ヤーラ共和国(西キューバ)

2024-08-18 15:36:44 | 新大陸(アメリカ大陸)





ヤーラ共和国(第三共和政)

ヤーラ(Yara、亞拉)共和国とは西キューバ諸島に存在してた共和制国家である。
ここでは歴代のヤーラ諸島(西キューバ諸島)に存在した政権について述べる。






・先史時代(ヤーラ)

共産党政権時代において、先史ヤーラ(プレ・ヤーラ時代)には原始共産主義(ユートピア)的な楽園があったとプロパガンダされていた。この疑似科学的な迷信は社会主義体制では真実とされていたので、先史ヤーラの学術的な情報は極端に少ない。
少なくとも、西暦のはじめごろにはキューバの先住民がここを漁のシーズンには漁村として利用していたことは分かっている。



・スペイン帝国ヤーラ(ソルカリ島呼称)


この時代にはスペイン帝国の偵察軍が駐屯して調査をしていたことが分かる。
コンキスタドール(征服者)のチレ・フェルナンデス海軍大佐はソルカリ島(熱い太陽の島)と呼称していた。
この時代については「過酷な植民地支配による搾取」と社会主義体制下ではプロパガンダされていたが、現在ではヤーラ国家の始まると捉える一部のネオ帝国主義者も存在する。




・ヤーラ王国(ヤーラ第一君主制)




1506年、タイノレイ(本土人の王の意味)を名乗るヤーラ人、カリウス・フェルナンデスが自らが国王であると宣言した。
スペイン帝国はこれを認証しなかった。さらにキューバの住民らの大半も、ヤーラ群島を潜在的な領土とみなしていたのでこれを認証しなかったと言われてる。
タイノレイは1512年に反乱罪で処刑されたと言われている。(ヤーラの族長同士の争いに巻き込まれて暗殺された説もあり)
タイノレイの死は、スペイン系の白人支配層とキューバの植民家達が共謀したという陰謀論はヤーラでは深く信じられているが、これは反キューバ感情からの創作という向きもある。



・スペイン帝国西キューバ


1513年から380年近く、ヤーラはキューバ群島の一部として統治された。文化は全て否定されて、キューバ化政策がとられた。
言語もキューバンスペイン語が公用語とされた。
この政策は、キューバとヤーラがお互いに憎みあい対立するように仕向けるためのスペイン帝国の分断政策だと言われている。
ヤーラとは独自の文化や歴史は無く、キューバのものであるという歴史認識はスペイン帝国にとっての「正史」として真実化された。

この頃、反乱奴隷のリーダとして「マチェーテのイセルダ」という女性ゲリラが1702年に奴隷反乱を煽動したと言われている。
その多くは創作だが、女性の奴隷が反乱軍を率いたというのは事実であり、彼女はカスティロ政権下でもプロパガンダとして偶像化された。



・西キューバ臨時革命政府(軍事独裁政権)


1893年、ディエゴカバジェロ将軍がスペイン本国から派遣された。カバジェロ将軍はヤーラの防衛と治安維持を目的に派遣されていたが、実際には行政や司法権力も掌握した。
カバジェロは非公式に「臨時革命政府」を宣言して、ヤーラ人に対して君主であるかのようにふるまった。
ガバジェロ将軍とその秘密警察、「治安管理室」は100万人のヤーラ人を労働や暗殺で処刑したと言われている。
ただこれは社会主義時代やカスティロ政権のプロパガンダだと西側諸国では信じられている。



・ヤーラ保護国


1916年3月15日より前のある時点で、スペイン政府はジェラルドモンターノをヤラ知事に任命した。
モンターノはリベラル派で現地人にも、法治主義や人権を尊重するべきだと考えていた。
これはヤーラ人の反乱に手を焼いたスペイン政府が、ヤーラ人の反乱軍に妥協したからだとヤーラでは信じられているが、英米仏の歴史家は反乱軍の鎮圧が終了したので懐柔(かいじゅう)政策としてヤーラ人に理解があるモンターノが派遣されたという説が主張されてる。
またキューバとヤーラは区別されて、ヤーラという国名が久しぶりに復活した。
西側諸国ではこのモンターノ知事が就任して「ヤーラ保護国」を宣言した日を「ヤーラの独立記念日、独立の年」としているが、カスティロ政権や社会主義政権下では白人政権からのヤーラ独立は1921年1月12日だとしている。



