子供の頃、《アマデウス(原題:Amadeus)》(1984、アメリカ)という映画を観ました。
ご存知、音楽家モーツァルトWolfgang Amadeus Mozart(1756-1791)の伝記映画ですが、第一印象、モーツァルトがめっちゃ陽気なのに面喰いました。そして、すごく下品…
私は親の教育方針で、6歳頃からずっと音楽を専門的に勉強していたわけですが、それまでモーツァルトについて書かれた本を読んで、自分なりに思い描いていた「作曲家モーツァルト」像とは全然違ったので、ほとんど当惑したというのが本当のところです。
作曲家とはダジャレも下ネタも言わず、修行僧のように禁欲的で真面目な人間だと考えていた私の心に、ビリヤード台の上でお酒を片手に作曲をするモーツァルトの姿は強烈な印象として残りました。
それからだいぶ経ってから、また同じ映画を観る機会があったのですが、今度は以前とは異なる違和感を覚えました。だって、モーツァルトが英語をしゃっべているんですもの。(前に観た時は気がつかなかったので、吹替版だったのでしょう。)
アメリカで作られた映画だし、脚本はブロードウェイのミュージカルがベースなので、仕方ないっちゃ仕方ないですが、ドイツ音楽を代表する作曲家がドイツ語を話していないのは、何だかつまらない。
確かに、モーツァルトの父親は教育パパで、息子に音楽以外にも語学教育も受けさせたので、多分モーツァルトは英語を話せたと思います。
それに、晩年を過ごしたウィーンは当時から国際都市だったので、イタリア語とかフランス語もできたとは思いますけど。
それでも、当時話されていた英語は伝統的なイギリス英語だったはず。モーツァルトの生きた時代はアメリカの建国期とかぶってはいるけれど、当時話されていた英語は決して今のようにブロークンではなかったはずだ、なんて細かいことを気にしてしまうのは私の悪いクセでしょうかね。
オペラやミュージカルなど、舞台の演目であれば、17歳の可憐な少女役をドラム缶みたいな体型のオペラ歌手が演じたり、外国人の役を日本人が演じたりするシチュエーションにも目をつぶっていられるのに、どうして映画では細かい設定が気になってしまうのか、自分でも不思議。
しかし、今回書きたかったのはブロークンな英語を話すモーツァルトのことではなく、映画で使われる言語のことです。
《レッドバロン(原題:Der rote Baron)》(2008、ドイツ)という映画を観た時のこと。
この映画、製作国がドイツ、キャストもスタッフもドイツが中心なのに、全編英語なのです。
史実をベースにした第一次世界大戦中のドイツ空軍のお話で、主演のMatthias Schweighoeferにつられて観ましたが、なかなかの好演でした。
ただ、ドイツ空軍の人たちが仲間内でも敵国の言語でしゃべり倒すという、ちょっと興醒めな感じ。
第一次大戦時代の空中戦は、第二次大戦ほど熾烈を極めたというほどではなく、空で敵同士がすれ違っても、同じ空仲間意識のようなものがあって、お互いに紳士的(?)だったとかいう話を聞いたことはありますが、それでも、英語で統一されるとイマイチ興が乗らない…
前述の《アマデウス》は、役者さんがアメリカ人だから仕方ないけど、こっちはドイツのお話でドイツの役者さんを使っているのに、何故に英語?と疑問に思って、映画に詳しい人に聞いてみると、これは英語圏の観客動員を狙ってのことで、ヨーロッパ映画界では使用言語を史実通りにしないことは別に珍しいことではないとか。
そういえば、ドイツは移民を友好的に受け入れている国の一つですし、自国の言語にこだわることなく、よりグローバルな視点を持っている国と考えられなくもないですね。
そもそも、ドキュメンタリー映画を作っているわけじゃないんだから、ある程度の自由は許されるってことなのでしょうか。
史実をベースにしているとはいえ、所詮、映画はフィクションです。
それに、戦争映画の意義って、二度とこんなことしちゃいけないって観る人に思ってもらうことでもあるわけだから、いわば世界の公用語でもある英語を使うのは妥当なのかもしれません。
多くの人に観てもらいたいですものね。設定にこだわり過ぎるのもほどほどにしないといけません。
木を見て森を見ずでした。(反省)
まあ、日本では日本語吹き替え版で観る人もいますし。
ちなみに私はオリジナル音声+日本語字幕で観る派です。
