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 アクアコンパス3 続編

アクアコンパス3が容量一杯になったので、こちらで続きを開始します。

京都を歩く 1 修学院離宮

2024-12-21 13:14:30 | 旅行

これから京都の歴史を訪ねて歩いたスポットを幾つか紹介します。

 

今回は京都の修学院離宮を紹介します。

2024年12月14日、午後、小雨の中、拝観させて頂きました。

人数が制限され、時間毎の予約が必要ですが、無料で80分間の案内が付いていました。

紅葉は最盛期を過ぎていましたが、十分楽しめました。

この離宮は江戸時代、最初に宮廷文化を復活させた後水尾天皇が築いたものです。

これは代表的な宮廷庭園ですが、他とは趣が異なるようです。

 

「修学院離宮は中心部から比叡山の登山口に至る途中にある、上が北」

この修学院離宮は、有名な宮廷庭園である桂離宮、仙洞御所、京都御所と違い、辺鄙な山裾の高台に造られた。

しかも当時から畑に囲まれた離宮だったはずです。

最も有名な桂離宮は、後水尾天皇の1代前の天皇の弟が築き、古くは藤原道長の別邸があった桂川沿いにある。

後水尾天皇もここに訪れていた。

 

「修学院離宮の衛星写真、上が東」

下に広がる住宅街の上限に離宮の入り口があり、さらに上側の森林までが離宮の範囲です。

離宮内には三つの離宮(御茶屋)があり、下中央、少し上の右側、さらに左上に別れている。

 

「修学院離宮の正式な案内図」

現在、上離宮の建物の幾つかは修復中でした。

案内の順路は赤の破線の通りです。

 

以下の写真は、ほぼ順路通りに並んでいます。

先ずは下離宮から

「寿月観」 ここは上皇が日帰り来られるところでした。

案内では、建物の中に入ってみることが出来ませんが、外から襖絵や欄間等が見られるようになっています。

すべて説明があります。

参加者が多いので、人が写らないように撮影するのは難しい。

参加者に、フランス人女性と白人夫婦がおられました。

 

 

これから下離宮を出て、中離宮に向かいます。

「下離宮を出た所、東側を望む」

晴れていれば、左側に比叡山が見えるはずです。

 

「上離宮に行く松並木の道」

 

ここからは中離宮になります。

「中門、新しく葺かれた屋根が美しい」

「この中離宮は、後水尾天皇の皇女の一人が、後に造られたものです」

「客殿の中を覗く」

 

ここからは上離宮です。

 

「隣雲亭前の広場から眺める」

晴れていれば鞍馬の方が見えます。

実に雄大な借景です。

 

「隣雲亭のすぐ右(東)にある雄滝」

滝は思ったより大きく、自然が生かされている。

 

「隣雲亭が左上に見える。前のせせらぎの左上流に雄滝がある」

後水尾上皇は、隣雲亭の縁側に座り、この滝の音を聞きながら、歌を色紙に書いたことだろう。

彼は生涯百以上の和歌を残し、さらに後水尾院御集で、1420余首の歌に注解を付し、歌壇を牽引した。

彼の歌風は、藤原道長の子供に始まる伝統(二条家流)を直伝で受け継いだものでした。

さらに立花や茶道、能に造詣が深く、江戸文化の隆盛に貢献した。

 

「浴龍池に浮かぶ島」

「浴龍池の奥の高台に隣雲亭が見える」

この池の傍にはいくつかの名所があるのですが、2ヵ所が修復中でした。

浴龍池は非常に浅い。

 

「西浜から大刈込越しに京都の中心部を見下ろす。」

畑の向こうに、御所や下賀茂神社の森が見える。

辺鄙な地にある離宮だと思っていたが、上皇が暮らす御所、さらに徳川家の二条城が見下ろせるにのには驚いた。

 

「隣雲亭を見上げる」

亭の下の斜面には、様々な木々が植えられ、刈り込まれている。

普通なら刈込用の低木を植えないだろう(地盤が軟弱なせいもあるらしい)。

私の知る限り、普通、日本庭園は四季を愛で、日本の名所や自然を凝縮した形で、再現している場合が多いと思う。

しかしこの上離宮は異なる。

上皇は、のびのびした風景、畑も含めて遠くに街並み山々が見晴らせる、この地を選んだのだろう。

かつて天皇家や公家の誰も、この地に別邸等を造らなかったこの地に。

 

後水尾上皇は、天皇の地位が衰退し続ける中にあって特異で目立つ存在でした。

徳川幕府が天下を治め始めると、天皇家と公家への締め付けが強くなった。

天皇家の所領は、鎌倉時代から徐々に減り始め、戦国時代末期になり幾らか任命権等の権限が復活していたが、

徳川家康から秀忠にかけて、天皇の所領は数万石まで減らされ、さらに天皇は政治に一切口出し出来ず、文芸に専念せよと命じられる始末でした。

遂には、徳川は外戚を狙って秀忠の娘を天皇の中宮に迎えるように圧力を掛ける。

後水尾天皇は、これまで、様々な徳川家の圧力に対して、数少ない抵抗手段である譲位を幾度もほのめかして来た。

結局は、娶ることになり、間に生まれた内親王(娘)が7歳になると、本当に譲位してしまった。

その後、長く院政を行い、多くの子供も造り、長生きした。

 

終わります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ワールドクルーズ 1 大自然と絶景を味わう

2024-12-19 07:23:20 | 旅行

これから世界一周の船旅を連載で紹介します。

これは妻と私が2023年1月から5月まで、コスタ・デリチョーザに乗船した記録です。

ワールドクルーズには、たくさんの素晴らしい体験がありますが、

今回は、主にクルーズ船上から楽しめる絶景と寄港地で見ることができる大自然を40枚の写真で紹介します。

クルーズは128日間かけて大洋を航海し、35ヵ国を訪れ、68日間寄港していましたので、撮影した膨大な写真やビデオが残りました。

今回は、初回なのでそれらの中からエッセンスを味わって頂ければ幸いです。

今後、追々、様々な情報をお伝えします。

 

「2023年コスタ・デリチョーザのワールドクルーズの航路、国名では無く寄港地名が書かれています」

出発はイタリアのトリエステで、終着はベニス、時計方向、赤の矢印に沿って船は進みました。

赤線は赤道を示していますが、実はこのクルーズ航路には非常に優れた特徴があります。

多くのワールドクルーズは赤道に平行に、地球を東西に一周する航路が多い。

しかし、この航路は広大な太平洋を横断しない分、終日航海日が少なく、二つの大陸沿いに細かく寄港しながら、

北半球と南半球を巡ります。

また大自然(ジャングル、珊瑚礁、氷河)が残る地域と多くの発展途上国を訪問する点でも、私には魅力でした。

だがクルーズ客の中には、オーストラリア、南太平洋やアジア東部に行かないことに不満を持つ人もいました。

 

以下の写真は訪問順に並んでいます。

象徴的な光景を選んでいますので、訪問地の多くは割愛しています。

 

「クロアチアのドブロヴニク、夕陽が高い城壁を照らしている。下船して」 

出航の翌日に、最初に訪れた。

通常の空路とバスで巡るツアーでは城内の滞在時間は2時間ぐらいがだが、

このクルーズの場合は6時間あったので、十分堪能できた。

 

「イタリアのシチリア島のCatania、港の遠方、朝焼けに映えるエトナ山。船上から」

今回のクルーズで寄港したヨーロッパの都市を挙げておきます。

多くは古代から中世の面影を残しています。

Italy :Trieste, Dubrovnik, Catania, Naples, Savona, Civitavecchia(Rome) , Bari

France :  Marseilles(AIX EN PROVENCE)

Greece :  Katakolon(Olympia)

Cyprus :  Limassol

Portugal :   Azores(Ponta Delgada, Praia da Victoria), Lisbon

Montenegro : Kotor

英国海外領土 : Gibraltar

 

途中寄港した、キプロスとイスラエルは省いています。




「スエズ運河。船上から」
パナマ運河も通過しました。

「ヨルダンの茫漠とした乾燥した大地と高原」

ここは紅海の港アカバからツアーバスでペトラ遺跡に向かう途中の景色です。

 

「そそり立つ断崖を縫うように枯れ沢の道を行くと、奥に赤色のエル・カズネ (宝物殿)が見えて来た」

 

「紅海の西側の砂漠に沈む夕日、船上から」

途中寄港した中東のオーマン、インドのムンバイ、ゴアは省いています。

 

「モルディブのリゾートアイランドの一つに宿泊した。ビーチから」

今回、世界の珊瑚礁を見るのが目的の一つでした。

訪れてシュノーケリングを行った所を挙げておきます。

インド洋: Maldives、Seychelles、Mauritiusの各島の珊瑚礁で。
カリブ海: Honduras(RoatanのTHE FRENCH KEY BEACH)、最も透明度が高かった。Mexico(ユカタン半島の海洋公園Parque Xel-Há), ここは淡水が流れ込む河口で、サンゴは見なかったが魚は非常に多かった。

 

「Seychelles の本島Maheを観光ツアーバスで巡る。峠から見下ろす」

ここでもシュノーケリングを愉しみました。

途中寄港した、マダガスカル本島とNosy Be島,  レユニオンは省いています。

マダガスカルはジャングル、美しい海、カメレオン、キツネザルが見所です。

レユニオン島など、この地域の島々には、かつての移民や植民地の姿を見ることが出来ます。

 

「 Mauritiusの本島からILE AUX CERFSに渡海するツアーのボートより、本島を望む」

ここでもシュノーケリングを愉しみました。

 

「南アフリカの港Durbanから奥地のズールー族の村をツアーバスで訪ねる途中の景観」

今回のクルーズで、世界中のジャングルをマガがスカル、インド洋の島々、南アフリカ、中南米で見ることが出来ました。

 

「南アフリカの港Port Elizabethからツアーバスで行ったADDO ELEPHANT PARKから」

はじめてサファリを体験した。

 

「南アフリカのケープタウンからの海岸線を走る。バスから」

 

「クルーズ船から、出航して来たケープタウンを振り返る、テーブルマウンテンが見える」

 

「ナミビアの砂漠、ツアーバスで」

 

「大西洋に浮かぶ St. Helena島、ナポレオンが流された島」

正に絶海の孤島でした。

 

「クルーズ船から夜空に浮かぶ三日月を見る」

深夜、最上階のデッキに上がり、ライトの少ない所を選ぶと、様々な星座や星を見ることが出来ます。

日頃見ることが出来ない南十字星など。

 

「ブラジルのリオデジャネイロ、SUGARLOAF MOUNTAINの山頂からコルコバードのキリスト像を望む」

途中訪れた、ArgentinaのBuenos Aires、UruguayのMontevideoを省きます。


「アルゼンチンのPuerto Madryn港からツアーバスで、 自然保護区のPUNTA TOMBOに向かう途中の大草原」

 

「アルゼンチンのペンギンの自然保護区PUNTA TOMBOの遊歩道より」

ペンギンは海岸線だけでなく、むしろ奥の灌木の間にたくさんおり、私が訪れた時は、合計数万から数十万羽かもしれない。

季節によれば、広大な敷地内に200万羽のペンギンが見られるそうです。

 

「アルゼンチンのUshuaia、船上から」

ここは南アメリカ大陸最南端にあるマゼラン海峡を更に南下した所にあり、南極観光の拠点になっている。

海峡の小島にはペンギンやオットセイが生息している。

 

「Ushuaiaからツアーバスで来たフエゴ島国立公園」

原生林と一部氷河に覆われた山塊が極寒の風景を形作っている。

ウシュアイアの写真2枚はアルゼンチンとチリのパタゴニアになります。

パタゴニアとは凡そ北緯40度以南の南米を差し、これからの8枚は、チリパタゴニアの絶景を紹介します。

クルーズ船が1週間をかけて素晴らしい氷河、温帯雨林、多島海を進み、遠くに幾つもの火山が優美な姿を現します。

 

途中、マゼラン海峡の風が強くて、クルーズ船はチリのPunta Arenasに着岸することを諦め、次の目的地に向かうことになりました。

そのおかげで、下の氷河をゆっくり見ることが出来ました。

 

「氷河が海に落ちています。厚みは数十mあるでしょうか」

 

 

「切り立った氷河の峰々」

 

