goo blog サービス終了のお知らせ 

黄金の歴史ウンチク解読ブログ

天皇家を中心にウンチクを語っていきます。自分が今までに読み貯めた知識によるので、多少あれって表記もあるかもしれません。

藤原明子(ふじわらあきらけいこ)

2007-01-06 13:40:24 | 藤原氏
号:染殿の后


文徳天皇の女御、清和天皇の生母。
父は摂政太政大臣 藤原良房(よしふさ)、生母は嵯峨天皇の皇女である源潔姫(みなもときよひめ)。
文徳天皇の東宮時代に東宮妃となり、即位した年に惟仁(これひと)親王(のちの清和天皇)を産んでいる。
惟仁親王が天皇として即位した後、明子も皇太后の位を授かる。
明子はたいへん美しい女性であったらしく、さらに今昔物語や治拾遺物語などによると明子は終始「物の怪」にとり憑かれ、悩まされていたとある。
そのため父である良房は法力のある者がいると聞きつけると、これに明子の祈祷をさせるが、一向に明子はよくならない。
ある日、評判の聖人がいると聞きつけ、その聖人に明子を祈祷させると、狐が憑いていたことが分かった。
明子はたちまち回復し、それを喜ぶ余りに良房はその聖人を留めて帰さなかったのである。
ところがある日、聖人は肌着姿の明子の姿を偶発的に見てしまい、そのあまりにも美しさに心を奪われ、狂おしい限りに明子に恋慕してしまう。
そして事もあろうか明子に力ずくで襲いかかるのである。
それを知った天皇は怒り、聖人を捕まえるのであるが、聖人は「自分が死んでも明子の命ある限り、とり憑いてやる」と平然と言ってのけた。
その後、断食をして死んだ聖人は、言ったとおりに「鬼」となり、明子にとり憑くのである。
この「鬼」となった聖人と明子は姦淫するのであるが、こういった俗話が真実であるとは思えない。
おそらく後世になってから、藤原摂関家を愚弄する狙いでの創作話であろう。

摂政関白太政大臣 松殿基房(もとふさ)

2007-01-04 12:35:17 | 藤原氏
内大臣 三条公教の娘・・・隆忠(左大臣)
忠子(太政大臣花山院忠雅の娘)・・・松殿師家(摂政内大臣)
不詳・・・伊子(源義仲側室) 行意 実尊


摂政関白太政大臣 藤原忠通(ただみち)の子、生母は源国信の娘・源信子。
摂政関白左大臣 近衛基実は同母兄、摂政関白 九条兼実は異母弟にあたる。
同母兄である近衛基実(このえもとざね)が24歳で早死にすると、兄に代わって六条天皇の摂政に就任、次の高倉天皇の摂政、関白も務める。
兄・近衛基実は、時の権力者であった平清盛の娘・盛子を妻としており、基実が亡くなるとその財産の大半を盛子に持っていかれた。
それを怨んでいた基房は、盛子が死ぬと後白河法皇と謀ってその財産を没収してしまった。
それに激怒した清盛は、クーデターを起こし、清盛の強大な軍事力の前にあっけなく基房は打ちのめされる。
基房は出家してようやく許されるのであるが、その後平家が衰退すると、娘の伊子を源義仲の側室として差し出し、その信頼を得、以前の勢力を盛り返そうと躍起になる。
しかし、義仲が源義経らによって討たれると、政界から身を引くこととなった。

摂政関白左大臣 近衛基実(もとざね)

2007-01-03 20:46:44 | 藤原氏
藤原忠隆の娘・・・近衛基通(摂政関白)
平盛子(平清盛の娘)
不詳・・・粟田口忠良

摂政関白太政大臣 藤原忠通(ただみち)の嫡男、生母は源国信の娘・信子。
後白河天皇の引きたてがあり、16歳という若さで二条天皇(後白河の子)の関白に就任し、「氏の長者」となる。
その後、六条天皇(二条天皇の子)の摂政となり左大臣となるが、24歳という若さで病により亡くなっている。
基実(もとざね)を祖とする「近衛家」は、後の五摂家の一つである。
ちなみに「五摂家」とは、近衛家・九条家・一条家・二条家・鷹司を指す。
近衛基実・基通親子と基実の異母弟である九条兼実(くじょうかねざね)の関係は非常に悪かったらしく、兼実の同母弟である天台座主・慈円(じえん)が書いた『愚管抄』では基実・基通親子を「無能な人物」と酷評している。

