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Don’t Dilly Dally

Maybe I’m a wanderer

ハイエナ大好き

2025-04-24 06:17:42 | 雑記

物語などで悪役として登場することの多いハイエナ。獲物を横取りするという悪いイメージも強いですが、私は以前からハイエナがとても好きです。

ハイエナは以下の4種類になります。

・プチハイエナ・シマハイエナ・ブラウンハイエナ・アードウルフ

先日、富士サファリパークへ行く機会があり、シマハイエナを観ることができました。シマハイエナを観ることのできる施設は日本では少ないそうです。検索してみると、飼育されている施設が4ヶ所、公開されている施設が2ヶ所、そのうちの1ヶ所が富士サファリパークのようです。

ハイエナについて調べたことを簡単にまとめてみました。

   ※以下の画像4枚はネットからお借りしました

▪️リーダーはメス

ハイエナは単独でも群れでも活動し、昼間は茂みや巣穴で休み、夜になると活動を始める夜行性の動物です。
ハイエナのメスは男性ホルモンの濃度が高く、メスの方が大きく成長します。一族のリーダーはメス。自分の群れを守らなければならず、戦うためには攻撃的な強さと体格が必要とされ、リーダー以外のメスもオスに対して支配的です。

リーダーとは直接関係のないメスのハイエナは、一生同じ群れにとどまり、協力し合います。「クラン」と呼ばれるメス同士の社会集団を形成し、1つのクランには20~30頭、多いときは100頭以上のハイエナがいることもあります。

一方、オスは成長すると一族から追い出され、別の一族に入ります。しかし、クランに入ったばかりのオスは最下層として扱われてしまい、オスは生殖以外には必要ないという立ち位置で、オスにとってはとても厳しい社会なのです。日本の古い映画や小説などに登場する「女は子供を産む道具」的な考えの男性に聞かせてやりたい話です。(笑)

 

▪️ハイエナの狩り

ハイエナは獲物を横取りしたり、他の動物の死骸を漁ったりするイメージが強いですが、自分たちで狩りもします。基本的には群れで行い、狩りの成功率は60〜70%。ライオンの30%前後よりも高いと言われています。

ハイエナは目、耳、鼻が優れているため、獲物を探すのが得意で、かつ体力があるので時速約60kmで獲物を追いかけることができます。これは体力や持久力のない肉食動物の中では珍しいことです。チーターなんて一度獲物を逃すと体力を回復するのに時間がかかり超腹ペコになってしまうとか。

つまり、ハイエナは他の動物から獲物を奪わなくても食には困らないのです。主にシマウマなどの大型哺乳類や鳥類を捕獲し、食べるものの半分以上は自力で捕獲していると言われています。動物から獲物を奪うことは、体力を使う狩りよりも効率が良いためで、他の動物の獲物の横取りはハイエナだけでなく、ヒョウやライオンもやっていることなのです。

 

▪️顎の強さと消化力

ハイエナの顎は哺乳類の中で最も強く、硬い肉どころか骨をも砕くほど強いものです。ライオンやトラに比べると体も顔も小さいものの、他の動物が手を出せないようなものを噛み砕く力を持っているのです。

さらに強力な消化能力も持っており、他の肉食動物が獲物の多くを残すのに対し、ハイエナは強力な顎と消化能力で獲物のほとんどを食べ尽くすことができます。
そのため、死骸に群がり腐肉をむさぼる姿から悪いイメージを持たれてしまうのでしょう。しかし、ハイエナは「サバンナの掃除屋」とま呼ばれており、サバンナを清潔に保つ役割もしているのです。まあ、ものは言いようですが。(笑)

 

▪️「クラン」vs「プライド」

ハイエナは優れた狩猟技術と強力な顎もあり、サバンナの中でも強さはトップクラスに位置します。ヒョウやチーターでも、ハイエナを見つけると獲物から逃げ出すことがあるため、ハイエナには敵が少ないのです。

