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おおむねごはんばかり。

それは許される子どもであるがゆえに許される。

2013年07月03日 | おもいつき
例えば、芸術の本質を“問いつづけること”だとする。

問いに対する回答は同時に新しい問いを生み、

その問いに対する回答の可能性はさらに新しい問いを生み出しつづける。

つまり、問いに対する最終的な答えも結果も、

問いがいつまでも続くとしか答えられないこととなる。

あるひとりの芸術家、社会、歴史が何らかの作品を生み出したとき、

それは問いの途中経過であって回答やもちろん結果ではない。

なのに私たちの多くは、作品を価値のある結果だと認識してしまう。

夏休みの絵日記。最終日までまだまだあるのに、

その1頁だけを夏休みの総てだと思い込んでしまうような。

結果と最終的な価値基準としての回答。

そのようなものは芸術の、例えばの話ではあるが、本質からすればありえないのに。

最終的な結果、文字や数字であらわすことのできる回答を。

もちろん、いつまでも終る気配を見せない個人や特定集団の夏休みに、

付き合いきれない、付き合うつもりのない、

そもそもそれ自体に何の価値も見出せず、憤りを露わにしてしまう者の気持ちも、

わからないではない。それが人間だからとかそういった感じで。

問うことは誰かの怒りを買うかもしれない。

子どもの終わらない何故?に付き合わされる大人。

何故?自体が自身の露出したくない秘め事であればなおさらのこと。

例えば、芸術の本質を“問いつづけること”だとしていたが、

“問いつづけること”自体が芸術だとしてみる。

そうでない芸術もある。それを敢えて別の箱に入れておく。

それは自然そのものであり、美しさ醜さ野蛮さ洗練そのものであり、

問われるものそのものでもあるから、別の箱に入れておく。

“問いつづけること”自体が芸術だとしてみる。

問い続けること、終わらない何故?

それは許される子どもであるがゆえに許される。

“ねえ?どうしてボクの(わたしの)夏休みは終わらないの?”

それは許される子どもであるがゆえに許されない場合もある。

“夏休みはもう、とっくの昔に終わっているんだよ”

そしてその許されない場合が新しい何故?を育む。

新しい何故?を身にする度に、私たち(もしくは芸術家)は、

怒られない何故?の仕方を覚える、学習していく、

誰かの怒りを諫めてくれる共犯者を手に入れる。

そういった感じで、

私たちは(芸術家たちは)、子どもであることを目指し、

目指すがゆえに、繰り返すがゆえに、

大人にならなければ子どものままではいられないのだと、

ずっと思い続けて、おこちゃまなまま今に至る。




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