徒然草独歩の写日記

周防東部の徒然なるままの写日記

周防国道前と安芸国西條蔵田氏縁結び

2012-07-01 03:57:06 | 蔵田教信・蔵田房信

先般から、俄然忙しくなった。複雑なので記載を止めようかと思ったのだが、一応、覚えのため記載しておこう。天文20年(1551)陶晴賢謀反のとき主君に味方し、差川杵ケ迫で自刃したとされる 大内義隆公家臣・周防国道前在城二万八千石領「蔵田冶部少輔源教信(のりのぶ)」の続編だ。 (注)周防国道前は戦国期に見える広域地名。各種古文書によって、熊毛郡から玖珂郡南部に通ずる往還道沿いの地域の総称であると推定されている。

最近になって、通化寺窯の田村悟朗氏が、安芸西條鏡山城の戦いで自害した蔵田房信や供養碑のある平泰寺に関心を持ったのだ。wikiや関連サイトからの資料を元に、彼との素人談義がまたもや始まった。

少し長くなるが前段の説明として、

教信の末裔「田中家系図(写)」には教信の弟「伊豆守信近」が記載されいて、横に「在城 安芸国西條」とあるのみで城の名前がない。他に彼らの実父「教資」の名がみられ、これらの代の前は一括記載で検証の仕様が無い。サイトの通化寺の田村悟朗氏の項に長々と記載しているが、三尾城陥落時期を色々詮索している間は、弟の伊豆守信近については全く眼中に無かった。兄の冶部少補教信は「周防国道前在城」、弟の伊豆守信近は「在城安芸国西條」。

東広島市の教育委員会から送られてきた「西条町誌・中世の項」には「応仁の乱」(1467~77)以前の永享11年(1439)前頃から周防、長門の守護大名大内氏の安芸国拠点西条との関わりが記載されている。「西条の要衝鏡山城には拠点のため歴代大内氏直臣が城主となり直轄領東西条の代官を兼ね、芸備の諸豪族を監視して東の細川方に対抗しようとしていた。」とある。

主として、「西条町誌」を引用すると、応仁の乱後、永正4年(1507)大内政弘の子義興は、管領細川政元に廃された前将軍足利義稙(たね)を奉じ10年間管領代として京に入るが、安芸中央部へ進入拡大を企てる尼子経久は永正年間(1504~1521)の末には鏡山城を手中に。この報に義興は大永3年春(1523)大挙して鏡山城を奪還、城代として蔵田備中守房信を置いたが、九州筑前に龍造寺等の進入情勢不穏となったため陶興房(晴隆の父)ら大内主力は九州へ転進。この間隙を大永3年(1523)6月尼子経久は重臣の亀井氏や傘下の毛利元就に命じ鏡山城を陥とす。

鏡山城攻略で元就は得意の調略により房信叔父の蔵田日向守眞信を内応させ、備中守房信は家族、家臣助命を条件に一族の備前守盛信と共に6月28日自害落城。尼子経久は背信した日向守眞信を許さず、元就の意に反し首をはねる。首実検に立ち会わされた若干七歳の毛利家当主幸松丸はこれが原因で病没。元就家督相続にあたり尼子経久はこれに干渉・内紛。元就尼子氏への不信・背信のきっかけとなる(陰徳太平記・吉田物語等)。

広島に居た頃、元就関係の書籍を読み漁ったが、「鏡山城の戦い」は有名な話で今更我が家の段ボール箱を開けてみる必要もない。

備中守房信の供養墓は寺家(じけ)の房信中興といわれる平泰寺にある。

大永5年になって大内義興、義隆親子は再び大内傘下となった元就と鏡山城を奪還。備中守房信妻子は竹原の木谷備中に預けられ、のちに郡山城に迎えられ、毛利輝元防長二州移封に従い長州藩士となる。最後の部分は某サイトからの引用だが、確証について未確認。また、毛利輝元家臣で、羽柴秀吉島津氏征伐に際し、軍勢渡海に携わる「赤間関渡船奉行」をし、輝元防長移封後に検地の責任者となる蔵田就貞(なりさだ)が居ることを把握しているが、これもまだ検証していない。就貞は備中守房信の二男のようだ。

本題に戻って、6/23田村氏兄弟(田中姓)がルーツ?らしき鏡山城と平泰寺を日帰り訪問。意外と短時間で、訪問というよりは駆け足旅行という感じ。

当方は、「西条町誌」やwiki以外の情報を求めて、前日深夜、サイトを検索し回って、いささかお疲れ。どれも前述の情報を超えるものは無い。意外と八本松や西条に蔵田姓のものが多い。商店・会社やマンション、不動産まである。蔵田コーポなるものは所有者の名前か?あるいは地名か?東広島市長まで蔵田だ。あきらめた。

彼らが出発した当日も早朝から一応再検索を。現地訪問中の田村氏へ何か新情報はないか?今日は先ず、西条の地名「蔵田」らしきものを検索。蔵田古墳があったので調べるが高屋の団地のようだ。ここは少し東北に離れすぎている。地名検索をあきらめて、終頁から「蔵田房信」と「平泰寺」について検索を始めたが、無関係なものがやたらと重複して多いので、中断して先頭の10頁目から始める。何頁目かに「おや?」と思うものが目に留まる。「先祖」の一字が引っかかる。この頁は前日も流したのだが、見逃したようだ。

「鯉次郎の旅日記」2011/08/20のブログだ。どうでも「備中守房信」に関係するようだ。早速、コメント欄へ書き込み、当方のブログのコメント欄へ連絡をお願いする。早々と帰ってきた田村氏へ一報。「ひょっとすると、広島で毎年一回程度顔を合わすようになる関係かも知れんぞね?」。

