時には目食耳視も悪くない。

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LAUGH OR DEAD!?

2018年07月08日 | 映画
 学生の時、卒業論文がなかなか進まずに悩んでいた私に、指導教授がこんなアドヴァイスを下さいました。

「とりあえず、アイデアを書き出しなさい。頭の中で温めているだけでは、何もしていないのと同じだ。
順番なんて気にしないでメモ程度でも良いから、まずは考えを目に見える形にしなさい。」

 指摘された通り、頭の中ではなんとなく考えがまとまっていましたし、内容構成や結論も見えていました。
ただ、どんな導入で書き始めたら良いのかが分からずに悩んでいたのです。

 結果、アドヴァイス通りに、はっきりしている部分から先に書き始めてみたら、自然と導入が決まってきたというのは、本当に驚きの体験でした。
 すべての準備が整わないと、何も始められない性格なのですが、時には闇雲に歩き始めてみることも大切だと知った貴重な瞬間です。
 (とはいえ、未だにこの性格は治っていませんけど・・・)

 さて、文章や絵図、映像などを使って自分の考えを目に見える形にすると、それらは「情報」として大勢の人に伝達され、広がっていきます。

 情報を発信する側は、より多くの人に自分の考えを受信して欲しいと思いますが、一方で受信する側は自分の好みや興味によって、受信する情報の選り好みをする傾向にあります。

 概して、人の興味は気まぐれで飽きっぽいもの。
 常に新しい刺激を求めがちです。

 自分のアップする動画を再生して欲しいユーチューバーさんたちが、こぞって過激な動画を配信するのは、そのことが原因しているのだと思われます。
 どんなに正しい情報を発信していても、受信する側が「つまらない」と判断すると、その主張は半分も理解してもらえないどころか、情報の受信すらしてもらえません。

 つまり、いかにして自分の情報を受信してもらうかという問題が、発信者たちに課せられているわけです

 自分が発信する情報を効果的に、かつ効率的に伝達するために、先人たちは様々な工夫をしてきました。
 ドイツ・ロマン派の作曲家ローベルト・シューマン(1810-1856)は文筆家でもあり、音楽雑誌の主宰もしていました。

 彼はその中で、一つのテーマを複数の視点から分析するために、架空のキャラクターを設定し対話形式による持論展開をしました。
 これは古くは、プラトン(B.C.427-B.C.347)の著作やゲーテ(1749-1832)の《ファウスト》(ファウスト博士と悪魔メフィストフェレスとの会話)などにも見られる手法です。

 一人称で意見を主張するよりも、複数のキャラクターを設定し、異なる主張を併記することで、情報に客観性を持たせているのです。
 また、この手法は、あたかも読み手の目の前で議論が展開されているような臨場感を生み出すことができます。

 思わず自分の意見を言いたくなるような感覚を呼び起こすことで、読み手の興味はその情報に強く引きつけられるのです。
 こうしたキャラクター設定、使い方が絶妙だと感じたのが、アメリカの映画《テッド2(原題:Ted 2)》(2015、アメリカ)です。

 人格の宿ったぬいぐるみテッドが、アメリカの人間社会の中で、どのように生きていくかというコメディ映画です。
 映画の中でテッドが経験したり主張することは、アメリカ社会の中で生活している誰かが、多かれ少なかれ経験し、感じてきたことなのかもしれません。

 しかし、それらのことを、例えば日系アメリカ人(あるいは、他の移民の)の主人公が演じても、アメリカの観衆はそれほど心を動かされないかもしれません。
 どの人種でもない、まして人間でもないぬいぐるみだからこそ、最も効果的に見る側の関心を引き付けることができるのです。
 テッドが人権を主張するための裁判で、かえってぬいぐるみとしての特徴を露呈してしまうシーンはとても印象的です。

 この映画の主役・ぬいぐるみテッドの声を当てているセス・マクファーレンさん(脚本・監督・製作)は、アメリカで大人気のブラックジョークアニメ《ファミリー・ガイ(原題:Family Guy)》(1999-、FOX、アメリカ)の制作&製作も手掛けています。

 このアニメの内容は皮肉や揶揄、差別や偏見、ステレオタイプの先入観、オカルト、犯罪といった、どうしたらここまで反社会的に作れるの?と思うくらい不道徳なものです(笑)
 子供が見てはいけない度は《クレヨンしんちゃん》の比ではありません。(おそらく、日本の地上波で放映されることはないかと思われます・・・)

 この作品の登場人物たちにはボケやツッコミ、悪役、正義などの役割分担はありません。
 ダメなのび太をドラえもんが助けて、余計にこじれるといった定型のようなものもありません。

 まるで、キャラクター全員で一話ずつのコントを演じているかのような印象を受けます。
 ストーリー性というよりは、すべてがジョーク前提となっているので、何でもありの自由さがあるのです。
 パターン化させないということが、視聴者を飽きさせないある種の「刺激」となっているのでしょう。

 また、このアニメではキャラクターがなんらかの主張をするのではなく、現実の人間社会を皮肉たっぷりに描写していると考えた方が分かりやすいと思います。

 人間は決して、悪100%でもなければ、善100%でもありません。
 現実世界では、バイキンマンをアンパンマンが殴り飛ばして、めでたしめでたしという構図にはなっていません。

 泥棒が人助けをすることだってありますし、警察官が盗みをはたらくこともあります。
 暴君が悲しみを感じないわけでもありませんし、聖人に性欲がないわけでもありません。

 それらの事象について、このアニメは是非を下したり、教訓を唱えたりはしません。
 それら、現実にある物事を、ただジョークに置き換えて見せているだけなのです。

 本国アメリカでは、差別や偏見、暴力や犯罪を助長するというような意見もあるようで、何かと評判の悪いアニメですが、もし、作り手が差別や偏見に凝り固まったアメリカ至上主義思想の持主だったら、この作品のキャラクターたちはもっと違った存在感を持つでしょうし、現在のような幅広い人気を得ることもなかったと思います。

 確かに、厳しい現実に直面している人たちにとっては、冗談とは思えない、笑えないこともあるでしょう。
 しかし、現実に起こっていることだからこそ、見る人によっては不愉快になり、目を背けたくなるのではないでしょうか。

 世の中で実際に起きている差別や暴力に対して、いったいどのくらいの人が興味を持つでしょうか?
 けれども、アニメの中のジョークならば、ほとんどの人は笑って向き合うことができるのです。

 現実に起きている陰惨で過酷なそれらのことを、いつか、みんなで笑い飛ばせるような世の中にできるんじゃないかと、希望的に考えることができるのが「笑いの力」だと私は思います。

 私はこのアニメや、前述の《テッド2》を見ていると、作り手がいかにアメリカ社会の現実を真っ向から受け止め、良い方向へ変えたいと願っているか、いかに、真剣に自分の国を愛しているかが、そのエピソードの一つ一つ、キャラクターの言葉の端々からひしひしと感じるのです。

 よその国をあーだこーだと批判するのではなく、こういう形で愛国心を表現できるクリエイターさんたちを心から尊敬します。

 この記事を書きながら、ふと、「世の中みんなジョークさ!」と壮大なフーガで締めくくるヴェルディ(1813-1901)のオペラ《ファルスタッフ(原題:Falstaff)》(1893初演)を思い出しました。
 いつの時代も、人生に笑いが必要だと感じるのは、どの国でも同じですね。


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