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ウクライナに見る左翼の矛盾

2015-02-23 03:20:02 | 日記
昨日の日曜討論では、ウクライナについて話題になった。
ウクライナでの、自由化運動は左翼の台頭の典型例であろう。
民主主義を謳っていながら、自身の能力の欠如の問題を棚に上げている。
民主主義社会においては強者の社会であり、全てが自己責任だ。

例えれば、動物園に飼われていた動物を再び元の自然界に戻したところでその動物は生きていく事は出来ない。
これと同じ事は、日常でも派遣労働の法整備等で発生している。
自由に働きたいと、期間社員や派遣で働く、いわばフリーの労働体制に対する要望が高まった結果だ。
しかし、使い捨てにされただけだった。
動物園の様な社会から野に放たれた事によって自立して生きる事が出来なかったのだ。
つまり、社会主義的な思想の元で育った人が民主主義的な競争社会で生きていく事は困難なのだ。

日本がまだ良いのは、元々は社会主義体制の国でありながら、民主主義を受け入れている点にある。従って、困難ではあるが、完全に自由競争の体制に移行できる可能性がある。
過去の派遣労働などのフリー化への移行の失敗を認めながらも、間違った道では無いという事を主張していかなくてはならない。

また、子育てにおいても影響が見られる。
民主主義的な状況下での子育てのシステムが長い間の社会主義的なシステム下において、忘れ去られてしまった可能性がある。
野生動物を動物園で飼育すると、自然界で餌を得る方法が分からないだけでなく、子育ての方法も分からなくなる。
中には本能として潜在的な能力を発揮して生き残るものがあるだろうが犠牲は大きい。

つまり、子育ての能力の差が子育ての質の差となって現れるが、それで良いのかという問題が発生する。世代を越えて能力の差が継承されると、それが格差として明確になり、差別に繋がるのではないか?
人種差別などはその代表例として考えられる。
これでは民主主義の平等性が長期的に崩れてしまう。
しかし、この問題は、社会主義的な生活が生み出した負の側面の方が大きいのであり、民主主義的な子育ての方法論というのはそもそも無い。

ここでも野生生物の社会を例に考えてみる。
一般に子育て中の野生動物は強靭であり、外部からの攻撃に耐えうる能力を持っている。子育てにおける自由競争の原理とはどういうものなのか?
この点は元に戻って、より強いオスの子孫を残そうとする本能に立ち戻れば分かる。つまり結局、弱者は子育てを放棄するという選択をする以外無いのだ。

子育ての放棄が悪の様に語られているが、自然界では有り得る事であり、第三者が育てる以外に、避妊や堕胎等の方法は合理的な方法として認められるべきである。
民主主義の自由競争下では、子孫を残そうとする場合、男女共に水準以上の強靭な精神力や工夫する能力、リスクを避ける本能などが求められる。

また、それらの失敗による片親での養育などは通常、困難を伴うが、民主主義社会ではより一層困難になる事が予想される。国や自治体の社会保障は、国を弱体化する要因となり得るので、民間の保険や養育設備の利便性の向上により競争力が維持されたものが使われるべきだ。

一方、社会主義社会の様な分別無く増殖できる社会では、差別、階級社会、独裁権益が形成され、それを打破する為に内戦が起きたり、体制を維持する為に他国を攻めたりと、必ず戦争へと発展していく。これは、あらゆる社会問題の根源的要素だと言える。字面では強靭に見えるがこれらを形成しているのは弱者に他ならない。権益を確保している内に時間を経て競争力が失われて行った結果なのだ。国家が競争力を失う事がいかに危険か。弱いトップは独裁者となり、武力に頼らざるを得なくなる。

もし社会主義で成功しようとしたら、非常に厳しい掟社会を形成し、外部の文化的侵入を阻まなければならない。この体制を強靭なまま維持する事は不可能に近い。インディオが原始的な生活を維持する事が出来たのは、外部との接触が全く無かったからだ。
宗教団体もその教えに合理性が無ければ、信者を騙し続ける必要がある。嘘を隠し通しているのは他ならない宗教指導者自らとなる。
しかし、この文化もカメレオンの様にうまくやって来た経緯があるので強者と言えるのかもしれない。いずれも閉鎖性をいかに維持し閉鎖的社会の中で指導者がいかに強者であり続ける事が出来るのかにかかってくる。

