☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
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●本日のコトノハ●
思い内にあれば色外に現わるというとおり、うれしいにつけ苦しいにつけ、
思いはおのずと口からこぼれ出てくるもので、特に子どもの場合はそうである。
それで私も、遊び仲間に向って、トロイアのことや、私たちの村にも
たくさんある神秘的な不思議なことばかりを話題にするようになった。
仲間はみんなそろって私をばかにして笑ったが、ルイーゼとミンナという
マインケ家の二人の少女だけは別だった。
『古代への情熱 ―シュリーマン自伝―』シュリーマン著/関楠生訳(1977)新潮文庫より
子どもの頃、「将来、なにになりたい?」と聞いてくれる人はあまりいませんでした。
他の人はどうなのでしょうか?個人的に感じるのは、大人はよく子どもに将来のことや夢について質問しがちだということです。
そして、そういう大人自身は夢とはほど遠い厳しい現実に押しつぶされそうになりながら日々を過ごしている場合がほとんどです。
シュリーマンは子どもの頃からトロイアの伝説に夢中になり、大人になってもその情熱が冷めることなく、実際に遺跡を発見するまで夢を持ち続けました。
これは本当に類まれな一例です。ほとんど例外と言えると思います。
大抵の人は、子どもの頃の夢を大人になる過程で見失ってしまうものですし、私のように何かを夢見るような環境にいなかった子供もいるはずです。
子どもの頃の私は、ただヴァイオリンを上手に弾かなければいけないということ以外に考える余裕がありませんでした。
テレビを見ることは禁止されていましたし、ゲームを買ってもらえることはありませんでした。
父の教育方針は、「子どもから一切の遊びを取り上げ、ひたすら音楽の訓練をすることで、一流の専門家を育成する」というものでした。
この考えが正しくないことは、実際にそんなふうに育てられた経験のある私にしか判断できないと思います。
40代になった今の私には、テレビを見る習慣がありませんし、見たいという欲求もありません。
ゲームをしたとしても、あまり楽しいと思えません。
喜びや楽しさを感じる経験をしてこなかった結果、多くの人が感じるであろう「幸福」に共感することができなくなっているのです。
音を楽しむという「音楽」を本業にしているにも関わらず、「楽しさ」というよりは「分析」や「考察」といった冷めた視点から考えてしまいます。(仕事にしているからかもしれません)
もちろん、社会の中で生活しているので、職場や友人間での人間関係を円滑にするために共感している態度を示すようにはしています。
(いわゆる、「ふり」ですが)
遊びから学べることは沢山あり、それは社会で生きる人間として重要な人格形成と密接に関わりがあると、私は思います。
私の父親は、自分の子供が楽しそうにしている姿を見て、「怠けている」、「遊んでいる」、「真面目に勉強していない」というようにしか考えることができず、それが許せなかったのだと思います。
父が見咎めて大声で怒鳴ったり、時には叩かれたり小突かれたりされるので、私はやがて、人前で喜んだり、笑ったりすることをしないように気をつけるようになりました。それが身についてしまい、学生の時には先生から「感情の表現が下手だ」と指摘を受けたこともあります。
父の偏った教育論の結果、私は他人から見れば感情の一部が欠落していると思われかねない人間に育ってしまったのです。
私のようにある程度歳を重ねた大人がこういうことを言うと、「親のせいにするな」という言葉をいただくことがあるのですが、人間の人格形成は子どもの頃にされるものです。
そして、その子どもが大自然や路上で自力で生き残ってでも来ない限り、そこには親の影響力が多かれ少なかれ働いているのです。
親の教育や影響力が無関係であるのならば、私は自分の希望する進路をとれたでしょうし、人との関わり方も違ったものになったかもしれません。
子どもの頃、シュリーマンにとってのマインケ家の娘たちのように、私に夢を持つことの素晴らしさを教えてくれる人と出会えていたら、もう少しマシな人間になれていたかもしれない、なんて愚にもつかない考えを巡らせる中年こじらせ女です。
ヒトコトリのコトノハ vol.22
