私は母が42歳で産んだ、唯一の女児です。
今でこそ、高齢出産は珍しいものではなくなりましたが、37年前はわざわざ違う病室から母を珍しい動物でも見るように、覗きに来る人がいたくらい、ちょっとした話題だったそうです。
もともと母は、東京は下町の出身で、近所の相撲部屋で遊んだ話や、昔の都電に乗った時の話をよくしてくれます。
そして、1945年3月10日の東京大空襲の話も。
翌月が母の小学校の入学式で、ちょうど学校のために揃えた教科書や筆記用具などが、未使用のまま全部焼けてしまったそうです。
もちろん、住んでいた家も。
幸い、住んでいた家族はみな無事で、焼け出された母たちは、母の母(祖母)の実家にある千葉へ逃れたそうです。
空襲の被害で動いていなかった総武線の線路の上を小岩まで歩いたといいます。(小岩から先は電車が走っていたようです。)
母は幼かったので、起こっている状況を把握しきれなかったようで、恐怖をあまり感じなかったそうです。
空襲が始まった時、住んでいた地域の班長さんが、みんなでどこに逃げるか決めかねているうちに、B29が周りに円を描くように爆弾を落としたので、逃げ場がなくなってしまい、仕方なく住民たちで掘った地域の防空壕の中で一夜を明かしたのだと言います。
爆弾が落とされた円周の方に逃げて行った人たちのほとんどが犠牲になってしまったそうなので、逃げなかった母たちの行動はある意味正しかったと言えます。
母たちが避難した防空壕には、地下水や雨水が溜まっていて、大人の腰の高さのあたりまで水嵩があったそうです。
子供だった母は、積み上げた荷物の上に乗せてもらって、防空壕の天井と荷物の隙間でスヤスヤと眠っていたとか。
怯えて泣きわめきもせず、空襲の最中に眠ってしまうくらい呑気な子供だったのかと思うと、ちょっと呆れますが、その時、母が怯えたり、泣き叫んだりして動けずに逃げ遅れて焼け死んでいたら、私は今ここにいないでしょうから、母が呑気なタチで良かったと言えるでしょう。
それでも、空襲の後で、家や建物がみんななくなって、見渡す限り地平線以外何も見えなかった光景や、焼け死んだ人の遺体を堆く井桁に組んで燃やしている場面、逃げられなかった馬が沢山折り重なって死んでいた情景などを鮮明に覚えているそうです。
意外なことに、空襲の翌日には乾パンが救援物資として、焼け出された人たちに配られたと言いますから、物がない時代とはいえ被災時の支援システムが機能していたことに少し驚きます。
B29は乗っている人が、地上から見えそうなくらいの低空飛行だったらしく、よく戦争映画などで再現される東京大空襲のシーンを見て、「こんなもんじゃなかった」とか「これは忠実(に再現されている)ね」と知ったふうに(実際、知っていますが)コメントします。
さて、子供の時にこんな大事件を経験している母は、ちょっとやそっとのことは気にしません。
戦争体験をしていなくても、元来が能天気で無神経なのではないかと思うくらい鷹揚(というか鈍感?)です。
母と同年配の人にはありがちな、物を捨てられない性分で、古くなって破れた服でも丁寧に繕って着ていたり、私が要らなくなって捨てたはずの小物を、いつの間にか取っておいて使っていたりします。(後日それに気づいて驚かされるのです。)
母と私は正反対の性格です。
私は小心者で、優柔不断。あまり社交的ではなく、悲観的(or現実的)です。
でも、母は江戸っ子なので、思い切りが良く(or考えなし?)、負けず嫌いの上にポジティブ思考の持ち主です。
私にないものを全部持っています。
昔の下町育ちなので社交的ですし、8人兄弟の二番目なので面倒見が異常にいいです。
私自身はどちらかといえば、一人で放っておいて欲しいタイプですし、いい加減40歳にもなろうというのに、親があれこれ世話をやく必要などないと思うのですが。
母にとって、私はいつまでも「母の娘」なのでしょう。
母にとっては有意義なことでも、私にとっては無意味に思えることもあり、―しかも、私の意見には耳を貸さない頑固さもあり―、母に付き合うのはなかなか骨が折れます。
パソコンや最近の電化製品の扱いはあまり上手ではなく、(私から見れば)粗雑に操作するので、よく故障させたりしますが、自分のせいだとは決して認めません。
それに、お人好しで警戒心が弱いので、以前は家にかかってきた詐欺の電話に騙されそうになったこともありました。
途中でおかしいと思って、父に連絡したので事なきを得ましたが、そんなことがあっても「あら、そう(詐欺)だったの」とケロリとしています。
そんな母の、彼女特有の持論に基づいた独善的な言動にうんざりしながらも、人が老いていく過程を日常的に目にし、肌でひしひしと感じることは、そうはできる体験ではないと、冷静な気持ちの自分もいて、一言では片づけられない心境です。
これからも学ばせていただかなければと思いつつも、「もう、沢山だ!勘弁してくれ!」と頭を抱える日々を送っています。
年老いた親と、大人になった子が同じ家に一緒に生活しているのには、他人様にはなかなかご理解のいただけない様々な(厄介な)事情もあってのことです。
物理的な距離は近くても仕方ありませんが、もう少し精神的に子離れしてくれないかなと思う今日この頃です。
