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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 水面下

 レオナルド・ダ・ヴィンチの作品とされる
『岩窟の聖母』 Virgin of the Rocks)には、


    『岩窟の聖母』パリ・ルーブル版 &『岩窟の聖母』ロンドン・ナショナルギャラリー版

 ロンドンのナショナル・ギャラリー収蔵の
ものと、パリのルーヴル美術館に収蔵された
ものの2種類があって、パリ・ルーヴル版が
最初のヴァージョンだとされています。

 ただし、この絵画は、

 依頼主から充分なる報酬が得られなかった
ことを理由に個人に売却されてしまいます。

 こうして、

 報酬等のトラブルで、依頼主である教会に
納品できなかった絵画をめぐり、20年以上に
わたる裁判が始まったのでした。

 原告の主は、「無原罪の御宿り信心会」で、
ミラノのポルタ・ヴェルチェッリーナにある
サン・フランシスコ・グランデ教会の礼拝堂
を拠点とする宗教グループです。

 依頼内容は、ダ・ヴィンチの他にミラノで
活動をしていた2人の画家エバンジェリスタ
とジョバンニ・アンブロージオ・プレディス
兄弟に対して、「彫刻に金箔と彩色を施した
3点の絵画を提供する」というものでした。

 このうち、すでに祭壇の木彫りのレリーフ
は1482年に彫刻家のジャコモ・デル・マイノ
が、710リラの報酬で完成させていました。

 ダ・ヴィンチたちがサインをした契約書に
よると、絵画の報酬は材料費込みで 800リラ
で、完成および納入の期限は1484年12月8日
(無原罪の御宿り祝典の日)となっています。

 さらに、

 契約書には「仕様書」が添付されていて、
金箔の質や色の指定、聖母とともに描かれる
人物などが詳細に記されていました。

 さて、ここで、「ン!」と首を傾げた人が
いるかもしれません。

    
    800リラって3人分の報酬だよね!

 ダ・ヴィンチを含めた3人の画家への報酬
の合計が800リラであることへの疑問です。

 金箔などの調達を考慮に入れると800リラ
は、彫刻家ジャコモ・デル・マイノひとり分
の金額710リラと比べると極端に低く 妥当性
に問題があると言えなくもありません。

 しかも、


      『岩窟の聖母』と左右の天使 keijoseph.amebaownd.com

 依頼された絵画は全部で3点あって、祭壇の
中央(主祭壇)に『岩窟の聖母』と左右に1点
ずつの設置が予定されていましたので正当性や
納得性の面からみてもどうかと思われます。

 祭壇画の左右を飾る赤と緑の衣を纏った2人
の天使は、現在ナショナル・ギャラリーに収蔵
されているので、同ギャラリーにおいては、

 

 こんな感じの祭壇画が再現されるわけですが、

  契約書などの書類によって、制作依頼年度は
判明しているものの、その他の来歴に関しては
ほとんど記録が残っておらず、一体、どちらの
ヴァージョンが先に描かれたのか?については
未だに議論が続いています。

 しかしながら、冒頭において、記したように
パリにあるルーヴル版が最初のヴァージョンで
あることは、サイドパネルとの色合いや調和性
の点から観てもバランス的に明らかでしょう。

 ところが、

 2019年に、インフラレッド透視画像によって
、ナショナル・ギャラリー版にまったく未知の
下絵の存在が発見されたのです。


 『岩窟の聖母』の下絵の構図 call-of-history.com

 そこで、この下絵をどのように解釈すべきか
が、新たな問題になりました。

 大方の指摘のとおりに、パリのルーヴル版が
最初のヴァージョンだとすると、ダ・ヴィンチ
は、ナショナル・ギャラリー版を以前とは違う
まったく異なった構図で描き始めていたことに  
なります。

 まあ、第三者である個人に売却してしまった
絵画の代替作品ですから、それも当然なのかも
しれませんが、あれこれと思案した末に結局の
ところ元の構図でナショナル・ギャラリー版を
仕上げたということなのでしょうか?