そんなハイエナの敵はやはりライオン。ライオンとハイエナの生活圏は重なっているため、常にライバル関係にあります。
狩りでは、ライオンがハイエナの獲物を取ることもあれば、ハイエナがライオンの獲物を取ることもあります。ライオンもハイエナ同様に群れで行動しますが、これはハイエナに勝つための対策とも言われています。

ハイエナの天敵であるライオンも、ハイエナを恐れているのですが、不用意に単独または少数でライオンの縄張り「プライド」に侵入すると、捕食されてしまう可能性が高いという、難しい立ち位置であるとも言えます。

 

▪️ハイエナの一生

ハイエナは3年ほどで大人になり、寿命は20年程度と長く、飼育下では40歳まで生きた例もあるとか。
しかし、出産時に死亡する確率が高いことでも知られており、その理由は、ハイエナの産道は狭く、胎児が通る間に母親の皮膚が裂けてしまい、出産時の傷がもとで死亡することが多いそうです。
死産が多いものの、外敵はライオンだけということもありハイエナの子どもの生存率は高いとされています。

約4ヶ月の妊娠期間を経て一度に平均2頭の子供を産みますが、母子ともに死亡することもある過酷な出産になります。
そんな過酷な出産だからこそなのか、メスのハイエナは子供を産んだ後、母乳を2年間も飲ませ続け、そして1日に何時間も我が子と一緒に過ごすというバツグンの母子関係です。

また、同じ群れのメスも協力して子育てをし、産みの親以外のメスも授乳することがあり、育児にはとても熱心で恵まれた環境といえます。

オスとして生まれてしまうと過酷な一生が待ち受けていますが、メスとして生まれれば将来は安泰といえるでしょう。

 

などなど、諸々の理由で私はハイエナが好きなのです。

しかしながら喜んで富士サファリパークの一画でハイエナの写真を撮りまくっていたのは私くらいなもの。(笑)

この顔。「あら、今日の私はやけに人気ね」という風に見えなくもない。でもやっぱり丸いお鼻とお耳が可愛いです♡

 

 


「これから」なのか、「これまで」なのか

2025-04-09 13:13:50 | 雑記

もうすぐ姉の命日です。私が秋に誕生日を迎えると、私は姉が亡くなったときの年齢になります。

私は幸か不幸か、両親と姉の死に目に立ち会いました。大切な家族がこの世を去って行くのを見届けることができたことは、やはり幸いなことなのでしょう。

そう思ったとき、ふと、人生の終焉について考えてしまいました。「これから」と「これまで」と、本当に大切なのはどちらなのか?と。

ここからは父の最期の様子について少し重い話が続きます

長年腎臓を患い入退院を繰り返していた父が、この世を去ったのは私が23歳のときでした。

暑い夏の朝、両親よりも先に起きた私が階下で顔を洗っていると、母が私の名前を叫んで呼びました。慌てて階段を駆け上り両親の部屋を覗くと、苦しがる父の姿と「お父さんが!救急車!何してるの、早く!救急車!」と叫ぶ母の姿が私の目に飛び込んできました。

すぐに119番に電話をし、父の今の様子と父が透析患者だということを伝えました。すると、「かかりつけの病院に連絡をしてどこの病院に搬送したらいいのか確認してください」と言われたました。大慌てで父の通う透析センターに連絡をすると、過去に入院したことのあるF市民病院に搬送してもらうように言われました。

電話を切ると、またすぐに電話が鳴り、「救急車出ました!サイレンを鳴らして行きます。病院に確認は取れましたか?どちらに搬送すればよろしいですか?」と訊かれたので、「F市民病院にお願いします!」と答えると、「F市民病院は隣の市になるのでうちの救急車は入れません。ご家族の連絡があれば入れますので、すぐにF市民病院に連絡をしてください。」

電話を切った私は、父の様子も気になるので一旦両親の部屋に戻り、「今救急車呼んだからね!」と父に告げました。父は苦しそうな目で頷きましたが、これが意識のある父の最後の姿となりました。

