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黄金の歴史ウンチク解読ブログ

天皇家を中心にウンチクを語っていきます。自分が今までに読み貯めた知識によるので、多少あれって表記もあるかもしれません。

権大納言 藤原能信(よしのぶ)

2006-12-28 20:27:04 | 藤原氏
摂政太政大臣 藤原道長の子。生母は源明子。
摂政・関白 頼通、関白 教通は異母兄、右大臣 藤原頼宗(よりむね)は同母兄にあたる。
妻は藤原公成(きんなり)の妹である藤原祉子。
子女に恵まれず、兄・頼宗の子である能長を養子としている。
能信は性格が道長に似て勝気で、嫡流として出世していく頼通・教通兄弟に対し猛烈なライバル心を抱いており、父・道長から諫められることもたびたびであった。
その為か頼通からは敬遠され、権大納言を最後に、死ぬまで45年間官位が上がることはなかった。
しかし、それくらいのことでは挫けることもなく、後朱雀天皇の中宮に禎子(ていし)内親王(後の陽明門院)が決まると、自ら進んで側近となる。
既にこの時、頼通の養女嫄子(げんし)が後朱雀天皇に入内することが確定していたのであるが、あえてその対立陣営に走ったのである。
本来なら頼通の異母弟として、嫄子側に付くのが自然であるのに、敢えてそうしなかったことも、頼通に対抗心があったからこそであろう。
その後、禎子内親王に尊仁(ためひと)親王(後の後三条天皇)が誕生すると、親王の後見人を併せて引き受けることになる。
反対に嫄子は、女児しか儲けることができず、その事もあり禎子内親王及び尊仁親王は、頼通に疎んじられており、能信という見方は、本当に心強かったに違いない。
さらに、後朱雀天皇重態の際には、天皇を説得して、「後冷泉天皇の皇太弟には尊仁親王を」という詔勅を貰うことに成功。
しかし後冷泉天皇には、既に頼通・教通兄弟の娘がそれぞれ入内しており、その腹に男児が誕生すれば、詔勅などどうにでもされる可能性が高く、世間の人は「尊仁親王が即位するのは難しい」と噂していた。
その為、どの家も東宮に娘を入れようとせず、やむを得ず妻・祉子の兄である藤原公成の娘・茂子(もし)を自分の養女として東宮妃としたのである。
しかし結果的には、後冷泉天皇には子女が産まれず、尊仁親王は後三条天皇として華々しく即位することとなる。
不幸にも能信は、尊仁親王の即位を見ることなく亡くなっているのであるが、能信の献身のお陰で即位できた後三条天皇は、能信の養子・能長を大いに待遇して報いたのである。

右大臣 藤原頼宗(よりむね)

2006-12-28 14:15:15 | 藤原氏
号:堀河右大臣

正妻 藤原伊周の娘・・・俊家(右大臣) 能長(内大臣) 
女子(小一条院女御) 延子(後朱雀天皇女御) 

摂政太政大臣 藤原道長の子。生母は源明子(あきこ)。
摂政・関白 頼通(よりみち)、関白 教通(のりみち)は異母兄弟、権大納言 能信(よしのぶ)は同母弟にあたる。
正妻腹の頼通、教通に比べて出世はかなり遅れていたが、最終的には右大臣にまで登りつめた。
父である道長の政敵であった伊周(これちか)の娘を妻に迎えようとし、両親の怒りをかったが、反対を押し切って正妻としてしまっている。
頼宗の同母妹である寛子(かんし)は、小一条院の女御であったが、寛子が亡くなると娘の一人(名は不詳)を小一条院の女御としている。
小一条院は三条天皇の長子で、一旦は皇太子となったものの道長に遠慮して皇太子の地位を返上することとなる悲劇の皇子なのである。
道長は妥協策として上皇の待遇を処して「小一条院」とし、さらに娘・寛子の婿としても迎えた念の入れようである。
その寛子が亡くなってしまったため、小一条院との繋がりを保つために、頼宗は娘を小一条院に入れざるをえなくなったわけであるが、本来は将来の后がねとして育てていただけに、不満はかくせなかったであろう。
しかし道長の嫡流であった頼通にはその当時娘がなく、教通には娘がいたもののまだ子供であった。
もともと頼通・教通とはソリが会わなかったため、頼通・教通を差し置いて頼宗が、天皇に娘を入内させようと考えていることを危惧であると判断した道長の命令で、娘を小一条院に入れたのであろう。
もう一人の娘・延子(えんし)は、晴れて後朱雀天皇の後宮に入れることができたが、すでに頼通の養女が中宮となっていたし、教通も娘・生子(いくし)を入れていたので、女御にしかなれなかったし、子女を儲けることもできなかった。
頼宗は歌人としても優れ、大弐三位(紫式部の娘)や小式部内侍(和泉式部の娘)という有名な女流歌人を愛人としていたようである。

