あべ・ぼすとん

あべ・ボストンのブログです。ぼくが描いた絵と愛犬チャビイの日常を紹介します。

【競馬 目眩く一瞬を求めて】1995年11月4日(土曜日)

2023-09-16 18:03:00 | 競馬
出た‼️ 東京競馬 土曜12R 16万馬券 史上7番目の大穴

最終12Rで16万馬券。東京競馬初日の12Rは、14頭立て13番人気のマッケンドラマと14番人気のゲイリーハヤテが1、2着。馬連⑦⑨は164,290円の大万馬券となった。91通りの組み合わせ中の最低人気で、五月の京都・シルクロードS(223,130円) に次いで今年二番目、JRA史上では七番目の高配当。

 これは翌日のデイリースポーツの見出し記事の部分である。

 当日の自分の競馬メモ帳では次のような目眩く時の感想が綴られている。

 ついに1000万獲得の快挙!
 今年24回目の万馬券的中❗️
 11月4日(土)、8月27日の12万馬券的中以来、勝っても吐き出すというパターンに陥り資金も底をついた感があったとき、本日もまたまた駄目かと思っていた最終12Rにそのとき目眩きときが訪れたのである。
 追いかけ続けていた2頭の穴馬が揃って突っ込んで来て、狙い続けていた大穴馬券がついにかかった。
 それはまるで、渓流釣りで一匹もかからず、こんな山奥まで世俗の煩悩が次つぎと押し寄せて来る気分に陥ってしまっていたとき、渓流の淵の主と想えるような尺岩魚が想いもかけず釣り上がった、そんな気分であった。
 レース前オッズは見ていなかったが、過去のレースで狙い続けた馬でもあり、調教師の「走っても不思議ではない」とのコメントを参考にして、印の無い穴馬二頭を絡めた(⑤⑥⑦⑨(13))の馬連のボックス馬券5000円と、⑦ゲイリーハヤテと⑨マッケンドラマの2頭の馬からそれぞれ馬連総ながし各1000円ずつで勝負をしていた。
 この馬券が的中したのだ。ノド鳴りで、見習い騎手西田を乗せたマッケンドラマはここ三走狙い続けていたし、ゲイリーハヤテも田中勝春の大胆な大外強襲をイメージして総流しで買っていた。この二頭を軸に据えた馬券であった。(これはひとつ前の11レース根岸Sで的中があってこそなのだが)




 

【競馬 目眩く一瞬を求めて】合掌 ライスシャワー<1995年6月5日(月曜日)>

2023-09-16 17:55:00 | 競馬
 6月4日(日) 京都競馬場で行われた第36回宝塚記念競走。震災復興支援競争と名うたれた開催であった。第10レース、本日のメインレースG1 宝塚記念競走。悲劇であった。
 1ヶ月前に天皇賞で見事に復活したライスシャワー号が、京都競馬場第三コーナー下り坂の手前で大きくバランスを崩し、的場騎手は前方にもんどり打って放り出された。
 ライスシャワーは前脚がねじれ、それが波動のように身体(胴体)から後肢へとクネクネと伝わるような奇妙動きのスローモーションのような感じで転倒した。一瞬の動きのはずなのだが、予後不良になるような骨折をレース中に起こした馬の動きはいつもスローモーションのように感じられる。ライスシャワーは馬運車に乗せられることもせず、その場で安楽死の処分の運命であった。
 過去、新潟競馬場でのプーサンや東京競馬場でのヘンリーオンワードの骨折、そしてその場での殺処分の現場の姿を目撃した時と同じように何とも言えない悲しみがこみあげてきた。物言わぬ一頭の動物の死ではあるが、本当に可哀想であり悲しい。安らかに眠れよライスシャワー。小柄ではあったが懸命に走るこの馬が僕は好きであった。 合掌

【競馬 目眩く一瞬を求めて】閑話:筑紫哲也と五木寛之との対論<1995年5月11日>

2023-09-16 17:53:00 | 競馬
 1970年前後から五木の作品は殆どといってよいほど読んでいた。
『さらばモスクワ愚連隊』『蒼ざめた馬を見よ』『天使の墓場』『第四演出室』『風に吹かれて』『戒厳令の夜』『青春の門』、、、記憶に残っている作品を挙げれば、さらに幾つもの作品が浮かんでくる。
 そんな五木が最新作『蓮如』を書き下ろしたという。読んでみよう。
 五木の作品を読んでいつも感じるのが、彼の「時代に対する嗅覚の鋭さ」である。
 時折、あまりにもスッパリとし過ぎたその切り口について、そんなに単純かしら、と思うことも無いではないが、しかしそれも意図的な表現であるのかもしれない。
 この対論での印象的な言葉は、「予言は嫌いであるが、潜在的意識とも言える予感が庶民一人ひとりにあり、その共通の予感のようなものをずばり指摘することで顕在化させる、そのようなことを言う人が予言者である。」そしてHot War, Cold War の次の現在といえばShadow War なのではないか、そんなふうに現在をとらえる時代感覚には頷かされたのである。
 生活文化の違いや対立、生活の中で生じる確執なども含め、目立った対立で無かったものがWARとして見えてくる時代。それはここ10年交通戦争の一万一千人の死者に対し、自殺者がその2倍にのぼることからも、それを何ととらえれば良いのか。魂について考えなければならない時代であることを、この自殺者の数を挙げることで指摘していた。
 魂が救われない人たちが自殺を選ばないときオウムに入ったと考えても何ら不思議ではない、ということだ。
 今世紀末が単に19世紀末、20世紀末といった100年単位の世紀末であるだけでなく、1000年単位の大世紀末であり、来るべき時代を展望し得ない時代状況を15世紀の様相との酷似性からも語っているのであった。
 自覚し得ないまでも、誰でもそうしたことの予感を心の奥深くに抱える、深遠の不安は、さまざまな Shadow War の現実化で見えてきつつあるのかもしれない、と。

【競馬 目眩く一瞬を求めて】1986年10月10日のメモ

2023-09-16 17:51:00 | 競馬
 無計画な馬券買いは万に一つの偶然に頼ることになる。
 しかし、馬券の検討をさまざまなファクターから科学的に云々というつもりは無い。
 さまざまなファクターを科学的に分析して、コンピュータを駆使し、より高い確率の馬券をもとめたところで、そしてそれがパターン化してしまえば、何ら興奮も無く、目眩き一瞬なんて訪れようが無いであろう。
 馬券を買う行為、否、馬券を買う衝動は、単に金銭を求めるための投資ではないのである。
 日常には無い非日常の一瞬を現実にさせるという、そのことへの衝動があるのである。
 毎週土日におこなわれる多くのレースをただ気ままに馬券を買うとしたら、それは単に日常の行為になってしまう。それでは非日常的興奮も希薄になってしまうだろう。
 つまり、自ら興奮できるレースやサラブレッドを見つけ、そのレースや馬に集中することが馬券を買うことの醍醐味なのだと思うのである。