スピリチュアルアート・不思議話・猫話・神話を紹介します

癒しのスピリチュアルアート・不思議なお話・可笑しい猫話・チョッと面白い為に成るかもしれない自作の神話を記載します。

釈迦の教え・・…安穏と暮らせる事こそが何よりも幸せ・・その為には・・。

2016-03-13 21:59:18 | 釈迦との会話・教え

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人には、欲が有る…欲は、大きく分けて5つの欲に分けられる。

食欲・性欲(色欲)・物欲(金銭欲)・権威欲・そして生命欲である。そして欲は尽きない・・。

欲を滅する事が何より大切で、安穏と暮らす為には必要不可欠な事で、

「安穏と暮らせる事が何よりの幸せである。」・・と釈迦は申しております。


所が人は、安穏と暮らす為には5欲が必要不可欠で、色んなものを欲(ホ)しようとする。

欲する事で安穏と幸せに暮らせると思い込んでいる。そしてその欲望(欲する)はもっともっとと尽きる事が無い。

その尽きる事の無い欲を渇欲と言う。人は、本当の幸せの真逆の思考を持って歩んでいる。

だから己の人生において悩み苦しみが尽きない。何か有ればすぐ動揺をしてしまう。

これは人間が生まれ持った本能とでも言うべきか性と言うべきものかもしれない。

だからこその釈迦の教えとも言える。その教えが必要なのである。


般若心経・・・だれでもが知っているだろう。しかし、内容についての解釈は難しい・・。

内容を超簡単に説明すると、「何も持っては行けませんよ・・。未練も思いも何もかも空(から)にして、さ~さ~

あの世に旅立ちましょう・・。」そう言った所だろうか。

欲する事から生まれる資産も権威も色んな思い恨みも悔しさも悲しみも怒りも、さ~さ~お捨てなさい。

捨てなければ、成仏は出来ない・・天には上れない・・魂は救われない。

どんな理不尽な死に方をしようとも、するべき事が残っていようとも幼子を残そうとも、先ずはあの世に行きましょう。

と言った事です。

欲深き魂は天には上れない。いつまでも留まろうとする。その魂がどうなるかは何れ詳しくお話をするとして、良くは無い事は当然である。


老いる・・・ほどに人は色んなものを失って行く。失ってはじめて解る事・・悟が有る。分かろうとしない者は何時までも悶え苦しむ。

そして、老いていくほどに5欲も当然に失せて行く。老いるほどに失うほどに悟り魂を軽くして行かなければならない。

人は何時死を迎えるかは分からない。だからこそ、日々を正しく懸命に過ごさなければならない。正しく懸命に生きる者は何時でも天昇できる。


の欲は尽きる事が無い。己の思う様に財を成す(物欲)と、今度は、もっともっとと成る(渇欲)。財を成すと今度は人を世の中を己の思う様に操ろうとする(権威欲)。

女を沢山はべらしたく成るかも知れない(性欲)。美味い物を上等な物を沢山食べようとするかも知れない(食欲)。贅沢三昧をしたくなる。

そして今度は、何時までも長生きしたいと望む(生命欲)。それが無理となると今度はそれらを子孫に残そうとする。

死してなおも残したものが気にかかる。

欲深い者・欲する者・・・保(ホ)する者は死んでなおも欲が尽きない・・。だから天昇が出来ない。


誰もが知っている徳川家康・・・老いてなおも欲が尽きない者。老年にして天下を取り死しでなおも欲深く、

徳川家の繁栄を願い江戸城に向かって今も立ったままで埋葬されている。

権威欲で得た繁栄は何れは滅びる・・。滅びた今も彼は立ったままでいる。これからも未来永劫、死んでなおも心の休まる事は無い。

安穏・・・幸せなどとは程遠い。彼がもし、天下の者(国民)の繁栄と幸せを願っていたのであれば、天に向かい横たわり、手を合わせ天昇しただろう。

彼が望んだのは徳川家のみの未来永劫の繁栄である。


我々、凡人には権威欲などは程遠い・・・と安心をしてはいけない。家族が・・他人が・・職場で・・・思う様に成らない・・と思う事・・。

それは言い換えれば自分の思う様にしようとする事に当たる。他人(自分以外の者)を、その人の為とか愛しているとか正しい事だから・・と言い訳し、

自分の意思に従え押し付けようとそうとする事・・・。それもまた権威欲である事を忘れてはいけない。

思う様に成らないから腹を立てる・・怒る・・苦しく成る・・。安穏とはいられなくなる


人は、欲深い・・・。欲したもの保したもの・・資産・権威…多ければ多いほど・・高ければ高いほど、失う事を恐れる。

それでいて、自分はそうはなならない(失う)・・と何処かで信じている。心配しなくても何れは空(から)になる。この世に残せば、

