号:知足院殿、禅閤
正妻 源師子(源顕房の娘)・・・泰子(鳥羽天皇皇后、高陽院) 忠通(摂政関白太政大臣)
室 藤原盛実の娘・・・頼長(左大臣)
関白内大臣 藤原師通(もろみち)の嫡男、生母は藤原俊家の娘。
父である師通は、忠実(ただざね)が22歳のときに38歳という若さで急死している。
その為、師通の次の摂関職を巡り、師通の異母弟・家忠(いえただ)と争うこととなる。
しかし、院政を敷き絶大な権力を手にしていた白河院の「摂関職は嫡流が継ぐべきである」という一言で、忠実が摂関職を手にすることとなった。
しかし、裏を返せば白河院のお陰で摂関職に就けた、とも言えるわけであり、もはや完全に院の力は摂関家を凌いでいたと認めざるをえない。
堀河天皇(白河院の子)の関白となり、次の鳥羽天皇(白河院の孫)の代では摂政に就任、その後再度関白となった。
正妻の源師子(しし)はもともとは白河院の妃の一人であった。
さらに言うと師子は、源顕房(あきふさ)の娘であるのだが、白河院の若かりし頃の寵愛を一身に受けてその後病に亡くなった中宮・賢子(けんし)の同母妹にあたる。
師子の姿を一目みて惚れ込んでしまい、白河院に頼み込んで自分の妻とした経緯があり、その点でも忠実は白河院に対して頭が上がらなかったのである。
白河院は、溺愛していた養女・璋子を、忠実の嫡男・忠通の妻としようとするが、すでに璋子と白河院のただならぬ関係に気付いていた忠実は、これを辞退して断固拒否した。
白河院は仕方なくこれを諦め、孫の鳥羽天皇の中宮として璋子を入内させた。
その後、師子が産んだ泰子を、自分の後宮に入れるように命じられ、さすがに親子(師子と泰子)で院の慰み者になることに耐えられなかったのであろう、これも頑なに拒否した。
もともと忠実は、泰子を鳥羽天皇の後宮に入れようと考えていたのである。
その後院より、泰子を鳥羽天皇の後宮に入れるよう要請があるが、何故かこれを断るのである。
暫くして鳥羽天皇が直々に泰子の入内を忠実に働きかけると、これを快く引き受けたため、その事を知った院は激怒し、忠実は蟄居を余儀なくされるとこになる。
白河院も亡くなり、鳥羽院の時代になり、ようやく政界に復帰し、すでに39歳という高齢になっていた泰子を鳥羽院は皇后として迎えた。
晩年の忠実は、次男の頼長を溺愛するようになり、忠通が継いだ「氏の長者職」を強引に奪って頼長に譲渡し、それが原因で嫡男・忠通と不仲になり、保元の乱の遠因となる。
保元の乱で忠通・頼長兄弟は争うことになるのがだ、結果、忠通が勝者となり、頼長は失意のまま亡くなることになる。
忠実も当然罪に問われる筈であったが、罪人となると財産を没収されてしまうため、それを恐れた忠通は、父の罪を追及しなかった、と言われている。
以後忠通は、知恩院に隠居したため、不遇の晩年であったと言える。
正妻 源師子(源顕房の娘)・・・泰子(鳥羽天皇皇后、高陽院) 忠通(摂政関白太政大臣)
室 藤原盛実の娘・・・頼長(左大臣)
関白内大臣 藤原師通(もろみち)の嫡男、生母は藤原俊家の娘。
父である師通は、忠実(ただざね)が22歳のときに38歳という若さで急死している。
その為、師通の次の摂関職を巡り、師通の異母弟・家忠(いえただ)と争うこととなる。
しかし、院政を敷き絶大な権力を手にしていた白河院の「摂関職は嫡流が継ぐべきである」という一言で、忠実が摂関職を手にすることとなった。
しかし、裏を返せば白河院のお陰で摂関職に就けた、とも言えるわけであり、もはや完全に院の力は摂関家を凌いでいたと認めざるをえない。
堀河天皇(白河院の子)の関白となり、次の鳥羽天皇(白河院の孫)の代では摂政に就任、その後再度関白となった。
正妻の源師子(しし)はもともとは白河院の妃の一人であった。
さらに言うと師子は、源顕房(あきふさ)の娘であるのだが、白河院の若かりし頃の寵愛を一身に受けてその後病に亡くなった中宮・賢子(けんし)の同母妹にあたる。
師子の姿を一目みて惚れ込んでしまい、白河院に頼み込んで自分の妻とした経緯があり、その点でも忠実は白河院に対して頭が上がらなかったのである。
白河院は、溺愛していた養女・璋子を、忠実の嫡男・忠通の妻としようとするが、すでに璋子と白河院のただならぬ関係に気付いていた忠実は、これを辞退して断固拒否した。
白河院は仕方なくこれを諦め、孫の鳥羽天皇の中宮として璋子を入内させた。
その後、師子が産んだ泰子を、自分の後宮に入れるように命じられ、さすがに親子(師子と泰子)で院の慰み者になることに耐えられなかったのであろう、これも頑なに拒否した。
もともと忠実は、泰子を鳥羽天皇の後宮に入れようと考えていたのである。
その後院より、泰子を鳥羽天皇の後宮に入れるよう要請があるが、何故かこれを断るのである。
暫くして鳥羽天皇が直々に泰子の入内を忠実に働きかけると、これを快く引き受けたため、その事を知った院は激怒し、忠実は蟄居を余儀なくされるとこになる。
白河院も亡くなり、鳥羽院の時代になり、ようやく政界に復帰し、すでに39歳という高齢になっていた泰子を鳥羽院は皇后として迎えた。
晩年の忠実は、次男の頼長を溺愛するようになり、忠通が継いだ「氏の長者職」を強引に奪って頼長に譲渡し、それが原因で嫡男・忠通と不仲になり、保元の乱の遠因となる。
保元の乱で忠通・頼長兄弟は争うことになるのがだ、結果、忠通が勝者となり、頼長は失意のまま亡くなることになる。
忠実も当然罪に問われる筈であったが、罪人となると財産を没収されてしまうため、それを恐れた忠通は、父の罪を追及しなかった、と言われている。
以後忠通は、知恩院に隠居したため、不遇の晩年であったと言える。