに報道の自由度では、北欧4ヵ国が世界トップ1~4位を20年間ほぼ維持し続け、中国は悪化傾向にあり現在177位で、180ヵ国中最悪に近い。

日本も悪化しているがかろうじて66位で、民主と政権時代は11位になったこともあった(政府次第です)。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 13: 祖谷のかずら橋

2020-12-07 04:15:20 | 旅行

*1

 

 

今回は、祖谷渓を代表する祖谷のかずら橋を紹介します。

これは国指定重要有形民俗文化財です。

以前紹介した奥祖谷二重かずら橋と似ていますが、こちらの方が下流にあり観光に便利です。

 

 

 

< 2. 散策地図、上が北 >

 

上: 祖谷川と祖谷のかずら橋、落合集落

赤矢印が落合集落、黄矢印が祖谷のかずら橋です。

 

平家落人と安徳帝の伝説の地は、この祖谷のかずら橋から上流の山間に点在し、多くは落合集落までにあります。

 

下: 散策ルート

2020年6月9日、朝5時から6時まで散策しました。

散策ルートはオレンジ線のSで始め、Bまで行き、黄線で河原に降りて、その後、元へ戻りました。

途中の白線は、祖谷川に掛かる鉄骨構造の橋です。

青線は、旅館をチェックアウト後、車で走ったルートで、Cが最後の写真の位置です。

 

 

< 3. 旅館を出て、橋の中央まで >

 

上: 祖谷街道から下流側を望む

 

下: 鉄骨構造の橋の上に着いた。

ここから、かずら橋がよく見えます。

 

朝早いこともあるが、季節外れと新コロナもあり、閑散としていた。

朝は曇っていたが、後に晴れた。

 

 

< 4. かずら橋と琵琶の滝 >

 

上: かずら橋

渡るのは有料で、営業時間以外は閉めてある。

 

平家落人が源氏追討軍が攻めて来た時、直ちに橋を切り落とす為に、このかずら橋を掛けたと伝えられている。

 

 

下: 琵琶の滝

かずら橋を左に見ながら道を少し行くと、右の崖に滝が見える。

 

平家落人が京都を偲び、この滝で琵琶を奏でいたことから名づけられたらしい。

 

 

 

< 5. 河原に降りて >

 

上: 下流側を望むと、谷間を繋ぐかずら橋が見える

 

下: 上流側を望む

 

 

< 6. かずら橋 >

 

上: 祖谷川の左岸から

 

下: 鉄骨構造の橋から

 

 

*7

 

 

< 8. 祖谷街道と宿泊旅館 >

 

上: かずら橋から祖谷街道へ戻る途中

中央に、一泊した祖谷観光旅館が見える。

 

この旅館は民宿の趣があります。

私がここを選んだのは、かずら橋に近く、安さもあるが、さらい良いことがあったからです。

一つは、高齢の女将さんと、祖谷のことについて色々話が聞けたことです。

話好きな人でした。

今一つは、祖谷の素朴な家庭料理を夕飯に出してくれたことです。

アマゴや山菜料理、蕎麦、コンニャク、タケノコが出ました。

 

残念ながら建物が古く、日本客は普通選ばないかもしれません。

コロナ騒動がなければ、この旅館に海外の観光客、中国人などがよく来たそうです。

海外の人には、日本の旅籠と感じられるでしょう。

 

下: 祖谷観光旅館の前の祖谷街道から下り側を望む。

 

 

< 9. かずら橋夢舞台 >

 

今回で、祖谷のかずら橋を訪れたのは4度目です。

以前は、このような巨大な駐車場やバイパスが無く、狭い祖谷街道は車の渋滞が延々と続いたものでした。

この「かずら橋夢舞台」は大型駐車場・イベント広場・物産館・食堂「かずら橋亭」からなる大型観光施設です。

 

上: 祖谷街道側から対岸のかずら橋夢舞台を見た

 

下: 左岸を車で通過した際、かずら橋夢舞台を振り返った

 

 

< 10. 左岸のバイパスから下流を望む >

 

これから下流の橋を渡り、また上流側に向かって祖谷街道を走り、平家の落人伝説の地を巡ります。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 12: 深い谷に張り付く落合集落

2020-11-21 06:08:04 | 旅行

*1

 

今回は、祖谷を代表する山村を紹介します。

この落合集落は重要伝統的建造物群保存地区に指定され、

江戸末期以降の山村の風情を今に残しています。

 

 

 

< 2. 祖谷の全景 >

 

上: 上が北で右が上流、写っている東西の距離は約35kmです。

緑のバルーンが二重かずら橋、赤のバルーンが宿泊地の西祖谷のかずら橋です。

私は紺色線の祖谷川沿いの祖谷街道を車で走りました。

赤矢印が落合集落で、矢印の方向に眺めています。

黄色の矢印は、吉野川上流の大歩危辺りです。

上の茶色の矢印は東西に流れの向きを変えた吉野川に面する貞光の町です。

黒矢印は剣山頂上で、ピンク矢印は三嶺山の頂上です。

 

中央: 上が北で、右が上流です。

白い枠が落合集落、ピンク枠が平家伝説が伝わる栗枝渡です。

赤矢印は概ね祖谷川対岸の展望所からの撮影方向です。

東西(左右)に曲がりくねっている線が、祖谷川と祖谷街道です。

私は右側から下って来た。

 

下: 上が東で、上流です

赤矢印は概ね祖谷川対岸の展望所からの撮影方向です。

ピンクの矢印は、三嶺山の頂上で、もっと奥に剣山があります。

私は上部から下って来た。

 

二枚の写真から分かるように、祖谷川の両斜面、それも高い所に山村が散在している。

谷底を行く祖谷街道を走っているだけでは、これら村の全容は分からない。

 

 

< 3. 落合集落展望所 >

 

上: 展望所に行く途中、道路工事で30分ほど足止めされた。

この時、上流側を見ると、幾重にも造られた砂防ダムが見えた。

この後、至る所で作業中の道路工事に出くわした。

後に理解出来たのですが、この祖谷は道路やダムなどの公共工事(建設業)が重要な産業なのです。

なんと就業者の人口比率は建設業が40%近くあり、農業は3%以下に低下しているのです。

観光で暮らしいる人も多く、中国の観光客も訪れるそうです。

2017年の大歩危・祖谷地区の外国人宿泊者数は2万人近くになり、10年で34倍になったそうです。

ただ今年はコロナで閑散としていました。

 

この地は、日本三大秘境の一つと言われ観光に恵まれている。

一方、同じ徳島県でも素晴らしい海岸を持つ海部郡が、観光客に恵まれないのは残念です。

 

 

下: 落合集落展望所

ここは集落を眺望する対岸の高台に設けられている。

この展望所には三方から車で行け、駐車場とトイレが備わっています。

非常にありがたい。

但し、上流側から行く道は道幅が狭いので避けた方が良いでしょう。

 

 

< 4. 落合集落と周辺 >

 

上: 左の山の斜面に落合集落が見える。

 

下: 右の山の斜面に落合集落が見える。

 

 

< 5. 落合集落の全景 >

 

一度、歩いてみようと思い、下まで行ったが、とても気後れして止めた。

私には集落の平均斜度が45度に思えた(実際は無いだろいうが)。

 

 