翌日鯉次郎さんから返事を頂く。OCNのブログはコメント書き込みがあるとメールで通知してくれるので不精者には便利だ。鯉次郎さんとメールで詳細をやり取りする過程で、鯉さんは備中守房信の次男末裔で、周防と安芸の蔵田氏は一族と思われることが判明。結果に大満足。鏡山城址も今は公園だが、昔は鯉家の先祖所有だったようだ。蔵田という地名が古地図にあるそうだ。前述のとおり蔵田姓も多い。残念なことに戦後の混乱期、系図等を盗難で紛失している。周防国道前(差川)の方は、反逆陶氏と戦い自刃する三尾城在番蔵田冶部教信から系図が始まるわけだが、史跡は三ツ尾城址(城山)と差川杵ケ迫の蔵田冶部墓ぐらいだ。この時代以前の証跡はない。これに対し、安芸国西條の方は蔵田姓の多いことや古地名等から西条が主流のようだ。鏡山城の戦いは1523年、陶氏反逆は1551年、30年の差があるが房信教信・信近の名前も何か関係がありそうだ。東西条は1400年代から大内氏の安芸国拠点でもある。

今回の収穫は周防方よりは安芸方の方が大きかっただろう。田中家系図冒頭にプロローグとして記載の「清和源氏嫡流 新田義康二男義清十代から始まる複数代のちの石見守教資長男蔵田冶部少輔源教信は、系図を紛失している安芸方鯉家にとって収穫どころの話ではないだろう。今後の鯉次郎さんの検証を期待したい。やはり、安芸西条は周防からみて遠隔地なのだ。(注:清和源氏・新田義康についてはwiki参照。別のサイトに足利基氏三代持氏の子に周旺の名が見られるが、この名前だけが異質。こりゃあ周防となんか関係あるのか?ここまで推察するのは邪推?)

系図に記載のたった一行の石見守教資二男教信弟 蔵田伊豆守信近「在城 安芸国西條」。これが両者の接点となり、インターネットの検索エンジンが縁を結ぶ。もし彼のブログに出会えなかったら、また、ブログ記事に「先祖」の一字が無かったら永遠にそれっきりだ。不思議な時代に生きている。それにしても、今回の「一人旅」ではすばらしい出会いが何と多かったことか。これも不思議だ。やはり吉田松陰先生の格言はすばらしい。彼らが出会った暁には、二人で松陰神社に詣でる必要がある。
「地を離れて人なく、人を離れてことなし。故に人事を論ぜんと欲せば、先ず地理を観よ。」なのだ。

落ち着いたら、教育委員会と平泰寺にアポをとって田村氏西条訪問に同行する予定だが、以上の覚書はその際の留意事項になるだろう。

鯉次郎さんからの情報では、「山口大神宮」の灯篭に蔵田氏の刻字があるそうだ。この人、歴史に造詣深く学識ありそう。山口方面も気になるのだが、遠隔地でもあり時間がとれない。田村氏との素人談義は、まだまだ続きそうだ。

(田中家系図(写)の前段の複数代複数姓名は一部隠伏しました。)

Tuika3大永3年(1523)鏡山城の戦い以後の安芸西條の状況(信近「在城安芸国西條」関連)。

  1. 大永5年(1525)大内義興親子・傘下の元就は鏡山城奪回。房信長子は郡山城に迎えられ、輝元移封に従い長州藩士。(「陰徳太平記」等)
  2. 大内氏鏡山城奪回後、これを廃城し八本松曽場ケ城(杣城?)を、のちに同吉川に槌山城を築き天文12年(1543)弘中兼包安芸守護代として入城。この頃山陽道表筋玄関として飯田土居屋敷(平城)を築き郡代を置く。郡代は弘中氏が周防に帰っていた頃槌山城代であった菅田宣真であったと思われ、墓も飯田土居遺跡近くの妙徳寺にある。
  3. 天文20年(1551)反逆陶隆房(晴賢)の命により、毛利元就は親大内派の篭る曽場ケ城、槌山城を落とす。
  4. 弘治元年(1554)厳島合戦の頃までには、元就は石見出陣中の大内(陶)方諸城を攻略し安芸を掌握。同年厳島合戦に勝利した元就は、岩国横山永興寺から背後の周防内陸部に侵攻、玖珂の鞍掛城を攻略。
  5. 蔵田信近「在城安芸国西條」は1551年頃?で、この頃戦死か?兄の蔵田冶部少輔教信は1551年反逆陶軍と周防国三ツ尾城(差川城とも)で戦い、差川杵ケ迫で自刃。嫡子幼少のため家督を弟の信近が継ぐが、間もなく信近も戦死。安芸国槌山城等配下で戦死した可能性が高いと思うが?
  6. 三ツ尾城攻略元就説があるが、この場合は鞍懸合戦同時期か直後ということになるが、サイト本文に長々と説明したとおり、元就説は間違い。

 別に、鏡山城代備中守房信は大内氏家臣団安芸国人「蔵田貞信長谷部信連流備中」の子と記載したサイトがある。長谷部信連(のぶつら)は以仁王の反平家令旨顛末で有名。文治2年(1186)頼朝に鎌倉御家人として迎えられ 、安芸国検非違使(所)に補任され所領(荘園)を給わる。のちに頼朝から能登国大屋庄地頭職に補任され能登長氏の祖となる。蔵田氏は安芸国で長谷部信連の配下、戚族となったか?

備中守房信の父らしき「蔵田貞信長谷部信連流備中」は、9月に予定している安芸西条探訪の核心になりそうだ。

注:長谷部信連については、大江希望氏のサイト「長谷部信連を巡って」(要検索)が詳しい。  

* 「縁結び--続編--」があります。 右端カテゴリーの「蔵田教信・蔵田房信」からお入りください。

 

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