'09.7.9(木)
★新潮文庫「風の男・白洲次郎」:青柳恵介著
横浜からサンフランシスコに向かう太洋丸甲板で知り合いになった辰巳栄一と白洲次郎との出会いの場面で始まる伝記小説。
その22ページ、
「そんな人(白州次郎)を召集するなんてけしからんじゃないか」と辰巳(東部軍参謀長付)が軍の召集主任に連絡をとった---。
昨年、NHK・TVスペシャルで見たカントリー・ジェントルマン白洲次郎ドラマ・2部作は画像美と品の良さとリズミカルな演出という点において高レベルで見応えのあるTVドラマであった。
その中に、一線を退いて都心からそう遠くないところに5千坪ほどの広大な土地を求め武相荘という庵を営み百姓生活に身を引きながら世界情勢をうかがっていた次郎のもとに突然赤紙が舞い込むシーンがある。
参軍意志のない次郎は徴兵拒否を懇願すべく東部軍の責任者たる辰巳宅を訪問。己は兵役の任にあらず、人間は適材適所で身を尽くすべきだと訴え、結局辰巳をして徴兵を免れることが許されてしまう。
その後白洲は吉田茂の腹心として日本の敗戦・講和処理を任され日本の戦後復興の礎を築くキーパーソンになっていくのだ。
「私は貝になりたい」で描かれるフランキー堺、
「小林多喜二」の述べる蟹工船労働者たち、
「さとうきび畑の唄」で流浪したアカシヤさんま、
「ひめゆりの塔」に出てくる断末魔的末路、
「母べえ」で見る刑務所に葬られた夫、
「人間の条件」の仲代達矢はついには末雪の中に倒れます。
選択する余地のない普段着の人たち。その叫ぶ姿を瞬間的に思い出したのは私だけだったろうか。
当時このワンシーンの成行きに割り切れぬご都合主義的不可解感を抱いた私が白洲ファンを自称する知人女性に胸中を知らせたところ折り返し紹介してくれたのが本書である。
気がつかねば見過ごしてもしまうこのシーンを彼女もかなり気にしていたようである。その紹介された場面を読んでみて思う。
召集主任を「けしからん」とたしなめたその時の辰巳。しかしけしからんのはどっちなのだろう、いや誰なのだろうか、と--。
戦争と言う大義名分のもと、ただならぬ財の集中と軍の権威の渦巻くご時世の中、その流れを演出し活用し利用さえした人種とその反対側に位置し動かされ従順なることを強いられ続けた一般大衆との隔たりは余りに大きく、その人間としての格差は未だに拭いきれていない。
さて、このワンシーンを除き、そして生きた時代を背負う白洲の気持ちを寛大になって認め得るならば、確かに白洲次郎はその風貌・プリンシプル的言動・英国紳士的生活観・直球しか投げない精悍さなどから言ってまさに「noblesse oblige」を地で行く数少ない日本の侍であったに違いない。
読後感を一言で述べるならば、
「民主主義の未熟な体制下で勃発した戦争。その経験せざるを得なかった国家的犠牲は余りに大きく、唯々哀しい--。二度とあってはならぬ。」と言うことに尽きる。
今年8月22日に白洲次郎ドラマの3部作の最後の編が放映されるそうだから、その折りまた前の2部を併せ見て一挙に盛り上がろうと思う。
'09.7.10(金)
★祥伝社文庫「下山事件・最後の証言」:柴田哲孝著
時間の立つのを忘れさせてくれる真実追求型ドキュメンタリー小説。
上記白洲次郎を読んでからこの本に移ったのだが本来ならこちらを先に読むべきであった。随所に白洲次郎の名が出てくる。
本書の特徴は、膨大な量の下山事件に関する資料から得られる犯人像が、実は著者の身内の人物像に重ならざるを得ないと言うところである。
歴史の重み、身内の重み。それらはやはり戦争を中心とする社会において必ず現出する身勝手な財閥思想と軍国思想に操られている。
そしてその交差点上で絶え間なく発生する人権無視の風潮を基に本書に出てくる主要人物たちはみな戦争社会擁護側にいながら挙句の果てはその犠牲者となって朽ちていく。
下山事件発生の源は社会変革現象の一環であり、その日一日の奇妙な行動の果てに線路上で発見された国鉄総裁轢死事件の真犯人達もまた莫大な財を求め手にしつつ組織の流れに逆らえなかったということになる。
何よりも唖然としたその結末。
何と時の日立製作所と東芝との熾烈な入札と受注の流れこそがこの事件の直接的原因だというではないか。そしてその陰に電力事業に関わって行く晩年の白洲次郎の影響すら暗示されている。
これらのことは初耳であり私にしてみれば一部面白さに欠け気分は必ずしもよろしくない。
また本書に出てくる付随的なことで沢田美喜。三菱財閥本家の岩崎久弥の長女。
エリート外交官の沢田廉三と結婚し表舞台では混血孤児のための福祉施設エリザベス・サンダース・ホームの創始者なのだが、この地が戦後の日本政治の裏舞台でもありそれを演出したのが白洲次郎だと云うに至ると、もう一度上記の白洲次郎の伝記を読み返す必要が出てしまうのだった。