死してからも空になるを歯がゆく見守る事と成る。

己の魂が卑しければ卑しいほど苦しむ事と成る。故に、欲深き事は良しとしない。

欲した保っしたものが多い者ほど、自分の思考や言う事は正しいと勘違いをする。そんな愚かな者に惑わされてはならない・・。自分も愚か者に成ってしまうから。


子孫に多くの資産を残す必要は無い。目に見えないものこそ・・・そこに大切な残すべきものが有る。


欲が無ければ、人はやる気を無くすだろう・・。そんな心配はいらない。

自分の為に生きる・・・それは、自分を破滅に追い込んでしまう。心を魂を弱化し苦しむ。

人は、他人(自分以外の人)の為に生きる事で、強く正しく、めげずに生きる事が出来る。生きる価値観と希望と幸せを見出す様に成っている。

家族の為は勿論の事、仕事で言えば、レストランなら美味しい食事を作り喜んでもらう・・。製品なら、人の為に良い物を作ろう・・。

医師なら病気を治そう・・。どんな仕事もお金儲けが先に成ってはいけない。人の為、人が望む必要なもの・・が先ず来なくてはならない。

人は、人の笑顔を見て・・・ありがとう・・と言ってもらえる事で満足が出来る生きる価値を自分の存在感を見出し幸せを感じる事が出来る。

これもまた、持って生まれた人の性・・と言えよう。これを人は愛・・と呼ぶのだろう。


猿と人のDNAはほとんど一緒らしい。猿だって賢い。子供への愛情も深い。仲間意識も強い・・。ルールも有る。

しかし、大きな違いが有る。食べ物をいくら猿に与えても他の猿に分け与える事は無いらしい。

人は、わずかな食糧でも皆で分けて頂く・・。分かち合う・・助け合う・・・。遠い昔…人が人で有る・・始まりからの習性である。

愛の始まりなのだろう。

人の始まりの頃、人は強い力も早い足も無く夜に成ると目も見えず、猿の様に木から木へと飛びはね果実を頂く事も出来ない

猿にも劣る2本足の生き物だったのだろう。洞穴で隠れ住み、わずかな食糧をみんなで分かち合い助け合って生きていたのだろう。

そうする事で人間は滅ぶ事無く現在に続いて来たのだろう。


故に、人は助け合い分かち合う・・人が居なくては生きる価値を見出せない・・・自分を見失う。

愛が必要で与え与えられ関わっていかなければ強く生きては行けない

欲を尽くしても人は満足はしない・・・渇欲は空しい。そんな満足感は、直ぐに失われまた次へと欲望が走る。


人に必要なのは人・・そして人の愛である。与え与えられ関わり生きる・・。

御仏の世界では、慈悲・慈愛と言うところだろうか

人と関わる事がうざい煩わしいと思う事が多い時代に成ってしまったが、一人は気楽で良い・・と思っても、

一人でいると切れた電池の様にパワーを無くしてしまう。

周りに人が居ない・・「私は独りぼっち」・・と自分の孤独を哀れんではいけない。

先ずは一歩外に出て、自分から人に寄り添っていかなければいけない。

話の苦手な人は…人の行為に対し「ありがとう・・。」の一言から始めると良いだろう。

つづく

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釈迦の教え・・・覚悟を決める  NO1

2016-02-27 02:40:00 | 釈迦との会話・教え


    釈迦の教え・・・・・覚悟を決める  NO1                  

  人は誰しもが幸せに成る為に、生まれて来る・・。そんな言葉を耳にした事が有りませんか。両親は生まれた子供に幸せに成って欲しいと誰しもが願うもの・・。

 しかし、大きく成り人生を歩むほどに、幸せ・・・その言葉が重く空しく感じる時がやってくる。こんなはずじゃ無かった・・・なんで自分はこれほどに辛く苦しい

 難儀な思いをするのだろうか・・・。努力をすれば報われる・・。頑張れば良く成る・・のはずなのに、なかなかそうはいかない・。そういった事を経験をする時がやってくる。

 そんな事は無い・・・。そう思っている人も何れはやって来る・・。苦しみ悶え身も心も動け無い身の置き所の無い・・・そんな時が時期がやってくる。

 誰しもが避けたいけれど避けて通れない・・。そういった時期・・出来事を理不尽・・・では無く、私は理不・・理不神の時 ・・・理不神の時期と呼んでいます。

 理にあなわない出来事・・・ぶっ倒れるほどの努力をしても・・必死で最善策を尽くしても思う様に全くならない・或いは突然の悲劇・・・地獄の底に落ちる感覚・・・。

 神も仏も居ない・・。そう思ってしまう時期の事を言います。

   

