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黄金の歴史ウンチク解読ブログ

天皇家を中心にウンチクを語っていきます。自分が今までに読み貯めた知識によるので、多少あれって表記もあるかもしれません。

関白 藤原道兼

2006-12-25 07:44:57 | 藤原氏
号:粟田殿、二条殿、町尻殿

藤原繁子(藤原師輔の娘)・・・尊子(一条天皇女御) 兼隆 兼綱 兼信


摂政関白太政大臣 藤原兼家の三男。生母は、藤原時姫。
摂政関白 道隆は同母兄、摂政太政大臣 道長は同母弟にあたる。
花山天皇の蔵人であったとき、父の兼家と共謀して天皇を出家させ退位に追い込んでいる。
兼家は、花山天皇の皇太子となっていた懐仁(かねひと)親王(円融天皇と、兼家の娘・詮子との間の皇子)の早期即位を願っていた。
花山天皇が寵愛していた女御が身重で亡くなり、途方に暮れていた時、道兼は天皇に対し「自分も一緒に出家するから、女御を弔いましょう」と持ちかけた。
そして天皇を連れ出し、髪を下ろしてしまい、自分は「出家前の姿を今一度父に見せてくる」と言い残して、逃げ帰ってしまった。
天皇が騙された、と気付いた時はすでに手遅れであった。
こうして花山天皇は法皇となり、兼家の野望通り、外孫が即位して一条天皇となったのである。
父のために一肌脱いだという経緯があったため、道兼は自分を父の後継者にしてもらえると期待していたのであるが、期待に反して後継者は嫡男・道隆であったため、道兼は多いに不満であったという。
道隆が43歳で亡くなると、甥の伊周(これちか)を差し置いて関白に就任するも、わずか7日で病没してしまい、世の人は「7日関白」と称したのである。
娘の尊子(そんし)は、あまり父である道兼から愛されていなかったようであるが、その死後、弟の道長の計らいで、一条天皇の後宮に入っているが、さほどの寵愛を受けることもなかったという。

摂政・関白 藤原道隆

2006-12-24 08:19:16 | 藤原氏
号:中関白

山城守藤原守仁の娘・・・道頼(権大納言)
高階貴子(高階成忠の娘)・・・伊周(内大臣) 定子(一条天皇皇后) 
             隆家(中納言) 原子(三条天皇妃) 隆円(僧)
             女子(敦道親王室) 女子(一条天皇御匣殿)
母未詳・・・周家 頼親 頼親 周頼 女子

摂政関白太政大臣 藤原兼家の嫡男。生母は、藤原時姫。
関白 道兼、摂政太政大臣 道長は同母弟。円融天皇女御となり一条天皇を産んだ詮子は同母姉。
父・兼家の譲りを受けて一条天皇の関白、摂政となる。
自分の長女・定子(ていし)を一条天皇の中宮とし、次女・原子(げんし)は東宮(後の三条天皇)妃とする。
嫡男・伊周(これちか)をわずか21歳という若年で内大臣に就任させると、他氏族だけでなく、皇太后となった詮子の反感を買うこととなる。
さらに一条天皇の後宮に、他家の娘を入内させないなどの強硬な態度も、さらなる反感を買うこととなる。
道隆と言えば「大酒飲み」として有名であるが、それが祟ったのか糖尿病であっけなく亡くなってしまった。
自分の寿命が長くないと分かると、嫡男・伊周に摂関職を譲ろうとするが、一条天皇に許されなかった。
やはり一条天皇の生母である詮子(せんし)が、伊周に対してよい感情を持っていなかったことが原因であろう。
その後、道隆の働きかけで、なんとか「関白が病気の間だけ」伊周を「摂関代行」とする宣命を得るが、伊周は「期間限定の代行」に明らかに不満たらたらであったため、ついには一条天皇の不興を買うこととなる。
結局、道隆が亡くなると、摂関職は弟の道兼に渡るのであるが、道兼は関白就任後わずか7日で病没してしまっている。
そのため道兼のことを「7日関白」と呼ぶのである。
その後摂関職をめぐり、末弟の道長と伊周が争うのであるが、伊周とは対照的に詮子に可愛がられていた道長が摂関職を手にするのである。
道隆の生前の強引なまでのやり方と、道隆の早死にのせいで、伊周らは急激に没落していくのである。

関白太政大臣 藤原頼忠(よりただ)

2006-12-24 08:16:53 | 藤原氏
諡:廉義公

厳子女王(代明親王の娘)・・・公任 頼任  最円
       遵子(円融天皇皇后) 子(花山天皇女御) 女子(源重信夫人) 


関白太政大臣 藤原実頼(さねより)の次男。生母は藤原時平の娘。嫡男であった敦敏が早くに亡くなっていたため、実質は頼忠が嫡男と言えよう。
冷泉天皇、花山天皇の関白となり、のち太政大臣に就く。
従兄弟にあたる伊尹(これまさ)、兼通(かねみち)、兼家(かねいえ)兄弟に比べると昇進も遅かったのであるが、摂政となった伊尹が亡くなると、その後釜を巡って兼通、兼家の争いとなるのであるが、一応兄である兼通が関白となって事態は収まった。
しかし以後、兼通、兼家は「犬猿の仲」状態が続き、兼通が病に倒れて初めて頼忠に運が転がり込んできたのである。
病に苦しむ兼通の家の近くを、兼家が通ったのを見て、さすがに病に倒れた兄を見舞いに来たのか、では今までのことは水に流し、弟に関白職を譲ってやろう、と思い身支度を整えて弟が訪ねてくるのを待った。
しかし兼家は何事も無かったかのように兼通の家の前を通り過ぎてしまった。
どうやら兼家は、既に兄は死んだものと勘違いし、天皇に時期関白就任の打合せに向かっていたようである。
それを知った兼通は激怒し、病の体を引きずって天皇に拝謁し、自分の死後の摂関職は、従兄弟の「頼忠」に譲る旨を強引に承認させたである。
こうして関白職が転がり込んだ頼忠は、娘の遵子(そんし)を円融天皇の後宮に入れて、その腹に男児が誕生することを期待する。
しかし遵子は子女を儲けることができず、ライバルとも言える兼家が後から後宮に入れた娘・詮子(せんし)は、皮肉ひも男児を儲け、その皇子は後の一条天皇となった。
もう一人の娘・子も、花山天皇の女御となるも、子女を儲けることはできなかった。
花山天皇が兼家らの陰謀で退位を余儀なくされ、代わって一条天皇が即位すると頼忠は名目だけの太政大臣となり、失意のまま病死するのである。
結局頼忠も、父である実頼と同じく、天皇家と外戚関係を結ぶことができなかったことが、一番の敗因であろうか。