★新潮文庫「風の男・白洲次郎」:青柳恵介著
横浜からサンフランシスコに向かう太洋丸甲板で知り合いになった辰巳栄一と白洲次郎との出会いの場面で始まる伝記小説。
その22ページ、
「そんな人(白州次郎)を召集するなんてけしからんじゃないか」と辰巳(東部軍参謀長付)が軍の召集主任に連絡をとった---。
昨年、NHK・TVスペシャルで見たカントリー・ジェントルマン白洲次郎ドラマ・2部作は画像美と品の良さとリズミカルな演出という点において高レベルで見応えのあるTVドラマであった。
その中に、一線を退いて都心からそう遠くないところに5千坪ほどの広大な土地を求め武相荘という庵を営み百姓生活に身を引きながら世界情勢をうかがっていた次郎のもとに突然赤紙が舞い込むシーンがある。
参軍意志のない次郎は徴兵拒否を懇願すべく東部軍の責任者たる辰巳宅を訪問。己は兵役の任にあらず、人間は適材適所で身を尽くすべきだと訴え、結局辰巳をして徴兵を免れることが許されてしまう。
その後白洲は吉田茂の腹心として日本の敗戦・講和処理を任され日本の戦後復興の礎を築くキーパーソンになっていくのだ。
「私は貝になりたい」で描かれるフランキー堺、
「小林多喜二」の述べる蟹工船労働者たち、
「さとうきび畑の唄」で流浪したアカシヤさんま、
「ひめゆりの塔」に出てくる断末魔的末路、
「母べえ」で見る刑務所に葬られた夫、
「人間の条件」の仲代達矢はついには末雪の中に倒れます。
選択する余地のない普段着の人たち。その叫ぶ姿を瞬間的に思い出したのは私だけだったろうか。
当時このワンシーンの成行きに割り切れぬご都合主義的不可解感を抱いた私が白洲ファンを自称する知人女性に胸中を知らせたところ折り返し紹介してくれたのが本書である。
気がつかねば見過ごしてもしまうこのシーンを彼女もかなり気にしていたようである。その紹介された場面を読んでみて思う。
召集主任を「けしからん」とたしなめたその時の辰巳。しかしけしからんのはどっちなのだろう、いや誰なのだろうか、と--。
戦争と言う大義名分のもと、ただならぬ財の集中と軍の権威の渦巻くご時世の中、その流れを演出し活用し利用さえした人種とその反対側に位置し動かされ従順なることを強いられ続けた一般大衆との隔たりは余りに大きく、その人間としての格差は未だに拭いきれていない。
さて、このワンシーンを除き、そして生きた時代を背負う白洲の気持ちを寛大になって認め得るならば、確かに白洲次郎はその風貌・プリンシプル的言動・英国紳士的生活観・直球しか投げない精悍さなどから言ってまさに「noblesse oblige」を地で行く数少ない日本の侍であったに違いない。
読後感を一言で述べるならば、
「民主主義の未熟な体制下で勃発した戦争。その経験せざるを得なかった国家的犠牲は余りに大きく、唯々哀しい--。二度とあってはならぬ。」と言うことに尽きる。
今年8月22日に白洲次郎ドラマの3部作の最後の編が放映されるそうだから、その折りまた前の2部を併せ見て一挙に盛り上がろうと思う。
'09.7.10(金)
★祥伝社文庫「下山事件・最後の証言」:柴田哲孝著
時間の立つのを忘れさせてくれる真実追求型ドキュメンタリー小説。
上記白洲次郎を読んでからこの本に移ったのだが本来ならこちらを先に読むべきであった。随所に白洲次郎の名が出てくる。
本書の特徴は、膨大な量の下山事件に関する資料から得られる犯人像が、実は著者の身内の人物像に重ならざるを得ないと言うところである。
歴史の重み、身内の重み。それらはやはり戦争を中心とする社会において必ず現出する身勝手な財閥思想と軍国思想に操られている。
そしてその交差点上で絶え間なく発生する人権無視の風潮を基に本書に出てくる主要人物たちはみな戦争社会擁護側にいながら挙句の果てはその犠牲者となって朽ちていく。
下山事件発生の源は社会変革現象の一環であり、その日一日の奇妙な行動の果てに線路上で発見された国鉄総裁轢死事件の真犯人達もまた莫大な財を求め手にしつつ組織の流れに逆らえなかったということになる。
何よりも唖然としたその結末。
何と時の日立製作所と東芝との熾烈な入札と受注の流れこそがこの事件の直接的原因だというではないか。そしてその陰に電力事業に関わって行く晩年の白洲次郎の影響すら暗示されている。
これらのことは初耳であり私にしてみれば一部面白さに欠け気分は必ずしもよろしくない。
また本書に出てくる付随的なことで沢田美喜。三菱財閥本家の岩崎久弥の長女。
エリート外交官の沢田廉三と結婚し表舞台では混血孤児のための福祉施設エリザベス・サンダース・ホームの創始者なのだが、この地が戦後の日本政治の裏舞台でもありそれを演出したのが白洲次郎だと云うに至ると、もう一度上記の白洲次郎の伝記を読み返す必要が出てしまうのだった。