今でこそ、高齢出産は珍しいものではなくなりましたが、37年前はわざわざ違う病室から母を珍しい動物でも見るように、覗きに来る人がいたくらい、ちょっとした話題だったそうです。
もともと母は、東京は下町の出身で、近所の相撲部屋で遊んだ話や、昔の都電に乗った時の話をよくしてくれます。
そして、1945年3月10日の東京大空襲の話も。
翌月が母の小学校の入学式で、ちょうど学校のために揃えた教科書や筆記用具などが、未使用のまま全部焼けてしまったそうです。
もちろん、住んでいた家も。
幸い、住んでいた家族はみな無事で、焼け出された母たちは、母の母(祖母)の実家にある千葉へ逃れたそうです。
空襲の被害で動いていなかった総武線の線路の上を小岩まで歩いたといいます。(小岩から先は電車が走っていたようです。)
母は幼かったので、起こっている状況を把握しきれなかったようで、恐怖をあまり感じなかったそうです。
空襲が始まった時、住んでいた地域の班長さんが、みんなでどこに逃げるか決めかねているうちに、B29が周りに円を描くように爆弾を落としたので、逃げ場がなくなってしまい、仕方なく住民たちで掘った地域の防空壕の中で一夜を明かしたのだと言います。
爆弾が落とされた円周の方に逃げて行った人たちのほとんどが犠牲になってしまったそうなので、逃げなかった母たちの行動はある意味正しかったと言えます。
母たちが避難した防空壕には、地下水や雨水が溜まっていて、大人の腰の高さのあたりまで水嵩があったそうです。
子供だった母は、積み上げた荷物の上に乗せてもらって、防空壕の天井と荷物の隙間でスヤスヤと眠っていたとか。
怯えて泣きわめきもせず、空襲の最中に眠ってしまうくらい呑気な子供だったのかと思うと、ちょっと呆れますが、その時、母が怯えたり、泣き叫んだりして動けずに逃げ遅れて焼け死んでいたら、私は今ここにいないでしょうから、母が呑気なタチで良かったと言えるでしょう。
それでも、空襲の後で、家や建物がみんななくなって、見渡す限り地平線以外何も見えなかった光景や、焼け死んだ人の遺体を堆く井桁に組んで燃やしている場面、逃げられなかった馬が沢山折り重なって死んでいた情景などを鮮明に覚えているそうです。
意外なことに、空襲の翌日には乾パンが救援物資として、焼け出された人たちに配られたと言いますから、物がない時代とはいえ被災時の支援システムが機能していたことに少し驚きます。
B29は乗っている人が、地上から見えそうなくらいの低空飛行だったらしく、よく戦争映画などで再現される東京大空襲のシーンを見て、「こんなもんじゃなかった」とか「これは忠実(に再現されている)ね」と知ったふうに(実際、知っていますが)コメントします。
さて、子供の時にこんな大事件を経験している母は、ちょっとやそっとのことは気にしません。
戦争体験をしていなくても、元来が能天気で無神経なのではないかと思うくらい鷹揚(というか鈍感?)です。
母と同年配の人にはありがちな、物を捨てられない性分で、古くなって破れた服でも丁寧に繕って着ていたり、私が要らなくなって捨てたはずの小物を、いつの間にか取っておいて使っていたりします。(後日それに気づいて驚かされるのです。)
母と私は正反対の性格です。
私は小心者で、優柔不断。あまり社交的ではなく、悲観的(or現実的)です。
でも、母は江戸っ子なので、思い切りが良く(or考えなし?)、負けず嫌いの上にポジティブ思考の持ち主です。
私にないものを全部持っています。
昔の下町育ちなので社交的ですし、8人兄弟の二番目なので面倒見が異常にいいです。
私自身はどちらかといえば、一人で放っておいて欲しいタイプですし、いい加減40歳にもなろうというのに、親があれこれ世話をやく必要などないと思うのですが。
母にとって、私はいつまでも「母の娘」なのでしょう。
母にとっては有意義なことでも、私にとっては無意味に思えることもあり、―しかも、私の意見には耳を貸さない頑固さもあり―、母に付き合うのはなかなか骨が折れます。
パソコンや最近の電化製品の扱いはあまり上手ではなく、(私から見れば)粗雑に操作するので、よく故障させたりしますが、自分のせいだとは決して認めません。
それに、お人好しで警戒心が弱いので、以前は家にかかってきた詐欺の電話に騙されそうになったこともありました。
途中でおかしいと思って、父に連絡したので事なきを得ましたが、そんなことがあっても「あら、そう(詐欺)だったの」とケロリとしています。
そんな母の、彼女特有の持論に基づいた独善的な言動にうんざりしながらも、人が老いていく過程を日常的に目にし、肌でひしひしと感じることは、そうはできる体験ではないと、冷静な気持ちの自分もいて、一言では片づけられない心境です。
これからも学ばせていただかなければと思いつつも、「もう、沢山だ!勘弁してくれ!」と頭を抱える日々を送っています。
年老いた親と、大人になった子が同じ家に一緒に生活しているのには、他人様にはなかなかご理解のいただけない様々な(厄介な)事情もあってのことです。
物理的な距離は近くても仕方ありませんが、もう少し精神的に子離れしてくれないかなと思う今日この頃です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます