つい先月より、ふとした事情から、私の寝起きする家に、一匹の小型犬が同居をしています。このワンコ、もともとは近所に住む娘の家で飼っている犬なのですが、都合で今こんな具合になっておりまして。それに関しては、ちょうどここに紹介をしてみるのにも相応しいテーマを含んでおりましたので。今日は、それをお話することに致しました。
このワンコは私たちが関東地方に暮らしていた頃から飼い出した室内犬でして。こちらに引っ越してきてからも、住居の条件や、家族構成の関係だとか、その都度で何かと問題になるものですから、今住んでいる物件と別に複数の家探し&引っ越しの理由にもなったほどでした。まあ、都会でペットを飼うのは、それなりに困難を伴ったりするのは多くの方の経験するところと全く同じくでして。それプラス、うちの場合だと、家族のメンバーそれぞれの健康状態だとか、ぶっちゃけた話、私と子供の関係は親子といっても継父と連れ子ですから、その難しさも重なっていたりします。今回も、ペットの飼える住宅で一人暮らしを始め出している娘に少し安心してみたり、そこから遠くない場所へ私も妻と格安に入居をできたりと、やっと住まいで困らなくはなれたのかなと思っていたらの出来事です。
例によって、窮すると緊急コールしてくる娘からの電話で、いかにも具合悪そうに取り乱した様子で、要は犬の面倒を看るのは無理でお手上げだというSOSです。最近になって、そのワンコ、癲癇(テンカン)発作を起こす持病をもらってしまいましたので、心配性の人間には負担がキツイだろうと察したので、「いいさ、無理させないほうがいい」と私も家に引き取ってやろうと返事をした訳なのです。
さて、ここまでは話しの背景です。これから書こうとするのが、障害だとか、病気だとかで悩んでたり、困ったりしてる方たちと共有したいなと思い述べようとする本題です。(願わくば「中動態」の予備知識とかがお有りだと、より深く説明を理解して頂けるだろうとは思いますが。まあ、それほどには拘りませんけども)
今朝、子供の通院日でした。かつては往診してもらえる医療機関しか使えなかった人です。今日も家のクルマに乗せて、家族ぐるみで一緒に通院に行って参りました。私の奥さんも、それを出来る職場にしか就けなかったりしますけど。。。 で、この子はテレビが点いてると怖がるし、ラジオが鳴っても嫌がります。だからCD持参で乗ってくるんですが、今日は聞いてると落ち着かない音楽で、変えるCD、変えるCD
、聴きたくもない音楽には苦痛しか感じられず、今度は私がカチンと来ました。ここ数日間、飼い慣れない室内犬のせいで、寝不足気味の私は、ついに切れた次第です。
「これは誰かに我慢を押し付ける意味でしてるのかな」
「いいかい、できないというのと」
「もうやらなくて、構わないです、は」
「それぞれで別々のことだから」
「いま、できませんというのは、これからも、しなくていいとは違うんで」
「いま、できないことは、練習して身につけるんだし」
「誰も、無理なこと、させるつもりなんてないんで」
「誰にでも、できること、できないこと、あるんだから」
「できないことは、あって、当然なんだし」
「でも君がイヌを放り出せば、別の人間に引き受けさせてるんで」
「他の人間がすれば、自分はしなくていい。で、いいのかな」
「いい?誰が飼いたいから連れてきて欲しいと言ってたんだっけ?」
「今できないのは、いいよ。でも、これからもしなくていいです、と違うしょ」
「なあ、おい、どうして君から言ってやれないんだよ」
「誰にも言ってもらえないんだ。かわいそうだろ」
途中で停めて降ろしてもらいたいところでしたが、着いたので、そこで私はクルマから離れ、某ショッピングセンターの方へ一人で歩きました。そこへ入ってパン屋で朝の珈琲を飲んでました。途中、昨日の訪問看護師さんから、先の予定の確認電話もあったりして、どうにか腹立ちが紛れてきて。やがて娘の受診が済んだと妻から電話があり、ちょうど自分も寄りたい店があるから、そっちまで子供と行くわねと告げてから切れました。
私はパンを食べながら、図書館で借りた岩波明著「自我崩壊」ー心を病む 不条理を生きる を読んでいました。これお薦めです。タイトルや装丁は趣味を疑いますが、中身は裏腹に実に真面目な良心的ともいうべき内容だと思います。
ふと、顔を上げると、子供の姿が目に入り、トレーを手に持った2人がテーブルのところまで来て席に着きました。到着する前に妻からメールを受け取っていましたが、子供は私から言われたことで、なにか自分の中で止まっていた時計が動き出したのだと、そんな感想を口にしたそうです。その子の顔をみると、いつになく表情がしっかりしていて、お店で暫く言葉を交わしました。どこまで伝わったかは、頼りないような、どこか噛み合わない返事ですが、ふだん口にしないような自分の考えを聞かせてくれました。