  私の幼い時の一番古い記憶を遡って思い出してみると、天井でくるくる回っているガラガラ・・・色落ちをし飾りの花びらも数カ所取れてしまって今にも壊れそうなもの・・。

 回る・・音・・赤やピンクの色・・やがて止まってしまう。布団を覆う蚊帳・・・・折りたたみ式の四角い骨組みのに蚊帳が張ってある赤ちゃん用の物だ・・。

 それが何だか臭い・・カビ臭い・・。誰も居ない・・泣く・・誰も来ない・・そして動けない・・起きれない・・つまらない・・・飽きる・・泣きつかれまた寝る・・。

 あのガラガラも蚊帳も4歳違いの姉のお古だ。長い間押し入れに仕舞い込んでいた物なのだろう。

 は夏の生まれ、あの光景は生まれて間もない頃だったのだろう・・。聴覚・視覚・臭覚・・未だに覚えている光景と思考がある。

 その頃からずっと私は良く泣いていた・・。お腹が空いた…お尻が気持ち悪い・・・寂しい・・お母さんの温もりが欲しい・・そんな時には勿論泣いていたのだろう・・。

 しかし、それとはまた別な思い感覚で泣いていた様に思う。

 その感覚や思いは言葉ではいい表しずらいもので、重苦しいもので嫌なもので暗いもの・・・そして空しいものだった。

 泣かなくなった・・泣けなくなった時期からもその感覚はずーっと近年まで続いてきた。

 しかし、最悪の理不神を迎え終えるとその暗く重苦しい感覚が無くなった。心が軽く成った・・。無く成ってみて分かった事がある。

 今から考えてみるとそれは、あの赤子の時から、この先に迎えるべく多くの苦難と難儀な人生を予知していて泣いていたのだろういと思う。

 この世に生まれた事が嫌だった・・のかもしれない。自分から望んで生まれて来た様には思えない。

 案の定、幼い頃から私は人並み以上の難儀を次から次へと重ねて来た。やたらと多かった。

 あの重苦しい暗い空しい感覚がずーっと続いていた事はとても難儀な事だった。

 人は生まれる時に、誰しもが産声を上げ生まれてくる・・。あの産声は、もしかすると、これから始まる苦難に満ちた人生を歩む事に対しての悲鳴にも似た重苦しい雄叫びの一声かもしれない。

 そして覚悟の一声かもしれない。そして、その一声で忘れてしまうものが有るのかもしれない

 私は、未熟児で生まれたらしいので、産声も小さかったのかもしれない。その為、忘れるべき事が残り覚悟もし切れなかったのかもしれない。

 

   この子は幸せに成るものだと信じ幸せに成って欲しいと願いを込めて大人達は名を付け呼びかけ微笑む・・。しかし・・・そうはなかなかいかない人生が待っている。

 釈迦が言った言葉・・。「この世は苦である・・」

 人は、何か苦難や理不神な時期になると、自分の身の不幸を恨めしく思い他人の誰しもが幸せそうに見えてしまう・・。自分と比較をしてしまう。そして・・・。

 しかし、釈迦の言う通り、この世は人生は苦難に満ちている・・ひとの人生なんぞは苦難そのもの・・・。

 苦難の人生・苦難・理不神は有って当たり前。そでれも幸せに成ろうと見つけようと努力をし生きるべきと覚悟を決めて生き進む。苦難の人生の中に幸せを掴む覚悟。

 人は幸せに成る為に生まれてくるもの・・・なんぞと甘く考えていると、幸せに成るはずだった人生に不幸・理不神事がやってくる・・理不神に出会ってしまうと、

 こんなはずでは無かった・・・どうして私だけが・・・と成ってしまう。

 泥の中に咲く水連の如く、泥を苦難の人生・この世そのものと悟り、たとえ頭まで泥まみれであろうでも泥すら栄養にし、なおも頭を持ち上げたくましく美しく咲く水連の花の如く

 覚悟を決め生きるならば、人生は変わる。

 釈迦の言葉・・・この世は苦である・・。なんだか耳障りの良くない暗くなりそうで避けて通りたい言葉の様に思っていたけれど、今は、納得がいく。

 「己の人生・・・覚悟を決め生きよ・・。」そう言われているのだろう。

 以前、釈迦に・・「あなたは生まれ変わらないのか・・?。」と聞いてみた。愚問である事は分かっていたが、あえて聞いてみた。

 すると、「生まれ変わらない・・」と返答が有った。その返答の際、相当の苦難苦行をされた事を私は一瞬にして覚った。

 だからこその教えの言葉なのであろう。

 つづく

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スピリチュアル~☆~釈迦の教え・・欲・・・食欲について。

2012-06-09 09:05:32 | 釈迦との会話・教え

 スピリチュアル~★~釈迦の教え・・食欲について・・

◎ 神仏から教えられる(声を聞く)時に、理解の出来ない難しい言葉は使かわれない。

聖書の様に、或いは経典の様に、難しい言葉は使わない・・。理解が可能な言葉を用いられる・・。頭の良い学者が専門用語を使ったり、如何にも威厳と権威を持って・・自分は頭が良いぞ・・偉いぞ・・・と言った政治家の様な言葉も使わない。

その本人の教養のレベルに合った言葉を用い分り易く説かれる・・。それは最初にそう言うものだ・・と天より教わった。聞いても説かれても分らない事は体感させられる・・。体感した後に説かれる場合もある。

理解の出来ない経典や聖書を100回読んでも、分らないものは分らない・・。時間の無駄・・である。その前に、私なら嫌になって諦める。読んでても眠くなってしまうだろう・・。万民が理解できてこその神仏の教えてある。

以前に、苦悩し続けた時に、いきなり「四面楚歌・・」と一言、説かれた(声がした)事があった。聞いた事の無い単語である

「シメンソカ・・なんや・・それ・・?」今の時代は便利である・・。辞典も有れば、パソコンで調べる事も出来る。後で調べて言葉の意味と由来が分った・・。調べてみて分った訳だが、私の教養レベルはその程度ある。苦悩と質問に対しての的確な導きの声(教え)だった。

理不尽・・・の尽きるに至って、導かれた本・・・ブッダの言葉は、本当にわかりやすい単語・言葉を用いて説かれてある。私のレベルに適した書物を与えられた訳で有る。

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以下、その本の内容を書き記します。

先ずは、欲の一つ食欲について・・。

食べ物に執着しない・・・。(ブッダの言葉より)

「君よ、私は食べ物に執着しない。故に、食料のストックが無くても「どうしよう、早く買いにいかなくちゃ・・」とせき立てられる苦痛は無い。食料が沢山ある時も適量で食べて終わるから「しまった・・!ストレスで過食してしまって、お腹が痛いよ」と言う苦痛は決して生じない・・。

故に、私は幸せ。

相応部経典の超訳

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こう言った言葉と単語を持って分り易く説かれている。私のレベルに適してる・・。有り難い・・。

色々と釈迦の説法を説かれた書物は有るだろうが・・・この本は全く持って私に適しており、苦行の末の導き教え・・「復習し悟りなさい」と言ったところだ。

釈迦の説法は、弟子に対して説かれたもので、それを弟子が聞きとめ覚えて居る事を後に書き記したものである。

短い簡単な教えだけれども、深く多様な意味と教えが説かれている。

今までの「確実に幸せに成る為の学び舎」のカテゴリーをずっと、ご覧頂いた方は、深い意味がお分かりになるでしょう。

食欲の根源・・食料を確保し減る無くなる事への不安・・そして又確保る・・・人間の尽きない欲を説いています。

欲に執着すると常に不安が付きまとう・・・そして食欲を満たし安心を得ようとする行為は、心の不安(ストレス)を食す事で消し、安心を得ようとするが、一時の安らぎにしかならず、また食す・・の繰り返しと成り過食と肥満になる

原始時代に、飢えに怯え不安を抱き、食を得て安心を得、一時的な幸せを感じたのだろう。そんな遺伝子が成せる過食は行動だろう。

食に執着をしない・・釈迦の教えは今も通ずる教えで有る。2550年ほど前から現代に至るまで何ら変わらない人間模様が今も続いている。

基本は、足りるを知る事が不安を無くし心が安らかで居られる。なによりも、その事が幸せだ・・と釈迦は言っています。

食欲について詳しく、前回のブログに記載しています。(ご覧ください) 

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スピリチュアル~☆~釈迦の教え・・苦悩の末に偶然に、導かれた本がある・・・

2012-06-07 17:55:03 | 釈迦との会話・教え

スピリチュアル~★~苦悩と難儀と暗闇の末に出合った本がある・・。超訳・・・ブッダの言葉・・である。

 有る優れた霊能者が、「何とあなたは余りにも理不尽を受けているのだろうか・・.懸命に頑張って来たと言うにに・・・何故?・・・可愛そう・・。」と深く同情をされた事が有った。