 しかし、

 ナショナル・ギャラリー版のほうが最初だと
主張する一派が、この発見に勢いづきます。

 埋もれていた構図によって、ルーブル版より
もナショナル・ギャラリー版のほうが先に制作
されていた可能性が出てきたのです。


     『岩窟の聖母』の下絵に隠れていた描線 jfruits.com

 それというのも『岩窟の聖母』より少し前に
描かれたとされる『荒野の聖ヒエロニムス』の
傾いだ頭の角度や両手のかたちが聖母マリアの
下絵の構図によく似ていることから、

 ルーブル版よりもナショナル・ギャラリー版
の方が先に描かれたのでは❓

 という意見が多数寄せられ、メトロポリタン
美術館のキュレーターカルメン・バンバックは
、祭壇画のためにさまざまな聖母のポーズを  


     『キリストを崇拝する聖母』 www.meisterdrucke.jp

 ダ・ヴィンチが検討していたことを窺わせる
スケッチの数々を取り上げて、これがその根拠
や証左のひとつであるとしています。

 然は然りながら、小生が思うには、

 この下描きこそが狡猾なるダ・ヴィンチの
「罠」の仕込みのなのです!

 たとえば、ルシファーが悪魔たる所以は、
旧約聖書『イザヤ書』14章12節にあらわれる
「輝く者が天より堕ちた」という比喩的表現
に端を発するわけですが、


 『聖ヒエロニムス』 1480-82年 バチカン美術館蔵

 それはヘブライ語で「明けの明星」を意味
する言葉に「Lucifer」の語をあてて訳した
4世紀末のヒエロニムスに行き着くわけです。 

 「黎明の子、明けの明星よ、
   あなたは天国から落ちてしまった。
  もろもろの国を倒した者よ、
   あなたは切られて地に倒れてしまった」
      (『イザヤ書 』14:12)

  

 これらの根本には、誤訳や恣意的な意訳に
起因する誤謬があるようです。

     
  マリオ・ラピサルディの詩集 『ルチーフェロ』 

 金星を指すラテン語であったルーキフェル
を明けの明星としての輝きを喪失し、奈落へ
と墜ちて悲嘆にくれることになる、かつての
光の大天使を堕天使の長の名として掲げあげ
、サタンの別称として普及・定着させた根源
には4世紀から5世紀にかけてのラテン系の
教父たちの訳語に原因があったわけです。

 キリスト教会では、悪魔は罪によって堕落
した天使であるとされ、中世の神学者たちも
サタンはかつて最高位の天使であった熾天使 
か智天使であったと考えていたようです。


神が彼を天国から追い出すと告げた直後 ja.wikipedia.org

 おそらく、

 『ルカの福音書』10:18にみられるような

サタンが稲妻のように
      天から落ちるのを見た」 という

 イエスの言葉と前述の『イザヤ書』の1節
とを結びつけて、そのように理解したのだと
思われますが ・・・ nose7

『ヨハネの黙示録』12:7-9の記述によれば、

  

 「神」と対立して、天界を追放された
ルシファーは魔界に墜ちて魔王(サタン)
になるというシナリオですが ・・・

 実のところは、

 「黎明の子、明けの明星よ」は、天使
のことではなく、その前のバビロンの王に
向かって罵る言葉を言わなければならない

とある『イザヤ書』14:4を受けてのもので
「黎明の子、明けの明星よ」とは、実際
にはバビロンの王を指し、「もろもろの国を
倒し」とは、バビロニア帝国の隆盛を意味し
ているわけです。

 『イザヤ書』14:17 では 、その諸都市
を覆し、その囚われの人たちに故国への道を
開かなかった」として 『バビロンの捕囚』
を嘆き謳い、そのバビロニアが、ペルシャに
よって滅亡させられた歴史的な事実を指して
「天から落ちてしまった」としているのです。


   ギュスターヴ・ドレによるミルトン『失楽園』の挿絵

 挿絵では、天界から墜ちて地球にへ向かう
ルシファーの姿を描いていますが ・・・

 この後、ルシファーは「神」に復讐を
するためにに姿を変えて、楽園に暮らす
エヴァを誘惑し、人間(アダムとエヴァ)は
楽園を追放されるというわけです。

 ルシファーについての詳細は、

『ダ・ヴィンチの罠 堕天使』

 参照してみてください。

 余談ですが、

 異説によると、人間はアダムとエヴァの
子孫ではなく、ルシファーとエヴァの末裔
であるとする解釈や、中世の異端的セクト
であるカタリ派には、ルシファーとイエス
は双子であるとする者もいたのですが、

 ダ・ヴィンチの描く宗教画には隠された
暗号や数々のがあり、その裏に
は、異端的な嗜好と軌を一にする確信的な
動機が見え隠れしているのです。

 ダ・ヴィンチに〝アンチ・クライスト〟
的な傾向があることは、どんなに控え目に
見ても否めませんからね!