「チリのPuerto Chacabuco港からツアーバスで来た。豊かな森林と湖が心を和ませてくれます」

 

 

「多島海をクルーズ船は滑るように進む。雨がりの雲間から陽光が射した瞬間です」

 

「太古の時代には氷河に覆われていたはずの多島海を進む」

 

「独立峰の火山が見える。幾つも見えた」

 

「夕闇に包まれるパタゴニア」

 

 

「チリのPuerto Montt港からツアーバスで来た湖。遠くに火山が見える」

こここはパタゴニアの北限で、自然豊かで風光明媚なところです。

 

「船上から眺める夕陽」

128日間、ほとんど晴れていたので毎日見られたのですが、水平線に沈むだけでは無い、様々な背景に映える朝陽と夕陽を楽しみました。

世界一周してわかったのですが、海の色が異なったり、海藻が流れていたり、特に雲の形の違いには驚かされました。

 

途中訪れた、San Antonio港を省きます。ここらチリの首都SantiagoとVALPARAÍSO に行った。

 

「チリのArica港、船上から早朝の港を望む」

 

「チリのArica港からPutre村へツアーバスで向かう途中の景観」

ツアーバスは、アカタマ砂漠の北に位置するArica港から、砂漠を抜けてやがてアンデスの荒涼とした高地に入って行きます。

かつてアンデス高地の民が海岸の民と交易したルートを走ることになり、湧水の目印にした地上絵が砂山に点在しいます。

 

「Putre村は雪を被ったタアパカ火山帯の中腹部に抱かれるようにひっそりと佇む」

Putreは標高3500mのアンデスの高地にある村です。

この村はこの写真の下側にあり、アルパカがたくさん飼われています。

火山の標高は、5000~7000mにもなります。

 

途中訪れた、ペルーのCallao(首都リマ)とエクアドルのManta、パナマ運河とパナマのCristobal、コスタリカのPuerto Limonを省きます。

エクアドル、パナマ、コスタリカで熱帯ジャングルと動物達に会うことが出来ました。

 

「ホンジュラスのRoatan島のTHE FRENCH KEY BEACH。シュノーケリング中」

サンゴは少ないが身近に群れている魚が見え、透明度が高いので遠くまで見通せる。

 

途中観光した、メキシコのCozumel(遺跡とシュノーケリング)、米国フロリダのFort LauderdaleとPort Canaveralを省きます。



「ニューヨークのマンハッタンの朝」

途中観光した、米国のNewport(Providence)、ポルトガルの Azores諸島の二つの内の一つの島を省きます。

「ポルトガルのサン・ミゲル島のPonta Delgada港からツアーバスで訪れた崖の上より」

 

「ポルトガルのリスボンの夜明け。船上より」

途中観光した、モロッコのTangierは省きます。

 

「ジブラルタルの山頂の展望台より」

 

「朝霧に覆われたフランスのマルセイユ付近」

途中観光した、イタリアのサボナ、Civitavecchiaとローマを省きます。

 

「モンテネグロのKotorに着岸している船上から入り江に連なる他のクルーズ船を望む」

 

途中寄港した、イタリアのBariと最終帰港地のベニスを省きます。

 

これで130日に及ぶ、世界一周のダイジェストは終わりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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海外旅行の薦め 70ヶ国を巡って 

2024-12-16 09:19:49 | 旅行

皆さんに、海外旅行の素晴らしさと、旅行によって得られた見聞をこれから折に触れ、紹介したいと思います。

今回は、私の海外旅行遍歴の要点を紹介します。

 

私は見知らぬ国に行き、初めて見る自然や町、人々の暮らしを感じている時が、最もアドレナリンが出ます。

私は世界約70ヶ国を訪れましたが、多くは定年60歳を越えてからです。

最初の海外旅行は、30年以上前にヨーロッパや中国への視察旅行が始まりでした。

定年後は、安い長めのツアーで多くの国を訪れるようにしました。

やがて、自分で計画し2週間から1ヶ月間ほどの海外旅行を個人で行くようになりました。

しかし最近は、体に楽なクルーズが気にいっています。

 

海外旅行の目的は、見知らぬ世界を一つでも多く見たい事に尽きます。

その為には、事前に歴史や社会経済文化等をよく調べ、帰国後はブログに書くために、またよく調べました。

このことで世界がより見えてくるようになりました。

しかし数年前から、人生が残り少ないと感じ始め、旅行の形態を変えました。

2018年と2019年は、模範的な国としてスカンジナビア3ヵ国と成長著しい中国をそれぞれ2週間かけて自分で計画し個人で見て来ました。

2020から2022年までは、コロナで行けませんでした。

2023年正月からは、満を持して4ヵ月間のワールドクルーズに初挑戦しました。

2024年は、最も進んだ国であるアメリカとカナダを一人で1ヵ月掛けて巡りました。

ここ6年間の旅行は、世界を見る視点において非常に得るものがありました。

2025年は、南太平洋クルーズ、2026年はシンガポールとバリ島に行く予定です。

おそらくこれで、私の海外旅行は終わる予定で、約70ヶ国を訪れることになります。

 

 

地図の説明

青線はコスタのワールドクルーズで120日間、35カ国、70日間の寄港日がありました。発着はイタリアのベニスです。私はこの珍しいコースが気に入りました。

緑線と緑円は、今後予定している南太平洋クルーズと東南アジアの旅行です。

北欧の赤線は、スカンジナビア3ヵ国訪問です。

中国大陸の赤枠では、これまで中国の多くの大都市と奥地の都市を7回、台湾も2回訪れました。

北米の赤線は、カナダのバンクーバー1都市と米国8都市を見て来たルートです。

紫線、紫枠、紫円は、2017年以前に訪れた訪問地です。

 

 

 

 

 

 

 

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国境の島、対馬を訪ねて 8: 椎根の石屋根倉庫

2021-03-30 06:27:08 | 旅行

 

*1

 

 

今回は、対馬独特の建築物を紹介します。

 

 

< 2. 椎根の位置、上が北 >

 

上: 対馬の下半分

紺色線の右が厳原、左が椎根で、この間は車で20分ほどです。

 

下: 小茂田浜と椎根の位置

黒線の右から来て、赤矢印の蒙古襲来の激戦地・小茂田浜に寄ってから、黒矢印の椎根に行きました。

 

 

< 3.対馬横断途中の車窓から1 >

 

< 4. 対馬横断途中の車窓から2 >

 

真っ赤な彼岸花が至る所で群生しており美しかった。

この辺りを走っている分には、特に対馬の山野と言う印象はなかった。

後に北部の上対馬や中央部の浅茅湾周辺を走ると、対馬独特の地形を目にすることになる。

 

 

< 5. 椎根に到着 >

 

上: 椎根の地図、上が北

赤線が観光バスを降りてからの散策ルートです。

Sから始め、Eで終わりました。

主に見た石屋根倉庫は赤矢印ですが、ここには合計5棟あるそうです。

 

下: バスを降りて、椎根川の橋を渡り、石屋根倉庫に向かう。

中央にこれから紹介する1棟が見える。

 

 

< 6. 1棟目の石屋根倉庫 1 >

 

上: 橋の上から上流、東側を望む

右岸にもう1棟が見える。

 

下: 1棟目の石屋根倉庫

確かに見たこともない造りです。

 

 

< 7. 1棟目の石屋根倉庫 2 >

 

まず初めに感じたのは、「なぜこんなに重い石を屋根に上げたのか?」でした。

次いで、小屋の柱にも違和感があり、何かが違う。

 

厳原が幾度も大火災に遭っていることと、この倉庫が西海岸に近いことから防火防風の為だとは察しがつきました。

江戸時代、瓦屋根が禁止されていたので、初めは裏山の石を載せていたそうです。

大正時代になると、発破技術が導入され浅茅湾に面した島山石で産出する見栄えの良いこのような泥板岩を使うようになった。

昔は対馬中にあったそうですが、今は南西部に合計40棟が残るのみだそうです。

 

左下: 私が違和感を持ったのは、写真中央の平柱のせいでした。

普通は角柱を使います。

屋根の重量を支えるのに適しているのでしょうか?

説明書きによると、平柱は山から切り出した丸太を半分に切って使うことから始まったそうで、対馬の伝統的な建物には良く使われているそうです。

この工法は、台湾や東南アジアにも見られるそうです。

 

それにしても大変な建築作業だったはずで、中で何を貯えたかは知らないが、ここまでする必要は無かったのではないかと思ってしまう。

村の中で見栄を張って競ったのだろう。

 

 

< 8. 二棟目の石屋根倉庫 >

 

上: 二棟目の石屋根倉庫

 

下: 瓦屋根の倉庫

 

 

< 9. 戻りの橋の上から >

 

< 10. 椎根川の対岸から >

 

次回に続きます。

 

 

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国境の島、対馬を訪ねて 7: 厳原の街を歩く 5

2021-03-23 07:28:23 | 旅行

 

*1

 

 

今回が、厳原紹介の最後になります。

朝鮮通信使の所縁の地も訪ねます。

 

 

< 2. 散策ルート >

 

今回紹介するルートは茶色線と黒線です。

始めは、赤線と茶色線の交わった所から茶色線に沿って北上し、黒矢印辺りで折り返し、次いで黒線を南下し茶色矢印まで行き、終わりました。

 

ピンク矢印: 対馬藩家老(氏江家)屋敷跡。

黒矢印: 高麗門

青矢印: 旧日新館門

赤矢印: 桟原城跡(陸上自衛隊駐屯地)

茶矢印: 国分寺

 

 

< 3. 大歳神社から始める >

 

上: 大歳神社

大きなクスノキと石の鳥居、石塀に囲まれた小さな社が、川沿いに祀らていた。

江戸時代の大火を機に子宝の神から防火の神として敬われているようです。

 

下: 小川沿いを北上する。

ちょうど小学生の朝の登校時間で、一時賑やかになりました。

 

 

< 4. 馬場筋通りに出た >

 

上: ちょうど馬場筋通りに出たところ

北側を見ている。

 

下: 馬場筋通りの高麗門を過ぎた辺りから北側の桟原城跡の方を見ている。

ここからまた戻る。

 

 

< 5. 対馬藩家老(氏江家)屋敷跡 >

 

馬場筋通りの西側に面して立派な石壁と門がある。

家老屋敷跡に、今は長崎県対馬支庁や対馬振興局がある。

 

上: 長屋門

 

下: 長屋門に掲げられていた地図。

これは江戸後期の厳原の地図で、赤矢印が家老氏江家の屋敷でひときわ大きい。

馬場筋通り沿いに武家屋敷が並んでいる様子がわかる。

 

 

< 6. 高麗門と氏江家屋敷の石塀 >

 

上: 高麗門は馬場筋通りの東側にあります

これは桟原城の高麗門を復元移転したもので、市立厳原幼稚園の前に建っています。

 

下: 氏江家屋敷の石塀

場所は、先に紹介した家老屋敷跡、長屋門の北側にあり、西に延びています。

風情があります。

 

 

< 7.旧日新館門 >

 

ここは散策ルートから外れているのですが、観光バスから撮影しました。

馬場筋通りの西側に面しています。

ここは対馬藩主宗氏の中屋敷門でしたが、幕末には藩校日新館に用いられた。

江戸末期の大名家の格式を備えた武家屋敷門としては、長崎県唯一のもので、立派でした。

この日新館は幕末、勤王党の拠点になり、内紛で多くの藩士が命を無くした。

 

 

< 8. 地図の黒線に沿って歩く >

 

上: 川沿いを南下

 

下: カレイの日干し。

かつて対馬はイカが大量に取れて、大量に干されていたが、今は減ったそうです。

 

 

< 9.国分寺の山門 >

 

ここが朝鮮通信使の客館があった寺です。

1807年、徳川家斉の将軍襲職を賀す朝鮮通信使が来ることになり、ここに客館と山門が建立された。

その後、国分寺は焼失したが山門は免れ、客館は明治時代に解体された。

 

< 10.国分寺の境内 >

 

山の麓に墓地が広がり、山門との間には広い敷地がある。

かつては大きな寺や客館があったのだろう。

何せ江戸時代の通信使は、500人ほどが朝鮮半島から渡海して来たのだから。

 

 

< 11. 朝鮮通信使 >

 

私が、朝鮮通信使に興味を持ったのは滋賀県の近江八幡を訪れた時でした。

近江八幡の狭い道を散策していると、此処を朝鮮通信使が通ったと記されていた。

朝鮮通信使は対馬藩1500名を加えて、2千名近い人数で大阪から江戸、あるいは日光まで陸路を行ったのでした。

遠路はるばると大行列が海路と陸路を行ったのです。

しかも1回に100万両を費やした(100万石大名の1年分)。

 

朝鮮通信使は室町時代に始まり、途中中断はあったが、江戸時代には主に将軍の代替わりに計12回来ている。

江戸時代、日本は鎖国し、中国とヨーロッパの4ヵ国とは貿易をしていたが、国交を持ったのは琉球と李氏朝鮮だけでした。

 

徳川幕府にとっては、通信使は将軍の権威を誇示する儀礼として、あたかも朝貢使のように見せようとした。

一方、朝鮮にとってはかつての倭寇や秀吉の朝鮮侵略の経験から日本を監視する意図があった。

また朝鮮半島の大陸側では異民族の脅威があり、日本と友好を保つことに価値があった。

それでは小さな一藩に過ぎない対馬にどんな意義があったのか?