何となくは伝わったのかな、少しズレてるのは、想像もしてましたけど。その後での、子供の母親から聞いた話で、ああ、やっぱり、結局そういう聞こえ方で受け取っていたんだ。というのが、この私に知らされたんで。結果、この最後の段を書かなくてはいられなくて。こういう話を取り上げているのですが。。。
まず、受けた側では、何らかの責任を果たせの意に取っていること。さらに本人の頭の中に、Aか、それともBなのか、キッパリ選べ、選択を迫られてる。という状況に読んでいる点です。いずれも、私から伝えたいことと、およそ正反対な見え方なんです。
いいでしょうか。私を含めて病気障害の人間の特徴でもあるんですが。実際の現実の物事というのは、Aのようでもあるし、またBみたいでもあるし、つまり白か黒かというのじゃあなく、むしろそこは灰色の濃淡であったりします。敢えて言うならば、大多数のものが、案外どっちつかずだし、そこを無理に決めつけたら、これはだいぶ無茶なのです。病人はその無茶をするから、平気で無理な考え方をやりだしてしまい、現実との対応が、あれよあれよとズレまくっていく目にあってしまうんです。他の人なら、そうなのかもしれないかなあの含みの部分が外せないのはワキマるんですが。これが下手な病人は、そうだという断定で押し切りまくる。そういう無理やりゴリ押しな断定で推論を組み立ていくと、これは本人の主観の中では一見構造物として立ち上がるようでも、客観的に見れば、妄想と言われてしまうような内容になってしまいます。言わば物事の実際は、宙ブラリんで、宙ぶらりんなんだけど、なんとなくAでもあり、Bでもあり、もしかしてCや、ことによってDかも、さえ含み持っていることなのに、その保留中であるという部分を忘れたのでは、現実という相手には対応ができないんですからね。というのが、私たちの「アタマ」の中で認めうるところの世界の構造なのですけど。そこのハッキリとはしない、させられない相手を、無理をしてまでハッキリさせたいなんて、無茶をすればするほど、逆説的に迷子の度合いが深まり暗黒に覆われてしまう、それが人間の狂気というものらしいです。
もう一つは、そこと重なるんですが。できるとか、できないとか。2分するから落ち込まなくいいものを卑下して自虐的に貶してしまう傷付きへと繋がっているという一面です。これは責任の意味を履き違えてるんだという言い変え方もありだと思います。誰も責めてないのに自分で自分を責めないと気がすまないも、その最たる部分だし。さらに重いと、誰かを悪者に仕立て上げておくと、自分には責任がないんだ、なんて、平気で、隣人の顔の上でアグラを掻くような傲慢を、われわれ人間にさせていますからねえ。
いいですか。物事には中間だとか、経過だとか、そこにはプロセス的な隙間があるんで。何かをしようと思って、できないことは練習をしますよね。少しずつ上達すれば、コツがわかるし、コツがわかると、何ができるようになれば、そこまで近づけるのかが。そこが見えてきます。だんだんに見えてはきますが、ウッカリしていると、できるようになった途端に、あいだの経過は忘れてしまい、できた結果にばかり喜んでいると、できた、できないで、そこだけしか見ていなかったりとか、をしていませんか。何かに挑戦して、上手く行かない場合でも、これはどのやり方だと成功しないことなのか、ノウハウが積み重なってきている証拠なのに、これをまだ出来ていないの意味だけ考えて、まだ何も始めもしないで出来てないという状態と混同して、そういう味噌と糞を一緒くたの同一視をしていませんか。そんな風にしていると、それらの結果として、その人がどうなるのか、お分かりでしょうか。その人は何にも挑戦をしなくなるんですよ。それは挑んでみる意義を忘れていることなんです。言葉を変えればですよ。引きこもるというのは、そういうことの塊なんです。外に出て何かに挑戦して、一回では、どうも上手く行きませんでした。これを、まだ家から一歩も出ないし、挑戦する計画すら立てないし、もちろん何らの実行も果たさない、この何もしようとはしない。これはですよ、挑んでみたけれど、まず一旦は失敗をしてしまいました。この二者はですよ。それぞれ全くの別もんなんです。似ているのは、まだ上首尾な成功には至ってないだけで。後者は、続けていると、そこに到達する可能性があり。前者は続けているだけでは、そこまでは行かない。ということです。それだから、この2つには雲泥の差がありますが、そこを認めないから、何もしないのに、しないという「選択」をしてるだなんていう勘違いにさえも気付けない罠に捕まるのです。このパラグラフの冒頭に書きましたよね。できる、できないの間には、何段階も階層的に構造があるんですよ。0か、100か、ではないですから。ただの1でもいいし、0.1でも、0.01でも、それはあることです。それを0と同じだなんて、間違いをするから、1ミリも家から出ないままでも、これを一歩外に出てみるのと、ただの一歩も外に出ないのを、どちらも同じなんだと受け取っちゃう。千里の道も、まず一歩がなければ、始まらないんで。そこ反対に読んでいたんじゃ、出口があっても、何が出口か忘れたまんま、終わっちゃいませんかね。
