☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
一九三八年、ユダヤ人の教会堂が焼け落ちてユダヤ人が初めて追放されたとき、なかんずく道徳上ならびに
政治上の罪が生じたわけである。この二つの罪は、当時まだ権力を保有していた人々の罪であった。
将校連がこの事件に立ち会っていた。どの都市でも、犯罪の行われたとき、司令官がこれを防ごうと思えば
防ぐことができたのである。犯罪が警察力では阻止できない、ないしは警察力の機能を発揮し得ないほどの
規模になったときに、すべての人間を守護するのが軍人の役目だからである。
将校たちは何の手も打たなかった。かれらはこの刹那に、ドイツ軍隊の、かつては誉れの高かった道徳的
伝統を遺棄したのである。そんなことは屁とも思わなかったのである。かれらはドイツ民族の魂を離れて、
ただ命令に服従する軍事機構、自己の法則のみによって動く軍事機構の側に就いてしまったのであった。
国民のうちには、憤激を覚えた人たちが多かった。来るべき災厄の予感のこもった恐怖に深く心を揺すぶら
れた者が多かった。しかし他方、何ごともなかったかのように、なんら煩わされることもなく、自分の仕事を
続け、社交と娯楽を続けていく人の数は、それにもまして多かった。これが道徳上の罪なのである。
他方、全く無力なために、憤激し絶望しながらも大勢を阻止することのできなかった人たちは、形而上的な
罪を意識することによって、人間的な生まれ変わりという点で一歩前進を遂げたのである。
『戦争の罪を問う』カール・ヤスパース著/橋本文夫訳(1998)平凡社より
ある日突然、日本のどこかで戦争が始まる。
そんなことを現実のものとして、想像できる人は少ないのではないでしょうか。
ゲームや小説、ドラマの設定として考えつくことはあろとしても。
とはいえ、現実には海をへだてた国からミサイルが発射されていることを知らない日本人はいないと思います。
また、日本の領海や領空とされている場所に、他国の船や機体がやって来ることも、わりと頻繁にあります。
こういうことを話題にすると、政治思想家のように思われてしまい、友人知人同士の付き合いがなんとなくぎこちなくなるので、あまり巷では注目されないことですが、決して、自分たちの生活と無関係ではない事案のはずです。
日本の対外的な治安を守っているのは自衛隊ですが、隊員を家族に持つ人にとって、この問題は一般の人より身近に感じていることは間違いありません。
日本は、憲法によって戦争をしないことになっていますが、海外の紛争地域に支援活動のために自衛隊を派遣することはしてきました。
いくら、日本が戦闘をしないと主張していても、隊員たちが赴くのは実際に戦争が行われている戦闘地域なのです。
日本国内では、あまり大きく報道されませんが、そうした紛争地域に派遣された自衛隊員が戦闘に巻き込まれて怪我をしたり、命を落としたことも過去にはありました。
表向きは、戦争をしないと言っておきながら、実際には隊員を戦地に派遣しているという事実を、日本生まれ、日本育ちの生粋の日本人の私はどう受け止めればよいのか分かりません。
この事実に無関心でいることはできませんが、では、具体的に自分に何ができるのかということも分からないのです。
義務教育や高等教育、さらに大学で学んだことは、自分で考え、自分で調べ、問題を解決する能力を身に着けることだったと私は考えています。
けれども、人と人とが争い、国と国とが衝突し、戦闘状態に陥る事態を未然に防ぐ、あるいは、起きてしまった紛争を平和裏に解決する方法を見つけることはできません。
もし、日本のどこかで戦闘が始まったら、一体、私はどうしたらいいのでしょうか。
分かっています。起きてもいないことについて考えることは時間の無駄です。
それでも、自分たちが望まない争いのために、大切な人の命が失われてしまうなんて、納得ができませんし、まして自分自身が国のために命懸けで戦えと言われても、戦闘経験どころか護身術も覚束ないド素人なわけですし、そもそも誰かと殺し合うなんて到底受け入れられることではありません。
一般市民の私がそうした戦闘に参加する状況など、まずないとは思いますが、私も本能的には死にたくないと思う人間ですから、自分を殺そうと誰かが飛びかかってきたら、無抵抗ではいないはずです。
恐怖にかられて、無我夢中で応戦しているうちに相手を殺してしまうかもしれません。
そんな状況を想像しただけで、地獄だと私は感じます。
私はごくごく平凡な一市民です。
活動家でもありませんし、集団のデモや街頭での署名活動で、世の中が変わるとは思えない種類の人間です。
望むのは、平和で安全な毎日です。
寝心地のよい布団、あたたかい食卓、緑豊かな自然環境、住みやすい街、それら平凡でも安心して暮らしていける環境がいつまでも続くことです。
そう願っているのは、おそらく、私だけではないはずです。
戦争をしてはいけない。そのことはおそらく、全人類が理解していると思います。
にもかかわらず、地球のどこかでは絶えず戦闘が行われてしまう。
そのことに対して、治安のよい日本にいる私は、ただただ今ある平和な毎日に、安全な社会に感謝しながら、粛々と生活を営んでいくことしかできません。
「どこかの国で起きた戦争を、日本は無視した」と、いつか非難される日がくるとしても。
ヒトコトリのコトノハ vol.99