既に紹介したように関ヶ原の戦いの後、生き残るには家康が希望する朝鮮半島との国交と貿易再開が必至だった。

当然、貧しい対馬が生き残るためにも貿易は最重要だった。

 

対馬は幾度も朝鮮半島と日本の紛争の狭間で生き延びて来た。

そして朝鮮半島との国交と貿易では日本で唯一の窓口となり、繫栄することが出来た。

対馬は朝鮮半島に数ヵ所の貿易所を有し、認可を受けた貿易船が対馬と朝鮮を行き来した。

対馬は藩の貿易から重臣らの私的貿易、密貿易、さらには朝鮮王朝から下賜される形で高価な品物を手に入れることが出来た。

朝鮮通信使を介して、漢学、儒教、医学などの知識も入って来た。

 

こうして対馬、特に厳原は江戸時代、朝鮮との橋渡しで重要な役割を果たしていた。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

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国境の島、対馬を訪ねて 6: 厳原の街を歩く 4

2021-02-19 06:51:47 | 旅行

 

*1

 

朝7時から8時まで城下町を散策しました。

早朝の対馬を感じ取ることが出来ました。

また対馬と神々、朝鮮半島の深い繋がりを知る事が出来ました。

 

 

< 2. 散策ルート、上が北 >

赤線が今回紹介するルート、茶色線と黒線が次回紹介するルート。

下の対馬ホテル前から歩き始め、国分寺で撮影は終了。

上側の赤矢印が桟原城跡(陸上自衛隊駐屯地)、青矢印が旧日新館門。

左下側の黒矢印が金石城跡と万松院です。

つまりこの範囲が対馬藩時代の城下町になります。

 

 

 

< 3.ホテルから八幡宮神社まで >

 

上: 振り返ると右側にホテルが見える。

朝、ほとんど人を見ず、静かな通りというか寂れている気がした。

 

下: 八幡宮神社の鳥居が見えた。

後ろが清水山で、神社の前を左右に通るのが馬場筋通りです。

 

 

< 4.馬場筋通り >

 

上: 西側を望む

右手側に金石城跡がある。

 

下: 東側を望む

石塀や武家門が残る通りは、右手側にあります。

 

 

< 5. 八幡宮神社 1 >

 

一つ目の鳥居を抜けると、大きな駐車場があり、その奥に二つの鳥居がある。

山の麓まで森が延び、神社は木々でなかば覆われている。

 

上: 左側の鳥居を抜けると天神神社(今宮若宮神社)がある

ここには安徳天皇と菅原道真公が祀られていたが、後に小西マリアが合祀されました。

彼女は関ヶ原の戦いの翌年に宋義智に離縁されおり、後に怨霊を恐れてこちらに祀っられたようです。

 

 

下: 上の写真の右側の鳥居

この鳥居を真直ぐ抜けると宇努刀神社、右に行くと神門、八幡宮神社に至る。

 

ここには社が四つあり、由緒は古く日本書紀に始まる。

境内にある八幡宮神社と平神社は延喜式神名帳(平安時代中期)に記載されていた。

ただ当時は八幡宮神社でなく和多都美神社であった。

この経緯は面白いので後で説明します。

 

 

< 6. 神門と宇努刀神社 >

 

上: 階段の上の神門を右手に抜けると八幡宮神社

 

下: 宇努刀神社が見える

この左に天神神社があります。

 

 

< 7.八幡宮神社と宋義智公の像 >

 

上: 八幡宮神社の拝殿

この左奥に本殿があります。

 

下: 小さな公園に宋義智公の像が立っています。

これから公園右手の路に入ります。

 

 

 

< 8.中村地区 1 >

 

城下町の風情が石垣や門から感じられる。

 

上: 宋義智公の像がある公園

 

下: 半井桃水館

彼は明治期の新聞記者・小説家で、樋口一葉の師として知られている。

 

 

< 9.中村地区 2 >

 

通りを南北に望む。

 

 

  • 八幡宮神社から見えて来る対馬の古代

 

平安時代の延喜式に記載された神社(官社、式内社)が九州全体で98社あったが、うち約3分の1にあたる29社が対馬に集中し、九州最多で、壱岐の24社を加えると、両島で九州の半数を超えていた。

この理由は、和多都美神社を紹介する時に説明します。

 

この八幡宮神社は以前、対馬に三つあった海神を祀る和多都美神社の一つでした。

祭神が変わったのは、対馬で国防意識が高まり、三韓征伐を成し遂げた神功皇后を武神として祀るようになったからと考えられる。

 

日本が朝鮮半島に出兵したのは大きく四回ありました。

最初が神功皇后による三韓征伐、次いで天智天皇の白村江の戦い、豊臣秀吉による朝鮮出兵、日清戦争がありました。

すべてについて対馬は橋頭堡となりました。

一方、本土が朝鮮半島から攻められたのは元寇だけでした。

対馬に限れば、上記外に幾度も攻防がありましたが。

 

八幡宮神社の社伝によれば、

「神功皇后が三韓征伐からの帰途、対馬の清水山に行啓し、この山は神霊が宿る山であるとして山頂に磐境を設け、神鏡と幣帛を置いて天神地祇を祀った。」

とあります。

 

 

 

 

< 10. 三韓征伐 >

地図

https://www.tsushima-net.org/wp-content/uploads/2020/08/tsushima_shrine_guidebook.pdf

 

三韓征伐は、神功皇后が自ら新羅に出兵し、新羅・百済・高句麗を服属させたとされる戦争です。

日本書紀などに記載されたこの戦争は2~3世紀と推定される。

これが伝説だとしても、この前後の6世紀間に亘り、倭国は新羅や百済などの王朝と深く関わり、幾度も半島に出兵していることは事実です。

 

 

上: 三韓征伐の絵

 

下: 神功皇后の航路

青破線が行き、赤破線が帰りの航路。

 

ここで興味深いのは、朝鮮半島と九州との往来は、対馬を島伝いに北の比田勝港と南の厳原港を拠点にし、行きは東海岸、帰りは西海岸を使っていることです。

なぜ対馬は朝鮮半島により近いのに、倭国の文化圏に入ったのか?

この答えのヒントになりそうです。

 

これは対馬海流が年中、対馬の両側を南から北へ流れ、流れは8月が最も強く、2月が最も弱く、半分にもなり、冬になると季節風が朝鮮半島から対馬に向かって吹いてくることと関係していると考える。

 

おそらく夏は九州から海流に乗り壱岐を経て対馬へ行くことは容易だったのだろう。

帰りは、冬の季節風(北西風)を待てば、海流も弱く追い風で帰れたのだろう。

さらに対馬の西側(朝鮮海峡)の海流は東側に比べ弱いことが、朝鮮半島からの往来が不利になったのだろう。

この時代はまだ帆船を使っていなかったから、櫂で漕ぐとなればなおさらだった。

 

神功皇后は10月に朝鮮半島に渡り、12月には福岡に戻っていた。

これはほぼ理に叶った航海時期と言えるかもしれない。

 

おそらくこうして対馬は倭国、日本の文化圏に属したのだろう。

 

< 11. 対馬の神社と神話 >

https://www.tsushima-net.org/wp-content/uploads/2020/08/tsushima_shrine_guidebook.pdf

 

下図: 現在、対馬の神社130社の位置

江戸初期、対馬には神社が455社もあった。

この地図では、平地が少ない対馬らしく、社は海岸に近い所に多いが、かつては山頂などにも多かった。

 

上表: 日本神話と対馬の神々の関り

日本神話の神々と広く関りがあるが、豊玉姫などの海神とのかかわりが強いようです。

後に詳しく語ります。

 

 

次回に続きます。

 

 

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国境の島、対馬を訪ねて 5: 厳原の街を歩く 3

2021-02-12 06:18:34 | 旅行

 

*1

 

今回は、宗氏の菩提寺万松院と歴代藩主の墓所を紹介します。

江戸開幕と共に対馬初代藩主となった、宗義智は怒涛の時代を生き抜いた。

 

 

< 2. 万松院と境内地図 >

 

上: 万松院の門

右手の石橋は墓所への階段に通じる。

 

下: 万松院と御霊屋の地図、上が概ね南

上が万松院、下が墓所御霊屋。

赤線が散策路で、現在地からスタートし戻った。

 

 

< 3.山門と御霊屋への石橋 >

 

上: この山門は残存する対馬最古の建築物で、江戸時代初期のものです。

仁王像も古い。

 

下: 御霊屋への石橋

 

 

< 4. 万松院に入る >

 

下: 本堂

この寺は、2代藩主義成が先代義智の為に1615年に建立したが、二度の火災で山門以外は消失した。

当時の隆盛を示す様々な建築物は無く、こじんまりしている。

内部の本尊や什器には鎌倉時代の作品もある。

 

 

< 5. 堂内に入る >

 

下: 三具足

朝鮮国より贈られた青銅製の祭礼用三具足(みつぐそく)、鶴亀の燭台と香炉、花瓶の3点。

 

朝鮮通信使が奉納した三具足は日光東照宮にもあったが、火災で消失し、現在の物は日本で造り直したものです。

すると万松院の三具足は貴重です。

(幕府の要望により、朝鮮通信使は江戸を経て日光東照宮まで参拝することがあった。)

 

 

< 6. 徳川家のお位牌 >

 

上: 徳川歴代将軍のお位牌

ガラス貼りで暗い為、良く見えないのですが、位牌は数多くありました。

ここに徳川家の位牌があるのは、対馬藩の大事件、柳川一件と関りがあります。

家光の裁可により無罪となった2代藩主は、徳川家に忠誠を尽くすとし、また朝鮮との交渉役との関係もあり、ここに位牌の安置を許された。

かつて境内にあった東照宮は火災で消失した。

 

下: 諫鼓(かんこ)

かつて諫鼓と呼ばれる鼓が置かれていて、君主に訴え(諫言)をおこす時に叩かれた。

鼓が鳴らないことは諫言の必要が無く善政の証しだとされたが、疑問が残る。

叩くことになれば目立つので、諫言(かんげん)を控えるはずだからです。

 

 

< 7. 御霊屋(おたまや)に向かう >

 

深い木々に囲まれて荘厳な雰囲気のある墓所でした。

ここは、金沢市の前田藩、萩市の毛利藩とともに日本三大墓地の一つらしい。

 

左上: 132段の百雁木(ひゃくがんぎ)と呼ばれる石段。

丁寧な石組みの段の横に石灯篭が並び、趣がある。

 

右上: もうすぐ最上部に着く

 

下: 階段を登り切ると、左右に歴代藩主の墓がある。

 

 

< 8. 天然記念物の大杉 >

 

上: 樹齢1200年と言われる大スギ

 

下: 階段を登る時、向かって左にある墓所

 

 

< 9. 初代藩主の墓 >

 

上: 初代藩主義智の墓

 

 

< 10. 下御霊屋 >

 

下: 石段の途中にある宗氏の墓地

 

 

* 宗義智と柳川一件にみる対馬の苦難と繁栄の礎

 

