
もうすぐ姉の命日です。私が秋に誕生日を迎えると、私は姉が亡くなったときの年齢になります。
私は幸か不幸か、両親と姉の死に目に立ち会いました。大切な家族がこの世を去って行くのを見届けることができたことは、やはり幸いなことなのでしょう。
そう思ったとき、ふと、人生の終焉について考えてしまいました。「これから」と「これまで」と、本当に大切なのはどちらなのか?と。
※
ここからは父の最期の様子について少し重い話が続きます
長年腎臓を患い入退院を繰り返していた父が、この世を去ったのは私が23歳のときでした。
暑い夏の朝、両親よりも先に起きた私が階下で顔を洗っていると、母が私の名前を叫んで呼びました。慌てて階段を駆け上り両親の部屋を覗くと、苦しがる父の姿と「お父さんが!救急車!何してるの、早く!救急車!」と叫ぶ母の姿が私の目に飛び込んできました。
すぐに119番に電話をし、父の今の様子と父が透析患者だということを伝えました。すると、「かかりつけの病院に連絡をしてどこの病院に搬送したらいいのか確認してください」と言われたました。大慌てで父の通う透析センターに連絡をすると、過去に入院したことのあるF市民病院に搬送してもらうように言われました。
電話を切ると、またすぐに電話が鳴り、「救急車出ました!サイレンを鳴らして行きます。病院に確認は取れましたか?どちらに搬送すればよろしいですか?」と訊かれたので、「F市民病院にお願いします!」と答えると、「F市民病院は隣の市になるのでうちの救急車は入れません。ご家族の連絡があれば入れますので、すぐにF市民病院に連絡をしてください。」
電話を切った私は、父の様子も気になるので一旦両親の部屋に戻り、「今救急車呼んだからね!」と父に告げました。父は苦しそうな目で頷きましたが、これが意識のある父の最後の姿となりました。
すぐに救急車の音が聞こえ、慌てて外に飛び出して救急隊員の方たちを案内していると、隊長風の男性に「F市民病院に連絡はとれましたか?ご家族からの連絡がないと市外の救急車は入れません」と再び言われました。
私が慌ててF市民病院の電話番号を調べているところに救急隊員の方たちが父を担架に乗せて階段から降りてきました。父は目を見開いたままの状態で、若い素人の私の目から見ても脳内の血管が切れたのだとすぐにわかりました。
「電話はもういいです!一旦T会病院へ運びます!あそこなら透析の設備も整っていますから、すぐに救急車に乗ってください!」と隊長風の男性に言われ、私は慌てて戸締りをし、そのまま救急車に乗り込みました。
T会病院に到着すると、若い医師と看護師が数人が待ち受けていました。隊長風の男性が医師に説明をし、隊員の方たちが父を乗せた担架を降ろそうとした瞬間に私の耳に聞こえてきた医師の言葉が、「他所の患者をうちに連れてこられても困りますよ。」
隊長は黙り、担架をかついだ隊員の方たちは救急車から降りかけの状態のまま静止。隊長が「隣の市になるのでうちの救急車は入れない」と医師に説明をすると、その若い医師は再び、「家族が連絡すれば入れるでしょう?」
思わず私はプッチーン!流石に自分でも自分のキレる音が聞こえました。(笑)
「さっきからなんなのよ!私が電話すればいいんでしょ!それなら電話を貸してください!私が電話します!」
するとその若い医師の隣にいたベテラン風の看護婦が、「先生」と静かに若い医師を睨みつけ、「大丈夫よ」と私に言い、「うちで受け入れます!すでに受け入れ態勢は整っています、早く患者さんを中へ!」と救急隊員の方たちを誘導してくれました。
あの若い医師のことは今となってはどうでもいいのですが、あのベテラン看護婦さんのことは今でも有難い気持ちでいっぱいです。
父が処置されている間、私は姉に電話をしたり、とにかくオロオロするばかり。そこへ救急隊長が私のところへやってきました。「患者の様子が一刻を争うように見えたので、私の判断でこちらに搬送しました。すみません。」
私は思わずキレてしまったことを謝罪し、こちらに搬送してくれたことのお礼を言いました。母が取り乱していたので、「お母さんかなり動揺しているけど、大丈夫?お姉さんはすぐに来られるの?」と隊長は私の心配をしてくれていました。