社会主義と民主主義

2015-02-08 03:56:04 | 日記
問題は民主主義が絶対だと言い切れない点にある。社会主義にも一定のメリットがある為だ。そのメリットを完全に洗い出し、検証しなくてはならない。
・競争力が低いので進化が穏やかで幸福度が高い
・閉鎖的が故に独自の進化と多様性に富む
・問題解決能力が低い為、宗教が発達して非科学的になりやすいが、それ故、文芸や民族色が豊かになり、歴史的価値を生む。
これらのメリットは捨て難いものであり、こういった文化が全て無くなってしまうと、いわゆる未来の風景に描かれる様な、街中の風景が斬新さのみで構成され、歴史や文化の片鱗が全く見られない、刺激のみで構成された社会になってしまう可能性がある。

しかし、なぜ、閉鎖的な集団であるはずの社会主義者が外部からの民族を受け入れようとして、それを阻む者を民族主義だとして嫌うのか?大きな疑問だ。
マイノリティーとされる、差別を嫌う運動は本来、社会主義的な平等な社会を目指す運動だ。社会主義に於いて民族主義を重視しなければ、宗教を統一する事が出来ず、文化を単一にする事が出来ない。従って民族主義を嫌う事は民主主義的な事になる。

・社会主義を望むのであれば、階級社会を受け入れ、民族主義に根ざし、閉鎖的な国家を目指さなくてはならない。この事によってのみ、庶民は対等になり、競争社会から逃れる事が可能になる。人口は爆発的に増大するので、厳しい統制を受け入れ、人口をコントロールしなくては国家体制を維持出来ない。食文化は自給自足を旨とし、外食文化の流入を避けなくてはならない。いずれも競争原理を排除する為には欠かせない。
・民主主義を望むのであれば、競争社会を受け入れなくてはならない。強者によって統制される事で、ピラミッド構造の社会を自ら受け入れる。弱者同士で閉鎖的な集団を形成して競争社会から逃れる事をしてはならない。不当な権利であり民主主義を崩壊させる反社会的行為に当たる。

問題は、競争社会で生まれた格差をあたかも階級社会における差別と混同して同一のものであるかの様に語られる事だ。競争社会は純粋に強者の社会でありマイノリティーの言う差別は存在しない。有るとすれば、機会が均等で無い場合が存在する事だ。これは、外部の環境要因であり、平等な事には変わり無い。

結論として、右翼は社会主義者であり、左翼は民主主義下における弱者による閉鎖的な集団と考えられる。

民主主義社会に於いて重要な事は、競争原理を全ての人が受け入れなくてはならない事だ。可能な限り機会を均等にして純粋な競争原理を確立する。その事によってのみ本来の強者がピラミッド構造のトップに立つ。それ以外の人物がトップに立つと民主主義が崩れて社会主義化していく。従って、いかに競争原理を保つのかが民主主義において重要なテーマとなる。

ここまで定義が確立すれば、アラブの春がどういった運動だったのか?についても分かる可能性がある。
アラブ圏は社会主義社会であるから、右翼の統制下にある。従って運動を起こしたのは左翼であり民主主義者である。イスラム国は、その混乱に乗じた別の右翼という事になる。

左翼は民主主義者である事は分かったが、民主主義の敵でもある。右傾化する原因を作っている為だ。閉鎖的な集団=社会主義であり、競争原理から逃れる事は民族主義に他ならない。弱者を守ればそれは階級社会なのだ。病んだ民主主義者だと言える。左翼が言動を発すると社会が混乱するのはこの為だ。

それでは、健全な民主主義者は何なのだろうか?
単なる野生生物かもしれない。しかし、これが最も競争力があり、差別が存在しない、大きな戦争も起きない、そして生き生きと暮らせる唯一の方法だ。
動物園の中で野生動物が生き生きと暮らせるであろうか?動物園が潰れたら餌はくれない。他人任せの社会主義社会は本来の生物の生きる姿ではないであろう。
社会主義者が大きな戦争を好むのも分かるではないか!

格差拡大の持つ意味を考える(補足)

2015-02-02 13:39:20 | 日記
幸せの国と言われるブータンの様な場合については、限定された空間の中で増殖が一定の範囲で保たれて破滅しない理由が説明出来ていない。
しかし、この形態は社会主義の様に見えるが国民全体が一つの宗教に限定されていながら、王立制が維持されているので、日本の江戸時代の様でもある。
自給自足に近く、出生率と死亡率がバランスする為には、寿命や役割を終えた人との入れ替わりまでバランスしなければ難しい。
こういったバランス感覚は厳しいしきたりなどで様々な制限を国民が受け入れなくては難しいであろう。

