☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
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●本日のコトノハ●
人に頭を下げるということについて、おもしろい話がある。
作家・藤本義一の父は、生粋の大阪商人であった。藤本義一は少年のころ、父からこう言われた。
「人に会ったら、頭を下げろ」
その理由がまことにふるっている。
まず、頭をさげると首の運動になる。つぎに、頭を洗っていないとき、頭をさげるとフケが落ちてよい。
フケが落ちれば頭が軽くなってよい。それに頭をさげられたら相手は悪い気はしない。
頭をさげるという一つの行為に、それだけ効用があるというわけである。
ユーモアをふくんだ自得の哲学といってよいだろう。
『歴史の活力』宮城谷昌光(1996)文藝春秋
「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」という言葉は、私が10代の頃には当然のことのように周りの大人たちから言われたことでした。
しかし、令和の時代である今現在、この言葉はあまり口にされませんし、こういうことを言うと、前時代的であると笑われてしまうかもしれません。
稲穂が実るように、自分自身が成熟した人間になったとしても、決して傲慢にならず、謙虚でいるべきだという意味なのだと思いますが、子どものうちや、血気盛んな青年期には、何故、自分がそんなふうに振る舞わないといけないのか、疑問に思う人もいるでしょう。
他の人は偉そうにしているのに、なんで自分だけ控え目で、畏まっていなければいけないのかと不満に感じるかもしれません。
もしかしたら、自分が威張りたいために、他の人にこの言葉を言って、自分より大きな顔をするなと暗にいう人もいそうです。
幸運なことに、最近は人の人格形成に影響を及ぼすような言葉や考えを排除しようという傾向にあるので、私が子どもの頃よりも、「男だから、女だから」という性別によるイメージの押し付けや、「若者は~するべき」という限定的な考えからも自由でいられると思います。
ですので、若者が目上の人に対して、どんな言葉遣いをしても、叱られることもありませんし、相手を不快にするような無礼な行動をしたとしても、「まだ若いから、仕方ない」と許されることでしょう。
今は必ずしも頭を下げなくてもいい時代なのです。
この本が出版されてから約三十年が経ち、確実に日本社会の中で何かが変わっていると感じます。
私は、所作としてのお辞儀を美しいと思っていますが、頭を下げるという行為に抵抗を感じる人もいるでしょう。
私が進学した大学は私立の女子大で、一式20万円の制服がある、いわゆる「お嬢様大学」でした。
そして、必須の履修科目に「礼法」の授業がありました。
この授業では、小笠原流礼法の講義があり、正しいお辞儀の仕方や、食卓での作法、基本姿勢の意味などを教わりました。
そして、きちんと背筋を伸ばし、呼吸とともに頭を下げて戻す動作に様式美を感じたのです。
丁寧にお辞儀をすることで、相手に敬意を表することができますし、こちらも、相手と向き合う心構えができます。
そして何より、気持ちがすっきりするのです。これは、私個人の感想なので、中には、人に頭を下げることで気分が悪くなって、モヤモヤしてしまう人もいるでしょう。
そういう人は、もしかしたら、頭を下げる行為に「負けた」とか「卑屈」といったネガティヴなイメージを持っているのかもしれません。
「ペコペコしてみっともない」と感じる人もいるでしょうし、頭なんか下げたところで、心の中では何を考えているか分かったものではない、そんな行為には何の意味もないと考える人もいると思います。
藤本義一氏の父親の時代には、人間関係を円滑にするツールの一つだった頭を下げるという行為も、今ではそれが必要とされない社会になりつつあることも事実です。
また、お辞儀をする文化を持たない国の人と対面する場合、相手は全く頭を下げるということの意味を理解できないので、困惑させてしまうかもしれません。
私たち日本人が挨拶する時に、キスやハグをしないのと同様、外国の人はお辞儀をしません。
それでも、この藤本義一氏の父親の逸話は、なるほど一理あると頷けると思います。
日本の社会には、本当に必要なのだろうか?と首を傾げたくなるような暗黙のルールや慣習があります。
だからといって、それらを無視したり、軽んじてしまうと、相手を不快にしたり、不都合が生じることもあるのです。
時代とともに、それらのルールが消えつつあるとはいえ、今もなおそのルールを大切にしている人がいるのならば、場合によっては、あなたがやりたくないと思っても、やらなければいけないことが出てくるでしょう。
そんな時には、藤本氏の父親のことを思い出しましょう。
頭を下げるなんて冗談じゃない!と思っても、「いや、これは頭を下げることでフケを落としているんだ」「頭が軽くなっていいや!」ぐらいに思えば、抵抗なく頭を下げられるのではないでしょうか。
こういった古くからのルールを頑なに守る人たちのことを世間では「老害」と名付けて批判する人もいるのですが、そうしたルールの中には日本人特有の、心を大切にするものもあるので、例え面倒くさく思えても、また無意味に思えることでも、完全に否定することはせずに「伝統」として残すことも、私たちが日本人としてのアイデンティティーを見失わずにいられるために大切なことなのではないかと思います。
礼儀作法についてうるさく言われると、イライラしてしまうかもしれませんが、場面によっては、礼儀正しく振る舞うことがあなたの人間としての周囲の評価を上げてくれるかもしれません。
乱暴狼藉を働けば非難されますが、お行儀よくすることで損することはないのですから。
(面従腹背という言葉もあることですし。。。)
ヒトコトリのコトノハ vol.91