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思い内にあれば色外に現わるというとおり、うれしいにつけ苦しいにつけ、
思いはおのずと口からこぼれ出てくるもので、特に子どもの場合はそうである。
それで私も、遊び仲間に向って、トロイアのことや、私たちの村にも
たくさんある神秘的な不思議なことばかりを話題にするようになった。
仲間はみんなそろって私をばかにして笑ったが、ルイーゼとミンナという
マインケ家の二人の少女だけは別だった。
『古代への情熱 ―シュリーマン自伝―』シュリーマン著/関楠生訳(1977)新潮文庫より
子どもの頃、「将来、なにになりたい?」と聞いてくれる人はあまりいませんでした。
他の人はどうなのでしょうか?個人的に感じるのは、大人はよく子どもに将来のことや夢について質問しがちだということです。
そして、そういう大人自身は夢とはほど遠い厳しい現実に押しつぶされそうになりながら日々を過ごしている場合がほとんどです。
シュリーマンは子どもの頃からトロイアの伝説に夢中になり、大人になってもその情熱が冷めることなく、実際に遺跡を発見するまで夢を持ち続けました。
これは本当に類まれな一例です。ほとんど例外と言えると思います。
大抵の人は、子どもの頃の夢を大人になる過程で見失ってしまうものですし、私のように何かを夢見るような環境にいなかった子供もいるはずです。
子どもの頃の私は、ただヴァイオリンを上手に弾かなければいけないということ以外に考える余裕がありませんでした。
テレビを見ることは禁止されていましたし、ゲームを買ってもらえることはありませんでした。
父の教育方針は、「子どもから一切の遊びを取り上げ、ひたすら音楽の訓練をすることで、一流の専門家を育成する」というものでした。
この考えが正しくないことは、実際にそんなふうに育てられた経験のある私にしか判断できないと思います。
40代になった今の私には、テレビを見る習慣がありませんし、見たいという欲求もありません。
ゲームをしたとしても、あまり楽しいと思えません。
喜びや楽しさを感じる経験をしてこなかった結果、多くの人が感じるであろう「幸福」に共感することができなくなっているのです。
音を楽しむという「音楽」を本業にしているにも関わらず、「楽しさ」というよりは「分析」や「考察」といった冷めた視点から考えてしまいます。(仕事にしているからかもしれません)
もちろん、社会の中で生活しているので、職場や友人間での人間関係を円滑にするために共感している態度を示すようにはしています。
(いわゆる、「ふり」ですが)
遊びから学べることは沢山あり、それは社会で生きる人間として重要な人格形成と密接に関わりがあると、私は思います。
私の父親は、自分の子供が楽しそうにしている姿を見て、「怠けている」、「遊んでいる」、「真面目に勉強していない」というようにしか考えることができず、それが許せなかったのだと思います。
父が見咎めて大声で怒鳴ったり、時には叩かれたり小突かれたりされるので、私はやがて、人前で喜んだり、笑ったりすることをしないように気をつけるようになりました。それが身についてしまい、学生の時には先生から「感情の表現が下手だ」と指摘を受けたこともあります。
父の偏った教育論の結果、私は他人から見れば感情の一部が欠落していると思われかねない人間に育ってしまったのです。
私のようにある程度歳を重ねた大人がこういうことを言うと、「親のせいにするな」という言葉をいただくことがあるのですが、人間の人格形成は子どもの頃にされるものです。
そして、その子どもが大自然や路上で自力で生き残ってでも来ない限り、そこには親の影響力が多かれ少なかれ働いているのです。
親の教育や影響力が無関係であるのならば、私は自分の希望する進路をとれたでしょうし、人との関わり方も違ったものになったかもしれません。
子どもの頃、シュリーマンにとってのマインケ家の娘たちのように、私に夢を持つことの素晴らしさを教えてくれる人と出会えていたら、もう少しマシな人間になれていたかもしれない、なんて愚にもつかない考えを巡らせる中年こじらせ女です。
ヒトコトリのコトノハ vol.22
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