宗義智(そう よしとし)は宗氏19代目当主であり、対馬藩初代藩主でした。

彼は豊臣秀吉の九州征伐、続いて二度の朝鮮出兵、関ヶ原の戦いに駆り出された。

また徳川の世になると、李氏朝鮮との和平条約に奔走し成立させ、この功績により家康から独自に朝鮮との貿易を許され繁栄の礎を築いた。

宗氏は明治まで続くことになった。

 

 

 

< 11. 2回の朝鮮出兵 >

 

朝鮮出兵前、彼は秀吉から朝鮮を服属させよとの命を受けていた。

そして彼は、秀吉の全国統一の祝賀使節を朝鮮に要請し、来日した朝鮮使節を秀吉には服属使と偽った。

結局、朝鮮出兵は決まり、前回記したように清水城を築き、5千の兵を出し、対馬は7年に及ぶ戦役で大打撃を受けた。

 

秀吉が死に関ヶ原の戦いが起きた。

彼の妻は西軍の大名、共に戦った小西行長の娘、小西マリアでした。

家康が天下を取ると、彼は朝鮮の交渉役を期待され、罪は問われなかったが、恭順の意を示す為、戦いの翌年、妻を離縁した。

 

以前から、対馬の宗氏が朝鮮との交易を一手に引き受けて来たが、江戸時代も続くことになり、農耕に適さない地で繁栄することが出来た。

だが、朝鮮との外交交渉は、昔から綱渡りで、息子の代に大事件、柳川一件が起きた。

 

対馬藩2代目藩主の世になって、徳川は対馬に朝鮮出兵の後始末の交渉を任した。

ここでも対馬は幕府と明・李氏朝鮮とのかけ離れた要求の間に立ち、嘘と国書の改竄で逃れようとした。

 

朝鮮出兵の際に王陵を荒らした戦犯を差し出すように朝鮮から要求された。

すると、出兵とは全く無関係の藩内の罪人の喉を潰して声を発せられなくした上で「朝鮮出兵の戦犯」として差し出した。

お陰で他の要因もあり、朝鮮側は融和的になった。

 

朝鮮が徳川家から先に国書を送るように要求すると、対馬藩は国書を偽造し朝鮮へ提出した。

朝鮮が派遣した「回答使」を、対馬藩は幕府に「通信使」と偽り、江戸城で家康らと謁見させた。

対馬藩は回答使の返書も改竄し、三次に渡る交渉でもそれぞれ国書の偽造、改竄を行い、貿易協定(和平も)を何とか締結させることが出来た。

 

ここまでは良かったのだが、20年を経て、対馬藩の家老が己の出世の為に幕府に改竄を訴えた。

 

だが家光の裁可により、藩主は無罪、家老と他に関わった要人は流罪となり、決着した。

 

対馬は、このように日本の中央政府と大陸の狭間で、戦役と外交で苦労を重ねて来た。

対馬の外交を見ていると、如何に日本の中央は海外に無知だと言うのが分かる。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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国境の島、対馬を訪ねて 4: 対馬のフェイクニュース

2021-02-06 08:11:38 | 旅行

 

*1

 

今回は、対馬を貶めたフェイクニュースについて。

以前、対馬は韓国人に荒らされていると報道されていた。

私は多くの島民にお話を聞き、予想もしなかった事実に出会いました。

 

 

*2

 

私は対馬に強い歴史的な関心を持っていました。

しかし、一部マスコミは対馬が韓国人観光客に荒らされていると報道しており、私も不安になっていました。

この手の煽られた恐怖心を韓国旅行の前にも感じたことがあったのですが、行ってみて、まったくの嘘だと知った経験がありました。

 

そこで今回、コロナ騒動で韓国人が減っていると知って、事実を確認すべしと考えた。

 

*3

 

* 街角でのインタビューを紹介します。

 

A 厳原のショッピングモール内で

二人の女性店員の感想です。

 

韓国人観光客は、日本茶やコーヒーをよく買ってくれた。

彼らにまったく嫌な感じを持ったことがない。

やはり彼らが来なくなったのは辛い、また来て欲しい。

 

店員さん達は、私が感じていて不安を吹き飛ばしてくれた。

 

 

B 厳原の観光情報館にて

対馬の観光事情に詳しい担当者と話した。

私は韓国人の来日客が無くなったことについて聞いた。

 

彼は問題がないと断言した。

なぜなら対馬を訪れる人の多くは日本国内からで、韓国人はその内の数割に過ぎないとのことでした。

私がネットで調べた訪問者数や、他の情報を勘案すると、やはり経済的影響は少なくないはずです。

 

私は、彼が韓国人観光客をことさら問題にすることに苛立っているように思えた。

 

 

C 厳原の街を散策中に

通りすがりの女性に道を聞いたついでに、韓国の旅行者で気になる事はありますかと質問した。

 

彼女は、すぐに答えることが出来ず、私が幾らか誘導するように聞くと。

彼らが道路脇に座って、食べている姿が気になると答えた。

 

日頃は韓国人旅行者を気にしていないようでした。

 

 

D 厳原のホテルのフロント係に聞いた

 

このホテルに、以前はかなりの韓国人観光客が宿泊したそうです。

特にマナーの点で気になることはなかったとのことです。

 

韓国人観光客に戻って来て欲しいようでした。

 

 

E 男性の観光ガイドから多くの事を学びました。

初老の彼は対馬の歴史と観光のガイドについては第一人者でしょう。

 

ここでは韓国人の観光について紹介します。

 

韓国人観光客は1泊か日帰りで、対馬での楽しみは海釣りと登山が多いそうです。

彼らの中には、たくさんの釣果を持ち帰り、釜山で販売する人もいるそうです。

彼の口から韓国人の悪口はまったく聞けなかった。

後で、分かるのですが彼は韓国人にまったく偏見を持っていない。

 

 

結局、5人に聞いた話を総合すると、韓国人観光客は対馬にとって迷惑どころか、賑わいをもたらす客でした。

 

*4

 

* 厳原や比田勝の街や港を見て

 

比田勝は釜山との間に幾つもの高速船が往来してる玄関口、厳原は観光の拠点です。

両方の街を見ましたが、韓国語の看板や、韓国人相手の店は少なかった。

報道のような、占拠され荒らされている雰囲気はない。

 

壱岐行きのフェリー乗り場に、釣り客に撒き餌を注意する掲示物がありました。

ことによるとこれに韓国人が関わっているかもしれませんが不明です。

 

 

* 私の目を開いてくれた情報

 

もう一台の観光バスの女性ガイドは韓国人名で、少したどたどしい日本語を喋っていた。

 

最後に、例の初老の観光ガイドが教えてくれたこと。

 

元々対馬には戦前から朝鮮半島の人々が多く住んでおり、まったく普通に近所付き合いをしていたそうです。

私は大戦時、朝鮮人への差別が起きた事を予想して質問したら、共に戦った仲間同志だから疑いの余地はなかったと、私をたしなめるように答えた。

(大戦時、沖縄戦で本土の軍人が沖縄人をスパイと疑った過去があった)

 

 

* まとめ

 

マスコミは不安を煽り、関心を呼んで視聴率を上げたいのか、右翼的な意図で韓国を悪しざまに罵りたいのか。

対馬にまったく問題が無い上に、さらに国内からの旅客を減らす事にもなり、踏んだり蹴ったりです。

偏向したマスコミ報道に腹が立ちます。

 

国境の島は、このような事でも災いを受けてしまう。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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国境の島、対馬を訪ねて 3: 厳原の街を歩く 2

2021-02-01 07:52:39 | 旅行

 

*1

 

今回は、厳原の二つの城跡と御船江を紹介します。

安土桃山時代から江戸時代の対馬の姿が蘇ります。

 

 

< 2. 厳原の地図、上が北 >

 

上: 厳原の中心部

赤枠が御船江跡で、黄色枠が金石城跡と清水山城跡のエリアです。

 

下: 赤矢印が御船江跡

四つの突堤が見える。

赤線が徒歩ルートです。

 

 

< 3. 御船江跡 1 >

 

上と中央: 湾岸を通る道路上から海側と御船江側を望む。

上の写真の左奥に厳原の金石城跡がある。

中央写真の右が御船江、左は川。

 

下: 御船江の奥の方を見ている

右に少し突堤が見えるが、思ったより浅い。

 

 

< 4. 御船江跡 2 >

 

上: 突堤が見える

ここは対馬藩の御用船を係留した船溜まりです。

現在の遺構は寛文3年(1663)に造られました。

築堤の石積みは当時の原形を保ち、正門、倉庫、休息の建物跡が残っている。

満潮時には木造の大船が出入でき、干潮時には干上がるように出来ている。

現在これほど原形を遺している所は全国でも珍しい。

 

中央: 御船江から湾に出る水路

水路の幅は最小約7mで、上の写真の小舟がある突堤間の広さは奥行きが約30m、幅が約8mです。

これから言うと船は最大で長さ27m、幅5mぐらいだったかもしれない。

この大きさの船で江戸や朝鮮半島まで行ったのだろう。

 

 

下: 御船江から出た湾側

 

 

< 5. 当時を偲ばせるもの >

 

上: 他の藩で使われた御座船の模型

これと似た船が対馬藩で使われたことだろう。

 

下: 1800年頃の厳原の古地図

左下に御船江が見える。

中央の一文字の堤が見える所が中矢来で、漂民屋も見える。

朝鮮通信使は、ここに着岸して広い通り(馬場筋通り)を北上し、直ぐ左に折れて金石城に入った。

 

< 6. 金石城と清水山城 >

 

上: 黄線が山頂に沿って築かれた清水山城、赤枠が金山城(かねいし)です。

清水山城は三つの曲輪からなり、左から一の丸で始まる。

上部の黄矢印の方向、金山城から北に馬場筋通りを1.7km行った高台にかつて浅原城(さじきばら)があり、現在は自衛隊駐屯地になっている。

青矢印が宗氏菩提寺の万松院(ばんしょういん)、ピンク矢印が歴代藩主の墓所です。

これら造営はすべて歴代宋氏による。

 

私達はピンク線に沿って右から左に進みました。

 

 

下: 金石城の古絵図、1804~1817年

赤矢印が櫓門、青矢印が「からめ手門」、茶色矢印が心字池のある金石城庭園です。

私達は黄色線に沿って右から左へと進みました。

 

 

< 7. 金石城の楼門 >

 

この門は1990年に再現されたものです。

 

上: 右の山頂に、わずかに石積みが見えているのが清水山城の一部です。

 

下: 左の道を真直ぐ進むと万松院に着く。

 

 

< 8. 万松院が見えた >

 

上: 奥に万松院の正門が見えた

川沿いに真っ赤な彼岸花が今を盛りとたくさん咲いていた。

 

下: からめ手門の石垣が見える

万松院の前の広場の右側にある。

 

 

 

< 9.からめ手門 >

 

上: 小川を渡る橋の上から万松院を望む。

この橋が金石城の南西の端になる。

 

下: 基礎になる石垣しか残っていない。

 

櫓門から「からめ手門」まで凡そ250mです。

10万石の対馬藩としては堅牢さを感じさせない平城です。

1665年、朝鮮通信使を迎える為に、戦国時代16世紀はじめに造営された金石屋形を城郭に改造した。

対馬藩は石高の割に、農地が少なく実際の石高が遥かに少なかったので、豪勢な城を造る事は出来なかっただろう。

宗氏は前述の浅原城を造り居館としていた。

 

 

 

 

< 10. 資料、すべて拝借した写真 >

 

上: 心字池のある金石城庭園

 

上から二つ目: 清水山城の「一の丸」

標高208mの峰に三つある曲輪の最も西のもの。

明や朝鮮の軍が、ここまで侵入することを想定していたのだろう。

 

上から三つ目: 18世紀の釜山浦草梁倭館図

対馬藩は朝鮮との交易を一手に引き受けており、朝鮮半島で三つの倭館を運営していた。

釜山の倭館は長崎出島の25倍以上の広さを有し、常時400~500人が滞在していた。

幕府は鎖国をしてはいたが、この交易は別だった。

 

下: 朝鮮通信使の船

全長三十数mはあったらしい。

 

 

* 宋氏、対馬藩と城について

 

宋氏は、代々朝鮮半島との交易と日本の中央政府との外交交渉を一手に引き受けて来た。

多くの朝鮮半島との紛争に巻き込まれ、また紛争の調停に重要な役割を果たしてきた。

この重要な役割があればこそ、関ヶ原で西軍に付きながらも宗氏は改易を逃れた。

 