* 落合集落

落合集落は一つの峰が祖谷川に落ちる南斜面にあり、東西750m、南北850m、高低差390mある。

この集落の起源は南北朝時代まで遡り、祖先は南朝方で戦ったらしい。

茅葺の家、畑・道・家屋を擁壁した石積み、猫の額ほどの畑が急斜面に積み重なるように連なっている風景は独特です。

現存する家屋や石垣、石の階段の道(里道)などは江戸末期に遡るものがあるそうです。

ただ多くの畑は放置され、草が蔓延っている。

高齢化で担い手が減る一方です。

 

ここは特に平家落人伝説との関りがないようです。

ただ、この左手、少し下った祖谷川を挟んで9ヶ所ほど、また直ぐ上流二ヵ所に安徳天皇や平家に纏わる遺跡がある。

これら遺跡の幾分かは次回紹介します。

 

ここで二つの落人集団(平家とな南朝方)を想定すると面白い。

平家の落人が祖谷に来たのが12世紀末(壇ノ浦の戦い後)で、落合の祖先が南北朝時代なら14世紀だったはず。

つまり平家の子孫が先に陣取っていたので、後から来た落合の祖先は更に上流に行かなければならなかった。

こうして平家の史跡は落合より下流に多いのだろう。

 

それにしても不思議なのは、こんな奥地に逃げて来て、生計をどのように立てのだろうか?

宿の主に聞いたり、資料を見ると、幾らか分かって来た。

 

貞光川の中流の一宇もそうだったが、祖谷もタバコ栽培で共通していた。

この落合では、他に馬鈴薯と麦の栽培、養蚕が行われていた。

しかし日本の高度経済成長に伴って、過疎化が進展し、農地は放棄され、杉の植林や雑草地が増えて行った。

かつて、この祖谷では年二回の焼畑によって、ヒエ、アワ、ミツマタ(和紙の原料)、蕎麦、大豆、麦が栽培されていた。

明治以降、ミツマタと煙草は貴重な現金収入となったが、1990年までには終止符を打った。

 

このような山腹の畑で給水はどうしたのか?

山がちな淡路島なら、山腹の上部にまで造られた溜池が役割を果たしている。

スペインの丘にある城塞都市なら、川底に達する深い井戸か水道橋が不可欠だった。

じっくり観察していないが、この地の集落で井戸は目に付かなかった。

この疑問は、西祖谷の旅館に泊まって氷解した。

旅館の水はすべて湧水で、散歩していても至るところで湧水が勢いよく流れ落ちていた。

どうやら地質の関係で、豊富な湧水が昔から得られたのが幸いしたのだろう(祖谷川の南斜面に多いらしい)。

 

 

下: 落合集落の上部を望遠で

 

 

 

 

< 6. 落合集落の下部を望遠で >

 

上: 中央の茅葺屋根の家は長岡家住宅と思われる

ここは標高610mにあり、落合の支配階級の家であったらしい。

明治34年の築とされている。

 

下: 一番下に家屋が二列に横に並んでいるのは、祖谷川沿いの祖谷街道を挟んでいる町並みです。

この祖谷街道が出来たのは1920年(大正9年)です。

それ以前、この地域の物資輸送や移動はどうしていたのだろうか?

冬は雪が積もるだろうに。

 

 

< 7. 展望所を離れる >

 

上: 展望所が道路脇左に見える

 

下: 少し離れた所から落合集落を見た

 

 

< 8. 栗枝渡の集落 >

 

上: 右手山の斜面上方の村が栗枝渡(くりしど)

ここからは見えないが集落の更に上部奥に、安徳天皇に纏わる史跡がある。

次回、紹介します。

落合集落から一つ谷を挟んだ下流1kmの峰の端に、この栗枝渡がある。

 

下: 上流側を見る

 

 

< 9. 橋を渡る >

 

祖谷川にはこのような橋が幾つもあるが、ここは特に見晴らしが良かった。

 

 

< 10. 橋の上から上流を望む >

 

深い谷と深い森が秘境を実感させる。

 

 

< 11. 橋の上から下流を望む >

 

 

次回に続きます。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国の外縁を一周して 56: 中国と北欧、そして日本 1

2020-11-18 07:14:23 | 旅行

*1

 

 

これから数回に分けて、テーマ毎に中国と北欧を見比べます。

今回は、余生と余暇の過ごし方を紹介します。

そこには日本では考えられない光景がありました。

 

 

 

< 2. 北欧と中国と日本 >

 

上: 黄色枠が北欧三ヵ国(スウェーデン、ノルウェー、デンマーク)。

赤枠が中国、ピンクの矢印が日本です。

フィンランドも北欧ですが、旅をしていないので省きます。

上記三ヵ国はスカンジナビア三国と呼ばれ、同じ民族、ヴァイキング、国の成り立ちで共通することが多い。

フィンランドは民族が異なる。

 

下: 今回紹介する北欧三ヵ国の撮影地

A、Bはスウェーデン、Cはノルウェー、D、E、Fはデンマークです。

 

今回紹介しているのは2018年5月31日~6月10日の旅行時のものです。

また1984年11月中旬にも、デンマークとスウェーデンの首都観光と近郊の会社視察に行ったことがありました。

この時は厚い雲と雪の季節だったので、まったく印象が異なります。

 

 

< 3. 中国の撮影地 >

 

Gは廈門、Hは開封、Iは麗江、Jは昆明です。

 

今回紹介しているのは2019年10月16日~29日の旅行分です。

これ以前、30年間ほどの間に幾度も中国を訪れています。

 

 

< 4. 北欧と中国の楽しみ方 >

 

上: A スウェーデンの首都ストックホルム近くのメーラレン湖にて

2018年6月3日、日曜日、午前10時頃撮影。

 

クルーズボートでストックホルムから20分ほど行くと、市民が岸で日光浴していた。

この辺りは住宅地で、個人宅やマンションが丘の上に並んでいた。

メーラレン湖を行くと、多くの家族や恋人、友人達が岸辺や湖で日光浴やボート、ヨットを楽しんでいた。

 

下: J 昆明の翠湖公园にて

2019年10月17日、木曜日、午後4時台、公園を散策。

 

大きな公園は市民で溢れ、老若男女問わず家族や一人で、また様々なグループらがのんびり行き来していた。

 

目立ったのは、広場で大きな集団の輪を幾重にも作り、民謡に合わせて踊っていたことです。

幾つもの少数民族に別れて集団を作り、民族衣装を着ていない人も参加していた。

そこ一帯には、温かみと一体感による高揚感が満ちていた。

ただ踊りに参加している人はほとんど高齢者(50歳以上?)でした。

若い女性も稀に見たが。

 

 

この二枚の写真には北欧と中国の特徴がよく現れている。

 

季節のせいで水辺のシーンが目立つのですが、写っている人々の年齢層が違います。

共通するのは、平日の日中でも多く人が公園や水辺で過ごしていることです。

これは日本と大きく異なる点です。

おそらくほとんどの日本人は平日、日中は仕事、その後は残業、さらに休日も出勤していることでしょう。

 

 

< 5. カールスタッドとオスロにて >

 

これから北欧を見て行きます。

 

上2枚: B スウェーデンのカールスタッドにて

ここはノルウェーのオスロに向かう国際列車の中間点で、地方都市も見たいので途中下車しました。

2018年6月4日、月曜日、午後4時半から5時半頃まで町を散策した。

 

上: 駅前から伸びる大通りにて

まだ4時過ぎなのに、テラス席で様々な年齢層の市民が寛いでいるのが目に入り、奇異に思った。

会社勤めはどうしたのか?