ご存知、音楽家モーツァルトWolfgang Amadeus Mozart(1756-1791)の伝記映画ですが、第一印象、モーツァルトがめっちゃ陽気なのに面喰いました。そして、すごく下品…
私は親の教育方針で、6歳頃からずっと音楽を専門的に勉強していたわけですが、それまでモーツァルトについて書かれた本を読んで、自分なりに思い描いていた「作曲家モーツァルト」像とは全然違ったので、ほとんど当惑したというのが本当のところです。
作曲家とはダジャレも下ネタも言わず、修行僧のように禁欲的で真面目な人間だと考えていた私の心に、ビリヤード台の上でお酒を片手に作曲をするモーツァルトの姿は強烈な印象として残りました。
それからだいぶ経ってから、また同じ映画を観る機会があったのですが、今度は以前とは異なる違和感を覚えました。だって、モーツァルトが英語をしゃっべているんですもの。(前に観た時は気がつかなかったので、吹替版だったのでしょう。)
アメリカで作られた映画だし、脚本はブロードウェイのミュージカルがベースなので、仕方ないっちゃ仕方ないですが、ドイツ音楽を代表する作曲家がドイツ語を話していないのは、何だかつまらない。
確かに、モーツァルトの父親は教育パパで、息子に音楽以外にも語学教育も受けさせたので、多分モーツァルトは英語を話せたと思います。
それに、晩年を過ごしたウィーンは当時から国際都市だったので、イタリア語とかフランス語もできたとは思いますけど。
それでも、当時話されていた英語は伝統的なイギリス英語だったはず。モーツァルトの生きた時代はアメリカの建国期とかぶってはいるけれど、当時話されていた英語は決して今のようにブロークンではなかったはずだ、なんて細かいことを気にしてしまうのは私の悪いクセでしょうかね。
オペラやミュージカルなど、舞台の演目であれば、17歳の可憐な少女役をドラム缶みたいな体型のオペラ歌手が演じたり、外国人の役を日本人が演じたりするシチュエーションにも目をつぶっていられるのに、どうして映画では細かい設定が気になってしまうのか、自分でも不思議。
しかし、今回書きたかったのはブロークンな英語を話すモーツァルトのことではなく、映画で使われる言語のことです。
《レッドバロン(原題:Der rote Baron)》(2008、ドイツ)という映画を観た時のこと。
この映画、製作国がドイツ、キャストもスタッフもドイツが中心なのに、全編英語なのです。
史実をベースにした第一次世界大戦中のドイツ空軍のお話で、主演のMatthias Schweighoeferにつられて観ましたが、なかなかの好演でした。
ただ、ドイツ空軍の人たちが仲間内でも敵国の言語でしゃべり倒すという、ちょっと興醒めな感じ。
第一次大戦時代の空中戦は、第二次大戦ほど熾烈を極めたというほどではなく、空で敵同士がすれ違っても、同じ空仲間意識のようなものがあって、お互いに紳士的(?)だったとかいう話を聞いたことはありますが、それでも、英語で統一されるとイマイチ興が乗らない…
前述の《アマデウス》は、役者さんがアメリカ人だから仕方ないけど、こっちはドイツのお話でドイツの役者さんを使っているのに、何故に英語?と疑問に思って、映画に詳しい人に聞いてみると、これは英語圏の観客動員を狙ってのことで、ヨーロッパ映画界では使用言語を史実通りにしないことは別に珍しいことではないとか。
そういえば、ドイツは移民を友好的に受け入れている国の一つですし、自国の言語にこだわることなく、よりグローバルな視点を持っている国と考えられなくもないですね。
そもそも、ドキュメンタリー映画を作っているわけじゃないんだから、ある程度の自由は許されるってことなのでしょうか。
史実をベースにしているとはいえ、所詮、映画はフィクションです。
それに、戦争映画の意義って、二度とこんなことしちゃいけないって観る人に思ってもらうことでもあるわけだから、いわば世界の公用語でもある英語を使うのは妥当なのかもしれません。
多くの人に観てもらいたいですものね。設定にこだわり過ぎるのもほどほどにしないといけません。
木を見て森を見ずでした。(反省)
まあ、日本では日本語吹き替え版で観る人もいますし。
ちなみに私はオリジナル音声+日本語字幕で観る派です。
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