対馬の宗氏の歴史は古く、渡来系の秦家の末裔で12世紀に遡る。

実は、宗氏は途中から平家の末裔と称し、厳原の西部に安徳天皇御霊墓地がある。

南北朝時代、一度、守護から外されたが、直ぐに再任され明治維新まで存続した。

 

前述の清水山城は、秀吉が朝鮮出兵に際し、中継拠点として宗氏に造営を命じたものだが、撤退後はすぐに廃城となった。

この時、第一軍出兵では小西軍の7000人に次いで対馬軍は5000人が駆り出された。

人口の少ない対馬では健康な男は、ほとんどいなくなっただろう。

(現在の人口は日本12000万、対馬3万で、1600年頃で日本2000万人とするなら、当時対馬は5000人となる)

戦争により主要な収入源である貿易が絶たれる一方、朝鮮語を話せる対馬の人が通訳として駆り出された。

 

対馬はこのような苦渋を幾度もなめることになった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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国境の島、対馬を訪ねて 2: 厳原の街を歩く 1

2021-01-27 07:43:26 | 旅行

 

*1

 

これから対馬の中心地、厳原の街を紹介します。

数回に分けて紹介しますが、今回は街の南側、中心から港までです。

この街には一千年を越える歴史があります。

 

 

< 2. 対馬 >

左上: 対馬全体図、上が北

赤線が航空路、黒線がバス、赤矢印が厳原を示す。

 

対馬の地形は南北82km、東西18kmと細長く、ほとんどリアス式海岸で囲まれ、山がちです。

かつて中央部は地峡で繋がっていたが、運河が開削され分離した。

また対馬は朝鮮半島まで50km、博多湾まで120kmだが、壱岐までなら50kmに過ぎない。

こうして対馬は特に古代において海上交通で重要な役割を果たすことになった。

 

右上: 厳原全体図、上が北

赤枠が今回紹介する範囲で、厳原の一部に過ぎない。

 

下: 伊丹から福岡空港に着陸

 

 

< 3. 対馬に至る >

 

上: 福岡空港でプロペラ機に乗るところ

離島への旅に、期待感が盛り上がる。

 

中央: 対馬空港に到着

 

下: 空港から厳原に向かう車窓風景

内陸部を走っている為か、あまり本土の風景と代り映えしない。

 

 

* 対馬の歴史は古い

 

対馬北部(上対馬)の西海岸に、対馬最古の遺跡があり、縄文早期末(約1万年前)の遺物(土器た石器)が見つかっている。

これら遺物には北九州と対馬、朝鮮半島との交流の跡が見られる。

 

一方、厳原の歴史は飛鳥時代に遡る。

朝廷が対馬の厳原に国府(行政庁)を置いたとされている。

厳原は鎌倉時代から江戸時代まで、宋氏の居館、対馬藩の城下町として発展した。

 

 

< 4. 厳原に到着 >

 

上: 厳原の中心地、観光情報館、ふれあい処つしま、の前から望む

中央(西側)に旧金石城庭園の楼門、左に市役所が見える。

 

下: 茶色枠が今回紹介する範囲、上が西

散策は、観光情報館の前から下り、川に沿って船溜まり跡まで行き、また戻りました。

 

 

 

< 5. 観光情報館の辺り >

 

上: 向かいにあるショッピングセンター(1階)

 

下: ショッピングセンター側から観光情報館、ふれあい処つしまを望む。

ここには観光案内所、土産物屋、レストラン、展示・催事場があります。

 

今回、GO TOトラベルのクーポン券を貰ったが、使える場所はここだけだったので、昼食と土産品購入をここで済ませた。

観光案内所の人は親切で、滞在中、合計3人の方と対馬について詳しく伺うことが出来た。

観光パンフレットも揃っていた。

 

 

< 6. 大町通り >

 

上: 大町通りの北側を望む

左に、武家屋敷風外観のふれあい処つしまの建物が見える。

これから右側、東側に進む。

 

下: 今屋敷公園横の通り(横町通り)、防火壁美観地区

この辺りには、至る所にこのような石積みの壁が通りに沿って見える。

これは江戸時代、しばしば大火に見舞われた為、延焼を防ぐ為に作られたものが遺っている。

どうやら海峡を吹き抜ける風が強いのでしょう。

 

 

< 7. 川端通り >

 

横町通りを真直ぐ進むと川にぶつかり、この川沿いの道が川端通りです。

 

上: 来た道を振り返った。

 

下: 進行方向(東)を見ている。

この東西の盆地の距離は400mに過ぎない。

 

 

 

< 8. 二つの川 >

 

上: 川端通りの北側を望む

川の左側の高い建物がホテル対馬で、今回二泊しました。

 

下: 上の川と別の川です

古い町並みが残っている。

この川の左側の通りの対馬醤油の向こうに村瀬家土蔵がある。

 

 

< 9.村瀬家土蔵 >

 

通りから撮った写真ではよく見えないが、2階の窓の左右に絵があります。

これは漆喰で練り上げて立体的に描かれた龍と虎だそうです。

明治時代に描かれたものです。

 

背伸びをして写真を撮っていると、通りすがりの高齢の女性が、すまなそうに、これは大したものではありませんがと労をねぎらってくれた。

 

 

< 10. 地蔵さん >

 

私が歩いた範囲は、厳原の中でも地蔵さんが多い。

狭い範囲に20ヶ所はありそうです。

私が見た数ヵ所の地蔵さんには、お茶や衣が捧げられていた。

 

 

< 11. 中矢来と漂民屋跡 >

 

上: 中矢来(なかやらい)

中世からの船溜まり。

かつてはここに朝鮮通信使が上陸したのだろう。

 

 

下: 漂民屋跡

石積みのある所が漂民屋跡です。

その右にある建物が自衛隊の支所で、この横を通って行けるはずなのですが、案内の標識が破損していて分からなかった。

駐在の自衛官に聞いてやっと分かりました。

この場所は、海に注ぐ二つの川に挟まれた先端部にある。

 

 

* 漂民屋について

 

この漂民屋に、国境の島、大陸と関わる苦難の一端が見える。

 

この漂民屋に江戸時代、海難事故で遭難した日本と朝鮮の漂着民が一時的に収容された。

対馬藩は脱走や住民とのトラブルなどを恐れてこの地を選んだのだろう。

漂民屋の建物は戦後まで残り近隣の住民から「朝鮮長屋」と呼ばれていたらしい。

 

朝鮮の船が遭難し日本に漂着した場合、各藩は幕府の長崎奉行所に移送した。

取り調べの後、対馬藩の長崎藩邸から対馬に送られ、「漂民屋」に収容された。

ここから船便を待って釜山の対馬藩の倭館に送られ、朝鮮側の役人に引き渡し落着した。

日本の船が朝鮮で遭難した場合は、逆ルートで行われた。

 

この優れた難民送還策は一朝一夕に出来たものではない。

この遥か以前から対馬は、大陸・朝鮮半島との間で捕虜や略奪された民の奪還や返還に悪戦苦闘して来た歴史がある。

対馬は、大陸の騒乱に幾度も巻き込まれ、逆に日本の覇者が朝鮮半島侵攻の足掛かりとした地だったから。

 

対馬は、日本において戦争と平和を紡いだ稀有な地だった。

 

次回に続きます。

 

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国境の島、対馬を訪ねて 1: はじめに

2021-01-21 06:53:43 | 旅行

*1

 

 

私は2020年10月1~3日、長崎県の対馬と壱岐を旅して来ました。

やっと念願の対馬を訪れることが出来ました。

これから歴史ロマン溢れる二つの島を紹介します。

 

 

* 旅行の概要

 

トラピックスの二泊三日のツアーです。

1日目は、伊丹から飛行機を乗り継いで対馬に到着し、二泊二日、バスで対馬を観光しました。

三日目、朝からフェリーで壱岐に渡り、半日観光し、ジェットフォイルで福岡港に到着後、飛行機で伊丹に戻りました。

 

通常、関西から対馬への旅行は、不便な為、効率よく旅行出来ませんでした。

しかし今回は、国と長崎県から離島支援やGo To支援により航空便を使って本来の半額以下で無駄なく周遊出来ました。

 

天気もほとんど快晴に恵まれました。

 

* 対馬と壱岐の魅力

 

日本の古代史に興味がある人にとって、対馬は外せない。

先ず、「魏志倭人伝」に対馬国と壱岐国があったと記されている。

当然、奈良の大和朝廷が大陸と通交するには対馬は欠かせなかったはずです。

何せわずか海上50kmの先には朝鮮半島があるのですから。

大陸の神話や仏教が対馬を経由して伝わったことは疑いない。

 

大陸の文明や文化が列島に浸透する時、対馬はどのような役割を果たしたのか?

 

また対馬は常に外国との戦いにおいて前線基地であった。

古くは唐と戦った白村江の戦い、次いで大軍に侵略された元寇の役、倭寇の基地、秀吉の朝鮮征伐、そして日露戦争でのバルチック艦隊撃破などが対馬と関わった。

一方、江戸時代、朝鮮通信使はこの対馬を経由して江戸まで行き来した。

 

隣国との争いと和平の狭間にあって、この島はどう生き抜いたのだろうか?

 

ここ数年、対馬は韓国人観光客で賑わって、様々な噂が飛び交っていた。

ヨーロッパで幾つかの国境の町を見て来たが、国境の島では何が起きていたのか?

 

最後に、海峡に浮かぶ島、その山と海、暮らしに惹かれるものがある。

 

こうして対馬への想いを深め、この旅を経て、多くのことに巡りあった。

 

壱岐は、古代から遣唐使までの歴史ロマンに溢れているのですが、今回はわずかしか観光していませんので、詳しくはお伝え出来ません。

 

 

 

< 2. 対馬と壱岐、上が北 >

 

上: 矢印の二つの島が対馬と壱岐です

 

下: 対馬の主な観光地

対馬はほぼ一日半の観光でしたが、ほぼ地図上の観光地を巡る事が出来ました。

 

< 3. 対馬に到着 >

 

上: プロペラ機が今まさに対馬空港に着陸するところ

 

中央: 小茂田浜神社 (こもだはま)

元寇(文永の役)の際、討ち死にした対馬の武将を祀った神社。

すぐ横の海岸が、元寇の古戦場、小茂田浜です。

 

下: 椎根の石屋根倉庫

非常に珍しい建築様式。

 

上記二ヵ所は、対馬の南西部にあります。

 

 

 

< 4. 厳原 1 >

 

厳原(いづはら)は対馬の南東部の港に面した対馬の中心地です。

鎌倉時代以降、城下町として発展した。

 

上: 厳原の大通り

 

中央: 厳原八幡宮神社

 

下: 武家屋敷跡

 

< 5. 厳原 2 >

 

上: お船江跡(おふなえあと)

写真の右手が対馬藩の藩船が使用した船着き場の跡。

 

中央: 旧金石城庭園

対馬藩の宗家が戦国時代から江戸時代かけて築いた城の庭園や櫓門が復元されている。

 

下: 宗家墓所

対馬藩宗家の菩提寺、万松院から石段を登り詰めた所にある巨大な墓所。

 

 

< 6. 花鳥風月 >

 

上: 対馬海峡を照らす月光

 

中央: 国分寺

厳原にあるこの寺には、江戸時代、朝鮮通信使の客館があった。

重厚な山門や鐘楼が当時を偲ばせてくれる。

 

下: 季節外れの桜が、島のあちこちで咲いていた。

 

 

< 7. 島の北部 >

 

上: 比田勝港

漁港、また釜山港を結ぶ連絡船の商港として北部の中心地。

 

中央: 日露友好の丘

日露戦争時の心温まる逸話が残るこの地に、大きな碑が建てられている。

 

下: 韓国展望所

展望所から朝鮮半島を望む。

晴れてはいたが、釜山が見えたかどうかは微妙でした。

 

 

< 8. 対馬の中央部 >

 

対馬がくびれて、上対馬と下対馬がかろうじて繋がっている辺りは、海岸線が入り組んでいる。

 

上: 和多都美神社

日本神話の最初に登場する綿津見神(わたつみのかみ)がこの神社を造ったとされている。

この社は平安時代には朝廷から認定されていた。

中央の朝廷から遠く離れたこの島に、最古層の神話に纏わるものがある。

 

中央: 烏帽子岳展望所

360度の眺望が素晴らしい。

 

下: 万関橋の上から

これは浅茅湾と三浦湾の間に開削された万関瀬戸と呼ばれる運河に架かる橋です。

 

 

< 9. 壱岐に向かう >

 

上: 厳原港に別れを告げて

 

中央: 猿岩

高さ45mの巨大な猿?