すぐに救急車の音が聞こえ、慌てて外に飛び出して救急隊員の方たちを案内していると、隊長風の男性に「F市民病院に連絡はとれましたか?ご家族からの連絡がないと市外の救急車は入れません」と再び言われました。

私が慌ててF市民病院の電話番号を調べているところに救急隊員の方たちが父を担架に乗せて階段から降りてきました。父は目を見開いたままの状態で、若い素人の私の目から見ても脳内の血管が切れたのだとすぐにわかりました。

「電話はもういいです!一旦T会病院へ運びます!あそこなら透析の設備も整っていますから、すぐに救急車に乗ってください!」と隊長風の男性に言われ、私は慌てて戸締りをし、そのまま救急車に乗り込みました。

T会病院に到着すると、若い医師と看護師が数人が待ち受けていました。隊長風の男性が医師に説明をし、隊員の方たちが父を乗せた担架を降ろそうとした瞬間に私の耳に聞こえてきた医師の言葉が、「他所の患者をうちに連れてこられても困りますよ。」

隊長は黙り、担架をかついだ隊員の方たちは救急車から降りかけの状態のまま静止。隊長が「隣の市になるのでうちの救急車は入れない」と医師に説明をすると、その若い医師は再び、「家族が連絡すれば入れるでしょう?」

思わず私はプッチーン!流石に自分でも自分のキレる音が聞こえました。(笑)

「さっきからなんなのよ!私が電話すればいいんでしょ!それなら電話を貸してください!私が電話します!」

するとその若い医師の隣にいたベテラン風の看護婦が、「先生」と静かに若い医師を睨みつけ、「大丈夫よ」と私に言い、「うちで受け入れます!すでに受け入れ態勢は整っています、早く患者さんを中へ!」と救急隊員の方たちを誘導してくれました。

あの若い医師のことは今となってはどうでもいいのですが、あのベテラン看護婦さんのことは今でも有難い気持ちでいっぱいです。

父が処置されている間、私は姉に電話をしたり、とにかくオロオロするばかり。そこへ救急隊長が私のところへやってきました。「患者の様子が一刻を争うように見えたので、私の判断でこちらに搬送しました。すみません。」

私は思わずキレてしまったことを謝罪し、こちらに搬送してくれたことのお礼を言いました。母が取り乱していたので、「お母さんかなり動揺しているけど、大丈夫?お姉さんはすぐに来られるの?」と隊長は私の心配をしてくれていました。

するとそこへ、「お父さん、どうしたの!?」と我が家の隣に住むおじさんが登場。なんでも救急車の音が聞こえたので慌てて外に飛び出して、救急車に乗り込む私に声を掛けたそうですが、そのまま救急車が走り去ってしまったので、バイクで救急車のあとを追いかけてきたとのこと。さすがに信号は守ったそうですが、あっぱれ。

このお二人にも感謝の気持ちでいっぱいです。

先ほどの若い医師とは別の医師とベテラン風の看護婦がこちらを見て話していました。医師は母の方を見て「あの様子では話は無理でしょう、娘さんに」と看護婦に目配せをしました。するとそのベテラン風の看護婦は心配そうな顔で私の方にやってくると、「あなた何歳?」と私に訊きました。23歳だと私が答えると、「なら大丈夫ね。お母さんは少し動揺が激しいから、先生があなたに説明をしたいそうです。大丈夫よね。」

この「大丈夫よね」は、確認というよりも私には叱咤激励に聞こえる力強いものでした。

父の病状を説明してくれた医師は脳外科医でした。個室に通され、脳のレントゲンを見せられて説明を受けました。血圧の上昇による軽い脳内出血とのこと。

「すぐに脳内手術をすれば、後遺症がのこる可能性もありますが、助かる見込みは多いにあります。」「ではすぐに手術を!」とすがる私。

「、、、。人工透析を受けている患者ですので、透析中に使用しているヘパリンの関係で出血しやすくなっています。術中に出血多量になる恐れがあります。そんな危険な手術は出来ません。」「輸血をしながら…」