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●本日のコトノハ●
一九三八年、ユダヤ人の教会堂が焼け落ちてユダヤ人が初めて追放されたとき、なかんずく道徳上ならびに
政治上の罪が生じたわけである。この二つの罪は、当時まだ権力を保有していた人々の罪であった。
将校連がこの事件に立ち会っていた。どの都市でも、犯罪の行われたとき、司令官がこれを防ごうと思えば
防ぐことができたのである。犯罪が警察力では阻止できない、ないしは警察力の機能を発揮し得ないほどの
規模になったときに、すべての人間を守護するのが軍人の役目だからである。
将校たちは何の手も打たなかった。かれらはこの刹那に、ドイツ軍隊の、かつては誉れの高かった道徳的
伝統を遺棄したのである。そんなことは屁とも思わなかったのである。かれらはドイツ民族の魂を離れて、
ただ命令に服従する軍事機構、自己の法則のみによって動く軍事機構の側に就いてしまったのであった。
国民のうちには、憤激を覚えた人たちが多かった。来るべき災厄の予感のこもった恐怖に深く心を揺すぶら
れた者が多かった。しかし他方、何ごともなかったかのように、なんら煩わされることもなく、自分の仕事を
続け、社交と娯楽を続けていく人の数は、それにもまして多かった。これが道徳上の罪なのである。
他方、全く無力なために、憤激し絶望しながらも大勢を阻止することのできなかった人たちは、形而上的な
罪を意識することによって、人間的な生まれ変わりという点で一歩前進を遂げたのである。
『戦争の罪を問う』カール・ヤスパース著/橋本文夫訳(1998)平凡社より
ある日突然、日本のどこかで戦争が始まる。
そんなことを現実のものとして、想像できる人は少ないのではないでしょうか。
ゲームや小説、ドラマの設定として考えつくことはあろとしても。
とはいえ、現実には海をへだてた国からミサイルが発射されていることを知らない日本人はいないと思います。
また、日本の領海や領空とされている場所に、他国の船や機体がやって来ることも、わりと頻繁にあります。
こういうことを話題にすると、政治思想家のように思われてしまい、友人知人同士の付き合いがなんとなくぎこちなくなるので、あまり巷では注目されないことですが、決して、自分たちの生活と無関係ではない事案のはずです。
日本の対外的な治安を守っているのは自衛隊ですが、隊員を家族に持つ人にとって、この問題は一般の人より身近に感じていることは間違いありません。
日本は、憲法によって戦争をしないことになっていますが、海外の紛争地域に支援活動のために自衛隊を派遣することはしてきました。
いくら、日本が戦闘をしないと主張していても、隊員たちが赴くのは実際に戦争が行われている戦闘地域なのです。
日本国内では、あまり大きく報道されませんが、そうした紛争地域に派遣された自衛隊員が戦闘に巻き込まれて怪我をしたり、命を落としたことも過去にはありました。
表向きは、戦争をしないと言っておきながら、実際には隊員を戦地に派遣しているという事実を、日本生まれ、日本育ちの生粋の日本人の私はどう受け止めればよいのか分かりません。
この事実に無関心でいることはできませんが、では、具体的に自分に何ができるのかということも分からないのです。
義務教育や高等教育、さらに大学で学んだことは、自分で考え、自分で調べ、問題を解決する能力を身に着けることだったと私は考えています。
けれども、人と人とが争い、国と国とが衝突し、戦闘状態に陥る事態を未然に防ぐ、あるいは、起きてしまった紛争を平和裏に解決する方法を見つけることはできません。
もし、日本のどこかで戦闘が始まったら、一体、私はどうしたらいいのでしょうか。
分かっています。起きてもいないことについて考えることは時間の無駄です。
それでも、自分たちが望まない争いのために、大切な人の命が失われてしまうなんて、納得ができませんし、まして自分自身が国のために命懸けで戦えと言われても、戦闘経験どころか護身術も覚束ないド素人なわけですし、そもそも誰かと殺し合うなんて到底受け入れられることではありません。
一般市民の私がそうした戦闘に参加する状況など、まずないとは思いますが、私も本能的には死にたくないと思う人間ですから、自分を殺そうと誰かが飛びかかってきたら、無抵抗ではいないはずです。
恐怖にかられて、無我夢中で応戦しているうちに相手を殺してしまうかもしれません。
そんな状況を想像しただけで、地獄だと私は感じます。
私はごくごく平凡な一市民です。
活動家でもありませんし、集団のデモや街頭での署名活動で、世の中が変わるとは思えない種類の人間です。
望むのは、平和で安全な毎日です。
寝心地のよい布団、あたたかい食卓、緑豊かな自然環境、住みやすい街、それら平凡でも安心して暮らしていける環境がいつまでも続くことです。
そう願っているのは、おそらく、私だけではないはずです。
戦争をしてはいけない。そのことはおそらく、全人類が理解していると思います。
にもかかわらず、地球のどこかでは絶えず戦闘が行われてしまう。
そのことに対して、治安のよい日本にいる私は、ただただ今ある平和な毎日に、安全な社会に感謝しながら、粛々と生活を営んでいくことしかできません。
「どこかの国で起きた戦争を、日本は無視した」と、いつか非難される日がくるとしても。
ヒトコトリのコトノハ vol.99
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