しかし、歩を進めるうちに、若い人から高齢者まで、続々と通りに溢れ、見る見るうちに広場の芝生やレストランのテラス席は人で一杯になっていた。

  

中央: 5時を過ぎていましたが、若い女性のグループが川辺のテラスで水着姿で日光浴を初めた。

 

ここに来る途中の列車の車窓から、郊外の森林に囲まれた湖岸で日光浴をしている人々を見た。

 

この6月初めは、厚い雲に覆われた長い冬からやっと解き放たれ、太陽の光を存分に浴びることが出来る夏の始まりだった。

観光季節の始まりでもある。

 

 

下: C ノルウェーの首都オスロにて

2018年6月5日、火曜日、午後1時、遊覧ボート上からハーバタウンを撮影。

左にクルーズ船が見え、右1kmにオスロ市庁舎がある。

 

平日の昼、首都中心部で水着姿で日光浴を楽しんでいる。

オスロ市庁舎の辺りは観光地なので観光客は多いだろうが、この人々は市民だろう。

私はここでも驚いたが、コペンハーゲンに行って更に驚くことになった。

 

 

< 6. デンマークにて >

 

上: D 首都コーペンハーゲンに近い古都ロスキルにて

2018年6月7日、木曜日、午後1時半頃、大聖堂近くの広場で撮影。

 

高齢者がほとんどで、夫婦や数人のグループが多く、レストランのテラス席で陽を浴びながら、談笑して寛いでいた。

おそらく周辺の市民だろう。

 

下: E 首都コーペンハーゲンの運河にて

2018年6月7日、木曜日、午後4時半頃、運河を行くクルーズボートから撮影。

 

首都の運河の至る所で、日光浴、ボート、カーヌーに興じ、海に近い方では中高生達が泳いでいた。

若い恋人や友人同士、そして家族で楽しむ姿が印象的でした。

それも平日の午後4時を過ぎたばかりなのですから。

 

 

 

< 7. コペンハーゲンとヘルシンゲルにて >

 

上: E 首都コーペンハーゲンの運河にて

上記と同じ。

 

下: F クロンボー城のある港湾都市ヘルシンゲルにて

2018年6月8日、金曜日、午後4時半頃、街中にて。

 

この町はクロンボー城と、対岸スウェーデンを結ぶフェリーで人は行き来するのですが、通りは賑やかとは言えない。

それでも通りのテラス席は、談笑する市民でほぼ埋まっていた。

 

 

 

< 8. G 廈門の公園にて >

 

これから中国を見て行きます。

 

2019年10月16日、水曜日、午前9時台、市内の公園にて撮影。

この公園は昔ながらの街中にあり、古くからの市民が来るところのようです。

 

上二枚: 広い緑豊かな公園の木陰では、高齢者グルーブが至る所に陣取り、仲間と楽しい時間を過ごしている。

一人の人はほとんど見かけなかった。

男性グループは将棋などの盤ゲームをやり、女性グループはそれぞれに異なった踊りや体操を行っている。

以前に比べれば、太極拳などの伝統的なものは減って来た。

 

下: 中国式の譜面を見て集団で詠じている。

西洋音楽ではない。

 

中国では男女別々に集まり興じる事が多い。

体操や太極拳、詠いは一緒にやることはあるが。

また若い人はほとんど居らず、概ね50歳代以上のようです。

 

後に、公園に付属の小さな動物園を訪れたのですが、そこはお爺さんとお婆さんと孫一人の三人連れで一杯でした。

中国では、若い夫婦は、一人っ子を親に預けて共稼ぎをしている。

孫の保育園への通いも親がやるのでしょう。

親は概ね50~55歳から定年となり、年金生活に入る。

都会では、働かなくてもやって行けるようだ。

 

 

< 9. 開封と麗江にて >

 

上: H 開封のメインストリートの夜市にて

2019年10月20日、日曜日、午後7時頃撮影。

 

非常に賑やかだが、子供の姿はほとんど見かけなかった。

若いグループと夫婦、年配のグループが多かった。

 

 

下2枚: I 麗江の黑龙潭公园にて

2019年10月25日、金曜日、午後4時頃撮影。

 

公園で盤ゲームや楽器演奏に興じる人々を数組だけ見かけた。

多くは無かった。

この公園内はほとんど観光客が行き交っていました。

 

中国では有料の公園や神社仏閣でも、60歳以上になると、ほとんどで半額から無料になっているので、市民は利用しやすい。

昔に比べると、趣味の範囲が広がり、伝統的なものから新しいものまで多様になっているようだ。

 

 

* 余生と余暇の過ごし方

 

  • 中国と北欧で異なること

北欧では、午後4時を過ぎると、多くの人は職場を退出する。

北欧の労働時間は日本より約3割は短く、育児休暇もかなり長い。

北欧の住居は職住接近で、人は平日でも家族や友人と共に家庭や自然の中で過ごすことが多いようです。

 

中国では、定年を迎えれば50歳代の若さで日々、のんびり暮らし、孫と遊び世話をするのが日課となる(定年は男性が女性よりも遅い)。

だが若い夫婦や独身、学童は忙しいようだ。

また都会で暮らす地方出身者には苦しいかもしれない。

 

 

  • 中国と北欧に共通していること

共に定年後はのんびり暮らし、共に広場や自然の中で仲間や家族と過ごしている。

北欧の定年は中国より遅いが、日本や中国よりも豊かに過ごしている。

 

共に福祉制度、年金制度が整っているからで、日本人が連想する重税感や社会主義国の重苦しさとは無縁です。

北欧二ヵ国については34年前にも訪れて、現地の人に話を聞いており、今回の訪問で、高福祉社会の豊かさが更に良くなっていることを実感できた。

中国の福祉制度は年々改善されているようで、経済成長に連れて更に良くなるでしょう。

 

 

 次回に続きます。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国の外縁を一周して 55: 驚き、感動、そして真実が

2020-11-05 09:05:36 | 旅行

 

*1

 

 

今回は、かつて私が中国広州を訪れて驚き、悪い噂がデマだったと知った経緯を紹介します。

よく似た例として、長崎県対馬の体験も紹介します。

 

 

< 2.当時の広州 >

 

上: 広州と北京、香港との距離を示す

 

下の写真: 1980年代の広州のものらしく、借用しました。

広州駅も、通りを往く人々の姿も、このようでした。

 

 

* 1980年代後半に広東省広州を訪れて

 

私は以前から中国の歴史に惹かれ、また共産主義国家の行く末に関心がありました。

当時、中国経済と社会について幾らか本を読んでいました。

多くは中国を不安・危険視するものでした。

恐ろしい監視社会・独裁国家、悪い治安、低い文化水準など・・・

 

私は会社の慰安旅行で、当時珍しかった広州を1日観光することが出来ました。

そこで私は観光では物足り無くなり探索に出かけました。

広州の中心街を、夜の9時頃から一人で歩き始め、ホテルに戻ったのは朝の2時になりました。

 

夜が更けると、驚いたことに市民が家族総出で家やアパートから続々と出て来るのです。

この日はたまたま週末だった。

見る見るうちに広い通りは人波で溢れ、公園はアベックで一杯になり、行き交うバスからは人がはみ出しそうでした。

通りに面した料理店や、小さな飲食店の前にはみ出したテーブルは、飲み食いし談笑する市民で一杯になりました。

賑わいは深夜まで続きました。

 

公園の近くでは、一組の若い男女が街灯に照らされた陸橋の上でキスをしていました。

近くに警察官が居ましたが、彼らは気にしていない様でした。

 