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
人に頭を下げるということについて、おもしろい話がある。
作家・藤本義一の父は、生粋の大阪商人であった。藤本義一は少年のころ、父からこう言われた。
「人に会ったら、頭を下げろ」
その理由がまことにふるっている。
まず、頭をさげると首の運動になる。つぎに、頭を洗っていないとき、頭をさげるとフケが落ちてよい。
フケが落ちれば頭が軽くなってよい。それに頭をさげられたら相手は悪い気はしない。
頭をさげるという一つの行為に、それだけ効用があるというわけである。
ユーモアをふくんだ自得の哲学といってよいだろう。
『歴史の活力』宮城谷昌光(1996)文藝春秋
「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」という言葉は、私が10代の頃には当然のことのように周りの大人たちから言われたことでした。
しかし、令和の時代である今現在、この言葉はあまり口にされませんし、こういうことを言うと、前時代的であると笑われてしまうかもしれません。
稲穂が実るように、自分自身が成熟した人間になったとしても、決して傲慢にならず、謙虚でいるべきだという意味なのだと思いますが、子どものうちや、血気盛んな青年期には、何故、自分がそんなふうに振る舞わないといけないのか、疑問に思う人もいるでしょう。
他の人は偉そうにしているのに、なんで自分だけ控え目で、畏まっていなければいけないのかと不満に感じるかもしれません。
もしかしたら、自分が威張りたいために、他の人にこの言葉を言って、自分より大きな顔をするなと暗にいう人もいそうです。
幸運なことに、最近は人の人格形成に影響を及ぼすような言葉や考えを排除しようという傾向にあるので、私が子どもの頃よりも、「男だから、女だから」という性別によるイメージの押し付けや、「若者は~するべき」という限定的な考えからも自由でいられると思います。
ですので、若者が目上の人に対して、どんな言葉遣いをしても、叱られることもありませんし、相手を不快にするような無礼な行動をしたとしても、「まだ若いから、仕方ない」と許されることでしょう。
今は必ずしも頭を下げなくてもいい時代なのです。
この本が出版されてから約三十年が経ち、確実に日本社会の中で何かが変わっていると感じます。
私は、所作としてのお辞儀を美しいと思っていますが、頭を下げるという行為に抵抗を感じる人もいるでしょう。
私が進学した大学は私立の女子大で、一式20万円の制服がある、いわゆる「お嬢様大学」でした。
そして、必須の履修科目に「礼法」の授業がありました。
この授業では、小笠原流礼法の講義があり、正しいお辞儀の仕方や、食卓での作法、基本姿勢の意味などを教わりました。
そして、きちんと背筋を伸ばし、呼吸とともに頭を下げて戻す動作に様式美を感じたのです。
丁寧にお辞儀をすることで、相手に敬意を表することができますし、こちらも、相手と向き合う心構えができます。
そして何より、気持ちがすっきりするのです。これは、私個人の感想なので、中には、人に頭を下げることで気分が悪くなって、モヤモヤしてしまう人もいるでしょう。
そういう人は、もしかしたら、頭を下げる行為に「負けた」とか「卑屈」といったネガティヴなイメージを持っているのかもしれません。
「ペコペコしてみっともない」と感じる人もいるでしょうし、頭なんか下げたところで、心の中では何を考えているか分かったものではない、そんな行為には何の意味もないと考える人もいると思います。
藤本義一氏の父親の時代には、人間関係を円滑にするツールの一つだった頭を下げるという行為も、今ではそれが必要とされない社会になりつつあることも事実です。
また、お辞儀をする文化を持たない国の人と対面する場合、相手は全く頭を下げるということの意味を理解できないので、困惑させてしまうかもしれません。
私たち日本人が挨拶する時に、キスやハグをしないのと同様、外国の人はお辞儀をしません。
それでも、この藤本義一氏の父親の逸話は、なるほど一理あると頷けると思います。
日本の社会には、本当に必要なのだろうか?と首を傾げたくなるような暗黙のルールや慣習があります。
だからといって、それらを無視したり、軽んじてしまうと、相手を不快にしたり、不都合が生じることもあるのです。
時代とともに、それらのルールが消えつつあるとはいえ、今もなおそのルールを大切にしている人がいるのならば、場合によっては、あなたがやりたくないと思っても、やらなければいけないことが出てくるでしょう。
そんな時には、藤本氏の父親のことを思い出しましょう。
頭を下げるなんて冗談じゃない!と思っても、「いや、これは頭を下げることでフケを落としているんだ」「頭が軽くなっていいや!」ぐらいに思えば、抵抗なく頭を下げられるのではないでしょうか。
こういった古くからのルールを頑なに守る人たちのことを世間では「老害」と名付けて批判する人もいるのですが、そうしたルールの中には日本人特有の、心を大切にするものもあるので、例え面倒くさく思えても、また無意味に思えることでも、完全に否定することはせずに「伝統」として残すことも、私たちが日本人としてのアイデンティティーを見失わずにいられるために大切なことなのではないかと思います。
礼儀作法についてうるさく言われると、イライラしてしまうかもしれませんが、場面によっては、礼儀正しく振る舞うことがあなたの人間としての周囲の評価を上げてくれるかもしれません。
乱暴狼藉を働けば非難されますが、お行儀よくすることで損することはないのですから。
(面従腹背という言葉もあることですし。。。)
ヒトコトリのコトノハ vol.91
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