・ヤーラ共和国(第一共和制)

1921年6月1日(書面上であり、実際には6月3日)、ガブリエル・カスティロが「族長評議会の決定」により大統領となった。
ガブリエルの就任は「当時の時代としては極めて民主的に」選ばれたと言われているがこの「族長評議会」が本当に公平な運営がされていたのかは西側の歴史家からは疑問視されている。
ガブリエルは公立学校の建設、近代的なロジスティックの開発、電力の完備などを親米政権やアメリカCIAの力を借りて行ったので彼を評価していた市民も多かった。
だが、しだいに強権的になりソビエト連邦からの工作もあって「ファシストのカスティロ」というイメージも形成された。



・ヤーラ民主共和国(1967~1989)




隣国のキューバに影響されて、ヤーラにも社会主義政権が樹立した。キューバ共産党からインスパイアを受けた(というよりソ連KGBが支援していたので必然的に同じような)ヤーラ人民民主党が結成されて、

このヤーラ人民民主党には3つの派閥があった。直接行動を重視してポピュリズムかつ右派的な要素も大きかったエル・ティグレ派、民主主義的な社会主義を標榜しつつ現実主義路線とテクノクラート(技術官僚)の専制を望んだロボ派、
イデオロギーとしての共産主義(階級闘争)を重視していたエスピノーザ派の3つに分かれていた。


このうち、ロボはエスピノーザが社会主義の理想から離れて独裁化しているとして反旗を翻した。エスピノーザはこれを「CIAの謀略」として粛清した。
革命家のエル・ティグレを首班とするティグレ派は反乱の意志は持っていなかったが、エスピノーザはその可能性があるというだけでティグレ派の粛清には十分だった。
エル・ティグレは隣国キューバでも、ゲバラにインスパイアされた闘志と思われていたので亡命した。
(皮肉にも逆にキューバの反体制派がヤーラに逃げてくることもあった)

85年にエスピノーザが汚職を口実に失脚すると、人民民主党の書記長だったガブリエル・カスティロが政権に就いた。
89年ごろに、東欧諸国の民主化が行われると、ヤーラにもその余波が来て社会主義体制は終了した。
この時に、民主的な選挙で選ばれたのが、資本主義と開発独裁を掲げたアントニオ・ガルシアだった。


・ヤーラ共和国(ガルシア政権 1990~2019)


皮肉にも民主的な選挙で選ばれたアントニオ・ガルシアだが、縁故主義と賄賂により政治腐敗は社会主義時代と変わらなかった。
しかし「親米である」という理由からか、西側のメディアからは人権問題では批判されなかった。




・ヤーラ共和国(ヤーラ国 カスティロ政権 2019年~2022年)




ガルシア大統領の腐敗を根絶すると主張したのが、故ガブリエル・カスティロの息子、アントン・カスティロだった。
彼は、「ヴィビロ」という、タバコにガンの進行を遅らせる効果があると喧伝して、これの量産で農民を中心に労働者階級に利益を与えると主張した。
この頃に、アントニオ・ガルシアの姪(娘という説もあり)であるクララ・ガルシアによる「女子大生たちによる反乱」が起きた。

小カスティロ大統領の政策は苛烈だった。政治犯を実質の奴隷としてヴィビロの栽培に従事させたり、秘密警察と国防軍による容赦ない弾圧や、兵士の市民への恐喝を黙認した。
しかし、ヴィビロの輸出による売り上げはかなりあったので、国防軍兵士や政府の役人にはきちんとした給与と福利厚生費が支払われていた。
公務員に限ってはヤーラは、キューバやベネズエラよりもはるかに豊かだった。
そのためにカスティロ政権を支持する政府側の人間は多かったのも事実だ。




※このヤーラという概念は、ゲーム Far  Cry6 からの引用です。すべての権利はUBIソフト社にあります。