2010年2月20日(土)18:00
毎日新聞夕刊
三国志の英雄、曹操(155~220年)のブームがゆかりの地で過熱している。中国河南省文物局が昨年末「曹操の墓発見」を発表したのがきっかけ。話題の地を訪ねた。【安陽で鈴木玲子】
河南省安陽から北西約30キロの西高穴村にタクシーで向かう。人口2000人、畑の一本道には荷馬車も行き交い、北部特有の黄褐色の土煙が舞う。そんなのどかな農村に発掘現場があった。「観光客たちが押し寄せるから墓への道を知らないタクシーはもぐりね」と女性運転手の張潤花さん(46)。
現場には巨大な屋根がかかり、目を引いた。一般人は敷地内に入場できず、武装した警官が常駐。記者がれんがを足台に、高さ1・5メートルの柵越しに現場をのぞくと墓はシートで覆われ、地下への墓道が見えた。
◇観光グッズ
村は今や全国から観光客が押し寄せる。管理人は「多い日は記者や見学者が500人は訪れる。日本人もいた。遺跡前は大渋滞だ」と話す。初老の男性は「よその人は墓を見に来るが、オレたちはよその人の見学に来ている」と笑う。観光客目当ての新しい売店が開かれ、地元の書家が揮毫(きごう)した曹操の詩を売る人も登場した。
◇劉備の墓は?
曹操ゆかりのほかの地もブームを当て込む。安陽は墓の遺跡を公園化したいと提案。曹操の本拠地があった河北省邯鄲(かんたん)や河南省許昌では曹操観光ルート化を狙う。ブームは曹操のライバル劉備の墓探しにも火をつけた。四川省彭山県蓮花村では、村に残る墓の調査を願い出、同じく墓の有力説がある同省成都や重慶市奉節が反発する。
◇真がん論争
ブームのきっかけとなった「曹操の墓発見」の発表については、真がんをめぐる論争も過熱している。河南省文物局は証拠に、98年に村で発見された石碑「魯潜墓誌」に記載された墓の場所が一致▽副葬品に「魏武王」の銘文が刻まれた石牌(せきはい)と石枕が出土▽出土した男性の遺骨は60代、曹操の享年66歳と符合――など六つを挙げた。
「魯潜墓誌」には4世紀の魯潜という人物の墓と曹操の墓までの方位と距離が書かれ「墓は(高穴橋を示す)高決橋の道を西に1420歩、南に170歩、故に魏の武帝陵は西北の方角、西行43歩、北回りで墓へは250歩」とあり、墓が西高穴村付近にあると示唆していた。
だが、専門家らから「証拠が足りず、時期尚早」と異論が続出。曹操は墓暴きを恐れ、72カ所の偽の墓を造らせたとの言い伝えがあり、「簡単に見つかるわけがない」と論争に拍車を掛けた。
石牌に「魏武王」とあることには、「曹操は魏の武帝と称された。武王はおかしい」との指摘もある。これに対し文物局は「曹操の贈り名は『武王』だった。『武帝』とされたのは、息子の曹丕(そうひ)が帝位に就いてからだ。石牌に『武王』とあるのは、曹操の墓である重要な証拠」と反論する。
◇DNA鑑定?
また、遺骨が曹操のものである確証はない。上海の復旦大学からは遺骨のDNA鑑定計画まで飛び出した。父子間に受け継がれるY染色体の照合で鑑定は可能と主張し、子孫と称する男性たちにDNA採取の協力を求める。だが実現性は不明。肝心の遺骨を管理する河南省文物局が慎重姿勢を示しているのだ。
中央シンクタンクの中国社会科学院は曹操の墓だと基本的に認定したが、決定打ではない。曹操の本拠地があった河北省邯鄲や曹操の故郷、安徽省亳(はく)州などでは感情的な反発も強い。
毎日新聞夕刊
三国志の英雄、曹操(155~220年)のブームがゆかりの地で過熱している。中国河南省文物局が昨年末「曹操の墓発見」を発表したのがきっかけ。話題の地を訪ねた。【安陽で鈴木玲子】
河南省安陽から北西約30キロの西高穴村にタクシーで向かう。人口2000人、畑の一本道には荷馬車も行き交い、北部特有の黄褐色の土煙が舞う。そんなのどかな農村に発掘現場があった。「観光客たちが押し寄せるから墓への道を知らないタクシーはもぐりね」と女性運転手の張潤花さん(46)。
現場には巨大な屋根がかかり、目を引いた。一般人は敷地内に入場できず、武装した警官が常駐。記者がれんがを足台に、高さ1・5メートルの柵越しに現場をのぞくと墓はシートで覆われ、地下への墓道が見えた。
◇観光グッズ
村は今や全国から観光客が押し寄せる。管理人は「多い日は記者や見学者が500人は訪れる。日本人もいた。遺跡前は大渋滞だ」と話す。初老の男性は「よその人は墓を見に来るが、オレたちはよその人の見学に来ている」と笑う。観光客目当ての新しい売店が開かれ、地元の書家が揮毫(きごう)した曹操の詩を売る人も登場した。
◇劉備の墓は?
曹操ゆかりのほかの地もブームを当て込む。安陽は墓の遺跡を公園化したいと提案。曹操の本拠地があった河北省邯鄲(かんたん)や河南省許昌では曹操観光ルート化を狙う。ブームは曹操のライバル劉備の墓探しにも火をつけた。四川省彭山県蓮花村では、村に残る墓の調査を願い出、同じく墓の有力説がある同省成都や重慶市奉節が反発する。
◇真がん論争
ブームのきっかけとなった「曹操の墓発見」の発表については、真がんをめぐる論争も過熱している。河南省文物局は証拠に、98年に村で発見された石碑「魯潜墓誌」に記載された墓の場所が一致▽副葬品に「魏武王」の銘文が刻まれた石牌(せきはい)と石枕が出土▽出土した男性の遺骨は60代、曹操の享年66歳と符合――など六つを挙げた。
「魯潜墓誌」には4世紀の魯潜という人物の墓と曹操の墓までの方位と距離が書かれ「墓は(高穴橋を示す)高決橋の道を西に1420歩、南に170歩、故に魏の武帝陵は西北の方角、西行43歩、北回りで墓へは250歩」とあり、墓が西高穴村付近にあると示唆していた。
だが、専門家らから「証拠が足りず、時期尚早」と異論が続出。曹操は墓暴きを恐れ、72カ所の偽の墓を造らせたとの言い伝えがあり、「簡単に見つかるわけがない」と論争に拍車を掛けた。
石牌に「魏武王」とあることには、「曹操は魏の武帝と称された。武王はおかしい」との指摘もある。これに対し文物局は「曹操の贈り名は『武王』だった。『武帝』とされたのは、息子の曹丕(そうひ)が帝位に就いてからだ。石牌に『武王』とあるのは、曹操の墓である重要な証拠」と反論する。
◇DNA鑑定?
また、遺骨が曹操のものである確証はない。上海の復旦大学からは遺骨のDNA鑑定計画まで飛び出した。父子間に受け継がれるY染色体の照合で鑑定は可能と主張し、子孫と称する男性たちにDNA採取の協力を求める。だが実現性は不明。肝心の遺骨を管理する河南省文物局が慎重姿勢を示しているのだ。
中央シンクタンクの中国社会科学院は曹操の墓だと基本的に認定したが、決定打ではない。曹操の本拠地があった河北省邯鄲や曹操の故郷、安徽省亳(はく)州などでは感情的な反発も強い。