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大善人へ身魂磨き

大象

猿と馬について以前書きましたが、象にいってみます。


無為自然を説いた老子の第三十五章に大象の文字が出てきます。


原文

大象、天下往。往而不害、安平太。

樂與餌、過客止。道之出言、淡乎其無味。視之不足見。聽之不足聞。用之不足既。


現代語訳


巨象にのって世の中を行けば進むのに妨げはなく、安らかで泰平である。路傍の楽の音と食餌は旅人と象の足を止めるが、道は無言のまま淡々と続く。道の距離そのものには味はない。目をこらしても見えないし、耳をすましても聞こえない。しかしその変化は無尽蔵である。

(保立道久訳)


訳は、訳す人の感性によりますから、著者の心とドンピシャはないと思います。


老子が大きな象に乗った絵がないかなあと探しましたが、見つからず、水牛に乗っている絵はありました。




象に乗ったかどうかはわかりません。何故象なのでしょうか。当時の貴重かつ陸上で一番大きな生き物だからでしょうか。


象には「かたどる」という訓読みがあります。


ものは形をとっています。そこから、「象」形文字が作られ、中国は甲骨文字から漢字になりました。


日本人も漢字が馴染みあるので、象形文字のこちらの動画はオススメです。


はじめはシンプルに、川や山、木や人、日や月、田や舎、犬や鳥や網など、人々の生活に密着したものを象ったんですね。


そして、次は目に見えない抽象的なものを象っていったのだと思います。象られた文字のおかげで、古代からの賢人の書を今も読む事ができます。


ただ、形のないもので、文字や言葉で表せないものってあります。抽象的なものを言葉にするのは難しい。「愛」だって、捉え方は人それぞれです。「宇宙」もあるのは知っているけれど、全体は把握できない。結局は、目に見えないものは感じるしかない。


宮沢賢治のオツベルと象という話があります。白象が出てきます。月を愛する美しい心の白象を、オツベルは我欲にかられ働かせ痛めつけます。白象とオツベルは会話をしているようで、会話が成り立たないのです。白象の言葉は、冷酷なオツベルには上滑りし伝わる事などないのです。


無為自然を説く老子の書は、短く簡潔です。しかし、老子が言いたい事は壮大で一部は見えても、全体ゾウをとらえるのは難しいと思います。現代訳も色々あって、象を大いなる「道」と訳しているものもあります。


水牛に乗る老子の姿は、日本語の「タオやか」な感じです。悠々として、周りの事象に惑わされず、ゆったりと微笑みながら動じないで進み行くイメージです。


老子の説く道はタオです。


老子の説く無為自然の奥深さは、大象のたった2語だけでも、沢山の含蓄があり、9×9の81章は、一生かけても理解や到達出来ない境地だと感じます。


私は漢文の素養がないので、誰かの訳に頼りますが、原文の漢字からいつか自分で少しでも感じとれるといいなと思います。


良い書からの学びは奥深く行き着くところがないと思います。


行き着くところがないからこそ、象るには難しく、それを老子はある一章の中の大象というたった2語にこめたとすると、老子の書が奥が深いということだけは、私にもわかります。


もう、何回も読みましたが、ずっと、これからも何回も愛読して行くゾゥ🐘。


無為自然

ありのままに、自然に素直にいられるようになるといいですね!








【画像は伊藤若冲の絵より】

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