☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
祭りの際のアルコール、音楽、踊りなどが引き起こす陶酔は、昔からフラストレーションを発散させる
安全弁としての役割を果たしてきた。…(中略)人間は祭りという非日常の特別な時空を定期的に設定
することにより、パニックの危機を回避してきたが、それは人間の生活の知恵であった。
ところが、キリスト教化されたヨーロッパでは、オルギアや陶酔を生みだすものは、異教の習俗として
排除されてきた。とくにローマ・カトリックは、地獄へ導く悪魔、魔女、ルシファ、メフィストフェレス
などに対し、激しい批判を繰り返した。だから禁欲主義的・戦闘的なキリスト教は、潜在的にフラスト
レーションを蓄積しやすい側面をもっていたといえよう。
『魔女とカルトのドイツ史』浜本隆志(2004)講談社より
現代はストレス社会と言われますが、歴史的に見ると、それぞれの時代で人間が独自の方法でストレスを処理してきたことは明らかであり、何も今に始まったことではないと思われます。
言うなれば、現代は人間の「人間らしい部分」を無視して、合理性や利益を求めるあまり、ストレスを上手に処理できない状態にあるのかもしれません。
学校という集団生活の中で行われる体育祭や文化祭、球技大会や遠泳合宿などは、単に教育的狙いがあるばかりではなく、非日常の中でしか発散できない日々のストレスを解消する場でもあります。
進学校の中には、そうした行事が勉強の妨げになるとして行われないところもあるようですが、人間は常に一つの気分でいられるロボットではありません。
気を引き締める時もあれば、時には気持ちをゆるめて開放的になることも必要です。
近年、「けじめをつける」という概念が乏しくなっていると感じるのは、厳しくするか、全く放任するかの両極端の二極しか選択しない人間が増えているからなのではないかと思うのです。
大切なのは、程よいバランスなのではないでしょうか。
真面目に勉強する時は集中する。一方で、遊ぶ時は思いっきり遊ぶ。どちらか一方だけではいけないような気がします。
ある特定の職種の人に、ひたすら実直さや品行方正さを求める傾向にあるのも、非人間的な考えだと思います。
例えば、救急隊員や警察官がコンビニで買い物をしているだけでクレームの電話をする人がいます。
また、観光バスなどの運転手がカレーを食べているのが気に入らない人がいます。
どうしてでしょうか?
救急隊員も警察官も運転手も、みな自分たちと同じ人間です。
自分たちと同じようにお腹がすきますし、好きな物を買って食べる権利があります。
「けじめをつける」というのは、決して、厳しくすることだけを言うのではありません。
緊張と緩和のバランスをうまくとるということなのです。
科学的かどうか、あるいは効率的か、意味があるかどうかということに固執して、古くからあるストレス解消法を廃止するのは、今後の社会を生きる人たちの首をジワジワ締め上げるようなものだと思います。
とはいえ、現代は様々なストレス解消法があり、選択肢も豊富で自由に選べるので、必ずしも古いやり方に頼らなくてもいいのかもしれません。
また、古いやり方では対処できない程、現代社会のストレスは多様で複雑になっている可能性はあるでしょう。
いずれにしろ、人間がDNAとして内包している性質は、何千年、何万年経っても変わっていないのです。
それこそ、突然変異が起きて、人の全感情が一つに統一されない限りは。
それは、科学技術の進歩や人工知能の発達とはまた別の次元の話で、その意味で人間が進化していると思うのはただの勘違いです。
自分が蓄えた知識や財力を理由に他者を見下したり、不必要に傷つける人がいますし、学校や職場で誰かを仲間外れにしたり、それを見て見ぬふりをしたり、他人の物を壊したり、盗んだり、SNSで身元を隠して他人を誹謗中傷したりする人もいます。
それも、沢山いるのです。
これら、すべての行為が、それぞれの人にとってのストレス解消法になってしまっているのかもしれません。
かつてのキリスト教が批判した魔女やメフィストフェレスといったものは、抑圧されたストレスによって生み出されたものだったのではないかという気がします。
そうしたネガティヴなストレス発散方法と、地域のダサいお祭りや、会社の憂鬱な飲み会やカラオケ大会、ゴルフコンペに参加することのどちらが建設的かは判断がつきかねますが、自分のストレスを最善の形で解消できる人こそ、人間が本当の意味で「進化する」鍵を握っている。
そんな気がします。
(知識や学力マウントをとって、悦に入っているようでは、わざわざ自分が下等な人間だと証明しているようなものですよ。)
ヒトコトリのコトノハ vol.96