信号のない大きな交差点を渡ろうとしたら車と自転車が接触事故を起こしました(当時、道路は自転車で埋め尽くされていました)。

多数の市民が、野次馬も含めて、その車を囲み何人かが口論を始めた。

その集団に紛れ込み、様子を見ていると、皆が裁定を下そうとしているようでした(暴力沙汰にはならなかった)。

 

数時間の町歩きで、私は市民が活力を漲らせ、自由を享受していることに感動し、これなら中国は必ず経済発展すると確信した。

 

< 3. 開放政策と大躍進 >

 

上: 鄧小平の視察(南巡)

下: 現在の広州

 

今の大躍進の画期となった鄧小平の開放政策は、彼が広東省広州などを視察したことで自信を得たと後で知った(1992年の南巡講話)。

この広州の活力は、ひとえに自由貿易の香港に隣接し、北京の監視から遠い事にあると、現地の通訳から聞いて納得した。

これはベルリンの壁崩壊以前から、東ドイツ市民がラジオで西ドイツの状況を熟知していたことに似ている。

そういえば清朝を倒す立役者となった孫文は、この広東の出身です。

 

結局、日本に閉じ籠って、偏向したメディアや論客の話を鵜呑みにしていると、間違いを犯すことになる。

 

 

< 4. 対馬の位置 >

 

上: 対馬は南北に細長い島で、韓国に非常に近い

赤印は中心都市の厳原、黒印は韓国との行き来が便利な比田勝港です。

 

下: 島の全体図

 

 

* 2020年秋、対馬を訪れて

 

対馬は、大陸文化の中継地として古代日本、朝鮮半島との交流、元寇、倭寇と密接に関わっています。

やっと念願の長崎県対馬の旅行に、この10月に行ってきました。

後に詳しく紹介しますが、一つだけ上記に関連したことを紹介します。

 

数年前、対馬は韓国の観光客に荒らされていると報じられていた。

それで現地の商店や案内所、さまざな人に様子を聞きました。

その答えは意外なものでした。

 

概ね、商店やホテルの人は、韓国人に対して悪いイメージはなく、むしろコロナなどによる訪問客の減少を嘆いていた。

観光案内所に聞くと、対馬を訪れる韓国人の割合は、ピーク時でも国内の訪問者より少なく、影響は大きくないとのことでした。

一般の人に「何か問題はありますか?」と聞くと、韓国人が道端で立ち食いするのが目に付くぐらいだと漏らした。

 

 

< 5. 対馬のメインストリート >

 

上2枚: 厳原

 

下  : 比田勝

 

ハングル語を見たのは厳原では稀だったが、比田勝では若干見ることが出来た。

 

 

対馬を2日かけてバスで移動してわかったのですが、商店街がハングルの看板で溢れていることはなかった(中心都市の厳原でさえ)。

現地ガイドの一人は韓国人(名前と訛りから)のようでした。

 

さらに70歳ぐらいのベテランガイドに聞くと、さらに予想外の答えが返って来た。

 

元々、対馬には戦前から朝鮮半島の人々が多く住んでおり、社会に溶け込み、仲良くしていたそうです。

つまり韓国人の突然の大挙訪問が、対馬を混乱させることはなかったのです。

ただ、釣りを目当てに来る韓国人が、大量の撒き餌で海で荒らしたようです。

 

「韓国で迷惑している」は、明らかにメディアの煽りだった。

この手の話は、北欧でも沖縄でも経験しました。

 

 

このように流布しているデマは、現地を訪れて自ら確認しないと、虚実が分からない。

日本ではメディアが意図的に他国を貶める煽情を行い、また国民も洗脳され易い(日本の体制に反する社会を否定する)。

実に残念です。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 10: 剣山登山 3

2020-11-01 14:46:47 | 旅行

 

*1

 

今回で、剣山登山の紹介を終わります。

下りは変化に富んだ遊歩道コースを選びました。

 

 

*2

 

上: 次郎岌(ジロウギュウ)に向かう稜線から左(東側)を望む。

この位置から、右に折れて遊歩道コースを下ります。

 

下: 遊歩道コースを進み始めた

 

 

< 3. ザレ場 >

 

上 : 振り返ると次郎岌が見える

 

この遊歩道コースは緩やかで、視界も開け、変化に富んでいるので良いのですが、一つだけ難点があります。

それはガレ場やザレ場が数ヵ所あることです。

 

下右: ザレ場の一つ

ザレ場は、岩屑がこまかく小石や砂を敷いたような場所で、非常に滑りやすい。

そして下左の写真のように、落ちたらかなり下まで滑り落ちることになりそうです。

 

 

< 4. 雄大な眺め >

 

上: 中央、山の斜面に突き出している岩が、登りの時にも見た御塔石です。

 

下: 次郎岌

 

 

< 5. 変化に富んだ道 >

 

上: ガレ場

数多くの石が右の山側から崩れ落ち、道に重なっていました。

写真は、右側を写したものです。

 

 

< 6. 御塔石 >

 

下: 御塔石

 

 

*7

 

 

< 8. 変化に富んだ道 >

 

実に様々な表情を見せてくれる登山道です。

遠くの山並みを眺望し、スリルがあるガレ場と森の小道を抜け、涼風を味わいながら、また木陰の道を進むとやがて終わりが来る。

 

 

< 9. 登山リフトの駅 >

 

上 : 登りで通過した鳥居に戻って来た。

 

左下: 振り返ると頂上ヒュッテの青い屋根が見える。

 

またチャレンジしたい!

今度は、登りの道を替えて、ヒュッテに泊まり、朝陽を拝んで、次郎岌を越えて行きたい!

 

右下: 登山リフトを降りる

 

 

次回からは、平家の落人伝説を追って、山村を巡ります。

 

 

 

 

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国の外縁を一周して 54: 私にとっての中国旅行

2020-10-29 09:19:48 | 旅行

*1

 

 

これから中国旅行を通して感じたことを記します。

これまでの海外旅行と中国旅行の関わりから始めます。

 

 

< 2. 私の海外旅行 >

 

私は、60歳定年を機に、夫婦で海外旅行を始め、10数年が経ちました。

私は、会社勤めの時も会社からの視察や慰安旅行などで海外に行ったことはありましたが、多くは定年後です。

訪問した国は、約30年間で35ヵ国ぐらいです。

 

地図に訪問地を表しました。

多くは緑枠の西ヨーロッパ(ドイツ、フランス、スペインなど)と茶色枠の東アジア(中国、台湾、韓国)です。

他にピンク枠の東欧(チェコ、ハンガリーなど)、バルト三国、バルカン半島、ロシア、中東・アフリカ(トルコ、エジプト、モロッコ)、東南アジア(ベトナム、タイ)に行きました。

 

私にとって旅行は無くてはならないものになりました。

海外旅行は年1~2回、国内の宿泊旅行は2回ほどと、けっして数は多くありません。

しかし、2週間ほど宙に舞うほどの高揚感を味わわせてくれ、さらには好奇心と探求心を十二分に満足させてくれるものとしては、旅行に勝るものはありません。

 

特にヨーロッパを巡る旅、中世の街並みや景観、美術品、食事を味わい、そしてちょっとした人々のふれあいは何物にも代えがたいものでした。

東欧や東南アジア、東アジア、中東・アフリカの旅も、それぞれ刺激的でしたし、満足出来るものでした。

 

しかし数年前から、旅行会社のツアーでは満足できなくなりました。

 

