波乗り後日記(AfterSurfDiary)

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お試しマンゴーと沖縄慰霊の日

2024年06月25日 00時01分00秒 | others
6/22(土)PM沖縄のU3からマンゴー本格シーズンに向け、
お試し用のB品SETが届いた



見ためや大きさで規格外、大玉〜超小玉迄、いろいろ



見ため関係なく今年の沖縄マンゴーも甘くて美味かった


U3のマンゴーは沖縄最南端八重瀬町産


沖縄最南端は沖縄戦で多くの島民が亡くなったところ


新潟出身U3がそんな地域で受け容れられる迄には相応の時間がかかったと思われる





そして、6/23(日)は沖縄慰霊の日


『島守の塔』は沖縄戦当時本土から着任した島田県知事と荒井県警部長の生き様を描いた映画
本州に住んでる自分たち目線で共感できる部分もあると思う



その『島守の塔』では出てこないが、同じく本土から着任した大田海軍少将は島田県知事とは深く親交、今わの際、大田海軍少将が沖縄県民を思い島田県知事になり代わり、軍上層部に宛てた電文が残っている

長文になるが、ご一読を

〜以下、以前の弊ブログからの転載〜

沖縄の旧海軍司令部壕に展示されている、大田實海軍少将の手紙から
以下、旧海軍司令部壕Webサイトより抜粋

大田實海軍少将
旧海軍司令部壕の司令官であった大田實少将はじめ幹部6名は、米軍の猛攻に昭和20年6月13日夜半、拳銃自決を遂げました。大田少将が海軍次官に宛てた、沖縄県民の献身的作戦協力について訴えた電報が残っています。




昭和20年6月6日 20時16分

次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らって下さい。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、
私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。
沖縄に敵の攻撃が始って以来、陸海軍とも防衛のための戦闘にあけくれ、県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。
しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、防弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。
看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。
沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。
沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。(この電文は原文を現代文に直したものです。)

〜以上


島田県知事と大田海軍少将の交友とこの電文については、
『生きろ』にて詳しく語られている



基地問題で極端な負担を強いられ続ける沖縄に対し、
追い討ちをかけるような法改正を押し通した自公の政治屋
沖縄戦で亡くなった人たちに対して顔向け出来るのか?

しかし悲しい哉、その政治屋を選んでるのは、国民である自分でもある



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