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●本日のコトノハ●
祭りの際のアルコール、音楽、踊りなどが引き起こす陶酔は、昔からフラストレーションを発散させる
安全弁としての役割を果たしてきた。…(中略)人間は祭りという非日常の特別な時空を定期的に設定
することにより、パニックの危機を回避してきたが、それは人間の生活の知恵であった。
ところが、キリスト教化されたヨーロッパでは、オルギアや陶酔を生みだすものは、異教の習俗として
排除されてきた。とくにローマ・カトリックは、地獄へ導く悪魔、魔女、ルシファ、メフィストフェレス
などに対し、激しい批判を繰り返した。だから禁欲主義的・戦闘的なキリスト教は、潜在的にフラスト
レーションを蓄積しやすい側面をもっていたといえよう。
『魔女とカルトのドイツ史』浜本隆志(2004)講談社より
現代はストレス社会と言われますが、歴史的に見ると、それぞれの時代で人間が独自の方法でストレスを処理してきたことは明らかであり、何も今に始まったことではないと思われます。
言うなれば、現代は人間の「人間らしい部分」を無視して、合理性や利益を求めるあまり、ストレスを上手に処理できない状態にあるのかもしれません。
学校という集団生活の中で行われる体育祭や文化祭、球技大会や遠泳合宿などは、単に教育的狙いがあるばかりではなく、非日常の中でしか発散できない日々のストレスを解消する場でもあります。
進学校の中には、そうした行事が勉強の妨げになるとして行われないところもあるようですが、人間は常に一つの気分でいられるロボットではありません。
気を引き締める時もあれば、時には気持ちをゆるめて開放的になることも必要です。
近年、「けじめをつける」という概念が乏しくなっていると感じるのは、厳しくするか、全く放任するかの両極端の二極しか選択しない人間が増えているからなのではないかと思うのです。
大切なのは、程よいバランスなのではないでしょうか。
真面目に勉強する時は集中する。一方で、遊ぶ時は思いっきり遊ぶ。どちらか一方だけではいけないような気がします。
ある特定の職種の人に、ひたすら実直さや品行方正さを求める傾向にあるのも、非人間的な考えだと思います。
例えば、救急隊員や警察官がコンビニで買い物をしているだけでクレームの電話をする人がいます。
また、観光バスなどの運転手がカレーを食べているのが気に入らない人がいます。
どうしてでしょうか?
救急隊員も警察官も運転手も、みな自分たちと同じ人間です。
自分たちと同じようにお腹がすきますし、好きな物を買って食べる権利があります。
「けじめをつける」というのは、決して、厳しくすることだけを言うのではありません。
緊張と緩和のバランスをうまくとるということなのです。
科学的かどうか、あるいは効率的か、意味があるかどうかということに固執して、古くからあるストレス解消法を廃止するのは、今後の社会を生きる人たちの首をジワジワ締め上げるようなものだと思います。
とはいえ、現代は様々なストレス解消法があり、選択肢も豊富で自由に選べるので、必ずしも古いやり方に頼らなくてもいいのかもしれません。
また、古いやり方では対処できない程、現代社会のストレスは多様で複雑になっている可能性はあるでしょう。
いずれにしろ、人間がDNAとして内包している性質は、何千年、何万年経っても変わっていないのです。
それこそ、突然変異が起きて、人の全感情が一つに統一されない限りは。
それは、科学技術の進歩や人工知能の発達とはまた別の次元の話で、その意味で人間が進化していると思うのはただの勘違いです。
自分が蓄えた知識や財力を理由に他者を見下したり、不必要に傷つける人がいますし、学校や職場で誰かを仲間外れにしたり、それを見て見ぬふりをしたり、他人の物を壊したり、盗んだり、SNSで身元を隠して他人を誹謗中傷したりする人もいます。
それも、沢山いるのです。
これら、すべての行為が、それぞれの人にとってのストレス解消法になってしまっているのかもしれません。
かつてのキリスト教が批判した魔女やメフィストフェレスといったものは、抑圧されたストレスによって生み出されたものだったのではないかという気がします。
そうしたネガティヴなストレス発散方法と、地域のダサいお祭りや、会社の憂鬱な飲み会やカラオケ大会、ゴルフコンペに参加することのどちらが建設的かは判断がつきかねますが、自分のストレスを最善の形で解消できる人こそ、人間が本当の意味で「進化する」鍵を握っている。
そんな気がします。
(知識や学力マウントをとって、悦に入っているようでは、わざわざ自分が下等な人間だと証明しているようなものですよ。)
ヒトコトリのコトノハ vol.96
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