イスカリオテのユダと言えば、裏切り者の代名詞
のような存在ですが、あからさまに、呪われてしかるべき、
その忌わしき屈辱に塗(まみ)れた汚名を着せられること
も厭(いと)わずに、己に課せられた堪え難い使命を粛々
と果たした悲劇のヒーロー(主人公)だと言ったら、
あるいは、「イエスの教えと導きに殉じた真の使徒と
呼ぶのに相応しい最大の弟子である」 と言ったら …
あなたはどう思いますか
“上辺だけは親愛の情を示しながら、
冷徹にも相手を裏切る”という意味で使われ、
映画『ゴッド・ファーザー PARTⅡ』などで
知られる「ユダの接吻(キス)」ですが …
どうしても解せないのです
ゲッセマネの園での「ユダの接吻(キス)」は、単に
イエスがその人であることを捕縛者たちに伝える目的だけ
で実行された薄汚い行為であったのかどうか ・・・
それは師弟愛とは違う以心伝心する阿吽の仲
が発する機微なる「愛」の現れが結実した瞬間
だったのではなかったのか
分かりやすく言えば、
「任務完了しました」「ご苦労さん」であるとか、
「手配通り連れて来ました」「了解」だとか …
口に出しての確認はおろか、目配せすることも適わない
暗い闇夜の出来事です。
「ユダのキス」は心からの「愛」の発露だったに
違いないのです。
イエスは『最後の晩餐』の折に、弟子に伝えます。
「あなた方に真実に言いますが、あなた方のうちの一人が
わたしを裏切るでしょう」 (マタイ26:21)
全知全能の「神」の子であるイエスは当然、ユダが何を
しようとしているのか知っていました。
そこでイエスはユダに催促します。
「しようとしていることを、今すぐしなさい」(ヨハネ13:27)
ユダはイエスの言葉に従って、部屋を出て行きます。
こうして、結果的にはこのあとのユダの行為によって、
イエスは磔の刑に処せられるのですが …
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、これら4つの『福音書』
の記者たちは挙(こぞ)って、一様にイスカリオテのユダを
「裏切り者」と表現し、なかには辛辣な罵声を浴びせる
記事もあります。
「たしかに人の子は、自分について書かれているとおりに
去って行きますが、人の子を裏切るその人は災いです!」
「その人にとっては、むしろ、生まれてこなかったほうが
よかったでしょう」 (マタイ26:24、マルコ14:21)
にもかかわらず、
キリスト教では、これはすべて「神の意思」であると
しているわけです。
『福音書』とは、イエスの生涯を描いた記述であって、
イエスを神格化するがゆえに、ひとつの一貫した大きな
テーマが存在します。
それは、唯一、絶対なる「神」の意思がそうさせて
いるということです。
処女マリアの受胎告知から、磔刑の三日後の復活までの
すべては「神の意思」であり、初めからそうなるように
定められたシナリオに沿って、イエスは自ら全人類の罪を
背負うかたちで完全無欠な人間として、その身を捧げ
犠牲となることで人類全体の罪を贖(あがな)った
わけなのですが …
「神」の意思とは、受肉したイエスの究極の
到達点であり、生涯の目的であったと言い換えること
ができます。
であるならば、なおさらにユダは冤罪であって、絶対
に「裏切り者」とはなり得ないはずなのです。
磔になることを必要としていたのは、ガリラヤの領主
ヘロデ・アンティパスでも、ローマ総督ピラトでも、ユダヤ教
の大祭司やラビや多くのユダヤ人の側だけでなく、人類の
救済と愛のまことを知らしめるためにも渇望し必死に
なっていたのは、むしろイエスの側だったわけで …
その一点だけみてもユダの無実はあきらかですが、
彼に課された役割の重大さと磔刑のもつ意味合い
が、ユダの冤罪を証明することになるはずです。
さて、堅苦しい解説は、ここでは一旦、置いておき、
そもそも、ユダが冤罪であると感じたのは、その昔
(1973年頃)にサントリー・ウイスキー・ホワイトのCMに
出演していた米国のエンターテナー、サミー・デイビスJr
が、ダ・ヴィンチの描く『最後の晩餐』でのユダと
される人物と瓜二つのそっくりさんに見えたからで、
なんとも根拠のない直感というか、完全なる思い込みです
が、陽気で明るい彼の姿からはどうしても「裏切り者」
のイメージが湧いてこなかったのです
ダ・ヴィンチはユダの顔のモデルになる人物を探し回って
いたと言います。
そして、最終的に採用されたのが …
ユダの習作(上)と『最後の晩餐』のユダ(下)
この顔でした
ところで、
ユダに対して、特別の感情と想いを持っていたと思われる
ダ・ヴィンチですが 『最後の晩餐』の制作中にこんな
ブラックジョークを飛ばしています。
「(裏切り者のユダの顔は)世界の創造主である“神”を
裏切るまでに邪悪な顔なのです。 難しいと思いますが、
モデルを探し続けるつもりです。 … ですが、もし見つから
なかったら、いつでも院長の顔がありますから ・・・」
院長とは、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院
の院長で、同院に飾る『最後の晩餐』の壁画制作中
に、たびたび筆を休めては何時間も思索に耽るダ・ヴィンチ
を見て、サボっていると叱った人物です
「神の意思」と「ユダの使命」との矛盾点
に気づいていたからこそ皮肉 がたっぷりのジョーク
(院長の勘違いを誤解されるユダの不遇とダブらせた愚痴)