「今はそれよりも尿毒症のほうで危険な状態です。脳もむくみが出ているのですぐに透析をしなければ、かなり危険な状態だと言えます。」「ならすぐに透析を、」

「透析を始めると血液の流れがよくなるので、脳内の出血が進み、やはり危険です。透析をしながら脳の手術をする可能性も考えたのですが、左腕に透析を行うシャント(皮下動静脈吻合)があるので、左腕で透析を行い、右腕を手術で使うとなると、輸血をする血管が足りません。脳の手術になりますので、足の血管は使えません。」

私が言葉を失っていると、続けて医師はこう説明をしました。

「腹膜透析に切り替えることも考えたのですが、そうすれば左腕があきますので、透析と輸血をしながら手術することも可能ですので、しかし、人工肛門があるので腹膜透析は出来ません。」

父は、直腸がんの手術も受けており、ストーマ(人工肛門)になっていたのです。私の中で父のストーマは当たり前になっており、事前に救急隊員や医師に告げるのを忘れていました。

「八方塞がりです。あらゆる可能性を考えましたが、手の施しようがありません。もって今日中、夕方までもつかどうかわかりません。近しい方に連絡をしてください。」

真っ白。私の頭も心も目の前も、全てが真っ白。

その言葉があれほどまでにピッタリとくる状態は、あれから30年が経ちますが、いまだに経験したことがありません。

もしかすると、人によってはこれを「辛い経験」と言うのかもしれません。しかし私にとっては、とても貴重な、とても大切な経験となりました。

あの優しい救急隊長も、あの頼もしいベテラン看護婦も、あの知性の塊のような脳外科医も、みんな一期一会となりましたが、彼らは私に大切なことを教えてくれました。

母や姉の最期についても書くつもりでいましたが、かなりな長文になってしまったので、2人についてはまたいつか。

「これから」と「これまで」、きっとどちらも同じくらい大切なことなのでしょう…。きっとこれは答えのない問いなんだね、お父さん。

 


初恋ではないけれど

2025-02-02 07:23:39 | 雑記

バタバタと一月が終わり、気がつけば二月を迎えてしまいました。

二月といえばバレンタイン。初恋ではないけれど、幼なじみの男の子M君のことを思い出しました。実家があった辺りにも当時は畑がまだ少し残っていました。畑を挟んだ向こう側に二軒の家の建築が始まりました。当時の私は小学校3年生。ひょっとするまだ2年生だったかもしれません。私はその家が出来上がっていく様子を毎日眺めていました。

ちなみにこちらの画像は横浜の異人館。

私の実家は決してこのようにお洒落な家ではありませんでしたが、数年前に訪れたとき、このレトロな雰囲気から当時の記憶がよみがえりました。ある夕暮れ迫る頃、父が帰宅しました。

私は父に「お帰りなさい」と言い、「あの家の職人さんたちもさっき帰って行ったよ」と窓から見える畑の向こう側の建築中の家を指差しました。そして父に訊ねてみました。「どんな人たちが引っ越してくるのかな?」

私は新しいご近所さんが増えることにワクワクしていたのです。自身も建築職人だった父は窓から建築中の家を眺めると、「上に三部屋ある。子供が2人いるか、もしくはその予定か、そんなところだろう」と答えました。

「どうしてわかるの?」

「柱を見ればわかる」

「下の方が柱がいっぱいあるね」

「どの家もそうだよ。下の方が柱がいっぱいあるんだ」

「下の方が部屋がいっぱいあるように見える」

「台所と、風呂場だろ」

そんな会話をしながら、窓から建築中の家を父と並んでしばらく眺めていました。

「この辺りに子供が増えるね!」と私が勝手に想像を膨らませて喜んでいると、「子供の年齢にもよるけどな」と父が笑いました。

いよいよそのニ軒が完成し、そのうちの一軒であるオレンジの屋根の家に引っ越してきたのがM君でした。

M君が転校してくる前日のこと。やはり夕暮れ時に帰宅した父が鼻歌まじりに母と楽しそうに話していたので、不思議に思った私は「どうしたの?」と声をかけてみました。すると母が笑顔で答えました。