 たとえば、


    マリオ・ラピサルディの詩集 『ルチーフェロ』 

「陰府に落とされ、坑(あな)の最果てに
下ろされる」 とされる『イザヤ書』14:15
の聖句にある地獄の底であっても、尚、
光を放つかのような後光と松明の火を持つ
ルチーフェロ(ルシファー)は、人類に火
を与えたプロメテウスイコールです。


『火を与えるプロメテウス』 ハインリッヒ・フューガー   

 だとしたら、

 人類の進歩にとって、欠かすことのできない
知的好奇心や探究心はルシファーの恩恵であり
プロメテウスのように智慧(光と火)を与えて
くれた者として、彼を〝真の父〟であると
考えていたとしても何の不思議もありません。

 ダ・ヴィンチには、

 どこか胡散臭い「神」の狭量というものが
が見えてしまったのかもしれませんね!

 付き随うライオンを目の前にして苦悶に歪む
表情のヒエロニスムを未完のまま残したことも
ルシファーの冤罪と無関係ではないでしょう。

  

 つまり、

 そこに「罠」の動機の一端があるわけで、

   

 今日、多くのクリスチャンは過去から現在に
至るまで、自分たちの信仰する宗教は常に平和
を慈しんで来たものと考えているはずです。

 しかしながら、少しでも歴史を齧った者なら
誰しもが何世紀にも亘って、キリスト教徒たち
がいかに暴力的で抑圧的な権利侵害を繰り返し
、戦争や十字軍の遠征や極悪非道なる大虐殺を
犯し続け、誤った宗教裁判の果てには大量虐殺
(ホロコースト)という悲劇的事件を誘発させ
、差別や偏見を助長してきたかを知っています。

 そして、そのすべてが信仰という名のもとに
行なわれたわけで、イエスの教えというよりは
実質的にはパウロによるドグマの上に築かれた
宗教ほど争いへの傾向が甚だしい宗教は歴史上
他に類例がありません。

 パレスチナを例に挙げるまでもなく、二枚舌
や三枚舌を自在に操る欺瞞に満ち溢れた輩たち
によるペテン師の教団がキリスト教である、と
そんな風にダ・ヴィンチは思っていたのです。

    
       マジか !?

 話が随分と横道に逸れてしまいましたので、
取り急ぎ『荒野の聖ヒエロニムス』のポーズ
と下絵との関係に話を戻したいと思います。


        『岩窟の聖母』の下絵(部分) japan.cnet.com

 このかたちは『東方三博士の礼拝』での
向かって右隅に立つ若きダ・ヴィンチの姿を
思わせる青年の仕草と同じで、『最後の晩餐』
におけるマタイの動き(黄緑色のライン)と
も結びつきます。


 『東方三博士の礼拝』と『最後の晩餐』での人物配置 little-gear-works.com

 つまり、

 これらの絵画は、ダ・ヴィンチが仕掛ける
「罠」の構想の中でひとつに繋がっている
ということです。

 いやいや、

 それよりなによりも、ダ・ヴィンチの作品
のすべてがひとつの方向性をもって描かれて
いると考えられるわけで、それが「罠」
いうかたちで収斂されるとすると、なるほど 
「そういうことなのか」というカタルシスを
伴った腑に落ちる瞬間を味わえるのです!

ダ・ヴィンチの罠 福音書(改) - 透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 福音書(改) - 透明人間たちのひとりごと

「福音書」、まさに、そんなブログの引っ越し作業の結果、100を超える記事の画像が表示できなくなり、非公開としました。記憶を呼び起こしつつ、漸次、復活・再生させるつも...

goo blog

 

 以下は『ダ・ヴィンチの罠 福音書(改)』
より抜粋した記事のアレンジ版ですが、 

 ここに、「水面下」に潜むマタイの
策略によって生み出されたキリスト教の欺瞞
の数々を見つけることが出来るのです。

 『ルカの福音書』におけるイエスはダビデ
再来としての出現が告知され、

  