左大臣 藤原頼長(よりなが)

2007-01-03 08:28:00 | 藤原氏
号:悪左府、宇治左大臣

正妻 藤原(徳大寺)幸子(藤原実能の娘)
源師俊の娘・・・兼長 師長(太政大臣)

摂政関白太政大臣 藤原忠実(ただざね)の次男、生母は土佐守 藤原盛実の娘。
摂政関白太政大臣 忠通(ただみち)の異母弟にあたる。
幼少時より聡明で、学に精通し「日本一の大学生、和漢の才に富む」と言われていたが、それとは対照的に性格は激しく、他人に容赦しないところがあり「腹黒く、よろずにきわどき人」とも言われ、その所以で「悪左府」と呼ばれている。
さらに極めつけの男色家としても有名で、「台記」という日記に、どこの誰を寵愛したかを、本名ではなく、微妙にぼかした表現で綴っている。
父・忠実は温厚な性格の忠通を次第に疎んじるようになり、専ら次男の頼長を溺愛していた。
兄・忠通に長らく跡継ぎの男児が産まれなかったため、その養子になるも、40を過ぎてから次々と男児が誕生し、忠通は養子縁組を解消してしまう。
その事から忠通とは対立関係になり、後の保元の乱の遠因となる。
頼長は、徳大寺(藤原)公能の娘・多子(まさるこ)を養女とし、近衛天皇の皇后とし、将来の外戚となることを願っていたが、近衛天皇はこの頼長をどういうわけか嫌っていた。
父・忠実の尽力のお陰で、兄・忠通が関白に就いていたにも関わらず、同等の権力を持つ「内覧」の宣旨を受ける。
近衛天皇が若くして亡くなり、その父の鳥羽院も薨去すると、その後に即位した後白河天皇の代になると、内覧を停止されてしまう。
おそらく、兄・忠通が後白河天皇側に付いていたからであろう。
保元の乱では崇徳上皇側に付いて破れ、戦闘中に負った傷が原因で亡くなっているのだが、その後父に対面しようとするも父から拒絶され、失意のまま亡くなっている。

摂政関白太政大臣 藤原忠通(ただみち)

2007-01-02 21:02:52 | 藤原氏
加賀局(藤原仲光の娘)・・・九条兼実(摂政関白) 兼房(太政大臣) 慈円(天台座主)   
源信子(源国信の娘)・・・近衛基実(摂政関白左大臣) 松殿基房(摂政関白太政大臣)
不詳・・・覚忠 信円

摂政関白太政大臣 藤原忠実(ただざね)の嫡男、生母は源顕房(みなもとあきふさ)の娘、源師子(しし)。
父・忠実より氏の長者職を譲られて鳥羽天皇の関白となり、その後崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇の摂関を務める。
忠通(ただみち)は長い間跡継ぎとなるべく男子に恵まれず、29歳のとき23歳年下の異母弟である頼長(よりなが)を養子として迎えた。
しかし、40歳を過ぎてから次々と男児が誕生したため、養子が必要とならなくなり、頼長との養子縁組を解消してしまう。
このことが父・忠実の恨みを買い、父・忠実及び異母弟・頼長と対立するようになり、後の保元の乱の要因となる。
どうも父である忠実は、温厚な性格の忠通より、才能があり気性の激しい頼長の方を頼もしく思っていたようである。
その為、強引に忠通から「氏の長者職」を奪い取り、頼長に与えたのである。
結果的には保元の乱で、崇徳上皇側についた頼長は戦乱時の傷が癒えずに亡くなっている。
後白河天皇側について忠通は、乱後に「氏の長者」に返り咲いている。
嫡男・基実(もとざね)より、のちの五摂家の一つとなる「近衛家」が始まり、三男・兼実(かねざね)より、「九条家」が始まった。
慈円は有名な歴史書『愚管抄』の作者である。
ちなみに忠通は、近衛天皇に対し、藤原伊通(これみち)の娘・呈子を養女とし、中宮とした。