人間が他の野生動物と違うのは、弱い者同士であっても、結び付きながら役割を分担し、一体となって統制がとれた行動をとる事で、より強い相手を倒す事が出来る所にある。猿の群れにはその片鱗が見える。群れ同士の戦いでは、見事なチームワークを観察する事が出来る。地形を巧みに利用しどこを攻めたら良いか群れ全体で役割分担をしている。能力が最大限発揮できなければ負けてしまうからだ。
集団の弱点はそのトップにある。トップが優れていなければ戦いに敗れて、その集団は消滅する。従ってトップを選抜する仕組みもまた優れていなければ持続性が無いと言える。野生動物のトップを決める仕組みは人間にとっても必須であろう。人間もまた純粋な公の戦いによって、選抜されなくてはならない。真に強くなくては意味がないからだ。

ここで、社会主義と民主主義の問題が発生する。ブータンの様に自給自足が可能な場合は、しきたりの文化によって統制を取りやすいが、外国の文化が流入する余地が無く、一旦流入して来ると、しきたりの文化が崩壊し統制が取れなくなる。その場合は消滅するか、文化を捨てて民主主義に移行するしかない。これが内戦の勃発であり、戦争の引き金となる。

民主主義においては、その思想が個人において自由な為、小さな闘いが常に起きる。従って、この弱者がスポイルされる文化では弱者同士で結び付いて強い集団を作ろうという行動が発生しやすい。またそうしなくては勝てない状況が有るであろう。強い者同士で集団を結成し、より強い集団を作ろうという動きを警戒する事が有るが、元々強い人物が集団の指示に従うはずが無いので、人件費が膨大になるだけだ。従って強い人物は、集団を率いる事はあっても集団化する事は殆ど無い。
弱者のみで形成された集団は、閉鎖的な集団となり反体制的となる。こういった集団は民主主義を崩壊させ社会主義化させようという動きを目論む事が有る。その代表格がイスラム国であろう。

しかし、こういった謀略は主となる体制が弱まらない限り無理だ。
イスラム国の様な反体制的集団が成功する可能性は、主となる体制が破産するなどして弱体化した時に高くなる。
日本の財政状況はどうであろうか?破産しないと言えるであろうか?破産するのを待っている弱者同士の集団がプロパガンダを引き起こして財政を悪化させていないであろうか?こういったリスクを避ける為にも常にトップは実質的、本質的に最強の人物でなくてはならない。より優れた人物が現れたら直ちに交代出来る社会でなくてはならない。

格差拡大の持つ意味を考える

2015-01-31 05:07:59 | 日記
単に格差拡大と言うと資本主義経済に於ける一つの原動力としての魅力以外に見えて来ない。なぜなら、それによってより強い自由競争が発生し、革新的な技術やアイデアが生み出され、競争力が強化され、その恩恵によってより多くの富が得られるという構造だからだ。社会主義国の様な自由競争の無い社会では、競争力を失うとともに貨幣価値が下がり、物不足に悩まされる事になる状況は何度も目にして来た。
但し、同時に詐欺やスパイも、より巧妙になり、ある意味先端的な犯罪行為が日夜、進化していくという諸刃の剣も明らかではある。しかし、これも又セキュリティや有事における対策の強化に、ある程度貢献しているので、自由競争は厳しい進化の過程で生き残る為には必要不可欠であると考えられる。

しかし、資本主義経済における格差拡大にはもう一つ注目するべき点がある。それは、少子化にダイレクトに繋がる点だ。
先日、例のごとくテレビを見ていると、オスの熊の首にぶら下げていたカメラが、突然現れたメスに近づいていくと猛烈なスピードで逃げられてしまう、という現場を捉えた映像が目に止まった。それ以外にも、オスの鷹がメスに大きな太刀魚を羽ばたきながら与えている映像や、最近では縄張りの中にいるヒョウがオス同士で猛烈な闘いを繰り広げる映像が目に止まった。
これら野生動物の世界はルールが無い完全な自由競争であり資本主義自由経済においては大いに参考になる。

これらから読み取れる事は、
・環境に制限があり、常に強者に入れ替わっている事
・メスは本能で強者の子孫を残そうとする事
・自由競争では闘いが必ず起きる事

などであるが、ここからも大きな戦争は社会主義国の方が発生しやすい事が読み取れる。社会主義国の様に全ての人を均等に扱ってしまうと、環境が際限なく悪化する。強者も弱者も均等なので増殖が止まらないのだ。
通常、制限のある環境に、食物が無制限に有るとは考えにくい。食物が枯渇すると攻撃的になり、政府を倒す動きが活発になるのだ。歴史的な戦争は全てここから始まると言っても過言ではない。
逆に、自由競争社会では、常に小さな闘いが起きているのでガス抜きになり、環境の均衡が自動的に修正維持され続ける、と考えられる。

日本における少子化の問題は、資本主義国で有りながら社会主義がベースになっている点だ。
・環境に制限が有るにもかかわらず法律によって弱者が守られているので強者が入れない
従って女性がその地域に魅力のある男性を見つける事が出来ないのだ。

つまり少子化問題には構造的な問題が隠されていると考えられる。
自由競争社会に社会主義的な弱者を保護する政策が混ざると、その地域から「強者」が疎外され、女性がその地域に魅力を感じなくなる。にもかかわらず実態経済では弱者の方が財産を多く保有している、という矛盾が生じてしまうのだ。これが格差であり、この状態が長く続くと徐々に拡大していくと考えられる。

格差拡大とは、強者が多く資産を保有しているという常識を覆し、弱者が資産を多く保有し続けている状態、と考えられる。
この事によって少子化が進行し労働力不足になり、外部から低賃金の労働者が流入し、格差が更に拡大するという悪循環が起きる。
従って、資本主義によって格差が拡大するのではなく、ここでも社会主義が格差を拡大する要因になっていると考えられる。

理論的には「強者」が常に適切に評価されれば富が循環し、一定の場所に留まる事は無いはずだ。
ここで言う強者とは戦いにおける勝者と同じである。従って、勝者が多いか少ないかによって格差が拡大しているかどうかを測る事が可能だ。
格差が拡大すればするほど勝者は減っていると捉えられる。
勝者の少ない社会とは何であろうか。
社会主義国では勝者は殆どいない。なので誰と結婚しても変わり無い。なので限りなく増殖する。最後は破滅である。

自由経済では、新たな産業を創造するのも自由だ。産業として定着出来れば強者として財をなす事が出来る。但し自己責任だ。失敗すれば何も残らない。
自治体はどうであろうか?失敗しても責任はどうであろうか?自治体や国は弱者が強者になる道を与えていないであろうか・・?

自爆攻撃と宗教の関係の仮説

2015-01-16 04:32:38 | 日記
自爆攻撃は通常の人の精神状態からは考えられない攻撃方法だが、現実にいくつもの例を見る事が出来る。従って仮説を立てる事も可能だ。なので考えてみる事にした。
まず、自爆攻撃の例を上げてみる。
・旧日本軍「神風特攻隊」
・チベット仏教「焼身自殺」
・イスラム原理主義「自爆テロ」
これらに共通しているのが宗教であり、自らの命を捧げるという行為だ。
何らかの危機感を持っているというのも共通している。
自らの命を捧げて守ろうとする存在を演出する事により、周囲の人々を巻き込む無謀とも気が狂ったとも思える行為が実行に移される。
この起源とも言えるのが、神に捧げる供え物の最上級の物が人の命であった痕跡だ。
かつて、高山の山頂付近でミイラ化した少女の遺体が発掘されたが、神に捧げた痕跡が有ったとされている。
危機的な状況になり、人がパニックを起こすと、それを乗り越える為にはある程度の犠牲がやむを得ないと考える人が現れる。
つまり、自爆攻撃とは献身的な人物が自らの命を捧げる事で苦境を脱しようとする、という善意に付け入った独善的かつ独裁的な影の人物による宗教的儀式の演出と考えられる。
問題は、危機感であろう。
人が何らかの危機感を持つ事そのものが非常に危険な状況である事がこの事から読み取れる。危機感とは、実際に危険な状況になって初めて感じるものであり、予測とは異なる。予測と異なる結果に対しても感じる事があるであろう。
予測通りなら、何も起きない。予測出来ないから神頼みになると考えられる。
最も予測が可能な人物に予測をしてもらいたいと思うのは当たり前だが、まさかその人物が詐欺師で最も当てにならない人物に相談しているとは夢夢思わない。
正に危機的状況になってしまえば、更に危険な状況に落とし込まれて行く可能性が高まると言える。
・旧日本軍→日本がアメリカの占領地になるという危機感
・チベット仏教→チベット自治区の消滅に対する危機感
・イスラム原理主義→正統派イスラム教の消滅に対する危機感
ここからは蛇足だが、東日本大震災でも同様な事が起きているのではないだろうか?
何かを犠牲にしなければならないと考える人がいたとすれば、それは生け贄の儀式と何ら変わらない。
非人道的、非科学的かつ小心者のする事だ。
原発停止が正にそうであろう。温暖化や財政悪化、世界的な格差拡大は更に弱者を窮地に追い込んでいく・・