   ~~~~~~★~~~~~~~★~~~~~~★~~~~~~

十数年・・・「もう駄目だ・・。」どれだけ思った事だろうか。首の皮一枚・・暗闇・・絶望・・地獄の底・・・そんなものはとっくに通り過ぎてしまっていた位置にいた。

そこは何処かと言うと、理不尽の尽きる(限り)と言った場所で有り位置である。己以外には何も無い・・・。

理不尽・・理念・道理に適わない・・報われない・・そういった事だ・・。

そこに至るまでに導いた者は、釈迦・・・・である。

神仏に試され、これほどの理不尽を味わっているのだろうか?イヤイヤ・・魔神に追い詰められこうなってしまったのだろうか・・。ここに至っては、分らなく成ってしまった。分って居るのは、自分の愚かさだけだった。

釈迦に命を助けられたけれど、釈迦を好きには成れなかった・・。何故なら、「お釈迦に成る・・・そんなことわざが有るが、何もかも無くし基に成る・・・そう言う意味で有り、釈迦と関われば、神仏に帰依する道を選べば・・何れそうなり兼ねない・・・と察していたからだ。

そんなに成ってしまった時に、全くもって物言わぬ釈迦・・・そして仏・・・神・・・。静かなものである。何にもない・・真っ暗だ・・。この場は、時間が無い・・音もな~んにもない・・。まるで独房だ・・。己と向き合うしかない・・。

家の整理をし、集まったCDをどうしようか?と思った・・。たまたま古本屋の看板の「CD買い取ります・・」の文字が目に飛び込んできた。

そうだ・・・あのCDを売ろう・・。売って入ったお金・・・その古本屋でたまたま偶然に目に飛び込んで来た本・・・それがブッダの言葉・・・たっだ。買ってしまった。

「そうか・・!何を聞いても、ここの所、無しのつぶて・・さっぱり、もの言わなかったが・・・そうか・・この手で来たか・・。釈迦らしい・・。直球では来ない・・」そう思った。

読んで・・・腹を立て・・・何回も読み直した・・。やっと理解が出来だかもしれない。

そして、導かれた事を悟った。

理不尽の尽きるに(限界)至った時、己と向き合うしかない・・・。ここに至って、神も仏も無い・そう感じるほどに・・静かで真っ暗で誰も居ない。しかし、・・・そこに神仏の真の深い愛・慈悲・慈愛が存在する。

ブッダの言葉の本を・・これから、徐々に一緒に、紐解いてみましょう。

 つづく

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スピリチュアルなお話~★~釈迦が現われ助けてくっれた~その2

2012-04-28 00:09:45 | 釈迦との会話・教え

スピリチュアルなお話~★~★~釈迦に助けてもらった・・その2

魔神(おろち・悪魔・魔界の者・悪しき者)の正体とは?

それにしても、悪魔に出くわすなんて(昨日のブログ記載)、まるで漫画に出てきそうな出来事だったけれど、全て本当の事だから・・。それにしても漫画も馬鹿には出来ない。そこには神仏の意向が備わっているからだ。その事は、後でお話をするとして、出くわした魔神の正体についてお話しよう。

魔神の正体を説明するには、先ずは、宇宙の話から遡って行かなければならないのだけれども、簡略して説明をしよう。

宇宙の創造、或いは存在自体を人は、創造主・主・主神・大日如来とか言い、宗教により呼び方に違は有るが、人間の思考・知恵を遥かに超越した存在である。人は、その有り様(宇宙の創造・存在)を人格化して名称し、或いは姿として表している。

その主神(創造主)を簡単に言うと愛そのものと表し、愛により万物は造り出されたとも言える。星も地球も我々人間も動植物も全てである。人間が必要とし崇める神や仏も、そこ(主神)から創造された神であり仏である。

主神の傘下には色々な神様かいらっしゃる。日本には天照をはじめとする八百萬の神様が居て、それぞれの役目を果たされている。御仏もまた、同様にそれぞれの役目を果たされている。守護神・守護霊・眷属(龍・狐・蛇・天狗など)また、人の霊(死後の魂)そして、現世では、肉体と心魂を併せ持つ人間に大きく分かれる。

万物は、全て相対性があると言われているが、神様魔神の相対性は何処の位置に属するのだろうか?

主神と相反する所(対座)には魔神は位置しない。主神の存在は、別格の位置に存在する。魔神は、主神の傘下に属する神でも無く、主神によって創造されたものでも無い。もっと下等な位置に対座している。

魔神は、人によって創造されたもの、人々の悪しき魂から生み出されたものだ。主神の傘下に有る神々や御仏と人の善の心魂と対座(相対)し存在している。

ある時は巨大化し、ある時は一個人に存在し、姿や形(容姿)も自在に変える。ある時は神に、ある時は仏に、ある時は眷属にと、変身し、80%くらいは、もっともらしい事を言い行ない、残り20%で本性を出す。

欲深い悪しき心魂の持ち主は、魔神を神と崇めている場合が有る。どんなに上手く化けて見せても化け切れない箇所が有る。

それは、目である目は、赤い。良く漫画で出てくる悪しき者の目を赤く描いて居るが、あれは、作者は無意識かもしれないが、そこには神の意図する所で有り、描かされているので有る。

私が遭遇したあの恐ろしい赤い目真っ黒に渦巻く胴体・・それは、正しく悪魔(おろち)である。

あの時、一瞬、私の中に入った時に、どう言った目的で、私の前に現われたかが読み取れた。東京に本部を置く宗教団体に居る魔神である。近年、こちらに進出し、私の住む近い位置にその宗教団体が建っている。私か本格的に目覚める前に倒したかった様だ。得体の知れない正体、異様な災いは、こいつの所為だ。あんな所に隠れて居たんだ。

あの時、悪魔の囁き誘いをきっぱり断った後、私はすっかり目覚め、天よりあらゆる教えを伝授してもらっていた。後に私はこの教団の魔神を退治する事となった。その事は、何れお話しましょう。