旅慣れして、世界各地の観光地だけでなく、市民の暮らしぶりにも目が行くようになればなるほど、日本の沈滞と心にゆとりのない暮らしぶりを痛感するようになりました。

 

そして3年前、ある決心をしました。

それは世界で最も物心共に豊かな国、隣国であり最も成長著しい大国、そして日本に最も影響力がありながら病める大国を直に見ることでした。

 

最初に紺色枠の北欧(スカンジナビア三国のスウェーデン、ノルウェー、デンマーク)を選び、一人で旅行し、既に紀行文を載せました。

私は30年ほど前に一度視察で訪れ、豊かな自然と落ち着いた町並みだけでなく、企業の経営姿勢と人々の暮らしぶりに大きなカルチャーショックを受けていました。

 

 

< 3. 北欧の旅で >

 

 

次いで、茶色枠内の中国を夫婦で旅し、現在連載中です。

 

 

< 4. 中国の旅で >

 

実は、今年、赤枠のカナダと米国(ハワイも)を3週間かけて夫婦で回る予定でしたが、コロナで行けなくなりました。

来年は一人で旅行する予定です。

 

 

< 5. 米国のイメージ >

 

 

つまり、この三つの地域を旅することで、日本の将来が如何にあるべきかが見えてくるように思えるのです。

 

結論から言えば、北欧の経済と社会、暮らしぶりは予想通りすばらしいものでした。

さらに豊かで多様で持続可能な社会へと変化を遂げているのに脅かされた。

日本が北欧を真似るべきかは別にして、北欧が大戦後の社会変革で、世界トップレベルの国民の幸福を実現したことを知れば、日本国民は改革に向かう必要性と方向性を理解出来るはずです。

 

一言で言えば中国は脱皮し続け、豊かさを享受し始めているように見える。

中国の経済躍進が、けっして統制経済のような押し付けではなく、活力みなぎる全員参加によるものだと知れば、腰砕けになる可能性が少ないことがわかるはずです。

また国民の暮らしの向上や、大多数の少数民族に不満や問題が無いことを知れば、中国への不安も減るでしょう(北欧に似たものを感じた)。

 

一方、まだ見ぬ米国を調べれば調べるほど荒れていることに驚く。

巷に溢れるホームレスや頻発する凶悪犯罪を知れば、怖くて旅を躊躇してしまう。

さらにトランプ大統領によって社会の分断と民主主義の破壊も進んでいる。

これらが著しい格差拡大と人種や移民への差別の結果だとしたら、根は深く、米国に未来は無いかもしれない。

やはり、この目で確認しなければ、今後の日米関係を語れない。

 

ところが隣り合い同じ経済圏・英語圏でもあるカナダは、不思議な事に米国とは違い、国民の幸福度など社会指標はすこぶる良い。

この理由が分かれば、さらに米国の真実に近づけるかもしれない。

 

私が今望んでいることは海外を旅し、世界を知り、日本を振り返ることです。

 

 

< 6. 中華圏の旅 >

 

私は、会社と個人の旅行を含めて10回ほど中華圏を訪れています。

最初に訪れたのは1980年代だったでしょう。

従って、社会と経済の変化を身をもって知ることが出来ました。

 

今回の旅行を赤色と水色で示し、赤線は新幹線、赤丸は訪問都市、水色線は空路を示します。

ピンク色は過去の訪問地で、直線は列車と車で、丸は訪問地です。

訪問した都市は、中国で2回行ったのが北京、上海、廈門(客家土楼も)、1回行ったのが桂林、洛陽、西安、蘭州、成都、麗江、昆明、香港、広州です。

台湾は、台北と台湾一周の2回行っています。

訪れた間隔は10年から30年ほど空いているので、生活水準や町の景観の変化がよくわかりました。

 

最も古い訪問は、香港、広州、廈門、台北です。

20年以上経ってから再訪した台北と廈門の著しい発展に目を見張った。

 

私にとって中国は、日本に多大な宗教的・文化的影響を与えた国であり、その歴史を知ることは、日本の精神文化を知る手掛かりとなる。

また中国の歴史は多様で始原的で、興味深いものがある。

 

またここ30年ほどの中国の大躍進は目を見張るものがあり、冷戦後、地に落ちた感がある共産主義にも、何か経済改革のヒントがあるように思えて来た(漠然としているが)。

おそらく20年以内に、GDPで米国を抜き、その後米国を引き離すだろう(韓国も日本を抜くことになる)。

こうなると中国は、日本にとって再重要な経済パートナーになるはずだ。

 

そうは言っても中国の軍事膨張には不安が残る。

この問題を冷静に判断するには、独裁化し軍事行動を頻発している大国との比較が重要です。

また中国の軍事行動の歴史を知る必要もある。

 

私達日本人は、どうしても島に閉じ籠りがちで、小さく自己満足に陥り、納得し、洗脳されしてしまい易い。

これを打破しない限り、世界から取り残され、偏向していることすら気付けず、当然、本当に必要な改革論議は掻き消されてしまう。

 

これこそ日本衰退の遠因だろう。

私が薦める「海外旅行」とは、日本の閉塞状態に気付く旅なのです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 9: 剣山登山 2

2020-10-26 14:08:00 | 旅行

 

*1

 

今回は、剣山の頂上と峰歩きを紹介します。

 

 

< 2. 剣山の衛星写真>

 

上: 剣山を南側から見ている

アドバルーンAが剣山頂上(標高1955m)です。

赤矢印が次郎岌(ジロウギュウ)、標高1929mです。

白矢印は私が下山で歩いた遊歩道コースの分岐点です。

 

写真上部で左右の帯状に見えるのが吉野川で、右方向(東)に徳島市内があります。

剣山山頂から、はぼ真直ぐ北に延びる渓谷が貞光川で、吉野川に注ぐ所が、二層うだつの町並みで紹介した貞光です。

 

中央: 逆に剣山を北側から見ている

黄色の矢印は、登山リフトの西島駅(上の駅)で、私が登山を始めた場所です。

青矢印は、登山中に見た大きな御塔石と大劔神社の位置です。

 

茶色の矢印は、「TAOKA剣山エコレスト&レスキュー」です。

ここには設備の整ったトイレがあり、Wi-Fiが使え、避難場所にもなるようです。

使用には一人100円の協力金が必要です。

他の印は上と同じ。

 

下: 剣山を南側から見て、拡大している

以下に紹介する写真は、茶色の矢印周辺から、剣山山頂を経て、次郎岌への稜線を下り、白矢印の遊歩道コース分岐点までを示します。

 

 

 

< 3. 最後の一息 >

 

もうすぐで山頂に着きます。

 

上: 東北方向を望むと深い渓谷が見え、これが穴吹川のようです。

 

下: 今登って来た道を振り返った

写真には鳥居とヒュッテなどの屋根が写っている。

 

 

< 4. 頂上東テラスへの木道 >

 

山頂エリアはなだらかで植物に覆われている。

そして二つのテラスと山頂の間を木道が繋いでいる。

 

上: 東テラスに向かう木道

下: 東テラスの端から東を望む

 

 

< 5. 頂上に向かう木道から 1 >

 

上: かまぼこのような建物が「TAOKA剣山エコレスト&レスキュー」

 

下: 右下に、通って来た「剣山頂上ヒュッテ」が見える

 

 

< 6. 頂上に向かう木道から 2 >

 

