この本に関しては第1講~第3講まで読んで、間を飛ばして、一番気になった第9講「自殺」を読みました。
「死」について哲学的に書かれた本だったので見つけた瞬間興味がありまして。
哲学者らしい文字の羅列が続き、たとえ話でわかりやすく表現されている。
私が初めて死に触れたのは、ペットのハムスターの死だろうか。
悲しくて学校でも泣いていたら、クラスの男子に「ハムスターが死んだくらいで」と嘲笑されたのを今でも覚えている。
その次に父の妹である叔母の死。彼女は家庭がうまくいっておらず、よそで騒動を起こし離婚のちアルコール依存症で肝臓の病気で亡くなったそうだ。
叔母の黄疸の死に顔を見た小学4・5年生の私は、死体ってこんななんだと蝋人形を眺めているような気分だった。
その式に参列していたイトコ(死んだ叔母の息子・私と同い年)が泣いていないのが不思議で仕方なかった。
その次は母方の祖母の死。私が高校1年の時だった。
この時きっと私の母は限界に来たのだと思う。祖母の死を聞いた母が泣く姿を前に私は棒立ちするしかなかった。
そう、自殺で亡くした私の身内は母なのだ。
その前から異変は察知していた。しかし今ほどネットが発達してない時代だった上にうつ病やギャンブル依存症も有名ではなかった、子どもの私にはどうすることもできなかった。父や姉ですら何もできなかった。他人任せだったのだから。
最後に母と会話した瞬間を私は忘れられない。あんなに弱っていたのに、どこかでSOSを出していたのに、私は大人なんだから、母親なんだからしっかりしてよって気分で、見捨てた。
ギャンブルに依存して、作った借金が膨らんだ彼女は多分今で言ううつ病だったのだろう。生まれ育った家庭環境が良くなかった母は中卒で、今で言う一般常識がわからない人だった。子供っぽいところのある人だったから母にもどうしたらいいのかわからず文字通り借金で首が回らなかったのだろう。
祖母が亡くなった翌年、私の部屋のクローゼットで首を吊ってなくなってしまった。発見者は私だ。
中学生時代から持病のアトピーの悪化、病院に通わせてもらえない&思春期特有の気難しさによっておそらくうつ病っぽい症状をもともと持っていた私は、それ以降PTSDらしき症状になり、鬱症状と強い自殺念慮に襲われるようになる。
翌年、大腸がんで母の姉、伯母がなくなる。伯母は死ぬ前に母(妹)が死んだことを悟っていたらしい。
20代になって父の祖父母が痴ほうのちガンで死去したが、それは普通に受け入れられた。祖父母という存在なのもあるけど、自然な病死だから特に感情が引きずられることはなかった。病気だし、もう80代だからと認められた。
だけど母の自殺に関しては今でもひきずっている。
10代のころは兄弟、当時の親友含む友人、知り合った男性に母の自殺のことを話したことがある。
だけどみんな所詮他人事だったし、余計に傷つく言葉を言われたこともある。うつ状態の私に向かって兄弟が「うざいよ」とか冗談交じりに「死ねばいい」と言ってきたこともある。
裏で「母親が自殺したからって……」と陰口をたたいていたことを聞かされたこともある。
一気に人が信じられなくなった。人間が大嫌いになった。
当時はそれに悲しんで余計に殻に閉じこもったけど、今はわかる。同じ経験したことのない人間にわかるわけがない。専門家じゃない人間が何を言えるというのかと。
自分でも当時の自分は性格破綻していたし、鬱鬱した人間だったので一緒にいたくないし、会話していたら不快になる人間だっただろうと考えている。
だから今では人に相談するのは余計に悩む羽目になることだと自分では考えているので誰かに話すことはやめた。
他人には私を救えない。私を救えるのは自分自身だけだと考えている。
長いこと心の病と付き合ってきて、新たな体の病気が見つかって苦しんでそれで死にたくなったりして。
こんな苦しみが続くなら、今すぐ死にたい。
それなのになぜ死んじゃいけないのか。
自殺で母を亡くした自分がなぜ死を望むのか。
安楽死はいつ日本で可決されるのか。
私の身近には「死」があった。
ここでは本を読んでからなるほどなぁと思ったことを雑に書き記す。
第9講「自殺」では、人が自殺する合理性と道徳性についてまとめられていた。
著者は哲学者としての考えをいくつか挙げていた。
例えば、大きな病気になったとする。それが治る病気であれば悲観して自殺する必要はない。治療して回復して、また以前のように生きれる可能性があるから。
しかし、不治の病で治る見込みがなく、徐々に体の自由を奪われるそんな病気になったとする。テレビ鑑賞や読書もできず、苦痛に襲われ、死を待つ病気なら、その前に自殺をしてしまったほうがこれ以上苦しまずに済むから、患者本人は楽になれる。この場合は安楽死制度があるべきだと私も思う。
また別の話だと、何かの事象で一気に物事が悪くなったとする。たとえ話で言えば、借金で首が回らなくなった状況。私の母のような事例だ。今ならネットが発達していて情報が入手しやすい。債務整理という手段もあるし、以前よりも医療も発達しているのでうつ病やギャンブル依存症の治療もできる。当時の母は周りに知られるのを恐れていたので、原因を隠したままこの世を去った。解決方法が見つかりすれば人生は好転する可能性があるのだ。ゆえにこのケースでは自殺を選ぶべきじゃない。
本のそれらの考えは私もなるほどな、と思った。
だけど周りに相談できない、うつ病などの病気になった場合は周りが気づいて手を差し伸べなくてはそこまで考えが追い付かないので難しい問題である。
その件については今も私は自分のことを責めている状況だ。
安楽死制度は議論にもなっていないが、私は後々制度を作ったほうがいいと考えている。
人権人権言いながら病気で苦しんでいる人の人権を無視している気がするのだ。生きているほうが辛いだけなのに、もっと苦しんで死ねって言っているようなもんだ。鬼か。
自殺できない状況の人を代わりに殺したら自殺ほう助、殺人罪になってしまうし、自殺を選べば「死んじゃダメ、明日を生きられない人がいるのよ」と横やりしてくる人間もいるし。そういうこと言っている人間は根本的な解決もできないくせに、無責任な綺麗ごと発言をしていると気づいたほうがいい。
もちろん安楽死していいのは、筋ジストロフィー症のような自由を奪われる難病とか、末期の病気で苦しむ人だけ。それも本人が希望している場合のみだと考えている。
自殺はダメ、自殺は残された人を苦しめる。そんなことを思っていた時期もあるけど、その人を救えないくせに止めるのはどうなんだろうなぁともやるようになったのは、母が自殺した年齢に近づいているからだろうか。それとも同年代になった姉が母に似てきたからだろうか。
自殺止めた人を表彰するならさ。自殺しかけた人のケアに力入れてやれよって思っちゃう。その後どうなったのよ。ってもやもやする。止めたからなんなの?先延ばししただけじゃん?って。
あと本気で死にたい人は誰にも止められない場所でするから。赤の他人に相談したいとも思わないし、いのちの電話の番号教えられてもかけるわけないじゃん。他人に何を救えるというのさ。
いろいろ考えさせられた本でした。