それからですね。出来ないこと、及ばないことは、誰であっても、ちっとも恥なんかじゃないし。むしろ自分に出来ないことがあるのを失念してるバカこそ恥じ入るべきなんです。いいですか。あなたがやろうと思って、できたとします。これは、あなたの頑張りだろうけど。あなたの力だからと思ってると、もしかしたら奢りかもしれないことなんです。なぜなら、はじめから、同じことをしようと思っても、能力的、あるいは諸条件上、それが最初から不可能な人も、たくさんいるのは御存知ですよね。そう。いろんな障害も、そのうちの一つです。その障害の状態も種類も少しづつ違っているようにですね。ことさら障害ではない人たちだって、能力的には、個々人で千差万別であるということなんですから。どんなことでも最初から、そこでできるという範囲にしても違うことなんですから。そもそもの条件からして異なってるんです。十分にはできない、不十分だができる。練習を積んだら出来るようになる。練習するのは、最初から無理。みんな各々で違うんです。違うのを比べて、その差がどうだとか、できないから、どうなんだとか。これはね。そういう問題じゃあないですから。ただ、自分は今日はここまでならできたんだ。でも昨日はこんなだったけど。明日はどうかな。
そんな具合に違いというのは、そういう励みの足しにしたり。自分の限界に気がつけたり。自分では十分に出来ないことなら、人から力を借りるし、貸す方にしても力惜しみしていては、自分が人の助けを借りるとき、要らない遠慮をしなきゃいけない。そもそも、みんなが違うから、それぞれが補い合っていければ、お互いそれで上手く行くように出来ている。というのが、人が社会を成してることの本質なんですから。
人から力を借りたり貸したりするのが、誰かにとって迷惑になるんだという発想をしてる人は、自分の社会性が不全状態なんだなと気が付かないと、一人暮らしで老人を孤独死させる世の中を変えられないんだし。困難を抱える家族を見殺しにしたりするんです。いやいや。回り回ってです。自分の身の上にすら災難となって降りかかることです。いま徐々に明らかになってきてますが、信じられないくらい多数の人間が家から出ない生活をしていて、それを家族の看ることで、その家族が責任取ればいいって。過去の反省をしていない発想が、ブーメランのように自分たちの喉元めがけて飛んで帰ってきてますよね。いいですか。犬や猫でもない、大の人間が、たった一人でも家から出ないという状態になって、それをその人の家族だけで解決ができるはずがないじゃないですか。その家族の責任だなんて。それはですよ。病気になった人は、全部自分の責任で治らないといけません。世の中には、医療も医学も必要ないんです。これと同じクラスの暴言暴論なんです。家族も家族です。世の中から、無理難題を言われて泣き寝入りなんかしてるから、本人だって、要らない後ろ暗さを背負わされ、感じなくてもいい後ろめたさまで舐めさせられているんです。何故そこで本人を代弁して、別に悪いことなんかしているんじゃない。ただ、病気なんだし。その結果、障害になってることなんです。どうして病人や障害者を見殺しにするような社会を、われわれが続けなきゃいけない理由が、一体どこにあるというのです。そう言って、病気の家族の前に立って、そう叫んでやるのが、本人に示せる親心だと、私は信じています。
これは、人間にとっての恥というのが、一体そもそも何を指している意味なのかを、根底から問い直さないといけないのですよ。力が劣っているとか、能力が及ばないとか。これを恥だとか、駄目な部分だとか。そういうことと結びつけていれば、障害者も。病人も。老人も。それらは存在しなくていいという馬鹿げた考えに、われわれ自体が滅ぼされる意味しか残らないということになるんですよ。
命宿るものは、ことごとく大事な存在なんです。生きているというのは、命に値するから、生まれるんだし。それが死んでいくから、かけがえのない尊さを備えているのではありませんか。能力で劣りがなく、病む心配もないし、老いる恐れもない。これに叶うのは、もはや人間じゃないことです。
つまりですよ。競争原理の行き着くところは、そこしか余地が残らないんですから。ということはですよ。出来ないこと。及ばないこと。それでは価値にならない。という、この考え方そのものが、結局は人間として立脚点として持つような選択ではなかったんだ、というのが、ここでの結びになります。そこのところで、現今の文明もしくは日本人の信じてきた価値観がパラダイムシフトに到達しているらしいということだったんですね。
すなわち、今までと違う、これからの考え方は、今こそ、ここで切り替えないと次代の幕開きができないということだから、われわれの仕事は、まさにそこにある。なのですね。。。