上: 来た道を振り返る。

右端に頂上東テラス、その左に「TAOKA剣山エコレスト&レスキュー」の建物、左端に頂上西テラスが見える。

 

下: 進行方向、左(南)に目をやれば、次郎岌(ジロウギュウ)が見える

 

< 7. 頂上 >

 

これが頂上です。

この日は快晴で、風が心地良く、汗ばんだ体を冷やしてくれた。

 

 

 

< 8. いよいよ下山 >

 

前日に泊まった宿「ラ・フォーレつるぎ山」の主人に、お薦めコースを訪ねると、次郎岌(ジロウギュウ)を見るコースを勧められた。

 

上: 確かに次郎岌の容姿は絵になる。

これから峰伝いに下ります。

足腰に一抹の不安がよぎる。

 

下: 下りで、左を見る

右は草木に覆われ、視界は閉ざされている。

 

< 9. 次郎岌への峰伝いの道 >

 

なかなか足に堪えるが、ほぼ40年ぶりの登山の醍醐味を味わった。

若い頃に、大山の稜線や、上高地から槍ヶ岳に登った記憶が蘇った。

70数歳にして、登山出来たことに感謝した。

 

 

< 10. 途中の道から >

 

上: 剣山を振り返り、仰ぎ見た

 

下: 上から稜線を拡大して撮影

 

 

< 11. 遊歩道コースの分岐に来た >

 

上: 前方に次郎岌

直ぐ手前に見える看板で、右に折れて遊歩道コースを進む

 

下: 遊歩道コースに少し入って、剣山を振り返った

これで剣山の頂上を見ることは出来なくなる。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国の外縁を一周して 53: 雲南省博物館、そして中国を去る

2020-10-23 07:38:46 | 旅行

 

*1

 

 

今回は、雲南省博物館の展示を紹介し、簡単に雲南の歴史も見ます。

今回で、中国の訪問地の紹介を終えます。

ちょうど旅行から1年が経ちました。

 

 

 

< 2. 雲南省博物館 >

 

上: 外観

中国の革新的な姿勢を感じます。

 

下: 中に入り、2階から入り口側を望む。

1階フロアの右端に見える青銅器は「战国牛虎铜案」の巨大なレプリカです。

戦国時代(紀元前5~3世紀)の副葬品。

親子の牛と虎が巧みに組み合わされた高い技術を擁する青銅器です。

 

 

 

< 3.展示品、銅鼓など >

 

左上: 銅鼓

多くは直径1mほどあり、鼓型の青銅器で、儀礼の際具として使用された。

当時は表面が金色燦然(青銅器は皆)と輝き、人々はそれを叩いた時に発する音に神秘性を感じたことだろう。

日本の銅鐸に似た役割を持っていたのかもしれない。

これは紀元前5世紀頃、この昆明地方から始まり、北部ベトナムから東南アジア全域に広がった。

古くから高い青銅器製作技術があった。

 

私は日本を発った時は、この博物館で銅鼓を見るのが楽しみだった。

しかし麗江の木府内でさり気無く展示されている多くの銅鼓を見ていたので、興味は半減していた。

一方、雲南省博物館は銅鼓の展示を重要視していないようだ。

 

右上: 前漢時代の地図のようだ

赤矢印に滇池が見え、そこには益州郡と記されている。

当時、中心都市(昆明)は滇池と呼ばれていたようだ。

 

左下: 時代は不明だが、この地の王が中央政権の特使から何か御下命を受けているシーンのようだ。

例えば8世紀、唐の官吏と南詔の王かもしれない。

 

右下: 茶葉古道の再現

雲南は辺境ではあったが、東南アジアやインド・チベットへと通じる西南シルクロードの要衝でした。

このことが古くはインド文明を中国に伝え、太平洋戦争では連合軍から中国への補給路となった。

 

 

< 4. 石窟と鄭和 >

 

上:  八大明王窟の実寸大レプリカ

この石窟は大理にあり、南詔王朝末期に始まり、唐後期から南宋の時代にかけて造られた仏教遺跡。

16の洞窟に140体ほどの彫像がある。

 

下: 鄭和が使った船のレプリカ

鄭和は明の時代、総員3万人、60艘の大船団をもって東南アジアを経てアフリカまでの大航海を7度も果たしている。

 

彼は昆明にムスリムの子として生まれた。

彼の祖先は、この地にモンゴル帝国が侵攻した折、チンギス・ハーンに従って来た。

この祖先達は重要な官職を得て、ここに定住していた。

 

彼が活躍した14~15世紀、彼が航海したインド洋と接するアフリカ、アラビア半島、インドと東南アジアの島嶼(マラッカ海峡)はほとんどがイスラム圏になっていた。

これも彼が抜擢された一因になったのだろう。

 

 

< 5. 古地図と銅像 >

上: 昆明の城郭地図

地図の城郭内に「昆明県」の文字が見えることから、この地図は元朝以降、おそらくは明朝のものと思われる。

 

下: 宋代の大理で造られた像

小さな像だが精巧に造られている。

左下の明王像にはチベットの明王像を連想させるものがある。

雲南は、永らくチベット(吐蕃など)と交戦し、また交易や同盟を結ぶ関係にあった。

 

 

< 6. 少数民族の楽器と仮面 >

 

右上: 楽器

 

下: 仮面

目や口、色彩はバリ島の仮面と似ているが、冠はチベットの仏像に似ている。

この地は、インドや東南アジアの文化が強く影響している。

 

 

< 7. 小さな像 >

 

上: ナシ族の祭祀用で泥偶

 

下: 清末の石細工

 

 

< 8. 民族衣装と新石器時代の村 >

 

上: 民族衣装

 

下: 新石器時代の村の様子

雲南の地に、新石器時代の中国の古代文化に類するものがあったとは知らなかった。

しかし、この展示の説明には、この地に仰韶文化(紀元前5000年前~)に一致する文化圏があったと記されている。

その当時の村を再現しているようです。

 

中国で稲作が始まったのは1万年前の長江中流域だとされている。

そして、その長江上流には雲南がある。

一時、稲作は北東インド(アッサム地方)から長江沿いに伝わっと考えられていた。

そうとすれば、雲南に最古層の定住村があっても当然かもしれない。

今でも、この地には野生種の稲があるそうです。

 

 

< 9. 第二次世界大戦の痕跡 >

 

上: 大戦末期、中国軍がビルマを北上してくる日本軍と国境近くで戦ったと言う展示らしい。

 

日中戦争で、日本軍は援蒋ルートを断つために、桂林を越えて南下していた。

しかし、戦線が延び切って苦戦を強いられ雲南には至らなかった。

このことを以前、桂林を旅行して始めて知った。

しかし、太平洋戦争で、日本軍が援蒋ルートを断つために、南方から雲南に侵攻していたとも知らなかった。

こんな隔絶された高原の地が、激しい戦いの要因になっていたとは。

 

旅行で世界各地を訪れると、このようなハットするような歴史を知ることがある。

 

 

下: 連合軍が中国を支援する為の軍需物資の運輸ルート(援蒋ルート)四つの内二つを示す。

赤い矢印が昆明、緑の矢印が大理です。

実線の援蒋ルートが最も重要で、ミャンマー(ビルマ)のヤンゴン(ラング―ン)から昆明、雲南に至る道でした。

ビルマを中心にしたこの一帯で、史上最悪の作戦と言われたインパール作戦(インド)や、映画「戦場にかける橋」になった泰緬鉄道建設(タイ)が行われた。

 

 

 

