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黄金の歴史ウンチク解読ブログ

天皇家を中心にウンチクを語っていきます。自分が今までに読み貯めた知識によるので、多少あれって表記もあるかもしれません。

間人皇女(はしひとのひめみこ)

2007-02-19 12:39:58 | 皇后
36代孝徳天皇の皇后。
34代舒明天皇の皇女、生母は35代皇極(37代斉明)天皇。
38代天智天皇、40代天武天皇は同母の兄弟である。
おそらく10代で、叔父(孝徳天皇は皇極天皇の同母弟)にあたる孝徳天皇と政略結婚しているが、既に孝徳天皇は50代になっていたと思われ、かなりの年齢差があった。
そのためか、二人の間に子は無い。
この間人皇女と天智天皇については、根強く近親相姦説が囁かれている。
病に倒れた孝徳天皇を難波京に置いたまま、皇后という地位にあった間人皇女は中大兄皇子(のちの天智天皇)と共に去っており、これを怨みに思った孝徳天皇が詠んだ歌が万葉集に収録されているのであるが、その歌が二人の近親相姦を匂わせているのである。
天智天皇の夫人の一人である蘇我越智娘(おちのいらつめ)が産んだとされている、健(たける)皇子は生まれつき口がきけない障害児であったが、その健皇子を実際に産んだのは間人皇女である、という説もある。
おそらく、同母という濃い血縁関係のため、産まれた子に障害があったのだ、という理論付けであろう。
もう一つ間人皇女に囁かれる噂は、実は天皇として即位していた、ということである。
万葉集には、「仲天皇(なかつすめらみこと)」という表記が多くあるのだが、実際歴代天皇にそういう人物は存在せず、この仲天皇とは間人皇女を指している、という説がある。
しかしこの仲天皇は、斉明天皇を指すという説や、天智天皇の皇后である倭姫王であるという説もあり、定かではない。

穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)

2007-02-18 07:04:44 | 皇后
31代用明天皇の皇后、聖徳太子の生母。
29代欽明天皇の皇女、生母は蘇我稲目(いなめ)の娘・小姉君(おあねのきみ)
穴穂部皇子、崇峻天皇とは同母の兄弟である。
異母兄にあたる用明天皇の皇后となり、厩戸(うまやど)皇子(後の聖徳太子)、来目(くめ)皇子、殖栗(えぐり)皇子、茨田(まんだ)皇子を産んでいる。
臨月であった穴穂部間人皇女が、馬小屋の厩に手を触れると、何の苦しみも無く聖徳太子を分娩した、とか、口の中に菩薩観音が入る夢を見て身籠ったのが聖徳太子である、という伝説が有名。
用明天皇の没後、用明天皇が若い頃に蘇我稲目の娘・石寸名(いしきな)に産ませた田目(ため)皇子と再婚し、佐富(さとみ)女王を儲けたという異色の経歴の持ち主である。
皇后となった女性に再婚は許されていなかったはずであるから、再婚というよりは密通に近いのであろうか。
さらに同母兄弟である穴穂部皇子と、兄弟以上の関係であった、という異説もある。

井上内親王(いかみないしんのう)

2007-02-13 12:58:20 | 皇后
49代光仁天皇の皇后、他戸皇太子(後に廃太子)、50代桓武天皇妃である酒人(さかひと)内親王の生母。
45代聖武天皇の第一皇女、生母は夫人・県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)
5歳のとき伊勢の斎王にト定され、同母弟である安積(あさか)親王の死により任を解かれ、帰京する。
ちなみに安積親王は17歳という若さで突然脚の病により亡くなったとされるが、後継者となるべく男児に恵まれなかった光明皇后側の暗殺の可能性が高い。
帰京後、天智天皇の孫にあたる白壁王(のちの光仁天皇)の妃となり、平穏な日々を過ごしていた。
ところが、異母妹でもある孝謙(称徳)女帝が後嗣なくして没すると、突然皇位継承問題に巻き込まれる。
廃れ老皇子であった白壁王が、亡き聖武天皇の皇女を正妃としていることを理由に、突如皇位が転がり込んできたのである。
こうして白壁王は光仁天皇となり、晴れて井上内親王は皇后、二人の間に産まれた他戸親王は皇太子となった。
しかし突如、井上皇后が光仁天皇を呪詛したとの罪により廃后され、さらにそれに連座したとして他戸親王までもが廃太子され、二人は幽閉されてしまったのである。
もともと白壁王を皇位に推した本当の狙いは、聖武天皇の血筋存続のためではなく、白壁王が渡来人系の女性に産ませた山部親王(後の桓武天皇)の存在であったのだ。
白壁王を即位させるためには「聖武天皇の皇女が正妃」という大義名分が必要であったが、即位してしまった今、もはや井上内親王の存在は邪魔なだけであった。
こうして陰謀をかけられた井上廃后は幽閉先で他戸廃太子と同日に急死しているのであるが、おそらく暗殺であろう。
「水鏡」には、光仁天皇と井上皇后が賭けをし、天皇は「自分が勝ったら若く新しい妃を迎え、自分が負けたら皇后に若く逞しい男性を与えよう」と言い、見事に賭けに勝った皇后は、天皇から約束通り若くて逞しい男性として山部親王を与えられ、皇后は若い山部親王に溺れ、それが原因で邪魔になった天皇を呪詛した、とあるが信憑性は微妙。
井上内親王の実子とされている他戸親王についても、実は井上内親王の実子ではなく、彼女の生母と同族の県犬養勇耳(あがたのいぬかいのいさみ)という女性が光仁天皇との間に儲けた子で、男児に恵まれなかった井上内親王が引き取って実子として育てた、という説もある。
井上廃后と他戸廃太子はその後怨霊となり、天変地異をもたらしたのだという。
人々は二人の怨霊を恐れ、井上廃后は竜になった、と噂しあった。
のちに二人は鎮魂され、再度皇后と皇太子を追号された。

磐之媛(いわのひめ)

2007-02-10 20:37:20 | 皇后
16代仁徳天皇の皇后。17代履中天皇、18代反正天皇、19代允恭天皇の生母。
後にも先にも3代に渡る天皇の生母となったのは、この磐之媛だけである。
大豪族である葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘。
当時の葛城氏は、代々天皇家と縁戚関係を築いており、天皇家を凌ぐ勢力があったと言われている。
伝説上の人物の色が濃いのであるが、かの聖武天皇が藤原不比等の娘・光明子を立后させるに当たり、臣下の娘で皇后となっていた磐之媛の話を前例として持ち出して強引に光明子を立后させたことでも有名。
なによりも磐之媛は「嫉妬深い皇后」として、あまりにも有名。
例えば、仁徳天皇が女官の桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)を後宮に迎えようと考えたものの、皇后の嫉妬が恐ろしくてなかなか実現出来ない、とぼやいた話。
黒媛という仁徳天皇の妃は、磐之媛の猛烈な嫉妬に恐れをなしとうとう船に乗って実家へ逃げ帰ろうとしたのであるがが、それを惜しく思った天皇が黒媛に唄を贈ったことを知った磐之媛はさらに怒り、人を遣わして黒媛を船から下ろし、歩いて実家まで帰らせたという話。
応神天皇の皇女で、仁徳天皇の異母妹でもある八田皇女を妃として迎えた時は特に強く反発し、「八田皇女と二人で妃といたいと思わない」と捨て台詞を吐いて出て行ってしまい、仁徳天皇がその後迎えに行ってもそれに応じなかった話、がある。
その後磐之媛は仁徳天皇と和解することなく亡くなるのであるが、天皇の嘆きはたいへん深かったのだという。