 『マタイの福音書」ではダビデの再来では
なく、罪から人々を救うとされています。

 

 こうした『福音書』の記述でのメシアと
してのイエスの使命がまったく別の違った
ものになっている点やイエスの血統(出自)
についても、ルカとマタイでは食い違いが
生じていて、その整合性や信憑性には疑問
が残るわけです。 

 そもそも、イエスが「神」の子で
あれば血統も家系も関係ないわけであり、

 そこにあるのは『旧約聖書』の預言の
成就ための辻褄合わせとそのための方便
であるとしか考えられません。

 その辺りを鋭く突いているのが「罠」
の仕掛けであって、この下絵にある聖母
マリアの両手のポーズは聖ヒエロニムス
を介して、魔王ルシファーとの関連性を
匂わせているわけで、若きダ・ヴィンチ
をして『マタイの福音書』の冒頭にある
イエスの系図に少なからざる疑義がある
ことをダ・ヴィンチは訴えているのです。

 さらに、

ゲッセマネの園のキリスト(ハインリッヒ・ホフマン作 作: ハインリヒ・ホフマン
    『ゲッセマネの園のキリスト』&『ゲッセマネの祈り』ハインリヒ・ホフマン

 ゲッセマネの園での祈りの後に、ユダに
先導された大祭司の僕(祭司や長老、神殿
の番兵やローマ兵)たちに捕縛された


    『キリストの奪取』(イエスに口づけをするユダ)画像元:artmuseum.jpn.org                       

 イエスは、エルサレムの南西部にある
大祭司の官邸に連行されます。

 『福音書』では、イエスの逮捕・連行
はサンヘドリン(最高法院)による陰謀
であり、サンヘドリンのメンバーがユダ
を買収してイエスを捕縛した話になって
いますが、


            「イエスの捕縛」blog.goo.ne.jp

  これもどうなのでしょう❓

 今風に考えれば、イエスはカルト教団
の教祖や極左グループを率いるリーダー
であって、彼らの行動はユダヤ教の公安
警察である祭司長たちの監視の下にあり
不穏な動きがあれば官憲として、これを
取り締まるのは普通のことなのです。

 例えとして、不適切かもしれませんが、

 かつての「オウム真理教」の如き
怪しげな集団組織ですから、そのリーダー
であるイエスの動向には、常に監視の目を
光らせているのがあたりまえだし、

 いくら写真や似顔絵のない時代であった
としても、彼ら祭司長たちが要注意人物で
あるイエスの顔を知らないということの方
が不自然で腑に落ちないのです。

 念のために、

 ユダに引き連れられた長老や祭司長たち
がローマ兵をともなって、イエスの捕縛に
やって来た時の様子を『ルカの福音書』
から見てみましょう。

     

 イエスがまだ話しておられると、群衆が
現れ、十二人の一人でユダという者が先頭
に立ち、イエスに接吻をしようと近づいた。

イエスは「ユダ、あなたは接吻で人の子を
裏切るのか」と言われた。

イエスの周りにいた人々は事の成り行きを
見て取り、「主よ、剣で切りつけましょう
か」と言った。

 そのうちのある者が大祭司の手下に打ち
かかって、その右の耳を切り落とした。

そこでイエスは「やめなさい。もうそれで
よい」と言い、その耳に触れて癒された。

 それからイエスは押し寄せて来た祭司長
、神殿守衛長、長老たちに言われた。

「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒
を持ってやって来たのか。

 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいた
のに、あなたたちはわたしに手を下さなか
った。だが、今はあなたたちの時で、闇が
力を振るっている。」

  『ルカの福音書』22章47節~53節

と、あります。

 それなのに、

 わざわざ、ユダを買収して居場所を教え
させたり、面が割れているイエスに対して
接吻までして人物を特定するなど、眉唾も
甚だしいものであると、

ユダのイエスを裏切る気持ち。太宰治の『駈込み訴え』。a ...
  『ユダの接吻』部分 ポール・ギュスターヴ・ドレ

 ダ・ヴィンチはそう思っていたでしょう。

 ですから、捕らえたイエスの予備審問の
段階において元大祭司のアンナスが保安を
意識し、弟子たちの集団規模を尋ねたのは
当然の質問だったわけです。

 
   ユダの接吻 twitter.com   ポンティオ・ピラト jp.quora.com 

 しかし、ユダヤの総督であるピラトに
とってはそんなことはどうでもいいこと
だったのでした。

 それにしても、 


    『洗礼者ヨハネの斬首』カラヴァッジョ(1608年)


   『洗礼者ヨハネの斬首』部分 カラヴァッジョ(1608年)

 洗礼者ヨハネ処刑は、何とも
あっさりとしたものでした。

 こんなかたちで、救世主(メシア)と
なるべき人物が倒れてしまうとは ・・・

   
 この不可解さは、いったいだ!?    