するとそこへ、「お父さん、どうしたの!?」と我が家の隣に住むおじさんが登場。なんでも救急車の音が聞こえたので慌てて外に飛び出して、救急車に乗り込む私に声を掛けたそうですが、そのまま救急車が走り去ってしまったので、バイクで救急車のあとを追いかけてきたとのこと。さすがに信号は守ったそうですが、あっぱれ。
このお二人にも感謝の気持ちでいっぱいです。
先ほどの若い医師とは別の医師とベテラン風の看護婦がこちらを見て話していました。医師は母の方を見て「あの様子では話は無理でしょう、娘さんに」と看護婦に目配せをしました。するとそのベテラン風の看護婦は心配そうな顔で私の方にやってくると、「あなた何歳?」と私に訊きました。23歳だと私が答えると、「なら大丈夫ね。お母さんは少し動揺が激しいから、先生があなたに説明をしたいそうです。大丈夫よね。」
この「大丈夫よね」は、確認というよりも私には叱咤激励に聞こえる力強いものでした。
父の病状を説明してくれた医師は脳外科医でした。個室に通され、脳のレントゲンを見せられて説明を受けました。血圧の上昇による軽い脳内出血とのこと。
「すぐに脳内手術をすれば、後遺症がのこる可能性もありますが、助かる見込みは多いにあります。」「ではすぐに手術を!」とすがる私。
「、、、。人工透析を受けている患者ですので、透析中に使用しているヘパリンの関係で出血しやすくなっています。術中に出血多量になる恐れがあります。そんな危険な手術は出来ません。」「輸血をしながら…」
「今はそれよりも尿毒症のほうで危険な状態です。脳もむくみが出ているのですぐに透析をしなければ、かなり危険な状態だと言えます。」「ならすぐに透析を、」
「透析を始めると血液の流れがよくなるので、脳内の出血が進み、やはり危険です。透析をしながら脳の手術をする可能性も考えたのですが、左腕に透析を行うシャント(皮下動静脈吻合)があるので、左腕で透析を行い、右腕を手術で使うとなると、輸血をする血管が足りません。脳の手術になりますので、足の血管は使えません。」
私が言葉を失っていると、続けて医師はこう説明をしました。
「腹膜透析に切り替えることも考えたのですが、そうすれば左腕があきますので、透析と輸血をしながら手術することも可能ですので、しかし、人工肛門があるので腹膜透析は出来ません。」
父は、直腸がんの手術も受けており、ストーマ(人工肛門)になっていたのです。私の中で父のストーマは当たり前になっており、事前に救急隊員や医師に告げるのを忘れていました。
「八方塞がりです。あらゆる可能性を考えましたが、手の施しようがありません。もって今日中、夕方までもつかどうかわかりません。近しい方に連絡をしてください。」
真っ白。私の頭も心も目の前も、全てが真っ白。
その言葉があれほどまでにピッタリとくる状態は、あれから30年が経ちますが、いまだに経験したことがありません。
※
もしかすると、人によってはこれを「辛い経験」と言うのかもしれません。しかし私にとっては、とても貴重な、とても大切な経験となりました。
あの優しい救急隊長も、あの頼もしいベテラン看護婦も、あの知性の塊のような脳外科医も、みんな一期一会となりましたが、彼らは私に大切なことを教えてくれました。
母や姉の最期についても書くつもりでいましたが、かなりな長文になってしまったので、2人についてはまたいつか。
「これから」と「これまで」、きっとどちらも同じくらい大切なことなのでしょう…。きっとこれは答えのない問いなんだね、お父さん。
重いお話ですね。でも、おっしゃるように、
貴重な、とても大切な経験だった、
ということがひしひしと伝わってきました。
ある時期、救急車の受け入れ先が見つからず、治療が遅れて
亡くなる人が相次ぐことが問題になりましたね。
あのことも思い出し、さらに人工透析の大変さは
アメリカの医療施設で関わった患者さん達の苦悩が
蘇り、胸が苦しくなりました。
いずれにしても、本当に難しい決断を迫られるのですね。
心を鬼にして・・・ということもあるのかもしれません。
そんな状況で、allyさんの気丈さがとても印象的です。
医療従事者としての適正能力が高そう。
次は病院勤務はいかがでしょう!?
