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スピリチュアル☆不安を除く・・・ジョンレノン&ホイットニー・ヒューストンは?

2012-05-16 11:50:30 | 確実に幸せに成る為の学び舎

確実に幸せに成る為の学び舎ジョンレノンホイットニー・ヒューストンの場合は・・・

誰もが知っている二人の・・名前・メロディー・歌詞歌声・・・!

  とても素晴らしいアーティストで有る事は誰もが認める処です。生前、頂点を極められたお二人ですから。

多くを欲(確保)する者は、大きな安心を得るが、やがて大きな不安を抱え込み、もがき苦しむ・・。と、(第3回目授業)で記載しておりますが、頂点を極めた・・・ジョンレノンホイットニーのお二人を、例に上げてお話をさせて頂きます。

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■ 滑落・と不安・・・・第4回目授業

登山は、登頂(てっぺん)を目指し登るものか?下山を目指し登るのもか?こんな言葉を聴いた事が有ります。

あなたは、どちらだと思いますか?

普通に考えれば、当然、登頂(てっぺん)を目指し登るものだと考えるでしょう。しかし、登山のプロは、「登頂を目指し登るけれど、下山を終えてはじめて登山と言える。」と答えるでしょう。

日本の有名な登山家が、テレビ番組で「登頂をしても直ぐに降り、頂上に長居はしません。下山後のビールが最高に旨い!。」と、笑いながら話していました。

登った山は、必ず降りなければ成りませ。物事の相対性の原理です。

誰もが羨む才能の頂点・世界のトップ企業・世界で名だたる資産家・何処かの国で、まだ存在する独裁者・その国トップの政治家。この世には、社会や世間で言う所の価値観で成り立つ、山があり頂点が有ります。

この山に登ろうとすれば、大抵は途中で滑落してしまいます脆くて狭い登り道で、やたらと鋭もので点には、ほぼ一人くらいの立ち位置しか無い。この山の頂上(てっぺん)に登ると誰もが居続けたくなってしまうが、この山も例外無く下山しなければならない。

この山のてっぺんには、何が有るのだろうか?。そこには、誰もが欲しくてたまらないものが有る。地位・名誉・喝采・注目・肩書き・或いは利権・権威・そしてお金・・・そんなものが沢山有る。

一見、煌びやかで、目もくらんでしまうほどです。しかし、目がくらんでしまうとお仕舞いだ。人格も変わり自分を見失ってしまう。大方の人間がそう成ってしまう。「自分は特別な人間で選ばれた人間で有り、自分の言う事する事は間違いが無い。私は、成功者である。故に手放したくは無い・・。下山などするものか・・。」そう思ってしまう。

この山の頂点には、人間の欲望の恩賞が渦巻く処で渇欲(底知れず限りなく満足をしない欲)の場である。どう足掻いても、この山は、必ず下りる又は引きずり落とされる又は、後から迫ってくる・・。そう言った無常の場(常にかわる)で有る。

この山に登ったものは、決まってこう思っている。「私は、相当に苦労した。能力・才能が有った。相当に頑張った・・。」と・・・。しかし、世の中には、相当に苦労しているし、才能も能力が有るし、頑張っている者は山ほど居る。たまたま、一時的に登った事に本人は気が付かない。

この頂上は滑落してしまう不安と失う事の苦悩・・。しがみ付くほどに身を滅ぼしてしまう危険な山である。

しかしながら、この山は降り切って又は、滑落して、はじめて解る大切な悟りが有る。そして、悟った者は、今度は、己の中に有る自分だけの山を登りはじめる。何時までも、そんな山を見上げていてはいけない。

己の中に有る山には、欲望が無い。そこには愛が有る。希望が有る。故に不安も少ない。不安よりも希望が活力(パワー)が、頑張りが、強さが勝っている。そしてこの山には下りが無い。

ジョンレノンは、頂点に立った時に、自分からさっさと降っていった。下山しての登山で有る事を知っていた。彼の場合、気が付けば頂点に立って居たのだろうが、彼は、そんな頂点は、最初から好まなかったのだろう。

彼は、最初から自分の中に有る山を登っていたのだ。歌いたいから歌う。人に伝えたいメッセージが有り、人を感動させたい・・・から歌う。彼の目の前には何時も、人に向けられる愛が有ったのだ。彼は、家族を愛し人々を愛していた。故に、安らかな人生を歩んでいたのだろう。

ホイットニーの場合、最初は、歌が好きで、歌いたいから歌う。人を感動させたい・・・出発はそうでも、頂点に着いた時に、目がくらんでしまった

滑落したくない・・。でも、滑落して行く。思うように人も事も成らない。こんな筈ではない・・。そう思い苦悩し、薬に逃げてしまった。普通は、人も物事も思うように成らないものである。みんな、それで苦労をしている。

滑落しきったその時に、悟れない人間は、再び、同じ山を見上げ、登ろうとする。しかし、同じ山は二度と登れない・・。登ると命取りに成ってしまう。

己の内に有る山を登る事を選び進む成らば、ただ、歌いたいから歌う。人を感動させたい・・・目の前には、人に向けられた愛のみが存在する

さて、彼女は滑落し切って無かったのか?。滑落し切ったものの、悟れなかったのか?悟れたのか・・・?。どの山を見上げ登ろうとしていたのだろうか?

彼女は、「私は弱かった・・。」と言っています。その弱さは、失う事への恐れと不安・・そして、渇欲が有ったからに他ならない。

この世、社会と関わって生きている以上、誰しもが、この危険で脆い山(それなりの山)を目にし、登る機会が与えられている。

 あなたは、今、どちらの山を登っていますか?社会・世間の価値観で出来た山を登って居るなら、そんなくだらない山からは、早く手を離し底まで滑落をした方が、ましである。

あなたが、もし、親で有るなら、御子さんには、そんな山は、はじめから登らせない強要しない様にした方が良い。この山は危険な山で、滑落すれば、一歩、間違えれば命取りと成り、立ち上がるのも大変だから。

世の中には、はじめから自分の中に有る山を登り進んでいる賢い人達が居る。その人達には何時も対象とする人達が居て、何時もそちらに愛を向けて進んでいる。与える愛が存在している。渇愛(求めるばかりの愛)は、不安を呼び人を弱くするが、与える愛は、不安を消し(少なくし)人を強くする。この山を登るのは大変だろうが楽しい。生きがいが在る。生きて居る意味が在る。

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