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スピリチュアル~☆~確実に幸せに成る為の学び・諦めずに生きる時(小石真子)

2012-07-21 21:30:18 | スピリチュアルな出来事

スピリチュアル~★~確実に幸せに成る為の学び・諦めずに生きる時・・・・

 年間3万人以上の人達が、自らに大切な命を断っている・・。自殺をした人は10%らしい・・と言う事は、30万人以上の人達が年間に自殺を試みている事に成る。自殺者は、10年で30万人以上にのぼる・・事と成る。残された家族の悲しみ・・・身近な両親2人としても、年間6万人以上の関係者が悲しみと苦悩を背負う事と成る。それは一生続く・・。

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死にたい・・・と思って亡くなった方も、本当は生きて行きたかった・・。誰もが、幸せに成りたいと願っていた・・。

それでも苦しみに耐えられず、この世に身の置き場も心の置き場も無く、行く先に希望や目標を失ってしまう・・。真っ暗闇の世界に陥ってしまう。

誰もがとは言えないが、死にたい・・死んだ方が楽だ・・と思った人はいるだろう。突然の災害や事故で自分の意志とは別に命を落とす場合も有れば、病に犯され余命が宣告される場合も有る・・。已む無く失われる命・・行きたくても生きれない命も、自ら死を選ぶ者も又、本当は生きたい・・のである。

生きとし生ける者の定め・・・生命欲がそこにはある。

先のブログで、理不尽の極み(限り・限界)が有っても、落胆してはいけない。肉体と心魂を合わせ持つのが人間であるから、結果は黄泉の国に有る・・と。イエス・キリストの処刑は、それを示していると記載をした。般若心経は、さ~さ~何もかも捨てて無(空)に成り黄泉の国へ行こう・・と超訳すればそう言っている。

共に、死の世界への推進(勧め)をしている様に思うかもしれないが、そうでは無い。

例え、どんなに苦しい辛い出来事や思いをしても、幸せが無いと感じても、理不尽の極みが有ったとしても、生きなさい・・。その結果が、黄泉の国に有る・・。報われる場が幸せの場が在る・・待っている事を説いていますだから、安心をしなさい。心配は何も要らない悩む事も無い。

故に、諦める事無く怠る事無く、夢と目標を持って胸を張って堂々と明るく生きて行きなさい・・と言う事に尽きる。

釈迦は、その為に、瞑想を進めている。どんな苦も悩みも瞑想をし、その根源で有る過ぎたる人の心魂の欲を滅し悪を消す事で、苦悩を離れ再び生きる事が出来ることを示している。

死に至るは苦悩するが為・・その苦悩は己の中に有る過ぎたる欲であり、それによって生まれる悪・・・苦悩を指し示す・・。誰が悪いとか誰の所為・・とかの問題では無く、そう言った余計な事も瞑想では、滅してしまう事と成る。

そうする事で、己の心魂をシンプルにする事が出来る・・余計な思考・悩み憎しみ・・を滅し本当の自分の目標や夢や生きる意味・・・を知る(悟る)事が出来る。

神・御仏・神道の神々・・・色々と名前を変え姿をどの様に変えようとも神は、黄泉の国や神の国でただ、指を咥えて待っているのでは無い。すぐ側に、あなたと共に居てくださる。手を差し伸べて下さっている。

神が幾ら手を差し伸べても、あなたが救って欲しい・・・と手を伸ばさなければ手は繋げない。また、その手が欲と悪に塗れた手であれば、神とは決して手を結ぶ事は出来ない。故に、瞑想の必要が有る。

神の業・・・意図する処は、この世に溢れる人が造りし悪を滅する事に有る。悪を滅するは、この世と人の幸せ幸福を願っての事であり目指すものである。そして、そこには神・・神の愛が存在する・・・故に、神は愛そのものと言える。

しかし、人の肉体の中に宿る欲・・・から生まれる悪しき心・・これは、神でもどうにもならない。己・・自分自身が消滅しなくてはならない・・。その為に、釈迦は瞑想を勧めている。

多くを欲しない・・執着をしない・・それらは、清き心を生む・・そして正しく生きる道を見出し、己を強くする。

そして、与える愛・・の悟りに至った時に、さらに強く成れる・・。

人が自らの死を留める時、誰かが悲しむ・・迷惑を掛ける・・まだ、するべき事が残されている・・責任がまだ有る・・など、それらは人に向けられる愛が有るから留める事が出来る。

人から、この世から自分が必要とされている・・・役に立つ・・だから生きて居る価値が有る。必要とされていない・・自分には生きる価値が無い・・だから死ぬ・・。

そうでは無い。必要とされる様に、自分から愛を与える・・与えてゆく行動が生きるに結びついて行く・・。それは、誰からも褒められるものでも、労ってもらうものでも無くまして認められるを求めるものでもない。誰かが助かり誰かの状態が良くなる事・・誰かが喜ぶ・・それを肌で感覚し体感をするものである。

懸命に生きる・・・そんな人達に神の愛は多く向けられる・・。上手く行かない理不尽が有る・・・そんな所に何時もいらっしゃる。どん底・・・その暗闇に、神は静かに手を伸ばしている。故に、そこから這い上がり諦めず懸命に生きなさい・・とおっしゃっている。

例えば、御仏である観音様・・は、観音経を読んでみれば分る。観音様は何時でもどこでも参上し、助けてくれる・・と説いてあるが、それは、懸命に頑張って生きてる時におきるどうにも成らない理不尽・・・、その時、救って下さる・・と説いてある。

怠慢をし楽をし悪しき行いをし、欲を出し都合よく観音様の名を読んでも何の効果も無い。

多くの神々は、暗闇の底で静かに物言わず待っている・・。あなたが諦めず再び立ち上がり生きる事を・・そしてあなたが動きだすと共に、また神も動かれる・・。諦めない事・・・そして生きる事・・。

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