この博物館には他にも色々見所はあるのでしょうが、私は胃腸の調子が急に悪くなり、存分に楽しむ事が出来なかった。

 

例えば、青銅製の貯貝器があります。

貨幣として使われたインド洋産の貝殻が貯えられていた。

特に、その容器の蓋に付けられた青銅製の造形物(人や馬・牛など)が面白い。

当時の生活が見えてくるようです。

 

 

< 10. 博物館近くの町並み >

 

博物館を出て、バスでホテルに戻る予定だった。

しかし、路線番号を間違えて乗ってしまった。

途中で気付き、行き過ぎたバス停で下車し、本来のルートまで徒歩で戻り、乗り継いでホテルに着いた。

この時、スマホで百度地図による位置の確認が出来て良かった。

お陰で時間に間に合った。

次いでホテルに預けておいたスーツケースを引取り、ホテルのすぐ前から発車するリムジンバスに乗り、昆明空港に向かった。

昆明空港からは直行便で関空に無事着いた。

 

こうして15日間の中国旅行は、大したトラブルも無しに終えました。

 

次回からは、中国旅行で感じた事などを記します。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 8: 剣山登山 1

2020-10-17 04:55:25 | 旅行

 

*1

 

これから数回に分けて、四国の剣山を紹介します。

今回は、登頂までの道のりです。

登頂したのは、2020年6月8日、快晴でした。

 

 

 

< 2. 剣山登山ルート >

 

上: 剣山を北側から見た図

北側、見ノ越の剣山登山口から頂上に至るルートは概ね4本あります。

私が登ったルートは太い二本の赤線の右側で、大剣神社経由です。

 

登山口から歩いて頂上を目指すことも出来ますが、多くは登山リフトに乗り、登山道を途中から歩くことになるようです。

私もそのようにしました。

 

下: 北を上にした登山ルート

私が登ったルートは赤線で、登り約60分、中程度の道です。

下山ルートは異なる道を選びました。

 

 

*剣山について

この山は西日本では、同じ四国の石鎚山に次いで二番目に高く、1955mあります。

この山は徳島県にあり、吉野川沿いに行くことが出来るので、近畿から近くて便利です。

また見ノ越の登山口、標高1420mから15分間リフトに乗り、降りた西島駅の標高は1750mで、頂上までは標高差200m足らずなので、登り易い。

登山道はそれぞれ異なる景色を楽しめる、登り易いルートがあるので、簡単に高山を楽しめます。

 

私は約30年ぶりに登りましたが、充分に楽しめました。

 

 

 

< 3. 登山リフト 1 >

 

このリフトの距離は830mあり、そよ風に吹かれながら進行方向右側の景色を存分に楽しめます。

 

 

< 4. 登山リフト 2 >

 

上: 剣山頂上が見えます

 

 

 

< 5. 登山リフト 3 >

 

上: 谷間は祖谷渓でしょう。

 

下: 西島駅です

 

 

< 6. 西島江を降りた所 >

 

上: 登山道を示す、鳥居と看板が見える

 

下: 同じ場所から右側を振り返った

 

 

 

< 7. いよいよスタート >

 

私はこの鳥居の道を進みました。

下山時は右側の道を戻って来ました。

 

 

< 8. 最初は林間を進む >

 

比較的、緩い坂道が続きます。

時折、右手の視界が開けます。

 

 

*9

 

 

< 10. 大剣神社を目指す >

 

左上方に大きな岩が見えます。

途中で道が分かれており、左手を進みます。

ここからは道が急峻になり、低い笹で覆われた開けた景色に変わります。

やがて大剣神社が見えます。

 

 

< 11. さらに進みます >

 

 

< 12.やがて頂上ヒュッテが見える >

 

この時、登山道の階段として置かれていた石を叩きながら整備している老人を見ました。

有難いことをする人が居るものだと感心した。

後に、テレビでこの老人がヒュッテの主人だと知ることになった。

 

 

< 13. 眼下の眺め >

 

上: 霞んではいるが、吉野川と両岸の街並みが見える。

 

下: 登山道を振り返った

 

 

< 14. 剣山本宮剣神社の鳥居が見えた >

 

これでほぼ登頂したことになる。

この歳で登れたことに感謝した。

 

 

次回に続きます。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国の外縁を一周して 52: 昆明、二度目の繁華街

2020-10-12 07:48:09 | 旅行

 

*1

 

 

今回は、二度目の繫華街、南屏街を紹介します。

次いで、翌日の雲南省博物館までのバスからの眺めを紹介します。

この日が、中国旅行最後の日になります。

 

 

 

< 2. ルート図、上が北 >

 

上: 赤線が西山龍門石窟観光後、地下鉄に乗り南屏街まで行ったルートです。

青線は、南屏街で夕食とショッピング後、ホテルまで帰ったバスのルートです。

星印がバス乗り場であり、ショッピングしたところです。

 

下: 上記の星印の位置を拡大した

 

 

< 3. 南屏街 1 >

 

 

< 4. 南屏街 2 >

 

ここはデパート、世纪广场の前で、2階と3階にスーパーマーケットのCarrefour(家乐福)が有ります。

私はこのデパートで土産物を買い、夕食をとりました。

 

 

< 5. 夕食のレストラン >

 

ここは牛肉ステーキを注文すると、食べ放題のバイキングが可能になります。

当初、私はバイキング形式の食事をしたかったのですが、小さめのステーキを頼むことになった。

もうこれで腹八分目になってしまい、バイキングはをあまり楽しめなかった。

それでもセットの価格が安いのには驚いた。

客は若い人や家族連れで一杯でした。

 

今回のフリーの旅行で強く印象を受けた一つは、食の多様化でした。

ツアーで行くと、どうしても定番の中華料理なってしまっていた。

それはそれで良かったのですが、現実は、様々な地域や国の料理が取り入れられ、かつ安く提供されていることに気付かされた。

 

中国の進取の気質がここでも遺憾なく発揮されている。

 

 

 

 

 

< 6. 翌朝、雲南省博物館を目指して >

 

上: バスのルート、上が北

バスは40分ぐらい乗っていたでしょうか。

 

下: バスターミナル、昆明汽车客运站

ここはホテルと雲南駅(鉄道)の中間にあました。

少し奥まった所にあるので、分かり難いかもしれません。

到着してどのバスに乗って良いが分からないでいた時、年配の人が寄って来て、行先を聞き、乗るバスを教えてくれた。

旅先での親切は有難いものです。

 

 

< 7. 乗ったバス >

 

上: 私が乗ったバスと同型の二階建てです。

 

下: 私は二階の先頭に座りました。

 

 

< 8. 昆明の朝の様子 >

 

バスの車窓からの景色は、2019年10月19日(火)、8時半前後に撮影したものです。

 

 

*9

 

 

*10

 

雲南省昆明は中国の端にあるが、けっして地方都市ではなく、大都会でした。

 

次回に続きます。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 7: 剣山へ

2020-10-06 08:47:46 | 旅行

 

*1

 

今回は、貞光川沿いに剣山へ向かいます。

ドライブしたのは2020年6月7日14時頃からでした。

 

 

< 2. 地図、上が北 >

 

上: 今回3日間で巡ったルート全体

黒矢印が走行ルートと向きを示す。

赤矢印が今回紹介するルート。

Mが剣山。

 

下: 今回紹介するルート

赤矢印が今回紹介するルート。

Hが一泊するラ・フォーレつるぎ山。

Mが剣山の山頂。

 

 

< 3. 貞光川沿いの道と民家 >

 

下: 下流側を望む

左側の急斜面に畑が見える。

かつてこのような所でタバコの葉が栽培されていたのだろうか?