「お父さん、男の子に声をかけられたんですって」

男児を待望していた父ですが、残念ながら生まれてきた子供は続けて女の子。さらに父は子供が話しかけやすい雰囲気では決してなかったので、子供のほうから話しかけてくるなんてとても珍しいことでした。

手を洗う父に、「だからあなた、嬉しそうなのね」と母も嬉しそうに話していました。そして手を洗い終えた父が私に言いました。

「あのオレンジの屋根の家に引っ越してきたらしいぞ。明日から学校だって言ってた。自分から名前を教えてくれたけど、ちょっと変わった苗字の子だったな。こちらの名前も聞かれたから〝おじさんの娘は〇〇だよ〟ってお前の名前を教えておいたよ」

翌日、休み時間に一人でポツンと席に座っていた転校生の少年に声をかけてみました。

「昨日うちのお父さんと話したでしょ?」

するとその少年はキョトンと私の顔を眺めてから、次に私の名札を見て、

「あ!昨日の〇〇さんの子供なの?そーだ!子供の名前は〇〇だって言ってた!今日一緒に帰ろう!明日も一緒に学校に来よ!」

なんとまあ素直で明るいこと。それがM君との出会いでした。

転校初日、学校から帰るとM君とM君のお母さんが我が家へ挨拶に来てくれました。

「M君ね、今日は男の子のお友達が出来なかったんですって。あなたと仲の良い男の子のお友達を誰か紹介してあげたら?」と私の母。

「いいよ!」と私がM君を連れて行ったのはワンパク坊主でガキ大将だったH。すぐに2人は仲良しになり、学校の行き帰りも、下校後の遊びもいつも一緒。女の子と登校している私を後ろから追いかけて来て「おはよう!」とスカートめくりをして駆け抜けていくガキ大将のH。「やめてよ!」と怒る私。Hの後ろを追いかけるように駆けてきたM君が立ち止まって「おはよう」と笑顔を見せ、再びHを追いかけていくというのがこの頃の朝の日課。

私が小学校5年生のときに父は病に倒れ、建築職人の生活に別れを告げて、入退院を繰り返しながら自宅で闘病生活に入りました。その頃は、私とM君はクラスも離れ、お互いの家を行き来することもなくなっていました。

ある冬の日。父が母に話していました。

「あの子を見かけたよ。すっかり大きくなってた」

「そりゃそうよ。この子(私のこと)と同い年ですもの。あの子だって来年は中学生になるんだから」

「あのこももう中学生か…。俺のこと、まったく覚えてないみたいだったよ」

父が少し寂しそうに笑うと、

「仕方ないわよ。大人にとっての3年はあっという間だけど、子供は3年で一気に大きくなるんだから」と母が優しく父に微笑みかけていました。

さらに3年が経過し、再びM君と同じクラスになりました。すでに二人とも中学校3年生。生意気盛りといえど、M君の素直さは変わらず、思い出話に花が咲く日々。M君の隣の家のお兄さんが私の家庭教師だったこともあり、再び私たちの距離は縮まりました。

高校受験が近づき、進路を迷っていたときにM君が真剣な眼差しで私に言いました。

「同じ高校に行こうよ」

その言葉を聞き、そしていつもと違うM君の眼差しを見て、私はなぜか涙が出そうになりました。しかし、やはりなぜか担任の教師は同じ高校を受験することに猛反対。

ある晩、父と母が話していました。

「いいじゃないか。S高校を受験させてやれよ。あの子だろう?〝同じ高校に行こう〟なんてなかなか言えるものじゃないぞ」と微笑む父。

「無理よ。いくらお願いしても担任の先生が願書にサインしてくれないわよ」とため息をつく母。

結局、私たちは別の高校に進み、向こうからの歩み寄りがあったにもかかわらず、私はM君を遠ざけてしまいました。素直なM君の思いに逃げ腰になり、自分の恋心を認めようとせず、私はそのままM君の存在を封印してしまったのです。

