訴えたいことを文章にして呼びかけるよりも、音楽にのせて歌った方が人々の心に強く響くような印象を受けます。
そこには音という聴覚への働きかけがあるのも事実ですが、メロディーに合わせるために言葉を選ぶという作業が大きく功を奏しているのかもしれません。
字数制限のない文章に使う言葉と、限られた音節数のために選び抜かれた言葉とでは、一言一言の重みが違うような気がします。
だから、詩という形にまとめられた言葉は、読み手の心により深く沁み入るのだと思います。
和歌や俳句にも同じことが言えます。
限られた文字数の中で、感情や感動をより色濃く言い表そうと言葉を選びに選んで捻り出すもの。いわば、心の凝縮物です。
ただ、さらりと一言「好き」と言うより、何倍もの波紋を相手の心に生み出すのではないかと、私は勝手にそう思っています。
さて、今回、《落窪物語》に収録されている和歌の中から、第12位に選んだのは、なかなか癖のある和歌です。
☆第12位☆
いにしへに たがはぬ君が 宿見れば
こひしき事も かはらざりけり
《落窪物語》巻の三より 蔵人少将の歌
「昔なつかしい家にいる君を恋しく思う気持ちは変わらない」という、一見、この歌を送った相手(蔵人少将の元妻・中納言家の三の君)に対して、好意的ともとれる歌なのですが、当の送り主(蔵人少将)は久しぶりに再会することになる元妻の顔も見ずに帰ってしまいます。
これでは、「こひしき」という言葉を使っているものの、「家を見れば十分。君の顔までは見たくない」と言っているのも同然です。
とかく、男女の仲が破局に至るにはそれなりの原因があるものですが、この二人の場合はかなり複雑な事情がありました。
当初、蔵人少将は中納言家の三の君と結婚していましたが、中納言家の納屋に閉じ込められていた女君(落窪の君)を救出した男君の復讐計画によって、二人は疎遠になるように仕向けられていたのです。
男君の目的は、女君につらく当たり、ひどい目に遭わせた中納言家の人々(特に北の方)に惨めで無様な思いをさせることでした。
そのため、以前の記事で取り上げた四の君の縁談を台無しにしましたし、三の君にいたっては、すでに結婚していた状態から、夫の蔵人少将が別の女性のもとへ通うように仕向けました。
物語の中では、三の君の性格が多少勝気であることも不和の要因の一つのように描かれていますが、ともあれ結果的に二人は疎遠になり、事実上の離婚となったのです。
この歌を三の君に送った時には、蔵人少将はすでに新しい女性と結婚関係にあったわけですから、いくら久しぶりに中納言家を訪れたからといって、別れた相手にこんな歌を送らなくてもよかったのでは、と私は思います。(結局、会わずに帰ったのだし。。。)
通常、送られた和歌には返歌がつきものですが、少将がそれを待たずに、歌を一方的に投げつけて帰って行ったというのは、やはりこの歌の真意が当て擦りだという証拠なのかもしれません。
すれ違いざまに、ふと言われるよりも和歌という形にされた言葉の方が、人の心には響きますし、いつまでも忘れずに記憶の片隅に残り続けます。
別の女性のもとへ行ってしまった夫が久しぶりに同じ屋根の下にいる。三の君は心のどこかで、もしかしたら会いに来てくれるかもしれないと、わずかな望みを持っていました。
そんな乙女心を辛辣に打ち砕いた一首です。
和歌の威力を侮るなかれ。うっかり相手を傷つけて恨みを買わないように、言葉の選択には気をつけたいものです。
そこには音という聴覚への働きかけがあるのも事実ですが、メロディーに合わせるために言葉を選ぶという作業が大きく功を奏しているのかもしれません。
字数制限のない文章に使う言葉と、限られた音節数のために選び抜かれた言葉とでは、一言一言の重みが違うような気がします。
だから、詩という形にまとめられた言葉は、読み手の心により深く沁み入るのだと思います。
和歌や俳句にも同じことが言えます。
限られた文字数の中で、感情や感動をより色濃く言い表そうと言葉を選びに選んで捻り出すもの。いわば、心の凝縮物です。
ただ、さらりと一言「好き」と言うより、何倍もの波紋を相手の心に生み出すのではないかと、私は勝手にそう思っています。
さて、今回、《落窪物語》に収録されている和歌の中から、第12位に選んだのは、なかなか癖のある和歌です。
☆第12位☆
いにしへに たがはぬ君が 宿見れば
こひしき事も かはらざりけり
《落窪物語》巻の三より 蔵人少将の歌
「昔なつかしい家にいる君を恋しく思う気持ちは変わらない」という、一見、この歌を送った相手(蔵人少将の元妻・中納言家の三の君)に対して、好意的ともとれる歌なのですが、当の送り主(蔵人少将)は久しぶりに再会することになる元妻の顔も見ずに帰ってしまいます。
これでは、「こひしき」という言葉を使っているものの、「家を見れば十分。君の顔までは見たくない」と言っているのも同然です。
とかく、男女の仲が破局に至るにはそれなりの原因があるものですが、この二人の場合はかなり複雑な事情がありました。
当初、蔵人少将は中納言家の三の君と結婚していましたが、中納言家の納屋に閉じ込められていた女君(落窪の君)を救出した男君の復讐計画によって、二人は疎遠になるように仕向けられていたのです。
男君の目的は、女君につらく当たり、ひどい目に遭わせた中納言家の人々(特に北の方)に惨めで無様な思いをさせることでした。
そのため、以前の記事で取り上げた四の君の縁談を台無しにしましたし、三の君にいたっては、すでに結婚していた状態から、夫の蔵人少将が別の女性のもとへ通うように仕向けました。
物語の中では、三の君の性格が多少勝気であることも不和の要因の一つのように描かれていますが、ともあれ結果的に二人は疎遠になり、事実上の離婚となったのです。
この歌を三の君に送った時には、蔵人少将はすでに新しい女性と結婚関係にあったわけですから、いくら久しぶりに中納言家を訪れたからといって、別れた相手にこんな歌を送らなくてもよかったのでは、と私は思います。(結局、会わずに帰ったのだし。。。)
通常、送られた和歌には返歌がつきものですが、少将がそれを待たずに、歌を一方的に投げつけて帰って行ったというのは、やはりこの歌の真意が当て擦りだという証拠なのかもしれません。
すれ違いざまに、ふと言われるよりも和歌という形にされた言葉の方が、人の心には響きますし、いつまでも忘れずに記憶の片隅に残り続けます。
別の女性のもとへ行ってしまった夫が久しぶりに同じ屋根の下にいる。三の君は心のどこかで、もしかしたら会いに来てくれるかもしれないと、わずかな望みを持っていました。
そんな乙女心を辛辣に打ち砕いた一首です。
和歌の威力を侮るなかれ。うっかり相手を傷つけて恨みを買わないように、言葉の選択には気をつけたいものです。
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