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SPORTS! SPORTS! 寝てもさめても

16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

長嶋茂雄は永遠に不滅!! この深い喪失感。。

2025年06月04日 | プロ野球

昨日の朝、
衝撃の報道を受けてから、
1日が経ちました。

しかしまあ、
この喪失感は何だろう。。。。

やはり長嶋茂雄という人は、
日本最大のスーパースターということしか言えません。
それほどすごい人だった。


まだワタシが少年の頃は、
学校での話題も男の子は野球の話題が多くて、
特に巨人の話題は多かった。

長嶋はワタシが小学生のころ現役の選手で、
本当はそんなに見た記憶はないのかもしれないけど、
何しろワタシの頭と心の中には、
あの長嶋の溌溂として素晴らしいプレーぶりがすごくたくさん残っています。

バッターとしての勝負強さも大好きでしたが、
なんといってもあのサードでのフィールディングは、
見るものすべてを魅了しましたね。

昭和30年代から40年代にかけては、
まさに日本中の子供たちがサードを守りたがりました。
背番号3をつけて。。。。。

後年野球も変わり、
サードというポジションはそんなに花形ではない・・・・・・
という事になっていますが、
日本で長嶋がいた時代は、
サードこそが野球の最高にして花形のポジションと思われていましたね。
長嶋のおかげで。

今はショートが内野の花形ですが、
その頃の巨人は黒江がショートを守っていたので、
サードと比べて地味だなあ・・・・・という認識しかありませんでした。

そして長嶋とともに、
V9を成し遂げた巨人こそが【野球の正義】という感じで、
巨人が勝つことが「日本の予定調和」だったと思っています。

巨人の優勝、
み~んな喜んでいたもんなあ。
ある意味、
本当に日本が一つのベクトルに向かって行っていた時期で、
「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉に象徴される時代でした。


その長嶋の引退試合。

あれは確か平日だったように記憶しています。
ワタシは急いで学校から帰って、
あの試合を見ていました。

残念ながらダブルヘッダー第1試合は見られなかったので、
長嶋の最後のホームランや、涙ながらに外野スタンドにあいさつに行った様子は見られませんでしたが、
第2試合の最後のゲッツー、
そして感動のスピーチは、
忘れることがありません。

その姿を見ていて、
「ああ、やっぱり長嶋はすごい」
「巨人ってやっぱり、すごいんだな」
と思った記憶があります。
ワタシはG党ではなかったんですけどね。

夕暮れのスタンド。
かくも美しいあの光景、
日本の歴史の1ページを飾る、
素晴らしいものでした。

ちなみにワタシ、
その年の日本シリーズ、
ロッテvs中日を見て、
「なんて面白くない日本シリーズなんだろう」
なんて思った記憶があります。

ワタシの中にも、
「巨人が日本シリーズで戦っている」
という姿は、刷り込まれていたんでしょうね。


そして長嶋さんは監督へ。
それからず~っとワタシが長嶋さんを呼ぶときに浸かっている「長嶋監督」の誕生です。

青年監督の長嶋監督、
とにかくカッコよかった。

そのグラウンドでの動き、
そしてコメント。
すべてカッコよかった。

ずっとG党ではなかったワタシですが、
初年度最下位に落ちた巨人が、
2年目に見事立ち直ってリーグ優勝を決めた頃には、
巨人をすごく応援していましたね。

何しろ前年は広島が初優勝で、
巨人の本拠地、後楽園で決められてしまったのを、
翌年はそのリベンジとばかり、
広島球場で決めたってところがなんともすごかったですね。