関白 藤原教通(のりみち)

2006-12-27 12:45:42 | 藤原氏
正妻 嫥子女王(具平親王の息女)
子内親王(三条天皇の皇女)
藤原公任の娘・・・信家 通基 信長(太政大臣) 行覚 證仁
  生子(後朱雀天皇女御) 歓子(後冷泉天皇皇后) 真子(後冷泉天皇女御)
小式部内侍(和泉式部の娘)・・・静円

摂政太政大臣 藤原道長の子で、生母は源倫子(みなもとりんし)。
摂政・関白 藤原頼通(よりみち)の同母弟にあたる。
藤原氏と外戚関係のない後三条天皇が即位すると、兄である頼通は失意のあまり引退してしまい、兄から氏長者を譲られ、娘の歓子(かんし)が後冷泉天皇の皇后となったことから関白に就任する。
歓子は入内後間もなく懐妊し、見事に男児を出産するも即日死亡してしまったという悲劇に見舞われた。
その後、歓子は再度身籠ることもなく、同じく娘を後冷泉天皇に入れていた兄・頼通の娘寛子も、子を儲けることが出来ず、摂関家は急激に衰退していった。
生子(いくし)は、後朱雀天皇の女御となるも、子女を儲けることができず、真子(しんし)も後冷泉天皇の女御となるも子女を儲けることができなかった。
さらに教通は、兄から摂関職を譲られた際「教通の次の摂関職には頼通の子息を」と約束したにも関わらず、自分の息子・信長(のぶなが)へ譲渡しようとし、兄弟は不仲となり、摂関家衰退に拍車をかけることとなった。
ちなみに妾の小式部内侍(こしきぶのないし)は、冷泉天皇の皇子である弾正宮(だんじょうのみや)為尊(ためたか)親王とその弟・帥宮(そちのみや)敦道親王から愛されたことで有名な、和泉式部の娘である。
嫥子女王の父である具平(ともひら)親王は村上天皇の皇子(生母は荘子女王)であるが、頼通の正妻である隆姫女王も具平親王の息女であるところから考えても、具平親王と摂関家とは深い結びつきがあったのであろう。


摂政・関白 藤原頼通(よりみち)

2006-12-26 19:37:47 | 藤原氏
正妻 隆姫女王(具平親王の娘)
源憲定の娘・・・通房
藤原祇子(藤原種成の娘)・・・覚円 橘俊綱 寛子(後冷泉天皇皇后)
           師実(摂政関白左大臣) 家綱 忠綱

摂政太政大臣 藤原道長の嫡男。生母は、左大臣源雅信の娘、源倫子。
関白 教通は同母弟、一条天皇中宮で、後一条、後朱雀両天皇生母となった彰子は同母姉にあたる。
道長の嫡男として生まれ、後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇三代に渡って摂政・関白を実に50年という長い年月勤めた。まさしく藤原摂関家の全盛期であり、その勢力は父以上のものであったとされているが、娘が天皇の男児を産まなかったことが、衰退の原因となる。
頼通は正妻である隆姫を熱愛していたため、その間に一向に子が産まれないにも関わらず、他に妻を持とうとせず、父 道長に一喝されている。
摂関家の繁栄を次の代まで栄えさせるためには、自分の娘が天皇の妃となり、その腹に男児を産まなければならないのである。
その後頼通は、別の妻の下へも通うようになり、幾人かの子女を儲けたのであるが、女子が一人しか産まれなかったことも、その後の運命を物語っている。
正妻の隆姫の妹が、敦康親王の妃となっていたことから、その間の娘・嫄子を養女として育てており、後朱雀天皇の中宮とするも、女児しか産まなかった。
さらに唯一の娘である寛子を後冷泉天皇の皇后とするも、子女を儲けることは出来なかった。
後冷泉天皇には子がなく、次の後三条天皇は藤原氏と外戚関係のない天皇であったため、後三条天皇の即位をもって摂関家は急速に衰退していくのである。
後三条天皇が即位してしまうと、頼通は失意のあまり引退してしまったほどである。
その後、弟の教通が関白となるも、次第に兄弟で不仲となり、さらなる摂関家衰退を招くこととなる。
ちなみに、宇治平等院鳳凰堂を建てたのは、この頼通である。