がダ・ヴィンチの口を吐いて出たというわけです
そんなダ・ヴィンチが考えるイエスとユダとの関係は
唯一無二の特別なもので、そのことを暗に示しているのが、
両手を組む使徒ヨハネ(マグダラのマリア&聖母マリア)の
前にある皿に同時に手を伸ばすイエスとユダの動作です。
二人が同じ目的を共有して、これから大事を成そうとする
暗示で、カラの皿はまだ未達成の状態を示しています。
「イエスとユダが目指す目的」が同じである
とはどういうことでしょうか
そのことの詳細については、
『裏切り者ユダの福音書』を参照のこと
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/378.html
それは、大いなる「神」の慈悲なる「意思」として
の「イエス・キリスト計画」でした。
あるとき、イエスは人々が自分を誰だと言っているか弟子
たちに尋ねます。
彼らは「バプテスト(洗礼者)のヨハネやエリヤ(旧約時代
を代表する預言者)や預言者のひとり」だと言います。
すると、イエスは彼らに「あなた方は誰だと言いますか」
、ペテロが「あなたはキリストです」と答えます。
イエスは自分のことを誰にも告げないよう厳命すると、
人の子(自分)は多くの苦しみに遭い、殺され、三日後に
よみがえることを彼らに教え始めた。
そこで、ペテロがイエスをわきに連れて行っていさめると、
「引き下がれ、サタンよ。 あなたは神の考えではなく
人間の考えを抱いている」 と弟子たちのほうを見ながら
ペテロを叱った。 (マルコ 8:27-33)
このとき、イエスはペテロに対して「サタンよ !!」 と
呼びかけています
ここで、再度、確認しておきたいのですが、サタンによる
エヴァの誘惑に始まったアダムとエヴァの罪の救済(人類
に受け継がれる原罪の贖い)として、イエスが磔刑の犠牲
になることは「神の意思」であり、それを妨害する
ものはサタンであると聖書は教えています。
しかるに、ユダが裏切りに至る経緯を聖書はどう説明
しているかと言うと、ユダにサタンが入ったと言うのです。
この理由はいかにもおかしいです。考えてもみてください。
イエスが磔にされて「神」への犠牲(いけにえ)に
なることが人類を救済する「神の計画」である
以上、それを阻止なり妨害しょうとしたペテロに対して
「サタンよ、引き下がれ !!」
とイエスは言い放ったわけで ・・・
「神」に敵対し、「神の意思」を阻害するもの
こそがサタンであるはずです。
もしも、この時にユダに入ったのが本物のサタンであった
のなら、祭司長らに捕縛させたり、大祭司に引き渡されない
ように妨害し、何が何でも磔刑にだけはならないように
断固として阻止したはずです
つまり、この考えに立つ限りにおいては、ユダは絶対に
「裏切り者」にはなり得ないわけです。
すなわち、彼は「冤罪」であるとダ・ヴィンチが
思っていたとしても不思議でもなんでもないのです。
映画やドラマの世界では、しばしば主役と引き立て役が
コンビを組んで、息のあった絶妙の演技を披露して観客を
魅了させます。
名探偵シャーロック・ホームズとワトソン医師のコンビや
杉下右京と代々の相棒たちが、すっかりお馴染みですが、
ダ・ヴィンチは、イエスとユダをそうした唯一無二の
コンビや絶妙な関係を構築する相棒として、
『最後の晩餐』の壁画に登場させたのではないか
と、そんなふうに思えてならないのですが …
謎が分裂して謎を生み、、謎が融合して謎を作ると
いう『最後の晩餐』の世界が魅せる空間の広さ
と奥行きの深さは、さすがに練りに練られたダ・ヴィンチの
最高傑作であることを証明するものでしょう
後の世においてさえも、数多(あまた)の謎 を提供し、
その余りある推理を消化してなお、また新たなミステリーを
生み出し続けるエナジーは太陽の核融合反応
にも匹敵するエネルギーの大放出にも似た水素(罠)
とヘリウム(謎)の変換を感じさせます
前回の 『ダ・ヴィンチの罠 謎の人』では
、手稿として残されたダ・ヴィンチの言葉の数々を随処に
織り交ぜて『最後の晩餐』の真実に迫りましたが
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/410.html(参照)
真実が鑑賞者の側に委ねられることで、ダ・ヴィンチの
大作は完成されていくとしたように、複合的な解釈を許容
する懐の深さはブラックホール並みです
聖書に準ずれば、
寄り添って描かれるべきイエスと使徒ヨハネを柱を挟み、
左右に大きく振り分けたこのシーンだけでも鑑賞者の数に
見合うだけの想像力から複数の違った推理が働くわけで、
「神の意思」に随ってイエスと同じ夢を見たはずの
ユダが、その手に掴んだものは、夢のまた夢どころか
とんでもない悪夢に … なんて、想像も自由で、
たとえば、この場面でも、
イエスとユダの二人で掴むはずの大いなる「夢」が、
同床異夢どころか、本当の「裏切り者」は …
実は、イエスであったとするペテロとヨハネのヒソヒソ話が
洩れ聞こえて、「ええっ !!」と驚いて振り返った一瞬を
スナップ・ショットした光景なのかもしれません
「もう一度、訊くが …」
「本当に裏切り者は奴なのか」
… to be continue !!
似、似てる Cheers! 一杯どう
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