この年はワタシなんでだか、
何回も「長嶋巨人」を応援に行っていた記憶があります。
そして行くと必ず勝ってくれていました。。。。

この年は、
13連勝だかなんだか、
とにかく大型の連勝が2回ぐらいあったんじゃなかったっけなあ。。。。

長嶋さんらしい、
ハツラツとして、派手で、
魅せるチームでした。

日本シリーズで阪急に敗れはしましたが、
3連敗から3連勝してタイに持ち込んだ時は、
コーフンしたなあ。

特に第6戦、
0-6かなんかからまくったのには、
「こんな試合あるんだ」
と胸が熱くなりました。

淡口の当たり、
いまだに頭によみがえってきます。


そんな長嶋さんもリーグ2連覇の後は低迷。
まあ、そりゃそうでしょ、
巨人は完全に新旧交代の時期にかかっていたんだから。

王をはじめ、
高田、柴田、張本、ジョンソン、堀内ら、
2連覇のメンバーはみんなベテランばかりだったからね。

そして「若手を鍛えねば」の使命で、
長嶋監督が鍛え上げたのがあの「地獄の伊東キャンプ」のメンバーたち。

何しろ長嶋監督。
最初のころドラフト1位で獲った選手が、
定岡であり篠塚だったもんだから、
「巨人はなぜこんな選手を・・・・」
なんて言われていましたよ。

しかし長嶋監督が見込んだ彼ら、
伊東キャンプを経て、
見事に覚醒。

後の巨人の優勝の大事なピースになってくれました。

しかし第1次長嶋政権にミソをつけたのは、
やはりあの江川事件だったように思います。

あの太陽のような、
誰からも後ろ指をさされるなんてことが一切なかった長嶋さんが、
苦渋の表情で江川の「空白の1日」に当事者になり、
エース小林をあろうことかライバルの阪神に放出したんですから。。。。。

もし江川がすんなりとドラフトで巨人に入団していたら、
巨人の歴史は確実に変わっていたでしょうね。
江川と小林のコラボ、
長嶋巨人は確実に優勝に絡むチームだったでしょう。


しかしそうはならず、
おまけに巨人は世間から叩かれ、
長嶋監督はそのわさわさした空気の中、
昭和55年に3位でシーズンを終えるんですね。

今でも覚えています、
シーズン最終戦翌朝の報知の1面。
「来年も後楽園で会おう」だかなんだか、
長嶋監督の来年度に希望を持つような紙面でした。

しかし・・・・

その日に長嶋監督は解任。

この長嶋解任で、
読売も報知も、
かなりの購読者を失ったと言われていますが、
我が家もご多聞に漏れず、
報知新聞は解約、日刊スポーツに変更しました。

ワタシもこの解任は全く納得しておらず(まあ、ただ巨人の体質みたいなものがイヤだったので、2,3年はあまり巨人を応援していたわけではなかったのですが)、
おまけにすでに気持ちは新しくできた西武ライオンズに完全にシフトしていたため、
「西武が打倒巨人を成し遂げる」
がワタシのその頃の確固たる信念となっていたのでした。

巨人を追われて「浪人生活」に入った長嶋さん。

いろいろ文化人的生活を送りながら、
様々な逸話をこの頃残してくれましたね。

陸上のカール・ルイスに対する「ヘイ、カール!!」はもとより、
マイク・タイソンとの僥倖あり、
さらにNFLのスーパーボウルのゲスト解説なんていうのもありました。

根っからの明るさでそれらのことを楽しくこなし、
お茶の間ににこやかな風を送ってくれていました。

しかし世間の関心は「長嶋さんはいつ復帰するの?」ということ。
様々な球団が長嶋さんに監督就任のオファーを出しているというのが、
取りざたされたころでもありました。

大本命は大洋、そしてヤクルト。
両球団ともに低迷していましたので、
何とか長嶋さんが監督に就任して、
強さ+観客動員を手に入れたい・・・・・・・という思いは強かったように思います。

特にこの両球団、
80年代にかけて長嶋さんと特に親しかった関根順三さんが率いていたりしましたからね。
関根さんはいつも「長嶋にうまくつなぐために・・・・・」
なんてことを、本気なのかどうか、いつも談話として出していたような気がします。

さらに西武で2年連続日本一を成し遂げた広岡監督も、
「長嶋が来てくれるんなら、いつでも監督の座を譲る。俺は2軍監督でもやるかな」
なんて話していました。
堤オーナーは、何とか長嶋さんを呼びたかったみたいですけどね。

更に球団を持つんじゃないかと噂されていた、
マクドナルドとかサントリー、イトーヨーカドーらの勢いのある企業も、
「もしうちが球団を持ったら、初代監督は長嶋さん」
なんて言っていたような記憶があります。

そんな状況の中、
長嶋さんは決断せず、
ずっと巨人からの再度の監督要請を待ち続けていたんですね。

やっぱり長嶋さんは、
根っから体に巨人の血が流れている人だったんです。

巨人は藤田監督から王監督に監督の座は禅譲されましたが、
その王監督がうまくいかず、
再度藤田監督が急場をしのいでいました。

そして。。。。

機は熟した92年暮れ、
巨人が長嶋さんに再度の監督要請のオファー。

これを受けて「第2次長嶋政権」が始まりました。

この時期、
ヤクルトはノムさんこと野村克也監督を監督に据え、
黄金期を迎えようとしていました。

長嶋さんの就任を受け、
野村監督の「口撃」は鋭くなりましたね。

ワタシは野村さんは名将だと思いますし、
プロ野球に残した足跡は偉大だと思いますが、
どうしてもあの性格が好きにはなれなかった。

本来ワタシはヤクルトファンだったはずなのに、
野村時代のヤクルトは全く応援することはありませんでした。

そして長嶋監督に対する度々の嫌がらせ的な言動に、
なんだか心から憤慨していた記憶がありますね。

まあ、
最後に楽天の監督だった時は、
少し好きになりましたけど。。


そんな確執もありながら、
長嶋監督は94年にはあの10.8決戦を制してセ・リーグを制覇。
さらに勢いに乗って宿敵の西武を破って初めての日本一を達成しました。

90年代前半から中盤にかけては、
ワタシはあまりプロ野球を見る機会がなかったので、
西武が初めて巨人に敗れたのを聞いて、
少し悔しく、でも「長嶋巨人ならいいか」と思ったのを思い出しました。


そして2000年。

長嶋さんは新たに90年代から導入されたFA制を駆使し、
毎年有力な選手を獲得してチームを強化していきました。
長嶋さんには明確な「強いチーム像」というのがあって、
そこに向かって邁進していっていたんだと思います。

多分ヤンキースや、最近のドジャースのような。
そんなチームを作りたかったんじゃないですかね。

そして2000年の優勝、
そして初めてのON日本シリーズ対決という、
長嶋監督の野球人生のクライマックスへ向かって行きます。

あの日本シリーズ。

シリーズの各試合を見ると、
さほど球史に残るような激闘はありませんでしたが、
何しろ両軍ベンチで指揮を執るのが、
かたや長嶋茂雄、こなた王貞治ですから、
こんなにコーフンすることはありません。

結果、長嶋監督がその対決を制して日本一になったのは、
これはもう「野球の神様」の差配だったに違いありませんね。

これで長嶋茂雄の野球人生はクライマックスを終えたと思いきや、
最後の最後、
「日本代表監督」としてオリンピックに挑む。。。。。。。
そんなオファーが舞い込みました。

長嶋監督にとって、
まさに「自分の野球人生の集大成」そのものである日本代表監督。

しかし予選を勝ち抜きオリンピック出場を決め、
まさに「よし、長嶋ジャパンで決戦だ」と意気込んだところで、
無念の脳梗塞で倒れてしまいます。


長嶋監督の無念はいかばかりか。。。。。


しかし我々長年のファンにとっても、
ホントあれは痛恨の出来事でしたね。

日本プロ野球界の神様である長嶋茂雄に、
日本代表監督としてオリンピックで戦い、
そして金メダルを誇らしげに掲げてほしかった!!!!

今に至るまでずっと、
そう思っています。

背番号3の文字が躍る日本のフラッグのもと、
日本は中畑監督代行で戦いましたが、
健闘及ばず。。。

後にWBCを3度、オリンピックを1度制覇するなど、
輝かしい足跡を残すわが日本代表チームの、
唯一といってもいい心残りがこれですね。
昭和の野球ファンにとっては。


その後ワタシ、
野球をやり始めた息子たちを連れて、
「長嶋ジャパンプロジェクト」
というのに参加して、
指導を受けたりしたことがありましたが、
やっぱり長嶋さんはオーラ全開の「あの長嶋さん」でした。


そして2013年、
愛弟子の松井秀喜さんと揃って、
東京ドームで国民栄誉賞受賞のセレモニー。

長嶋茂雄、松井秀喜、そしてプレゼンテーターの首相・安倍晋三。

輝くような個性が並んだその瞬間、
ワタシは決して忘れません。


ホント長嶋さんには、
この人生50ン年、
ず~っとず~っと、
お世話になってきた気がしています。

中学、高校時代は、
ワタシの部屋の壁のど真ん中は、
長嶋茂雄のバッティングの特大ポスターが貼ってありました。

毎日毎日、
そのポスターに見送られながら通学していたのを覚えています。

ワタシの世代は、
本当に現役時代は「長嶋後期」しか知らないのですが、
何でこんなに惹かれるんだろうか?
そんな思いを何度も持ちました。

まごうことなきスーパースター、長嶋茂雄。


その彼がもうこの世にいないなんて・・・・・
もう会うことができないなんて・・・・・・

寂しくてたまりません。

時の流れを痛切に感じる、
ものすごく大きな出来事でした。


長嶋さん、
どうか安らかに。

そして日本の野球を、
空の上から本当の【野球の神様】になって、
優しい笑顔で見守っていてください。

ありがとうございました。

合掌




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