 

 

 

< 4.貞光川 >

 

上下の写真はほぼ同じ位置から撮影。

 

上: 下流側

下: 上流側

 

 

< 5. さらに登ると >

 

やがて貞光川から離れ、深い樹林を抜けるようになった。

 

 

< 6. 時折、眺望が開ける >

 

 

< 7. ホテルに到着 >

 

下: ホテルの前から剣山の頂上が見えた。

このホテルは元々、剣山が眺望できるように建てられた。

しかしその前の木々が伸びてしまって、見づらくなった。

ホテルの三階まで上がると良く見えるようになる。

 

 

 

< 8. ホテル周辺を散策 >

 

 

< 9. 剣山山頂 >

 

上: 剣山山頂のロッジの青い屋根が見える

 

下: ホテルの庭から北側を望む

夕焼けだ!

明日は快晴だぞ!

30年ぶりの剣山登山だ!

 

 

< 10. 早朝の散歩 >

 

上: 山頂には雲一つない

 

下: お地蔵さんが微笑んでいるようでした。

清々しい冷気の中、温かい陽射しが周りを包んでいた。

 

 

< 11.剣山登山口を目指して出発 >

 

上: 昨晩、この道を散策していると、親子鹿が横断しているのを見かけた。

薄ぐら闇の中、鹿が声を発し、こちらを見た親鹿の目が光っていた。

どっきとした一瞬でした。

 

下: 下山後、この祖谷渓に沿って下って行く

 

 

< 12。 剣山のリフト乗り場へ >

 

登山口のすぐ近くにリフトがあり、私はリフトで中腹に向かいます。

 

上: 目の前の山の中央にリフトが通っている

 

下: 登山口周辺の建物が見えて来た

 

 

次回から、剣山登山を紹介します。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国の外縁を一周して 51: 西山龍門石窟 2

2020-09-21 08:33:03 | 旅行

*1

 

 

前回に続いて、西山森林公園にある龍門石窟を紹介します。

絶景を堪能しました。

龍門石窟の後半を見た後、昆明中心街に向かいました。

この日が中国旅行最後の宿泊日になりました。

 

 

 

< 2. 恐ろしい程の絶壁 >

 

中国人は、よほど絶壁が好きなようです。

道教のイメージが根付いているのでしょうか。

古来より、中国では高山や岩山、絶壁が仙人や道教の修行者の舞台になっていました。

後に日本でも、役行者や山伏、修験者が道教や仏教を取り入れて、険しいく奥深い山を修行の場として来ました。

 

私は、高所恐怖症気味なのですが、他の多くの観光客と一緒に歩いていると怖さを忘れることが出来ました。

 

 

 

 

*3

 

 

< 4. よく紹介されている「龍門」の門 >

 

 

< 5. ご苦労様! >

 

かつての命がけで行われた掘削工事に感謝しました。

 

 

 

*6

 

 

< 7. これから向かう先 >

 

下: 石窟から北側を望む

滇池が細長く北に延びている。

ここを下ってから、湖畔の左側を地下鉄で昆明中心街へと向かうことになる。

 

 

 

< 8. 道教の寺 >

 

 

< 9. これが最後の階段 >

 

龍門石窟の下りは楽でした。

逆はかなりきついでしょう。

ほとんどの観光客は下っていました。

 

 

< 10. バッテリーカーで >

 

上: 龍門石窟を終えると、バッテリーカーでバス停まで行きます。

この乗車券は事前に購入していました。

バスは地下鉄駅「西山公園」の近くまで行きます。

そこで3号線の地下鉄に乗りました。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 6: 貞光、二層うだつの街並み

2020-09-13 13:08:12 | 旅行

*1

 

 

今回も、前回に続いて旧庄屋家、また別に国の文化財の商家を紹介します。

 

 

< 2. 旧永井家庄屋屋敷の見取り図 >

上 : 全体の見取り図

中央: 母屋の平面図

下 : 雪隠の望む

 

 

 

< 3. 隠し部屋と古地図 >

 

左上: 仏間

右上: 仏間から台所側を望む

この裏に隠し部屋があり、武器庫になっている。

この部屋に武器を持った人が待機することもあったそうです。

 

左下: 上記の隠し部屋

 

右下: 仏間に置いてあった地図、貞光を示しているようだ。

上が北で、東西に流れる吉野川が見える。

また南北に流れる貞光川と左に並行している貞光の街並みが見える。

下(南)に行くと剣山に至る。

 

 

< 4. 台所 >

 

 

< 5.次の建物へ >

 

上: 母屋を出て、向かいにある藍の作業場へ

下: 振り返って母屋を見る

 

 

 

< 6. 藍の作業場の中へ >

 

上: 作業場の左手に、私が入ったのとは別の門が見える。

下: 作業場の二階

 

実は作業場に入っても、土間があるだけで何の変哲もなかったので写真を撮りませんでした。

後で知ったのですが、この土間で刈り取った藍の葉を約100日間発行させていた。

つまり藍の生産工場だったのです。

二階は作業員の宿舎だったようです。

 

 

*藍染めについて

 

既に室町時代、阿波藍は製造され流通していたと考えられます。

製造量は、江戸時代から明治にかけて増加し、全国市場を支配するようになった。

現在、徳島県の藍の生産量は全国シェアの大半を占めている。

 

なぜ、徳島で盛んになったのか?

堤防が築かれていなかった吉野川は、毎年、台風の時期に川は氾濫し、大洪水が起きていました。

台風は稲刈りの時期の前に来ることが多かったで、大きな損害を被る危険性があり稲作には適さなかった。

その点、台風の前に刈り取りが終わってしまう藍作は、徳島県に適した産業でした。

また、藍の収穫後の藍畑に肥沃な土を流入させ、同じ土地に続けて植えることの難しい藍の連作を可能にしたことも幸いした。

 

この貞光の町は、剣山に至る一宇街道の交易で発展したのですが、その交易品は山岳部の産であったたばこの葉と、貞光の藍(染料)が重要だった。

 

 

< 7. 二階からの眺め >

 

上: 二階にあった展示品を望む

 

 

< 8. 街道に戻る >

 

左上: 二層うだつ

右上: 鏝(コテ)で描かれた鯉の滝登り

共に貞光の特色ある造り。

 

下: 街並みの南側を望む

剣山は見えないが剣山の方向になる。

 

 

< 9. 織本家 >

 

明治時代、酒造業を営む商家として再建された。

国の登録文化財。

ここも無料で入場可能でした。

事前に庄屋屋敷の管理人が、織本家の管理人は留守だが、入れることを電話で確認してくれていた、

親切な対応は本当にありがたい。

 

 

 

< 10.部屋を見て回る >

 

広い土間はあったが、酒造業の名残りを感じさせるものはほとんどなかった。

しかし、立派な家屋でした。

 

 

< 11. 二階に上がる階段 >

 

下: 二階に上がる階段があった。

冒険心をくすぐるような造りでした。

ここから二階に行きました。

 

 

 

< 12. 二階の様子 1 >

 

 

< 13. 二階の様子 2 >

 

大きいが板敷で居住用と言うよりは、物置のようです。

造りも複雑で、段差がありました。

1階への降り口は、別にもう一つありました。

 

 

次回は、剣山手前にあるホテルまで山道を走ります。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする