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国の限界

2015-07-21 06:06:07 | 日記
今回、安倍内閣の支持率が急落した。根本的な原因は何か、考えてみたい。

原発事故でもそうだし、今回の国立競技場のゴタゴタでもそう。国の会計が不透明なのだ。
公害で国の責任が問われる事が過去に何度も有った。アスベストやB型肝炎、各種の予防接種などでも国の責任が問われて来た。
今度は国の財政運営自体が問われている。
国が財政危機状態に有るのは明白だ。そして、財政破綻すると戦争が勃発する事態に社会が急変する事も明白になりつつある。そのメカニズムも分かり始めている。
国民はその事を理解し、納税を積極的に行い始めている。新技術の開発にチャレンジし、株価の引き上げにも貢献してきた。年功序列や終身雇用も封印し、企業価値の向上のみに焦点を絞る事で、財政危機から何とか国を救おうと努力してきたのだ。
しかし、国の回答はどうであろうか?
国家公務員のボーナスの引き上げ、国立競技場のコストはスカイツリーの4倍、同時に国の借金は1,000兆円を超えて更に膨れ上る一方。原発事故の責任も全て民間に押し付けて、停止したままで無関心だ。温暖化ガスの量も隠蔽し温暖化させ放題。自然災害があちこちで発生している。

つまり、内閣支持率の急落は国を、またしてもコントロール出来ていない事に対する不満だ。
国に対する不満はその窓口である、時の内閣に対して噴出する。
だから首相がコロコロ変わる事態が収まらないのだ。

日本は民主主義国家だ。しかし、国がその財政を際限無く私物化し、社会主義国家である事を誇示しているのだ。これは何としても許しがたい暴挙である。
日本国憲法を守っていないのは、他でもない、国自体なのである。

国の財政運営をもっと厳格なものにしなくてはならない。
しかし、その規律を制御する根本的な物が欠落しているのではないだろうか?
自民党が天皇制について、強いこだわりを持つのは、国の制御の問題を天皇制に見い出そうとしているのではなかろうか?
しかし、この方向性はより一層、社会主義化する事に繋がり、国が制御出来る様になったとしても、競争力が損なわれ、国家が根本的に弱体化する。その結果、ファシズムが台頭してくる事に繋がる。これでは再び国土が焦土と化すであろう。

民主主義国家に於いては、国の監視をどうするのかは、大きなテーマだ。
国民を国が監視するのでは無い。国民が国を監視するのだ。
国は借金を国民からした瞬間から、その国民よりも身分が低い存在になる事を忘れてはならない。
つまり、終身雇用や年功序列が国家公務員に適応される事はもはや古い制度に他ならない。優れた人材の昇進と能力の劣る人材の降格、適材適所の人材配置。これらを国も実行に移さなければならない時が来ていると言える。

日本国憲法を考える

2015-06-11 13:52:17 | 日記
日本国憲法の主旨はポツダム宣言を読むと分かる。
問題は、なぜ第二次世界大戦が起きたのか、に集約される。
その原因をアメリカは解析し、アメリカの倫理観、価値観に基づいて憲法が制定されている。
では、日本の倫理観、価値観ではダメなのか?という疑問がわく。
アメリカの価値観を鑑みないで見た時に、純粋に日本の価値観について考え直して見る事も、プロセスとして重要である。
しかし、その次のプロセスとして、その純粋な日本の価値観が正しいのかを再評価しなくてはならない。

日本の持つ日本国家としての価値観とは何なのであろうか?
1)日本の文明の継承(天皇制)
2)日本人の倫理観(神道)
3)日本国土の保全

一方で新たな価値観とは何か?
1)恒久的平和と人権(民主主義)
2)自由な創造及び表現(表現の自由)
3)国際協調(世界平和)

この二つの新旧の価値観には拮抗する価値観が存在する。
従って、どちらかを強調するともう一方が損なわれる恐れがある。
日本国憲法においては、新しい価値観が主軸となっており、古来の日本の価値観が二次的な位置づけとなっている。
したがって、この価値観の強弱を入れ替えようとする動きが当然出てくる。
現在、自民党が憲法を改正しようとしているが、古来の価値観を主軸へと入れ替えようという動きと考えられる。

古来の価値観の問題点
1)民主主義が損なわれ一律な人間性が形成される(多様性の喪失)
2)古来の神道などの倫理観では、上下関係、差別意識、などの明確化により階級社会が形成される
3)国土の保全が主体となる為、隣接する国家と軋轢が高まる(戦争の再発)

新たな価値観の問題点
1)倫理観やモラルの欠如による犯罪の多発
2)競争社会の激化による格差の拡大
3)人種や文明の価値観の喪失

しかし、残念な事に、古来の価値観を継承するのは困難だ。
なぜなら、長期に渡る地球規模の歴史を考えてみれば分かる。
エジプトのファラオは現在どうなっているであろうか?文明とは進化して初めて価値を生む。
過去の歴史を継承する事を主体とする事は許されない。
新たな価値観の中で思考し、問題を克服するべきである。
その上で、国家の価値観を高めていく必要がある。
つまり、「主体となるのは国民であり、国家は二次的な現象である」という定義が成立する。
この事によって、初めて国際的な憲法倫理に合致する。
そして、現行の日本国憲法はこの倫理に一致しているのであり、100年後を見据えた憲法であったと評価できる。

第9条の考え方
武力の行使及び武力を保持しないとしているが、これは「侵略行為をする為の武力の保持及び行使」と考えられる。当時、軍事力は一般的には他国を侵略する為に使用されていたので、それらを保持しないと明言されているのであって、侵略行為を出来なくする為に強調して書かれている。
限定した書き方が当時は出来なかったのが、その理由だ。
従って、現在も十分な効力を発揮している。

AIIBに対する不信感

2015-04-21 07:42:45 | 日記
パソコンのウイルス検索を手動で行って、それを眺めている時に、ふと思った。
この高速な検索は何を指標にして行っているのか?
もしかしたら、ウイルスを使用しようとする人間が判別の手がかりに使用している「文字列」を検索しているだけなのではないだろうか?
なぜなら、プログラムそのものが検索中のドライブの中に入っていなくても、バッチファイルなどを使ってリモートでプログラムを動作させる事も可能だからだ。したがってプログラムそのものを検索しても意味が無い。
しかし、もし文字列を検索しているだけだとしたら、その文字列を暗号化する事が可能になったら検索は出来なくなるのではないだろうか?

オンライン銀行で使用されている暗号化技術は一般的には解読できない。
もしも中国の様な共産国が最先端のセキュリティ技術を取得する事が可能になると技術先進国にとって大きな脅威となる。
(共産主義国では恥や外聞などというものは存在しない。大衆は一握りのトップによって洗脳され、彼らの手足となって生きているだけの存在だ。言う事は何でも聞くので、犯罪か犯罪でないかもトップの基準に則っている。
トップが正しいとする事は全て正しいのである。宗教もこの原理に立っている事は言うまでもない。)

従って、もしAIIBの真の目的が先進国のオンライン暗号化技術の習得にあるとすれば、それはウイルスソフトの検索を逃れる技術に応用される可能性が高い。
そして、現在ある技術先進国の全てのパソコンにあらかじめデータを盗み取る様にしかける事もパソコン生産国である中国なら不可能ではないだろう。

日本人が汗水たらして20年も30年もかかって開発し進化させてきた技術は共産主義者にとっては彼らの僕と同様、自国の技術と同様なのである。最先端の科学技術は、欲しくて喉から手が出る思いであろう。
リニアモーターカーの技術もあっという間に中国の物となり、中国が開発した技術として中国で生産が始まる事も新幹線同様そう遠い話しでは無い。