  

 それを言うなら パウロの変節(回心)

 こそが不可解なのかも❓ 


     「え !!」    
    
       パウロの肖像

  ・・・ っておいおい

  
 なんだかなあ!

   
     マジかよ!?

 次回では、今回、取り上げられなかった 
契約書に添付されていた「仕様書」
内容とルシファーの妻とされるリリスにも
登場してもらう予定でいます。

   
    『Lilith』 ジョン・コリア 作

 


『 ヴァイオリンを弾く緑の天使』 ja.wikipedia.org  『リュートを弾く赤い天使』 www.meisterdrucke.jp 


   『岩窟の聖母』パリ・ルーブル版 & 『岩窟の聖母』ロンドン・ナショナルギャラリー版

『岩窟の聖母』に隠されたイエス出生の秘密と下絵  

             
          すべては「水面下」の出来事ってか!?

      
       原潜ヴァジル 水面下の陰謀より www.star-ch.jp

     … to be continued !! 

コメント一覧

aidman
aidman(透明人間2号)です。 コメントありがとうございました。
文面から貴方様のクリスチャンとしての矜持をひしひしと感じます。
自らが信奉するものを穢されたり、貶められたり、あるいは甚だしい誤解のうえにブログを書き連ねていると感じられたのでしょう。

おっしゃる通り、ここでの内容は、憶測≒フィクション=推理です。

『ダ・ヴィンチの罠』というタイトルにもあるように、彼の作品には多くの謎が存在しますが、そこにはダ・ヴィンチならではのスタンスから、彼一流の仕組まれた「罠」が構成されていて、しかもそれは、ダ・ヴィンチの全作品に及んでいるという前提での考察です。

ですから、キリスト教を正しく語り諭すといった内容ではなく、あくまでもひとつに統合された〝統一理論〟の如き「罠」の仕掛けが施されているというテーマに沿っての見解であって、正解や本質を問うものではありません。

出来れば、エンターテインメントとして、「こいつ、また馬鹿言ってらあ」程度の感覚で読み続けていただけると幸いに存じます。
クリスチャンです🙆‍♀
様々な憶測は聖書には付いて回ります。聖書を理解するにはただご自分で聖書を読むだけでは無理です。

毎週教会で牧師のメッセージを聞き献金に奉仕し、神の家族の一員になり、クリスチャンとして生活をし、だんだんようやく正しく福音を受け入れます。

ブログ主さんのように、憶測をもとにキリスト教やイエス様について言及するのは、無意味です。だってサタンについての見解も人間的で間違っています。つまり、聖書内容は霊的なため、未信者は霊的に生きてないので肉である者は霊はわかることはできません🙅‍♀

キリスト教について正しい内容は書けない、そしてそれを物語るのはブログ主さんのブログにある一般的な肉である者から見ただけの憶測の内容です

御霊によることは御霊のことばでしか正確にあらわせない。イエス様の十字架刑はご自分の罪の贖いのためと思われてますか。そこがキリスト教の原点でありそこを見ないでルシファーについてとか、ダビンチが、と語っても本質に完全には触れてないのです(^o^)
小吉
西洋の考え方が「個人主義」ならばその弊害であるような気がする。
つまり、個人が自分が生きるための賃金を得なければならないという考え方で、「金」というものがついてまわる。
それに相反するのが、「東アジア的生活思考」で、どういうことかというと、一族、一家のひとりだけでも「お金を稼ぐことが出来る」人がいれば、あとは他の人は「働かなくてもいい」ということである。
そういう環境にダヴィンチがいれば、「金」という物差しで「悲観」しなかっただろう。
のびのびと、自分の「主張」を作品に注ぐことができただろう。

と、わたしは思いました。

「金」という物差しが、大切なものを濁らせている。

 ということです。
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