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黄金の歴史ウンチク解読ブログ

天皇家を中心にウンチクを語っていきます。自分が今までに読み貯めた知識によるので、多少あれって表記もあるかもしれません。

摂政関白太政大臣 藤原忠実(ただざね)

2007-01-01 15:34:42 | 藤原氏
号:知足院殿、禅閤

正妻 源師子(源顕房の娘)・・・泰子(鳥羽天皇皇后、高陽院) 忠通(摂政関白太政大臣)
室   藤原盛実の娘・・・頼長(左大臣)

関白内大臣 藤原師通(もろみち)の嫡男、生母は藤原俊家の娘。
父である師通は、忠実(ただざね)が22歳のときに38歳という若さで急死している。
その為、師通の次の摂関職を巡り、師通の異母弟・家忠(いえただ)と争うこととなる。
しかし、院政を敷き絶大な権力を手にしていた白河院の「摂関職は嫡流が継ぐべきである」という一言で、忠実が摂関職を手にすることとなった。
しかし、裏を返せば白河院のお陰で摂関職に就けた、とも言えるわけであり、もはや完全に院の力は摂関家を凌いでいたと認めざるをえない。
堀河天皇(白河院の子)の関白となり、次の鳥羽天皇(白河院の孫)の代では摂政に就任、その後再度関白となった。
正妻の源師子(しし)はもともとは白河院の妃の一人であった。
さらに言うと師子は、源顕房(あきふさ)の娘であるのだが、白河院の若かりし頃の寵愛を一身に受けてその後病に亡くなった中宮・賢子(けんし)の同母妹にあたる。
師子の姿を一目みて惚れ込んでしまい、白河院に頼み込んで自分の妻とした経緯があり、その点でも忠実は白河院に対して頭が上がらなかったのである。
白河院は、溺愛していた養女・璋子を、忠実の嫡男・忠通の妻としようとするが、すでに璋子と白河院のただならぬ関係に気付いていた忠実は、これを辞退して断固拒否した。
白河院は仕方なくこれを諦め、孫の鳥羽天皇の中宮として璋子を入内させた。
その後、師子が産んだ泰子を、自分の後宮に入れるように命じられ、さすがに親子(師子と泰子)で院の慰み者になることに耐えられなかったのであろう、これも頑なに拒否した。
もともと忠実は、泰子を鳥羽天皇の後宮に入れようと考えていたのである。
その後院より、泰子を鳥羽天皇の後宮に入れるよう要請があるが、何故かこれを断るのである。
暫くして鳥羽天皇が直々に泰子の入内を忠実に働きかけると、これを快く引き受けたため、その事を知った院は激怒し、忠実は蟄居を余儀なくされるとこになる。
白河院も亡くなり、鳥羽院の時代になり、ようやく政界に復帰し、すでに39歳という高齢になっていた泰子を鳥羽院は皇后として迎えた。
晩年の忠実は、次男の頼長を溺愛するようになり、忠通が継いだ「氏の長者職」を強引に奪って頼長に譲渡し、それが原因で嫡男・忠通と不仲になり、保元の乱の遠因となる。
保元の乱で忠通・頼長兄弟は争うことになるのがだ、結果、忠通が勝者となり、頼長は失意のまま亡くなることになる。
忠実も当然罪に問われる筈であったが、罪人となると財産を没収されてしまうため、それを恐れた忠通は、父の罪を追及しなかった、と言われている。
以後忠通は、知恩院に隠居したため、不遇の晩年であったと言える。

関白内大臣 藤原師通(もろみち)

2006-12-31 20:15:42 | 藤原氏
号:後二条殿、二条関白

藤原俊家の娘・・・忠実(摂政関白太政大臣)
不詳・・・家政
平貞経の娘・・・家隆(少納言)

摂政関白左大臣 藤原師実(もろざね)の子、生母は源師房(みなもともろふさ)の娘・源麗子(れいし)。
左大臣 家忠(いえただ)は異母弟にあたる。
摂関家の繁栄を取り戻そうと堀河天皇を補佐して、院政を敷く白河上皇に対抗するも、38歳という若さで急死している。
師通(もろみち)の死後、摂関職を巡って嫡男・忠実(ただざね)と、師通の異母弟・家忠(いえただ)が争い、それに他家も交じったため、その争いは数年にも及び、数年間の摂関職不在という事態になってしまい、かえって院政の勢力を増大させることとなった。
摂関家の子息ではあったが、三男・家隆(いえたか)は生母の身分が低かったため、それほどの出世ができなかった。

内大臣 藤原能長

2006-12-31 07:34:07 | 藤原氏
昭登親王の娘
源済政の娘・・・基長 道子(白河天皇女御)