現行憲法

2015-04-10 08:20:33 | 日記
現行憲法は、日本人が天皇制について語ることが出来ないので外国人の視線で作られている。つまり天皇に先の大戦に対する一定の罪を認めている憲法と考えられる。
従って靖国神社の位置づけをどうするかが憲法改正で重要な意味を持つ。
靖国神社に合祀されている人達に対する評価だ。
彼らは、天皇制を守ろうとし、現在の天皇制の維持に貢献したとする見方が、前提条件として存在する。
しかし、一方で天皇を神格化して独裁政治に利用したとする考え方も存在する。

もし、天皇制の権威を帝国憲法での位置づけまで戻してしまうと、国民の意識は一つに纏まるであろうが、今後表れる独裁者が「天皇が仰った」とすれば、いくらでも手のひらの上で人民を操る事が可能になる。その様なプロパガンダが可能になると、軍事クーデターが起きかねない。
三島由紀夫などが良い例であろう。自己を神格化しようとする愚かな行為であり靖国神社に対する誤った解釈であると考えられる。

問題は天皇制を利用してはならないし利用されない様にしなければならないが天皇の権威と歴史及び日本人としての尊厳の拠り所としての存在は維持して行きたいという気持ちとの葛藤だ。
現行憲法において、天皇の戦争に対する罪が盛り込まれているのをどの様に捉えるべきか?
靖国神社に合祀されている人達をどの様に評価すべきなのか?
現行憲法はそれらの問いを国民に投げかけている様に思う。

格差を考える

2015-03-01 08:13:13 | 日記
格差社会における格差は、金銭的なものに帰着するが、それ以前に能力における格差がその原因となっている。
失敗は様々なレベルで存在するが、同時に失敗した時の対応能力についても問われるなど、状況に応じた対応が出来るか出来ないかが一能力として問われる為だ。
その能力が無いと、失敗が積み重なり、結果的に重大な失敗を犯す事に繋がっていくと予測される。

一つの小さなミスを隠したりすれば嘘をつく事に繋がるが、その罪が永久に温存される事になり、人物の性格に重大な影響を与えて行く。
「嘘も方便」と言うが相手の立場を鑑みて、その場を丸く収める時や、場を和ませる為に冗談を言う、などの様に限定的な嘘の事を言っているのであって、場の空気が読めない人には使えない技だ。
従って、場の空気が読めるか読めないかも能力の格差の一つと言える。

しかし、酒に強いか強くないかの様な考え方をすると、いくら能力が高くても大きな失敗に繋がる。自分の能力の上にあぐらをかいてしまう様な事をすると、能力が停滞して、やがて劣化が始まるからだ。つまり、先天的な能力がいくら高くても、失敗は起きる。これは動物園の動物が子育ての仕方を忘れて野生動物に戻れなくなる現象から、子育てもまた高度な技術伝承が必要であると言え、決して放っておけば自然に能力を自己開発出来るという性格のものでは無いと言える。

民族主義者が先天的な能力の高さについて、よく語るのは、こういった間違った信念によるものだ。
能力主義によって強者の社会が構築され、弱者は淘汰されるものであるとした時、その強者の定義を見誤ってしまうと、弱者同士で集団を形成する事に繋がっていってしまう。

ここで言う強者とは自由競争の原理に基づいて勝者となった人物の事であり、ピラミッド構造をなす一社会において、その優位性が下から上に向かって常に一定の方向性を保っていなくてはならない。
この原理と道理が守られなければ、そのピラミッド構造は必ず弱体化し、他のピラミッド構造によって淘汰される運命にある。
野生動物の種も一つのピラミッド構造であり、自然界の原理から人間も逃れられない事が分かる。

では、野生動物の保護はどう見るべきなのか?
ピラミッド構造が淘汰される可能性は常に有る、としか言えない。
つまり、どんなに保護しても、一つの種が絶滅する可能性が有るのと一緒だ。保護していれば永久に絶滅しないと考えるのは間違っている。
無用な弱者の集団を構築して破壊を繰り返す人間は、駆除され続ける害獣の増殖と大して違いは無い。増え過ぎれば価値が低下していくのは人間も変わらないのだ。