それからおよそ30年後、横浜の異人館で『ある男の子の部屋』を見たとき、M君のことを思い出し無性に会いたくなりました。M君の名前を検索してみると、Facebookですぐに見つけることができました。

そして悩みに悩み、思い切って「私のこと憶えてる?」とメールをしてみました。すると「もちろんだよ!」と即返信があり、お互いの近況報告を終えると「こんど会おうよ!」と相変わらず屈託のないM君。

いくら幼なじみといえど、既婚者のM君とまさか2人でいきなり会うわけにもいかないので、M君のご両親と奥様を交えての30年ぶりの再会。うちの両親が生きていたらどんなに喜んだだろうと心の底から思ってしまいました。父とM君を再会させてあげられなかったのが本当に残念です。

頻繁に会うことはなくなったけれど、M君とは今でも友達です。ついでにワンパク坊主のHともFacebookの繋がりで再会して、今も当時と同様にHは私にとって頼もしい存在。「俺は〝ついで〟かよ」というHの声が聞こえてきそうだけれど。(笑)

 

 


共に駆け抜けた40代

2024-12-28 11:06:32 | 雑記

先日、ある人の訃報が私のもとに届きました。

そのある人とは、お世話になった人というより、おおいに迷惑を被った…という言い方のほうが私には正しいような人物でした。そしてその人の訃報を聞いて、同じようにその人から迷惑を被った女友だちのことを思い出しました。

彼女とは仕事先で知り合い、お互いに離婚した直後ということもあり意気投合。

ちょっとやんちゃな両親に育てられた私に比べて、お嬢様育ちの彼女。さらに元バレリーナという華やかさ。「ずっとバレエひと筋だったから仕事らしい仕事をするのは今が初めてなの」と語っていた彼女。

一緒にあちらこちらのカフェでいろいろなことを語りあいました。

上の画像は彼女のお気に入りの銀座のカフェ。この頃の彼女は「私は恋愛至上主義だから」と言い切り、フランス人の男性モデルと付き合っていたはず。

ある時は中目黒のスヌーピーカフェに行ってみたり。

「子供の頃からバレエのためにずっとダイエットしてきたから、今更ダイエットなんて真っ平」と言い切り、「日本の男は体型にこだわりすぎ。だから日本人の男なんてご免なのよね」という潔さ。

そしてまたある時は、「私は猛禽類が好きなの♡」とフクロウカフェに連れて行かれたりもしました。

自主的には絶対に行かない場所です。(笑)

ホー。

カフェの人の話によると、フクロウは夜行性だから昼間はずーっとウトウトしているとか。何番目かのフクロウなんてほぼ眠っていました。

確かによく見ると可愛いかもしれません。

母が飼っていた猫のスコティッシュホールドに少し似ています。そういえばこの時にも私がそう言ったら、「スコティッシュは耳が小さいからそう見えるだけだよ」と彼女に一刀両断されたっけ。(笑)

それでもこの日の彼女の楽しそうな姿は今も鮮明に記憶に残っています。

こちらも一緒に行った世田谷のカフェ。

ペーパーの日付が2017年となっています。

確かこの時、彼女は足を骨折して松葉杖をついていたはずです。この頃の彼女は少し情緒不安定で、「何をやっても上手くいかない」と不機嫌なことが多かったのですが、今思うと更年期だったのかもしれません。

ある冬の日、青山のレストランでムール貝をたらふく食べて、表参道のスタバでお茶していたときのこと。

私の何気ない一言が彼女の逆鱗に触れ、というよりも、私の何気ない一言が彼女をおおいに傷つけたらしく、この日を堺に彼女とは疎遠になりました。

その後もLINEで近況報告はときおりしていましたが、実際に会ったのはこの日が最後になってしまいました。

そして先日、

「久しぶり。◯◯さん、亡くなったらしいよ」と私がメールをすると、「久しぶり、その名前懐かしいね」とすぐに彼女から返信がきました。彼女は今はジュエリーの仕事をしており、すっかりキャリアウーマンが板についている様子。