それにしても、体感(釈迦の教えに記載)だとは言え、救ってくれたとは言え、トラのオリの中にいきなり放り込まれた様なもので、何の相談も無く、いきなり悪魔を目の前で見せられた時は、心臓が止まりそうに成った。

釈迦の荒療治には参ってしまった。だから、釈迦は、ひねくれ者だと言いたく成る。けれでも、とても感謝をしている。あのままだったら、私は、確実に命を落としていた。

ここの所、ちょっと重い話が続いてしまった。ここらで、明日は、明るい面白い日本の神様のお話をしましょう。

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スピリチュアルなお話~★~釈迦が現われ助けてくっれた。

2012-04-27 18:44:40 | 釈迦との会話・教え

 スピリチュアルなお話~★~★~釈迦に助けてもらった・その1

■ あんなに怖いもの見たの初めてだった・・・ただただ、怖かった!!

生きていれば難儀や苦労は付きもので、目指すものが有れば、なおさらの事である。進む道の前には大きな壁が幾つも立ちはだかる。今まではその度に頑張って、ナニクソ!で乗り越えて来た。

それがどうもここの所おかしい?。何時も通りの要領で頑張り乗り越え様とする。相当の努力で何とか乗り越えてみたもののどうも壁の性質が違う様に思える。何かがおかしい?壁と言うより災難と言った方が良いかもしれない。

度重なる災難が起きる。こんな悪い事がどうして次々に起きるのか?運に見放されたのか。まるで得体の知れない何者かが意図的に災難を起こし、その度、得体のしれない何者かが、すーと救いの手を差し伸べる・・。その得体の知れない両者は相反する者の様に思える。何か末恐ろしい怖いものを感じて仕方が無い・・。なんだろうか?気にせず頑張るしかない。

とうとう、どうにも成らない大きな災難(悪しき事)がやって来た。人(会社)に救いの手を差し伸べた挙げ句に裏切られてしまった。その後、その関係者で被害に合った人に手を差し伸べ、さらに裏切られた。踏んだり蹴ったりとは正しくこの事だ。途方に暮れた。

自分の、愚かさ、甘さ、お人よし、身の程知らず・・・。自分を責め続けた。自分は、何時も誰かの為に出来る事はしよう・・・そう思い行動して来た。考えて見れば、自分の事を何時も後回しにして来た様に思う。

そんなある日の事、声が聞こえた。「人の為に幾ら尽くしても、感謝される所か利用されて裏切られる・・。それでも、お前は人間を信じるのか?。恨まないのか?。人間に見切りを付けよ。身を任せれば、難なく楽に大金持ちにさせてやる。」

一瞬にして入ってきた声・・・。妄想でも自分の心の声でも無い。何が何だか解らないけれど、恐ろしい者で有る事を感じた。身など任したら大変な事に成りそうだと思った。

思わず私は「人間に見切りを付けたり恨んだりはしない。今まで助けてもらった多くの人達が居たから、ここまで生きてこれた。出来る事は今まで通りする。決して人を見限ったりはしない。今までの自分の人生を否定する事は出来ない。ただ、助ける相手を間違えた自分が未熟だったんだ。殺されても変えるものか・・・。さっさと出て行け!!。」そう叫んでいた。

そうは言ったものの途方に暮れ、身も体も動かない。どうして良いのかも解らない。家の中は何とかこじんまりと掃除をしていたが、気が付けば裏庭は草に覆われてしまっていた。

ある日の事、声が聞こえ、「裏庭の草をあの檜の元まで、1メート幅で良いから草を刈り進みなさい・・。」と言われた。訳が解らないまま、カマを手にし草を刈り始めた。結構な距離を刈り進めた途中、釈迦が現われた。

訳が解らないけれど、懐かしく愛しくやっと再会が出来た喜びに涙が止まらなかった。共に喜んだ。

草を刈る様に言ったのは、釈迦である。再び、私は草を刈り始めた。

やっと檜の木の下辺りまで辿りついた。やれやれやっと思い、目の視線を檜の元に置いた。

その時、木の元に、この世では見た事も無い恐ろしいものを見てしまった。

真っ黒い渦を巻いた胴体!鋭い真っ赤な目!見たことも無い恐ろしいものが、檜の元に渦を巻いて居座り、こちらを睨み付けている。あまりの恐ろしさに、体も時間も止まり動かない。わ~~わ~~声にならない叫び声を上げ、その場から私は逃げ出した。

丁度、その時、友達がやって来た。只ならぬ様子に「どうしたん?」どんな時でも彼女は、おっとりとしている。

その時、その恐ろしい者が私の体に入り込み、「よくも見付けたな・・。ただではおかん・・。」と叫んだ。

彼女は、もの静かに私の背中をさすり呪文を唱えた・・。すると、す~と恐ろしい者は私の体から消え去った。釈迦が彼女を使い呪文を唱え恐ろしい者を追い出した。

その後、釈迦は、私を使い、檜の元に居た恐ろしい者を退治した。

あの恐ろしい者の正体は、悪魔・おろち・魔界の者・魔神・・言い方は色々と有るが、悪しき者である事を釈迦から教えてもらった。どうしてあんな恐ろしい悪魔(おろち)が居たかの訳を後に知る事と成った。

異様な事が続いたのも、すーと救いの手が入ったのも、得体の知れない相反する正体のなぞが解けた。神仏の救いと魔神(おろち)の仕業だった。

少々の力では無理で、釈迦の力が無ければ、私は救われ無かった事を確信している。 つづく。

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スピリチュアルなお話★~★~★~釈迦との会話・・・その4

2012-04-25 16:52:00 | 釈迦との会話・教え

 スピリチュアルなお話★~★~★~釈迦との会話・・その4

 釈迦本との出合い・・・

お導きは、天よりの声とばかりとは限らない。

人生に行き詰まった時に、自分の進む道が全く解らず真っ暗に成った時に、前に進む為に差し込む導きの光(光明)が有る。例えばそれが、書店でふと見つけた本だったり、誰かの助言だったり、音楽だったり・・・。誰もが経験をした事が有るかと思う。難儀や苦に逃げ出さず向き合った時に導かれる。

