摂政太政大臣 藤原道長の子。生母は源明子。
摂政・関白 頼通、関白 教通は異母兄、右大臣 藤原頼宗(よりむね)は同母兄にあたる。
妻は藤原公成(きんなり)の妹である藤原祉子。
子女に恵まれず、兄・頼宗の子である能長を養子としている。
能信は性格が道長に似て勝気で、嫡流として出世していく頼通・教通兄弟に対し猛烈なライバル心を抱いており、父・道長から諫められることもたびたびであった。
その為か頼通からは敬遠され、権大納言を最後に、死ぬまで45年間官位が上がることはなかった。
しかし、それくらいのことでは挫けることもなく、後朱雀天皇の中宮に禎子(ていし)内親王(後の陽明門院)が決まると、自ら進んで側近となる。
既にこの時、頼通の養女嫄子(げんし)が後朱雀天皇に入内することが確定していたのであるが、あえてその対立陣営に走ったのである。
本来なら頼通の異母弟として、嫄子側に付くのが自然であるのに、敢えてそうしなかったことも、頼通に対抗心があったからこそであろう。
その後、禎子内親王に尊仁(ためひと)親王(後の後三条天皇)が誕生すると、親王の後見人を併せて引き受けることになる。
反対に嫄子は、女児しか儲けることができず、その事もあり禎子内親王及び尊仁親王は、頼通に疎んじられており、能信という見方は、本当に心強かったに違いない。
さらに、後朱雀天皇重態の際には、天皇を説得して、「後冷泉天皇の皇太弟には尊仁親王を」という詔勅を貰うことに成功。
しかし後冷泉天皇には、既に頼通・教通兄弟の娘がそれぞれ入内しており、その腹に男児が誕生すれば、詔勅などどうにでもされる可能性が高く、世間の人は「尊仁親王が即位するのは難しい」と噂していた。
その為、どの家も東宮に娘を入れようとせず、やむを得ず妻・祉子の兄である藤原公成の娘・茂子(もし)を自分の養女として東宮妃としたのである。
しかし結果的には、後冷泉天皇には子女が産まれず、尊仁親王は後三条天皇として華々しく即位することとなる。
不幸にも能信は、尊仁親王の即位を見ることなく亡くなっているのであるが、能信の献身のお陰で即位できた後三条天皇は、能信の養子・能長を大いに待遇して報いたのである。
摂政・関白 頼通、関白 教通は異母兄、右大臣 藤原頼宗(よりむね)は同母兄にあたる。
妻は藤原公成(きんなり)の妹である藤原祉子。
子女に恵まれず、兄・頼宗の子である能長を養子としている。
能信は性格が道長に似て勝気で、嫡流として出世していく頼通・教通兄弟に対し猛烈なライバル心を抱いており、父・道長から諫められることもたびたびであった。
その為か頼通からは敬遠され、権大納言を最後に、死ぬまで45年間官位が上がることはなかった。
しかし、それくらいのことでは挫けることもなく、後朱雀天皇の中宮に禎子(ていし)内親王(後の陽明門院)が決まると、自ら進んで側近となる。
既にこの時、頼通の養女嫄子(げんし)が後朱雀天皇に入内することが確定していたのであるが、あえてその対立陣営に走ったのである。
本来なら頼通の異母弟として、嫄子側に付くのが自然であるのに、敢えてそうしなかったことも、頼通に対抗心があったからこそであろう。
その後、禎子内親王に尊仁(ためひと)親王(後の後三条天皇)が誕生すると、親王の後見人を併せて引き受けることになる。
反対に嫄子は、女児しか儲けることができず、その事もあり禎子内親王及び尊仁親王は、頼通に疎んじられており、能信という見方は、本当に心強かったに違いない。
さらに、後朱雀天皇重態の際には、天皇を説得して、「後冷泉天皇の皇太弟には尊仁親王を」という詔勅を貰うことに成功。
しかし後冷泉天皇には、既に頼通・教通兄弟の娘がそれぞれ入内しており、その腹に男児が誕生すれば、詔勅などどうにでもされる可能性が高く、世間の人は「尊仁親王が即位するのは難しい」と噂していた。
その為、どの家も東宮に娘を入れようとせず、やむを得ず妻・祉子の兄である藤原公成の娘・茂子(もし)を自分の養女として東宮妃としたのである。
しかし結果的には、後冷泉天皇には子女が産まれず、尊仁親王は後三条天皇として華々しく即位することとなる。
不幸にも能信は、尊仁親王の即位を見ることなく亡くなっているのであるが、能信の献身のお陰で即位できた後三条天皇は、能信の養子・能長を大いに待遇して報いたのである。