(すみません、話がそれました)
みんな避けて通れない生と死の話。きっちり向き合う必要が
あるのでしょうね。いろいろと考えさせられました。
こんにちは。
かなり重い長文にお付き合いいただき、ありがとうございます。すでに30年が経過しており、すこし記憶が不明瞭な部分もありましたが、書いているうちにどんどん思い出してきました。今も救急車は隣の市には入れないのでしょうか。もしそうだとしたらおかしな話ですよね。
本当は、状況をさらっと書いて、当時の気持ちや今の気持ちを書くつもりだったのですが、書き終えたら重く長い内容になりました。私は「生」と「死」についてよく考えるのですが、病院嫌いの人がよく口にする「いつ死んでもいい」という言葉を聞くと、この人は「生」と「死」をわかっていない、といつも思ってしまいます。
あ、そういえば、私に医療関係は無理です。慌てん坊だし、冷静とは程遠い性格なので。^^;
早くても遅くてもその人のタイミングが
一番の時間薬なんだろうな
なんて思いながら拝読しました
これからもこれまでも時間の魔術で変化していくのカモしれないな
って、自分にも言い聞かせてみました
ありがと、allyさん
私は両親健在ですが、高齢なので自分がallyさんの立場だったらどうだろうと考えながら読ませていただきました。
考えると苦しくなってしまいますが、いつか来ることです。
向き合わなければいけませんね。
私の両親は少し離れた所に住んでいるのですが、その地域によっていろいろと違う事が多いので、そろそろ調べておこうかなと思いました。
そこへ脳外科医の先生からの言葉。
自分だったら何かあったときうまく対処できるか自信がありません……。
私は自分が死ぬ時は幸せでありたい、思い返した時に楽しい人生だったと思いたい。だからつらい時ほど死にたいと思わない、と以前会社で同僚に話しましたが、最近それもまた自信がなくなってきました。
allyさんの「答えのない問い」というのがすごくわかります。
こんにちは。
重い内容の長文にお付き合いいただき、ありがとうございます。 「時間」、なるほど。その通りかもしれません。時が解決する、とよく言いますし、時が変われば事情も変わり、受け止め方も変わってきますよね。「これまで」のことも、「これから」のことも、一番重要な役割を果たしたいるのは「時間」なのかもしれません。
こんにちは。
重い内容の長文にお付き合いいただき、ありがとうございます。 父の場合は、闘病生活が長かったので、頭のどこかで最期は入院生活を送った後のことになるだろうと勝手に想像していました。まさか自宅で倒れるとは思ってもいなかったです。
いつどんなカタチで「別れ」がやってくるかわかりませんものね。すごく自分勝手な考え方かもしれませんが、「自分が後悔をしないこと」が一番大切なことのように思います…。
こんにちは。
重い内容の長文にお付き合いいただき、ありがとうございます。決して冷静ではなかったんです。文章だからそう感じるだけで、ところどころで大泣きもしているし、自分のなかでは支離滅裂でした。しかし不思議と医師の言葉などは鮮明に憶えているんですよね。
たしかに地域によっても違いがあるでしょうし、今から調べておくことは決して不謹慎なことではないと思います。予備知識があるにこしたことはないですものね。
こんにちは。
重い内容の長文にお付き合いいただき、ありがとうございます。父の闘病生活が長かったので、子供のころから緊急時の対応を父から教わっていたんです。救急車の呼び方や、病状の説明の仕方など。こういうことは学校で教えても良いような気もしますよね。
「生」と「死」については、私は考えることが多いのですが、何がなんでも生き抜く必要もないけれど、容易く死を選ぶべきでもない…、結局は「答えのない問い」なんですよね…。前に進むには立ち止まって後ろを振り返ることも大切なのだと、最近は思うようになりました。