 

下: はらほげ地蔵

海女の里の海岸に佇む6体の地蔵。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

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徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 17: 旅行記の終わりに

2021-01-16 08:17:31 | 旅行

 

*1

 

今回は吉野川の渓谷大歩危と池田うだつの町並みを紹介します。

最後に、今回の旅行の感想を記します。

永らくお付き合いありがとうございました。

 

 

< 3. 旅程、共に上が北 >

 

上: 赤枠が今回の旅行範囲です。

オレンジ枠は前回の旅行範囲です。

 

下: 上の赤枠を拡大した。

旅行記は青線のAから始まり、Fで終わります。

 

 

< 3. 大歩危 >

 

ここは吉野川の上流で、奇岩の渓流で知られている。

遊覧船やラフティングを楽しむことが出来ます。

写真は道の駅 大歩危から撮りました。

 

 

< 4. 阿波池田うだつの町 >

 

ここは本町通りで、撮影は三好教育センター辺りで行いました。

今回の旅行で訪れた脇町や貞光に比べ、残っている伝統的な家屋が少なく、昔の面影はほとんど無い。

1ヶ所、目を引いたのは阿波池田たばこ資料館だけでした。

 

< 5. 阿波池田たばこ資料館 >

 

かつてこの本町通りは、たばこの取引で栄えていた。

近くに、かつて吉野川の最上流の川湊があり、ここは交通の要衝だった。

この資料館は幕末から明治にかけて繁盛した刻み煙草の製造業者の建物でした。

 

 

* 今回の旅行を振返って

 

 

< 6. 脇町と沈下橋 >

 

上: 脇町のうだつの町並み

良く保存されていた。

下: 吉野川の沈下橋

四十年の間、いつ来ても変わることのない穏やかな大河が迎えてくれる。

 

 

思いで深いのは、吉野川の水運と街道によって発展した商家の伝統的な町並み三ヵ所を見学出来たことでした。

 

脇町、貞光、池田のうだつの町並みを堪能しました。

 

脇町は、古くは戦国時代に端を発し、三好長慶(天下取りを争う)、次いで稲田家(蜂須賀家家老)が有数の城下町から川湊に面した商家街へと発展させた。

貞光は、剣山に源を発する渓流と吉野川の合流地で、山の産物の交易によって発展した。

池田は、吉野川最上流の川湊と、周辺のタバコ栽培によって、商いの町として発展した。

 

江戸時代に遡る古い商家が町並みとして保存されていることに感動した。

一方で、その町並みに暮らす人々やその周辺の寂れ具合にやり切れないものを感じた。

最近、日本の地方の街並みを見て回ると特に感じるようになった。

 

今回、これら三つの町が吉野川と旧街道、高い山からの支流、かつての居城の関りで発展した事を知った。

また「うだつ」の形成過程や地域による違いも面白かった。

 

 

< 7. 貞光と剣山 >

 

上: 貞光の元庄屋の家

町の中にある庄屋屋敷というのも興味深かった。

 

下: 剣山山頂から下山道を望む

私にとっては30年以上ぶりの登山で、二度目の訪問でした。

登り切れた事に感謝しています。

 

 

< 8.祖谷渓 >

 

上: 剣山リフト乗り場近くから祖谷渓を見下ろす。

 

下: 奥祖谷二重かずら橋

 

今回、奥祖谷と祖谷のかずら橋の両方を紹介しました。

私は祖谷渓には、五回以上は来ているでしょうか。

私はこの地に惹かれるものがある。

 

私の中学時代だったかもしれないが、この祖谷の平家落人を扱った映画を見た覚えがある。

それ以来、この陰影のある奥深い山里に、古く神秘的なものを抱くようになった。

 

 

 

 

< 9. 落合集落 >

 

今回は、妻と二人だけの旅行だったので、私の気の赴くままに、念願の平家の落人伝説を追うことが出来た。

想い始めて、50年を経て、やっと険しい路に入り込んだ。

この期を逃せば、後が無いと感じたからもしれない。

 

上: 落合集落

 

下: 近くの山里

 

この奥深く急斜面に広がる山村の人々の暮らしが気になった。

住まう人は減ってはいるはずだが、それでも畑作業中の姿を少しは見ることが出来た。

 

この山里の暮らし、特に作物、水源、交易について今回幾分理解出来た。

 

< 10. 安徳天皇ゆかりの地 >

 

平家の落人村は全国にあるが、安徳天皇に纏わる地は多くは無く、まして赤旗がある所はさらに少ない。

やはり少しは信じたくなってしまう。

 

それにしても、日本と言う国は不思議だ。

敵に追われて人里離れて逃げ込み隠れ住んだ人々が、後に、その血筋を尊び誇る姿に、何か違和感を感じる。

 

これがヨーロッパではどうだろうか?

英雄や奇跡を起こした人ならいざ知らず、負け組を誇るとは・・。

世界各地の先住民や少数民族も、多くはその過去に僻地への逃避行があった。

一方日本では、負け組の家系を誇りながら中央との交流も続ける。

 

対馬にも安徳天皇が逃れて来たと言う伝説があり、この天皇が当地を治めた宗家の祖先になったとされている。

日本は、いつの時代も「名」(家名や血筋)が重要なようです。

 

そんな不思議を感じる旅でもありました。

 

 

* 最後に

 

前回、徳島、海部郡の5ヶ所の漁港を訪れた。

今回の祖谷川沿いの山里や吉野川沿いの町並みと比べると、海部郡の漁港の寂れ具合が残念でならない。

 

この違いはなぜ起きるのだろうか?

本来、海沿いの方が便利で産業の立地にも適しているはずだが。

祖谷は自然と歴史の観光資源を上手く生かしたからなのだろうか?

それとも、漁業政策の拙さが災いをもたらしているのだろうか?

 

今回は、答えを得ることが出来なかった。

 

皆さん、ありがとうございました。

 

 

 

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中国の外縁を一周して 60: 中国と北欧、そして日本、これで最後になります

2021-01-07 07:00:16 | 旅行

 

 

*1

 

 

続いて中国と北欧を比較し、最後の感想を記します。

今回で中国の旅行記を終わります。

有難うございました。

 

 

< 2.中国と北欧の観光ルート >

 

黒線が鉄道、赤線が航空路、青線がフェリーです。

番号とアルファベットが宿泊地や観光地です。

 

中国旅行は2019年10月15日~29日です。

北欧旅行は2018年5月31日~6月12日です。

 

 

 

< 3. 北欧の豊かさと発展 1 >

 

すべてスウェーデンの住宅です。

 

上: ストックホルム郊外の住宅

中央: ストックホルム郊外の建設中のマンション

下: 列車から見えた地方の住宅、スウェーデン

 

私は北欧三ヵ国の首都と郊外をそれぞれ数日掛けて、バス等で見て回りました。

そこで感じたのは、一般の住宅にはスラム街や古い家は無く、比較的新しい事でした。

これは地方を走る鉄道や電車の車窓からも言えました。

これまで世界35ヵ国ほど観光しましたが、これほど住宅に所得の格差が現れていない国は珍しい。

当然、都市部の鉄筋造りや石造りのビル、歴史を感じさせる豪邸は別です。

 

 

< 4. 北欧の豊かさと発展 2 >

 

上: スウェーデンの地方都市の景観

中央: セカンドハウスが並ぶオスロ湾の島

下: オスロのハーバーフロント開発区

 

北欧三ヵ国は中国ほど建設ラッシュではないが、都市の発展が停滞している感じでもない。

各国の都市部では大規模開発よりは、個々に改修を加え続けているようでした。

だがノルウェーの首都オスロに面した港湾は大がかりな開発中でした。

三ヵ国の開発に違いがあるのは、オスロが大戦による首都破壊がもっとも大きく、かつ石油で潤っているからでしょう。

 

 

北欧では、新旧の建築物が相俟って都市景観を構成するように企図されているようです。

彼らは、歴史的建物や景観を残そうとするあまり、新しい建物を拒絶し、都市機能を低下させてしまうことがないようにしているらしい。

一方で、新たに造られる建物は斬新なデザインが採用され、古風さを強調することがない。

むしろ斬新なデザインが市民にも観光客にも受け入れられている。

 

観光の為に、伝統的な都市景観保存に拘り過ぎると、その都市は発展出来なくなってしまうと私は思う。

この意味で北欧の進め方はベストだと考える。

 

 

< 5. 中国の大躍進 >

 

上: 麗江の別荘地

中央: 雲南省大理近郊の建築ラッシュ

下: 国内を網羅しつつある新幹線網

 

今回、私にとっては最終回と言えるほど端から端まで訪問して来ました。

そこで再確認出来たのは、中国の大発展が奥地まで浸透していることでした。

 

今まで、幾度か北京や上海、廈門を訪れて、高層ビルの乱立に目を見張らせ、桂林や西安の町並みが新しくなっていくことにも驚いていた。

しかし、奥地の蘭州や麗江、昆明などの賑やかさや大都会の様相は予想を越えるものがあった。

 

新幹線は日に日に延長され、瞬く間に全土が新幹線網で結ばれるでしょう。

それだけではない新幹線の車内は、私が乗った限りでは、すべて満員でした。

出来立ての巨大な新幹線駅周辺は、これまた凄い開発ラッシュでした。

多い所では数十から百棟ほどの高層マンションが建築中でした。

極め付きは、蘭州の空港近く、標高2000mの砂漠にビル等1000棟を越える都市が忽然と現れたことでした(グーグルアースで確認)。

まるで砂塵の遠くに蜃気楼を見る想いでした。

 

この中国の開発マジックには脅かされる一方、学ぶべき開発経済の新手法があるように思えてならない。

以前から、中国は中央も地方も莫大な借金でやがて破産するだろうと言われて来た。

しかしいつまで経ってもその気配は無く、大規模開発は続く。

 

中国の開発経済は欧米諸国と異なっている。

都市開発時、デベロッパーは政府から土地の使用権を購入する。

政府はその資金を公共投資などに当てる事が出来る。

立ち退く住民は、開発区に住まいと高額な補償金を手に入れる。

(ただ入居者の家賃は高騰しているようだが)

 

至る所で莫大な資金が必要になり、膨大な通貨が国から供給され続けるが、インフレは抑えられており、順調のようだ。

また海外から元建て中国国債の購入が拡大し、最近中国は外国通貨建て国債の発行を増やし、米国国債を売っている。

(なぜか逆に日本は米国債を買い続けているが、忖度か?)