或る時、余りの苦しさに天に聞いてみた事が有る。「苦しくて仕方が無い。どうにもならん?」すると、こんな声が聞こえて来た。

時間は昼時である。「空を見よ。昼間の空にも星は輝き存在する。しかし、こうも明るければ見えない。存在すら忘れてしまう。暗い夜には、星が良く見える。街の灯りも月の光も無い闇夜は、さらに星は輝き良く見える。」

「そうなんだ・・・。昼間も星は出てるんだ・・。考えた事も無かったな~なるほど。」ポカーンと、しばらく空を見た。

苦労や難儀にとっぷり肩まで浸かってしまった時、あの頃は、当たり前と思っていた事や苦労と思っていた事も、当たり前が幸せだった事に、苦労と思っていた事さえも大した事ではなかった幸せの一端だった事を思い知る。結構、恵まれていたんだ・・・そう思える。

天からの声、星の例は、聖書に書かれている事を、後から人から聞いて「そうなんだ・・・」と知った。

肩までとっぷり浸かってしまった苦労や難儀に終わりは無かった。とうとう、頭の先までとっぷりと浸かってしまった。「もう、息も出来ん。終わりかな・・・。頑張ったんだけどな・・・。」通常では、報われるはずの苦労や難儀・・。粋を超えてしまっている事を感じる。、、報われない。理不尽な事もいっぱい重なって来た。理不尽は、私にとっては、理不神と言う意味に思えた。道理に合わない・・報われない・・神仏に見放されたと言った方がいい。

私は「理不尽の限りがここに有ったとしても、死が直ぐ目の前に存在しようとも、天(神仏)が私を見放そうとも、私は天(神仏)を愛し信じます。」と言った。「こうなったら、もう、そちらが嫌でも衣の裾(神仏の)だろうが足だろうが、しがみついてやる・・。」もう、ヤケクソだ!!。。そうは言ってみたものの、どうすれば良いのか解らない。

ある日の事、偶然に古本屋で見つけた本が有る。超訳・仏陀(釈迦)の言葉(小池龍之介著作)。解りやすく解説された本だった。要らなく成ったCDを売り、そのお金で買った。定価は結構したが、CDを売ったお金で間に合った。助かった。

やっと、ここに至って、現れたか・・釈迦め・・!。

私は、これも、釈迦の仕業(導き)で有る事を感じ察した。

!読んで腹が立って仕方が無かった・・。腹が立って立って思わず3回も読んでしまった。

そこから、究極の教えがはじまっだ。

明日は、実際に起こった話・・・。釈迦と初めて出会った時の出来事命を救われた怖い体験を話します。・・・とにかく、怖かった・・!

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スピリチュアルなお話★~★~★~釈迦との会話・・・その3

2012-04-24 23:00:34 | 釈迦との会話・教え

 スピリチュアルな出来事~★~★~釈迦との会話・・その3

■体感・・・

「反抗するは、向き合おうとする証である。」との釈迦の言葉を前回のブログで紹介しましたが、釈迦の説法は、だらだらと長くは無い。集約した言葉を提示し、後は、自分で悟れ・・と言った具合です。

思案し難儀し苦悩した末に頂いた言葉は、集約された言葉でも、ゆっくり考えれば(自分と向き合う)れば、ちゃんと理解が可能である。

随分と思案し苦しみもがいても分からない、答えが出ない。幾ら教えて欲しい・・と懇願しても知らん顔をし、答えてはくれない場合が有る。もう7~8年も答えを求めて苦しんでいた。その末頂いた言葉は、「資質である・・。」たったそれだけの言葉だ。1で、100を知る・・・そんな感じである。その一言で、悩んでいた事の全てを理解する事が出来きた。

様は、体感である。山ほどのすばらしい教えの長本を覚えてしまう程に1000回読むよりも、世の中の有様や人を見たり聞いて知るよりも、自分が体感し思案し苦しみもがき悩んだ行く末に辿り付いた(頂く)言葉や説法は、たった一言でも、100を知る事が出来る。答えが解る。

随分と経ってやっと・・「もう、そろそろ理解が出来る頃だろう・・」と、その時を見計らって、釈迦は、集約した言葉を発する。そして、理解が出来る。

故に、先のブログ(その1)で釈迦は、変化球を投げる・・・ひねくれ者だ・・と言った訳だ。

釈迦は、厳しい・・・しかし、慈悲と慈愛に溢れている仏様である。反抗ばかりする私に言ってくれた言葉が有ります。「お前には、反抗したくとも反抗する親も誰も居ない。故に私が受け止める。」私は、早くに、両親を亡くしていましたから、反抗期には板戸に成れず網戸であったのかも知れない。長い間そうだったのかも知れない。(釈迦との会話その2に網戸と板戸について記してます。)

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不思議なお話★~★~★~釈迦との会話・・・その2

2012-04-24 02:49:53 | 釈迦との会話・教え

 不思議なお話★~★~★釈迦との会話・・・その2

□ 網戸と戸板

 神様や御仏様(観音・如来)守護神・守護霊様が、もの申す時は、如何にも格調高い凡人では理解し辛いしゃべり方をする様に思うかもしれないが、それは全く違う。

政治家の様に、或いは偉い学者や評論家がやたらと難しい専門用語を使い話す・・・そんなものとは全く違い、相手に分かり易く理解が出来る話し方をして下さる。例えば、3歳児には3歳児に分かる様に、小学生には小学生に分かる大人で有り、また凡人の私にはそれなりの理解出来る言葉でものを申される。

一瞬にして多くの言葉・意味が凝縮され、パン!と入って来たものを、なるほどと読み解いて行く(メモリーの様な)・・・そんな場合と、一言・・・パンと入って来る時や、分からない数学の問題を分かり易く例を上げて理解し習得出来る様に教えてくれる学校の先生の説明の様に、もの申す時もある。或いは、言葉では無い言葉・・・説明しずらいが、普段、人は相手の言葉を耳で聞きそして思考し対話しているが、直接、脳(思考・心魂)に入って来る・・・そんな感じの場合もある。

