あべ・ぼすとん

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【競馬 目眩く一瞬を求めて】閑話:筑紫哲也と五木寛之との対論<1995年5月11日>

2023-09-16 17:53:00 | 競馬
 1970年前後から五木の作品は殆どといってよいほど読んでいた。
『さらばモスクワ愚連隊』『蒼ざめた馬を見よ』『天使の墓場』『第四演出室』『風に吹かれて』『戒厳令の夜』『青春の門』、、、記憶に残っている作品を挙げれば、さらに幾つもの作品が浮かんでくる。
 そんな五木が最新作『蓮如』を書き下ろしたという。読んでみよう。
 五木の作品を読んでいつも感じるのが、彼の「時代に対する嗅覚の鋭さ」である。
 時折、あまりにもスッパリとし過ぎたその切り口について、そんなに単純かしら、と思うことも無いではないが、しかしそれも意図的な表現であるのかもしれない。
 この対論での印象的な言葉は、「予言は嫌いであるが、潜在的意識とも言える予感が庶民一人ひとりにあり、その共通の予感のようなものをずばり指摘することで顕在化させる、そのようなことを言う人が予言者である。」そしてHot War, Cold War の次の現在といえばShadow War なのではないか、そんなふうに現在をとらえる時代感覚には頷かされたのである。
 生活文化の違いや対立、生活の中で生じる確執なども含め、目立った対立で無かったものがWARとして見えてくる時代。それはここ10年交通戦争の一万一千人の死者に対し、自殺者がその2倍にのぼることからも、それを何ととらえれば良いのか。魂について考えなければならない時代であることを、この自殺者の数を挙げることで指摘していた。
 魂が救われない人たちが自殺を選ばないときオウムに入ったと考えても何ら不思議ではない、ということだ。
 今世紀末が単に19世紀末、20世紀末といった100年単位の世紀末であるだけでなく、1000年単位の大世紀末であり、来るべき時代を展望し得ない時代状況を15世紀の様相との酷似性からも語っているのであった。
 自覚し得ないまでも、誰でもそうしたことの予感を心の奥深くに抱える、深遠の不安は、さまざまな Shadow War の現実化で見えてきつつあるのかもしれない、と。


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