 

とにかく中国経済は不思議で目が離せない。

 

 

 

< 6. 北欧の自転車 >

 

上: スウェーデン郊外の鉄道駅

線路の両側から緩いスロープを使って、自転車で行き来出来るようになっている。

 

下2枚: コペンハーゲンに溢れる自転車

 

街で一番驚いたのは自転車の多いことです。

西欧でも見たことはあるが、特にデンマークのコペンハーゲンが凄かった。

通勤や通学は車では無く、自転車で、それが当たり前だった。

私が30数年前にコペンハーゲンを訪れた時、自転車を見た覚えがない。

 

つまり、健康と持続可能な社会を目指して大転換を遂げていた。

単に自治体の整備ではダメで、国民の意識が高くないと出来ない。

 

 

< 7. 中国の移動手段 >

 

上: 昆明の交差点

交差点で、さすがに自転車を見ないが、バイクは多い。

北京ではバイクも自転車も見なかった。

 

中央: 廈門の新交通、バス専用の高架道路。

 

下: 北京のバス停のレンタル自転車の駐輪場。

北京や昆明をバスから見ていると、レンタル自転車が大量に放棄されているらしいのを幾度か見た。

 

実に中国らしい大発展と大転換がちぐはぐに進んでいる。

多くの都市は地下鉄の建設ラッシュでした。

新しい駅が出来て市民は便利さを享受している。

一方で、爆発的に拡大したレンタサイクルは曲がり角のようだ。

 

 

< 8. 文化 >

 

上: オスロの野外博物館

主に2世紀前からの実物民家の展示で、三ヵ国共にある。

 

中央: ロスキレのヴァイキング博物館

家族で船の工作を楽しんでいた。

この博物館や別の歴史博物館でも学生のヴァイキング学習風景を見た。

 

下: 開封のテーマ―パーク開封府にて

包拯による裁判シーン。

 

北欧と中国の観光で感じたのは、歴史と観光への捉えた方の違いでした。

 

北欧では観光で売り出している民俗芸能や史跡は多くない。

王宮と大聖堂だけは、西欧と同様だが、他は目立たない。

歴史が無いわけでは無いはずだが。

 

三ヵ国が共に民家の野外展示場を設けているが、歴史の捉え方に関心した。

歴史遺産を派手に演出するのでは無く、あるがままの姿を後世に残す姿勢が好きだ。

 

ただヴァイキングの博物館とテーマパークは多く、人気が高い。

北欧の人々は、非常にヴァイキングを誇りに思っている。

日本で言えば、倭寇や侍を誇りに思うようなものです。

日本人にとってヴァイキングは残虐な略奪者なのだが、彼れらには偉大な開拓者、冒険家、海洋航海者となっている。

 

略奪と言う負の行為を強調するのではなく、その冒険心を讃え、伝えたいとの想いがあるようです。

展示では残虐行為を隠さず淡々と表現していた。

確かに、ヴァイキングの略奪は、日本の武士団の抗争で起こった略奪と同列かもしれない。

当時、北欧にはキリスト教が伝来しておらず、異教徒の侵略に対抗する意図がヴァイキングにはあった。

 

 

一方、中国は豊富な歴史遺産を抱えていている。

しかし多くの建物は文化革命や戦乱で破壊尽くされ、コンクリートでの再建が目立つ、残念です。

 

中国では歴史的な物を華美に演出する傾向があり、鍾乳洞などのライトアップには辟易した。

だが、続々と出来る歴史テーマパークの多さと賑わいを見ていると、別の感想もある。

写真にあるような宋時代の政治家包拯(ほうじょう)の人気を見ると、歴史が身近なものとして生きているようです。

これはテレビの歴史ドラマの影響もあるようですが。

 

中国はヨーロッパと異なり、歴史遺産は観光で儲ける所であり、国民も楽しむ所と割り切っているところがある。

その意味で麗江古陳の夜の賑わいがその最たるものでした。

 

それぞれ地域によって大きく異なる反応があるのもです。

 

 

< 9. 変わる中国 >

 

上: 昆明の市中トイレ

中央: 桂林で見た電動バイク、2015年

下: 蘭州に向かう車窓から見た風力発電機の製造

 

ここでは中国の知られざる進展を紹介しておきます。

 

一つはトイレの整備です。

古くから中国を旅行している人にとって、中国で困るのはトイレでした。

使用に、かなりの決断が必要なことがありました。

ところが今回、都市部に関しては快適なトイレが多く出来ている。

ヨーロッパの少なさが際立つことになった。

 

奥地にある桂林に行った時でした。

公害を出さない産業団地が造られ、朝の散歩で見たバイクは電動でした。

 

中国は、結構先進的な取り組みを一気に行うことが多い。

電動車以外にも、滴々出行などのカーシェアリング、銀行を介さないスマホ決済、自動運転などがどんどん進めらている。

 

実はこの事は、他の共産主義国から見れば不可能に近いのです。

それは既存産業を競争に晒し、衰退を受け入れることになるからです。

これは日本の発展が進まない理由と同じで、既存産業を守るために政府が規制しているからで、優秀なIT技術者の有無が最大の理由ではない。

 

風力発電の世界的なメーカーがスウェーデンにありますが、これを中国の山地で見た時は驚きました。

 

本当に中国は既存の大企業や公的企業を過保護する事がなく、どんどん新しい事に国の指令で進める凄さがある。

普通は官僚制で癒着が進み、弊害が大きくなるのですが。

 

むしろ日本の方が、守りに徹し過ぎている。

 

 

< 10. チグハグナ中国と各国の比較 >

 

上の写真は、中国らしい光景で、新幹線の写真です。

新幹線の乗客には、経済的に豊かそうな人から、行商帰りのような風采の人も居ました。

数時間も乗っていると、清掃係員が幾度も車両の床を掃きに来た。

ちょうど、一人高齢の男性がピーナッツの殻を食べながら床に捨てていた。

彼は、掃除が目の前で行われていても、捨てることを止めない。

掃除婦も誰もとがめない。

 

中国では、若い人ほどマナーが良く親切でしたが、歳を取るにつれて悪くなる傾向があった。

北欧は概ね逆でした。

 

急速な発展をしている国と、発展が落ち着いている国では、このような逆転が生じるのかもしれないと思った。

 

 

下の表は、日本と各国を比較したものです。

 

幸福度、男女平等で日本が如何に低いかがわかります。

一方、貧困は米国に次いで日本が多いのがわかります。

日本はGDPと成長率が低い。

 

概ね、すべての指標で中国も低いのですが、男女平等では日本を上回っている。

特に知って欲しいのは、このままの日本であれば、一人当たりのGDPすら中国に抜かれることです。

 

 

 

* 最後に

 

私は、二つの旅行を通じて、北欧に国の理想像、また中国に発展のダイナミズムと世情を確認して来ました。

 

結論から言えば、それぞれ予想を越える素晴らしいものを感じて得るものがあった。

 

どうか皆さん、マスコミや言論界に毒されず、自ら北欧と中国に足を運んで下さい。

 

きっと狭く偏見に満ちた感覚から解放されるはずです。

 

広く世界の社会・経済・歴史を見れば、今の日本の本当の現在地が見えて来るはずです。

 

長い間、お付き合いありがとうございました。

今年は、カナダと米国を訪問し、また報告したいと思います。

 

これで旅行記を終わります。

 

 

 

 

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徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 15: 平家落人伝説を追って 2

2021-01-04 13:29:10 | 旅行

 

 

*1

 

今回は、安徳帝ともっとも深い縁がある神社を紹介します。

 

 

 

< 2. 神社のある場所、共に上が北 >

 

上: 祖谷の全体図

赤いバルーンが今回紹介する栗枝渡八幡神社(くりしどはちまん)、黄矢印が落合集落、白矢印が鉾神社と喜多家、ピンク矢印が祖谷のかずら橋。

八幡神社以外は既に紹介しました。

 

下: 八幡神社と落合集落を示す。

八幡神社は東祖谷栗枝渡村の上部に残された森にひっそり佇んでいます。

村の一部はさらに上まで広がっています。

この村の東側、上流側には落合集落が見えます。

 

 

< 3. 登りの路 >

 

上: 祖谷街道から登りの路に入って中ほど。

 

下: だいぶ登って来ました。

 

前回の喜多家に行く路に比べれば距離は短く、道幅も広く舗装もされており、行きやすい所です。

 

 

< 4. 途中の眺め >

 

上: 東側、祖谷渓谷上流部を望む。

 

下: 真南を見下ろす。

茅葺を覆うトタン屋根が下に見える。

 

 

< 5. 八幡神社の前に到着 >

 

神社は見えないが看板があるので分かります。

ただ充分な駐車場はありません。

 

上: 車から降りて、来た道を振り返った。

 

下: その看板の手前の雑草が生えているところが駐車場です。

小型車2台程度が駐車出来そうです。

 

 

< 6. 森の中に神社が見えた >

 

上: 駐車場から坂道が延びており、進むと神社が見えた。

下: 右手の杉の間に、小さな祠があった。

 

< 7. 栗枝渡八幡神社と安徳帝の火葬場 >

 

以下から説明を引用しました。

https://nishi-awa.jp/heike/pdf/heikenaka.pdf

 

上: 栗枝渡八幡神社

安徳帝が「蛙の鳴く場所で過ごしたい」との希望されたこともあって、平国盛は温かい南向きの栗枝渡に、新しい御所を造った。

御所と伝わる八幡神社には鳥居が無く、敷地の奥には安徳天皇語火葬場の跡がある(写真中央本殿の右側)。

栗枝渡の地名は、安徳天皇が渡られる時、橋が流されていたので栗の倒木を川(祖谷川?)に掛けて、帝に渡って頂いたことに由来している。

 

 

下: 安徳帝の火葬場

安徳天皇が突然の病気で崩御された時、平国盛は、安徳天皇が生前好んで遊んでいた場所を掃き清め、帝を荼毘に付したと伝えられている。

この場所は未だに、どんなに雪が降っても積もらないという不思議な場所。

 

 

 

< 8. 神社境内の建物 >

 

上: 本殿の右側にある建物

 

下: 本殿の右側から裏側を望む

 

 

< 9. 神社の境内から >

 

 

< 10. 境内を去る >

 

< 11. 下りの眺め >

 

上: 東に落合集落が見えた。

 

下: 山里の生活を感じる時

左側に上下に配置された幾本もの横棒が見えるが、これは稲や野菜の乾燥用の棚でしょう。

その右下に小さな畑が、さらに右には立派な墓石が並ぶ墓地が路て沿ってあった。

 

今回、急斜面の山里を幾度も通っていると、高齢の御婦人が畑作業をしているのを幾度も見た。

高齢の私には考えられないのだが、この傾斜地の生活は足腰に非常に厳しいはずです。

例え車があっても無理だな! そんなことを考えながら別れました。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

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中国の外縁を一周して 59: 中国と北欧、そして日本 3: 家族、教育、移民・多民族、親切について

2020-12-30 06:57:51 | 旅行

 

*1

 

 

今回は、家族、教育、多民族、親切を切り口に北欧と中国を見ます。

そこから社会の適応力と多様性が見えて来ます。

これらは社会発展の原動力になっている。

 

 

< 2. 教育現場、北欧の公園にて >

 

上: ノルウェー、首都オスロ郊外の湖にて

平日の朝早く、湖を見に行った。

8時を過ぎると、中学生か高校生らしい十数名のグループがやって来て、スポーツを始めた。

 

下: デンマーク、ロスキルの公園にて

平日の1時半頃、公園内を通り抜けた時、至る所で小学生や中学生のグループが見えた。

どうやら先生が引率して、何か課外授業を行っているようでした。

 

12日間の旅行中、緑豊かな公園で生徒が先生と一緒に居る光景を数多く見た。

この時期、北欧は長い冬をやっと終え、正に待望の初夏到来だったからもあるだろうが、それにしても自然と共に過ごすことを重視している事に感銘を受けた。

 

 

< 3.垣間見たチャレンジ精神 >

 

オスロ湾の島に掛かる橋Ulvøya bridgeにて。

海面より10mの高さから中学生らしい男女のグループが飛び降りようとしていた。

平日の午後3時頃でした。

おそらく授業は終わったのだろうが、それにしても危険だとして禁止されている雰囲気は無かった。

 

 

 

< 4. 教育現場、中国の大学にて >

 

共に廈門大学の構内にて

この中国旅行で、私が教育に関わるものを見たのはこの大学だけでした。

この大学の見学は、友人の特別な計らいにより実現出来た。

中国の観光ツアー客もいたが、門でチェックを受けていた。

 

上: 最も目立った校舎

緑が多く広いキャンバスに校舎、図書館、博物館、寮、食堂などが点在している。

 

下: この区域には寮や食堂が多い

歩いている学生に東南アジア系の人が思ったより多くいた。

この大学は、中国の中では国際交流と留学生の受け入れに積極的だそうです。

構内を案内してくれた中国人は、大学の国際交流担当の係員で、日本に行ったこともあり日本語を流暢に話していた。

廈門大学には日本語・日本文学科がある。

 

中国国内を旅行していると分かるが、外国人を見かけることは少ない。

雲南に行くと、隣接すらからだろうが東南アジアの人をたまに見かけることがあるぐらいだ。

 

廈門空港で経験したが、外国人の移動には神経を尖らせているようだった(ツアー旅行ではないからかも)。

まだ中国は、広く一般の外国人を受け入れるつもりは無いようだ。

 

そうは言っても、中国人の海外への関心は高い。

中国からの海外旅行者の多さもそうだが、海外留学も年間70万人(2018年、約5年で倍増)に近く、50%以上が米国に行っている。

彼らが帰国して、中国の技術や経済の発展を支えることになる。

これは華僑の精神が、今も生き続けいてるからだろう。

 