右大臣 藤原頼宗(よりむね)の子、生母は藤原伊周(これちか)の娘。
子の無かった頼宗の同母弟 能信(よしのぶ)の養子となる。
養父・能信は、後三条天皇が即位するにあたり、献身的に仕えていたが、その即位前に亡くなっており、後三条天皇は能信に報いるために、養子である能長を取り立てた。
能信は、異母兄の摂政・関白 頼通に疎んじられていたが、かといってその養子の能信までを追い遣るというようなことは、頼通はしなかったため、順調に昇進はしていったようである。
後三条天皇は、のちの白河天皇となる東宮・貞仁親王の東宮妃として道子を入内することを許した。
当然、能信・能長はそのことを悲願として待ち望んでいたため、道子が実に東宮よりも11歳も年長であるという事実も、全く気にすることはなかった。
東宮16歳、道子27歳の時のであった。
やはり11歳という年齢差は無理があったのか、道子はあまり寵愛されなかったようである。
その後、藤原師実(もろざね)の養女である若い賢子(けんし)が14歳で入内すると、東宮の寵愛は専ら賢子に注がれ、天皇として即位してからもそれは衰えることもなく、ついには賢子が妃の最高位である中宮に擁立されてしまう。
道子が内親王を一人しか産まなかったのに対し、賢子は後の堀河天皇となる善仁(たるひと)親王をはじめ数人の子女を儲けている。
道子は後三条天皇の恩人である能信の孫にあたる姫だけに、さすがの後三条天皇も白河天皇に対して賢子ばかりを寵愛することに対し苦言を言ったらしい。
ちなみに道子が懐妊したのは、入内後9年目の35歳の時であった。
父である能長は、男児誕生をただただ祈っていたが、結果産まれたのは女児であり、落胆は大きかったであろう。

太政大臣 藤原信長

2006-12-29 14:07:41 | 藤原氏
号:九条太政大臣

関白 藤原教通(のりみち)の子息、生母は藤原公任(きんとう)の娘。
父である教通は、同母兄・頼通より摂関職を譲られた際に、「教通の次の摂関職は頼通の子」と約束したにも関わらず、教通は摂関職を自分の子である信長に譲ろうとしたため、兄弟の不仲を招くこととなる。
結果的には、教通は信長に摂関職を譲ることに失敗し、亡くなっている。
その後、信長と頼通の子である師実(もろざね)との間で、摂関職を巡って激しく争うこととなるのであるが、摂関職に就いたのは師実であった。
信長は、最終的には公卿の最高位である「太政大臣」に就任したものの、師実の養女である中宮 賢子(けんし)が、白河天皇に寵愛されていたこともあり、「関白左大臣 師実に、全ての公卿の最高位に立つ事を許す」という勅命が出された。
それに激怒した信長は、牛車を焼き捨てて自宅に閉じ籠ってしまったらしい。
いくら師実が関白であっても、位でいうと太政大臣である自分の方が上席であったのに、勅命で「信長より師実の方が上」と言われてしまってはたまらない。

摂政関白左大臣  藤原師実(もろざね)

2006-12-29 08:28:12 | 藤原氏
号:京極殿・後宇治殿

正妻 源麗子(源師房の娘、藤原信家養女)・・・師通(関白内大臣) 行玄
不詳・・・家忠(左大臣)

摂政・関白 藤原頼通(よりみち)の子、生母は藤原祇子。
正妻は、源師房(みなもともろふさ)の娘・源麗子(れいし)。
源師房は、最初頼通の猶子(養子)でもあり、頼通の異母妹である尊子(そんし)は、源師房の妻であることを見ても、源師房が摂関家と密接な関係にあったことが伺える。
さらに言うと、源師房は具平親王の子であるのだが、頼通の正妻は具平親王の息女であり、頼通の同母弟である教通の正妻も、具平親王の息女なのである。
師実は、正妻・麗子の姪にあたる賢子(けんし)を養女とし、白河天皇に入内させ、のちに賢子は中宮となっている。
賢子の実父は源顕房(みなもとあきふさ)であり、先にも少し述べたが源師房と尊子の間に産まれた子である。
賢子は白河天皇の寵愛が特に深く、賢子が病に倒れても実家へ下がることを許さなかったという。
賢子はその後病気が癒えずに若くして亡くなるのであるが、白河天皇の嘆きは深く、その遺体を抱いて離さなかったらしい。
賢子が産んだ善仁(たるひと)親王が9歳で即位して堀河天皇となると、師実は摂政に就任。
しかし実権は、上皇となって院政を始めた白河上皇が握っていた。