摂政太政大臣 藤原道長

2006-12-26 08:41:22 | 藤原氏
源倫子(左大臣源雅信の娘)・・・彰子(一条天皇中宮、後一条、後朱雀両天皇生母) 頼通(摂政・関白) 妍子(三条天皇中宮) 教通(関白)
威子(後一条天皇中宮) 嬉子(後朱雀天皇東宮妃、後冷泉天皇生母)
源明子(左大臣源高明の娘)・・・頼宗(右大臣) 顕信 能信(権大納言)
寛子(小一条院女御) 尊子(源師房室) 長家(権大納言)
母未詳・・・盛子(三条天皇尚侍) 長信
藤原儼子(太政大臣藤原為光の娘)

摂政関白太政大臣兼家の五男、生母は藤原時姫。
摂政関白道隆、関白道兼は同母兄、一条天皇の生母である詮子は同母姉にあたる。
道長は、兼家の五男であったため、おおよそ摂関職には遠い存在のように思われていた。
そのため、正妻 源倫子の父・源雅信は、后がねとして育てていた倫子の婿として道長を迎えることをすこぶる渋っていた。
しかし源雅信の妻・穆子には先見の目があったのか、道長には何か感じるものがあるとして夫を説得し、倫子の婿として道長を迎えたのであった。
嫡男道隆が父から譲りを受けて摂関職に就くと、甥にあたる伊周にも官位を抜かされていたが、その道隆が43歳という壮年で亡くなり、その後を継いで摂関職に就いた次兄の道兼も、わずか7日で亡くなった。
ここにきて摂関職を巡り、道長と伊周との間で熾烈な争いが生じるのである。
一条天皇の中宮である定子は伊周の同母妹であり、定子は天皇の寵愛を一身に受けていたため、その口添えによってはかなり優位になる可能性があった。
しかし道長は、一条天皇の生母で、同母姉でもある詮子に、たいへん可愛がられており、しかも詮子は、定子や伊周に対してよい感情を抱いていなかった。
結局、詮子の泣き落としに一条天皇も負け、次の摂関職には道長が就任するのである。
その後も、何度か道長と伊周との間で争いが生じ、死人まででたとも言われているくらい、激しさを増していったようである。
しかし、伊周自身が、若さゆえもあるであろうが、自ら墓穴を掘る事件(長徳の変)を起こしてしまうのである。
花山法皇は、寵妃であった忯子の妹の家に通っていたのであるが、伊周も別の妹に通っていた。
それを伊周は、法皇も同じ姫に通っているものと勘違いし、弟の隆家と共謀して法皇を威嚇してやろうと矢を放ったのである。
それが事もあろうに法皇の袖を突き通した上に、別の矢が法皇の従者に刺さり、従者を死亡させるという事件を起こしたのである。
これにより伊周は左遷させら、弟の不祥事の責任をとって定子は剃髪するハメになる。
その後道長は、長女・彰子を一条天皇の後宮に入れて中宮とし、すでに一条天皇の中宮となっていた定子を皇后に変えて、異例の一代二后を確立してしまう。
入内十年で彰子は待望の男児・敦成親王(のちの後一条天皇)、翌年には敦良親王(後の後朱雀天皇)を産むのである。
外孫誕生に道長が狂喜したことが、紫式部日記に詳しく書かれている。
次女妍子は三条天皇中宮、三女威子は後一条天皇中宮となり、前代未聞の「一家立三后」をやってのけるのである。
三女威子が立后した際に詠んだ「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」という傲慢この上ない唄があまりにも有名。
普段から道長の批判をしていた藤原実資(さねすけ)は、道長より返歌を求められるが「あまりにも素晴らしい唄なので、私では返歌も思いつきません、皆で復唱しましょう」というのが精一杯であったという。
その後四女嬉子も将来の后となるべく敦良親王(のち後朱雀天皇)に入内するが、男児出産後に産褥で亡くなっている。栄耀を極めた道長であったが、長女彰子との不仲、三条天皇を挟んで次女妍子との不仲、さらに妥協策と思われていた三条天皇と妍子との間の男児出産も、期待に反して女児しか産まれず、三女威子もまた、女児しか産むことができなかった。
この世をば・・・の唄を詠んだときが彼の絶頂期であり、嫡男頼通の代でもろくも栄耀は崩れ去っていくのであった。