「ところで今はどこの国にいるの?これ日本からのメール?」という彼女の一文に思わずクスリ。当時の私はといえば毎月のようにあっち行ったりこっち行ったり。その度にオシャレな彼女へのお土産に困っていたものです。

こちらは彼女のお宅で一緒に食べたイチゴ。

アスティエの食器とアンティークが大好きな彼女。

今は恋愛とも無縁とのこと。メールだけのやり取りでしたが、彼女は以前よりもどこかサバサバとしていました。ほんの数年だけれど、それでも月日は流れ、お互いに自分なりの生き方を見つけたのだと、あらためて思いました。

これが年内最後の投稿になります。どうぞ良い年をお迎えくださいませ。

 


私が見つけたもの

2024-12-05 13:07:43 | 雑記

アメリカから日本へ弾丸で来ていたBFを空港で無事に見送り、私が前回まで投稿していた『Welcome to Japan』シリーズは、未完を決め込むことにしました。

私たちの別れにはいつも涙やロマンスはなく、軽くハグをして「またね」とお互い笑顔。別れのたびに泣いていたら涙がいくつあっても足りません。

彼を乗せた飛行機を見送った翌日、私は生まれ育った茅ケ崎に立ち寄り、両親と姉のお墓参りをしました。数年ぶりの訪問を反省しながら、久しぶりに両親と姉に手を合わせました。

手を合わせながら、「そうだ。私もBFのように思い出の場所へ行ってみよう。」ふとそんな考えが頭に浮かびました。

翌日に向かった先は、大雄山の最乗寺。道了尊とも呼ばれる山の中にある静かなお寺です。

よく訪れたという意味の思い出の場所ではなく、幼い頃の記憶にのこっている場所で、訪れるのは少なく見積もっても、およそ45年ぶりになるはずです。

美しい紅葉と長い階段が私を出迎えてくれました。

私が二十歳くらいのとき、「大雄山のお寺に行こうよ」と両親を誘ったことがあります。しかし、すでに体を患っていた父からの返事は、「あそこは階段が多いから、今のお父さんの体では無理だよ。」というものでした。

それ以降、訪れる機会もなく、私の記憶からも薄れてしまった大雄山の最乗寺。

父の言葉を思い出す階段の多さ。健脚な私は難なく登れますが、体力の衰えていた父には確かに無理だったことでしょう。

階段を登りきると、幼かった私の心に大きな印象を与えた数々の下駄。

この光景だ。

まだ本当に幼かった私に両親が、「どの下駄なら履けるかな?」と笑いながら語りかけてきたのを覚えています。あれからいったい何年経つのでしょう…

私はいまだに自分の夢や望みを形にできずにいます。

計画を立てているようでいて、現実の形として具体的には何も描けておらず、ただ闇雲に日々を駆け抜けている気がします。今の私に必要なことは、もう少し長い目で事の成り行きを見ることかもしれません。つまり、幼いころから何も変わっていないということ。これが持って生まれた気質というのでしょうか。

そういえば、途中で天狗に出会いました。

烏天狗と山伏姿の大天狗です。

神通力を持ち、自由自在に飛び回ることの出来る翼を持つ天狗。

未来を見据え、聞く耳を持ち、天狗のように自由に自分の行きたい場所へ行く。私は相変わらず目標設定があいまいですが、深く静かな山の中にあるお寺の境内を歩きながら、そんなことを考えていました。

私が幼い頃から苦手としていたもの、それは努力。この努力という力を私は人よりも使っていないはずなので、きっとまだまだ余力はあるはずです。憧れや見栄ではなく、自分の実力相応のところに目標を持ち、そこを目指して努力をするということ。

これが、今回のBFとの再会、そしてこの長い連休の中で私が見つけたものです。

もう一歩の努力。

 

そういえば、我が家のお墓の前でどこかのネコが日向ぼっこをしていました。

私の代わりにお墓を守ってくれているのでしょうか。もしそうなら、これからもよろしくお願いしますね。