同年の日本のからの海外留学生は9万人、その25%が米国だった。

人口比率で見ると日本の方が多いが、日本の場合は年々低調になっている。

また多くは1ヶ月ほどの語学留学になってしまった。

 

これでは日本が遅れ取っても不思議ではない。

 

 

* 北欧と中国の教育について

 

北欧では、スウェーデンのストックホルム大学の構内を散策したが、実に開放的でした。

校庭には学生グループに混じって親子連れなど一般市民が広い芝生で楽しく過ごしていました。

一方、中国は監視が厳しいので、これは出来ないようだ。

 

北欧では教育の場において、自然と共にのびやかに生きることを教えているようでした。

北欧の学費は無料だが、進学については先ずは休学して社会を経験し、自分の目指すことを見っけてから、再度、学びを始めることが可能になっている。

これを可能にする制度と社会の受け入れ態勢が出来ている。

これは日本に無い個人を尊重した文化の現れでしょう。

 

一方、中国では、聞くところによると、学歴(学力かも)が重視され詰め込み教育が為されているようです。

これは日本とそっくりと言えるが、海外への関心の高さは北欧に近い。

ただ、海外留学組は中国の裕福な家庭に限られるので、貧富の差が開き、固定化する可能性があるだろう。

 

 

< 5. 移民・多民族、北欧で >

 

上: スウェーデン郊外、Älvsjö にて

土曜日朝7時頃、鉄道駅の横のバス停にて。

これから出勤する所でしょうか、アフリカ系、白人、ヒスパニックかインド系、ムスリムも居るようです。

私の見るところ、談笑しているようでした。

 

この地域は、移民が多く住んでいる。

もっともスウェーデンでは外国に背景を持つ人は25%にもなります。

従ってこの地域の移民が30%を越えても特別では無い。

 

 

下: スウェーデン郊外、Märsta station の前にて

平日の午前11時前、駅に向かっていた。

この日は、私が北欧観光の1日目で、通勤の光景を見るのが始めてでした。

驚いたことに、白人に混じって、かなりの非西欧人が駅に向かって歩いていた。

 

34年前の北欧とはかなり雰囲気が異なりました。

当時もホテルのウェイターに非西欧人はいたが、町で見かけることはほとんど無かったように思う。

変化が凄い。

 

北欧三ヵ国は、大戦中、概ね中立を守り、特にスウェーデンの戦争被害が少なかった。

それ以前は貧しいかったので移民を出す国だったのだが、戦後復興を一早くやり遂げるために移民受け入れを精力的に行った。

当然、受け入れ態勢も、安く使い捨てすれば良いといものではなかった。

これが人口増加と経済成長を後押した。

 

北欧は、単に経済的な手段としてではなく、世界平和の観点から難民受け入れにも積極的だった。

こうして外国を背景にする人が溢れることになった。

 

なぜ日本のように移民や難民に閉鎖的では無いのだろうか?

 

二つの要因が大きいと考える。

やはり、ヴァイキング精神が息づいており、世界との繋がりをいつも意識している。

日本でも海外に勢力を広げた倭寇は存在したが、なぜか日本文化に影響を与えなかった。

今一つは、北欧が小国で、西欧や東欧の大国の意向に翻弄され、かつ適当に離れていたことが大きい。

従って、北欧は生き残るために、世界の国々による認知と支援が必要だった。

これはバルト三国にも通じる。

このことが、北欧が世界平和に積極的になった一因だろう。

 

こうして移民を受け入れた事と大戦を避けた事が幸いして、北欧の恵まれた社会が誕生したと言えそうです。

 

そうは言っても、北欧も移民問題では苦労し始めている。

 

 

 

< 6. 多民族、中国で >

 

上: 昆明の公園にて

 

下: 麗江の市場にて

 

昆明、麗江の紹介で詳しく記しましたので、詳細は省きます。

 

一言で言うと、多くの少数民族が保護され優遇され漢民族と共存している。

欧米ではマイノリティへの優遇策は最近縮小傾向にあるが(右翼化も一因)、中国では現在も有効なようです。

しかも日常的に民族衣装を来ている姿から、誇りすら感じているように思える。

共産主義だから息苦しと思っている人も多いだろうが、そう単純ではない。

 

 

* 北欧と中国の移民・多民族の共生について

 

北欧に民族問題は無いのか?

実はスカンジナビア半島北部に暮らすサーミ人は代表的な少数民族です。

北欧三ヵ国(ゲルマン系)とは人種・言語・生業(元は遊牧民)が異なります。

かつて苦労したようだが、現在、大きなトラブルはないようです。

 

中国は人口減の時代に突入したので、移民政策を採る必要があるだろう。

多民族国家を無難に乗り越えたが、香港やウイグル族の扱いのように、体制の転換を恐れるが為に、移民政策を進めることが出来ないかもしれない。

そうすれば経済成長にブレーキがかかるだろう。

 

翻って、日本はアイヌ以外に民族問題は無く、移民・難民を大きく制限しており、一見、安泰のように思える。

 

しかし、人口減の影響は大きく、移民を受け入れない影り、経済成長は期待出来ない。

ところが技能実習制度と呼ばれる隠れ蓑で、低賃金で汚い過酷な労働を担わせている。

これを放置すると、日本はやがて欧米と同じ移民問題で苦しむことになる。つまり、外国人労働者の低所得と低水準の教育が、悪循環を生み、やがて底辺層の治安悪化と日本人との仕事の奪い合い(賃金低下)に発展するだろう。

 

 

< 7.家族、北欧で >

 

上: オスロ、ベイエリア開発区の裏側にて

平日、午後4時前頃。

中近東系の男性がベビーカーを押している。

 

父親が子供を連れている姿を他でも見ることがあり、子連れの女性より男性の方が目だった。

 

 

下: スウェーデン郊外、Älvsjö にて

平日、朝7時半頃。

父親が娘二人を学校にでも連れていくようです。

 

北欧では、男女平等、夫婦共稼ぎが普通であり、祖父母と同居していないので、家事や子育ては夫婦で分担することになる。

 

 

< 8. 家族、中国で >

 

上: 麗江の古陳にて

土曜日、午後1時過ぎ頃。

中国ではどこに行っても、祖父母が孫をあやしている、または連れている光景を見る。

 

これは一人子政策の名残りと、若夫婦共稼ぎ、そして50歳代で祖父母が定年退職で年金暮らしになるからです。

少なくとも、祖父母には愉しみがあり、また家族の繋がりが強いとは言えそうです。

 

下: 廈門の公園にて

平日、午前9時半頃。

時折、お父さんが子供を連れている姿を見ることがありました。

特に子連れの女性が多いと言う印象は有りませんでした。

 

 

* 北欧と中国の家族について

 

意外に思えるのだが、北欧も中国も共稼ぎで、夫婦で家事や育児を分担している。

対極にある国のようだが、似ている。

一方、日本と言えば、両地域に比べ、共稼ぎの割合が低いにも関わらず、家事分担どころではなく男女平等とは程遠い。

 

だが中国と日本で似ている所もある。

それは祖父母と若夫婦の繋がりで、日本では祖父母と同居する率は高い。

中国の同居率を知らないが、毎日、孫の面倒を見れる距離に住んでいる人が多いのだろう。

これは儒教の影響だろうか。

 

北欧にも不思議なことがある。

あれだけ若い夫婦が家庭を大事にしているのに、子供は高校生ぐらいから独立を始める。

そして親は老齢になっても、子供と暮らすことを望まず、最後は一人暮らしを続ける。

東アジアの人間にすれば、寂しい人生に思えるのだが。

 

これもヴァイキング時代からの文化が根付いているのだろうか。

冷涼な北欧では、ヴァイキングは狩猟・漁労・農業とさらに交易で生計を立てなければならなかった。

つまり、子供に資産や土地などを残す術は限られていた。

そこで独立心と冒険心を植えることが子供への遺産だったのだろう。

この精神文化が今も健在とするなら驚くべきことです。

 

中国南部の山岳地帯に暮らした人々、客家もこれに似ている。

彼らは、漢民族の圧力に押されて南下したが、やがて海外に活路を求めた。これが華僑の始まりでした。

 

 

< 9. 親切、北欧で >

 

ツアー旅行で無いフリーの旅では、人の親切は身に沁みます。

またその国の国民性を直接感じることが出来ます。

北欧では多くの人の温かい一言や親切に触れました。

 

 

上: オスロの地下鉄駅にて

朝、地下鉄に乗ろうとして構内に入ったが、どのホームに向かうべきか迷っていた。

すると一人の夫人が、私に寄って来て、どちらに行くのかと聞いてくれた。

すると彼女は行くべきホームをジェスチャーを交えて英語で教えてくれた。

お陰で目的を達することが出来た。

彼女は通勤途中にも関わらず、時間を割いてくれた、有難い。

 

 

下: ストックホルムの中央駅近くにて

バス停を探しても見つからず、途方にくれている時、通りがかりの高齢の夫人に声をかけた。

バス停の位置を聞くと、写真の高架の上の道路上にあると言って、逆戻りして、階段の下まで私を案内してくれた。

案内を終えた時の彼女の笑顔が素敵でした。

 

 

北欧では、こちらから道などを訪ねた時の応対が実に親切で有難かった。

一方で、私が困っているを見て、声をかけてくれる人も度々いた。

特に日本に好印象を持っている人が多かったように思う。

 

 

< 10.親切、中国で >

 

上: 新幹線の開封北駅にて

開封駅では、2回も助けられた。

一回目は、外から駅構内に入る時、税関で手荷物検査をしている時でした。

係員が厳しい口調の中国語で、制止した。

困っていると、後の青年が「刃物が有るか」と英語で教えてくれた。

スーツケースを空けると、係員は小さな十徳ナイフを見つけ出し、確認後、通過を許してくれた。

 

二回目は、待合所で新幹線の到着を待っている時でした。

新幹線の車両は大変長く、改札は新幹線到着直前にしか開かないので、私は予めホームの何処を目指して行くべきか不安でした。

近くにいた若い女性を探し、英語で教えてくれと頼むと、快く引き受けてくれた。

改札が開くと、彼女は私ら夫婦を導いてくれて、ここで待つように言った。

そこには何の印も無かった。

やがて列車が停車すると、乗るべき車両の扉は私の前に来ていた。

 

 

下: 蘭州の街中にて

新幹線の駅からタクシーに乗り、都市の中心部まで来たが、運転手はホテルが分からず、迷ってしまった。

ぐるぐる都心部を回っていると、運転手は通りすがりの一人の青年に声をかけた。

青年は助手席に乗り、ホテルまで案内してくれた。

私は青年に感謝を伝え、そこで別れた。

爽やかな青年でした。

 

 

* 北欧と中国の親切について

 

二つの地域を比べて、どちらがより親切かを断言できない。

しかし両方共に、親切だったことは間違いない。

 

それでも少し違いはある。

理由は定かではないが、北欧では年配者ほど親切なようです。

一方、若い女性に尋ねた時は、良い返事が得られなかったことが多い。

ひょっとすると若い女性(駅で2回ほど)には、なぜか英語が通じなかったのかもしれない(移民の子女か)。

ただスウェーデンの鉄道駅や空港の係員には、英語が出来ないと冷たくあしらう人がいた。

 

一方、中国では、年寄りよりも若い人の方が親切でした。

若い人は日本に関心を持っており、英語の出来る人が多かった。

中年以上ではマナーが悪かったり、私が列に割り込んだ時「リーベンレン」と小さく吐き捨てるように言われたことがあった(私が悪いのだが)。

 

成都空港でタクシーに乗って運転手に近距離を頼むと、うるさく文句を言われ続けた(2回も)。

逆に、北京で中国版ウーバー(滴々出行)に乗った時、変な体験をした。

初めて乗ったは良いが、手違いで行先が間違っており、キャンセルや変更が出来ず、更に現金払いも出来ず、私達は途方にくれた。

結局、運転手は嘆き、私に文句は言うが怒ることはなく、私の現金も受け取らず、去っていった。

運転手はどうやら滴々出行の評価システムを気にしているようでした。

ここでも中国の新しい側面を見ることが出来た。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

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