正しい、神仏・守護神や守護霊は、命令をしたりは決してしない。「あ~しなさい、こうしなさい・、・・肉を食べなさい」そんな事は言わない。もし、言ったと言う者が居れば、それは神モドキを崇めて居るか嘘を言っているに他ならない。

以前、「神仏に私は、帰依し従います・・・」手を合わせそう言った時、天は「我々は支配者では無い。あなたと共に共存共栄する。」と申されたからだ。

では、釈迦との会話の話をします

私は、釈迦に対し反抗ばかりをし、口のきき方も知らず、都合の悪い事は釈迦の所為にした事も有ったし、「好きじゃ無い、嫌い・・」とまで、言った事も有る。命を助けられたにも関わらず・・・。しかし、良くも飽きる事無く見捨てる事無く、悟り(まだまだ入り口)の道に導いてくれたものだと思う。多大な愛・慈悲と慈愛を感じている。

ある時、釈迦に聞いてみた。「そんな私に腹は立たなかったのか?」そう聞いてみた。

すると、釈迦は「腹を立てるほどの事も無い・・。反抗期の子供の様なものだ。」と言い次に「反抗期の子供は、網戸では無く戸板の様なものだ。」とも言い例を上げて申された。

以下、聞いた事を、下手ながら私なりの言葉に置き代えてみると、戸板とは?

台風の風が吹いた時、網戸は風を通し何の変化も無いが、戸板(雨戸)は、まともに風を受け止めるほどに、がたがたと鳴ったり、時には外れたり飛んでしまったり壊れたりする。反抗する子供は、正しく戸板(雨戸)と同じ様なものである。

親・友達・先生・大人や社会の事や或いは生きる意味など、大人に成るまでの過程で、思考しもがき悩み苦しむ姿は、風をしっかり受け止め様とする戸板の様なもので暴れる。物静かな網戸ならば、親は安心で楽かもしれないが、戸板が鳴る度に煩わしいし、外れれば元に収めなければならない、壊れれば修繕もしなくてはならない。そこには、決して諦めない見放さない親の愛情が必要である。

「反抗するは、向き合おうとしている証である。何の腹を立てる事があろうか。」と、その後に釈迦は言った。

反抗する子供が、母親に「ババー」と言ったり、悪さをしたり、親の所為にしたり文句を言ったり無視したり・・・子供では無いので、悪さはしなかったけれども、確かに私は、反抗期の子供の様なもので、神仏に帰依し悟りを開こうとする過程で、辛く苦しい度に、釈迦に大いに反抗してきた。

どんな時も見放さず、諦めず見守り続けてくれた釈迦の愛(慈悲・慈愛)が有ればこそ、悟りの道筋に入る事が出来た事を、改めて思う。

今の住宅事情では、戸板は少々の風ではびくともしないのだろうけれど、私の時代の家の戸板(雨戸)は、台風の影響を良く受けた。私の時代に合わせ、釈迦は例を上げて言っています。

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不思議なお話★~★~★~釈迦との会話・・・

2012-04-22 22:42:14 | 釈迦との会話・教え

  ● 思議な出来事~★~★~釈迦との会話・・その1

□ 釈迦は輪廻転生しないのか?

 あまり突拍子も無い事ばかりをブログに書くのも如何なものか・・・と何時も思ってしまう。

頭がおかしい?そう思う人も多い事だろう。自分だって、信じがたい事ばかりが次々と起きるもので、、、戸惑い、「私、ちょっと変かも・・」と思った事も多々有った。しかし、不思議な出来事は、私ばかりでは無く、私と一緒に居て体験した者も居るのだから、本当の事だ。数々の不思議体験は、神仏の存在を確たるものとしていった。予言も次々と当たれば、尚も信じる事となる。

さて、釈迦の話をしましょう。釈迦は、時々ではあるが、私の前に現れる。その事を、見破った鑑定士がいた。私は、誰にも話した事は無かったのだけれど、「あなたの中に40%、釈迦が存在する・・」そう言われビックリした事が有る。確かに、何時も釈迦の存在を感じていたし、時折、話してもいた。それにしても、この世には、すごい鑑定士が居るものだ・・と関心をした。

釈迦は、今は如来として存在しているが、人として生まれた実在の人物だ。イエスキリストもそうだが、それなりの個性が有る。釈迦の性格は、一言では説明しずらいが、野球のピッチャーの玉で言うと、ストレートの玉は投げてこない・・・。カーブしたりストーンと落ちたりの変わり玉を投げてくる。言い方は悪いが、素直では無い。

ある時、釈迦に聞いてみた。「あなたは、生まれ変わらないのか?」そう聞いたのには理由が有る。イエスキリストは3日後に生き返り、墓に遺体が無かったとの事だからだ。

すると釈迦は「私は、二度と生まれ変わらない。この世は、苦である。」と言った。よっぽと生まれ変わりたくないんだな~そんな感情が伝わったもので「そんな事言わないで、生まれ変われば良いのに・・」ちょっと、意地悪を言ってみた。すると「私は、こちらの世(黄泉の国)で、忙しい・・・」そう、言われた。(私は、この世でこんなに苦を受けているのだから、釈迦も受けてみたら・・)そんな思いも有った。かなり私もいじけている

私は、仏教も神道もキリスト教も別に詳しい訳では無い。後で、知る羽目に成る事が多い。文献などを読んで知ったり人から聞く事となったりする。それでもって確信する。

あの時に釈迦の言葉「この世は苦である」そう言った事も、二度と転生しない為に辛い修行をし悟りを開いた事も後で知った。あの時、ひしひしと感じた釈迦の魂の感情が、今も忘れられない。

私は、釈迦に命を救われた事が有るが、にも関わらず釈迦に対して反抗的な感情を抱いて来た。しかし、その後、釈迦の偉大さ、すごさ知る事と成った。如来として存在する意味を悟る事と成った。

口のきき方も知らない、浅はかな私を飽きる事無く見放さず今も居て下さる。心よりお詫びをし帰依します。

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