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いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

再発は忘れた時でも、やって来る。或いは病気・障碍と言うのは一生モノなので、大事に付き合ってこその価値ですから。(その3)

2020年08月18日 | 日記

一昨日からの毎日で更新して書いています。

続きとして、お読みいただけると幸いです。

5月に重度障害の次女が帰宅しました。

この子は関東地方で育ったのですが。

学校を出てからは、施設で生活をしてきた人です。

数年前の北九州への転居時も、施設入所の生活でした。

障害の状態が重いので、言葉を発することは皆無だが、

話しかけられた内容について一定の理解力も示します。

もちろん難しいことを話しても通じません。

会話を交わすという能力を持っていないのですから。

そうですから、いざ自分の生活の場を移す場合にだって、

これを事前に知ろうというのは、まず無理なことですよね。

当然のことながら、明日の予定を誰かに告げられたりもせずで、

これは言ってみれば、本人にとって常に物事がどう起ころうが、

いつも、その場に即して対応してきたという猛者でもあるし、

その力を発揮しつつ、集団生活する施設での世界も世渡りしてきて、

確かに障碍者といえば、持たざる能力は間違いなくあるのだが、

だけども、その生活力の逞しさは、ある意味スペシャリストだと思います。

私は彼女に出会うまで、多くの精神障碍の知己こそいましたが、

身近に重度知的の障碍者と接する経験はありませんでした。

でも、この子を通して、ある種の気付きを得たものがあるのですよ。

ひとは、ある面で能力上不十分な獲得しか、モノにできなかったとしても、

他の人の場合、使わずに済んだ能力をすら、活かすし、用いるし、

それらの秘めたる潜在力をして、人一倍に一層の磨きをかけながら、

それぞれに、その人が暮らす生活へと、相応しい発達を遂げようとする。

じつは、それこそが人の授かる「知恵」の正体そのものだと言うことです。

まさに、ひとが命として「生きている」証が、そこにあると認めるべきであり、

それが普遍的には「人間性」の中身であって、「ひとらしさ」そのものだろうと、

そう教わりました。

今日は少し話が別方面に渡ったようですが、ぜひ伝えたかったので、

こうして述べさせて頂きました。

では、最後になりましたが。ひとは様々な経験もしてみるべきだろうし、

いろいろな人に、少しでも多く、しっかりと出会ってみるべきですから。

それも、頭の中ではなくて、心と心を通わせる。そんな出会いをね。


また、明日ここに書きます。


再発は忘れた時でも、やって来る。或いは病気・障碍というのは一生モノなので、大事に付き合ってこその価値ですから。(その2)

2020年08月17日 | 日記


昨日の続きで書いてみます。

今回の件、その引き金は例の「コロナ状況」の影響が大ありでした。

わが家の場合、まず施設で入所生活する連れ子に困難が波及しました。

うちは妻が毎週末ごと、次女を自宅に一泊帰宅させる習慣です。

でも、この事態下。3月から、施設側に外泊を断られます。

感染の危険があるので外出・外泊については禁止。

施設内で感染者が発生する危険性を回避するのが目的で、

もし、入所者を施設外に出した場合、再度施設へ戻すのは認めない。

入所中の利用者を外泊させたら、自宅でそのまま過ごすように、

これは、まあ状況的にも当然そうするのは必至ではありました。

ですが、働いている家族が自宅で看続けるのは不可能ですから。

それが出来ないからこそ、施設を使った生活を選んでいる意味ですもの。

暫く妻も辛抱はしていましたが、毎週その子の顔を見ていた訳で、

時間が経ってくると、別の施設で、もっと違う扱いをするも聞いたりします。

考えれば、前々から長期的には別の過ごし場所が必要だと感じてましたし、

先の見通しも不鮮明なので、今後の安心ができる居場所を探す話になります。

ついては心当たりを探ってみるので、協力してもらえないだろうか。

そう妻から持ち掛けられたので、私も不憫に思い次女の帰宅は同意した。

取りあえず次女を自宅へ帰宅させます。それは5月の出来事でした。

まさか、それが長期戦の入り口とは予想もしていなかった。

下手にお人好しで、親切心を発揮するとか、先々の検討は甘すぎるし、

それが、われわれには有り勝ちな特性だったりもしますが。

そういう持ち駒を使ってウカウカと局面に張ってみたりするのですよね。

高いところからお見通しの向きには迂闊にもマンマとハマるのだし、

本人の視点からすれば予想もしない展開に映ることでもあるのです。

知らず知らずに、要らない問題へと巻き込まれてゆく私たちなのでした。

「嗚呼、絶体絶命の危機。ツユとも知らぬ主人公の運命やいかに」


また、明日ここに続きを書きますね。



再発は忘れた時でも、やって来る。或いは病気・障碍と言うのは一生モノなので、大事に付き合ってこその価値ですから。

2020年08月16日 | 日記

ずうっと更新していませんでした。

今日から久し振りに書いてみることにしました。

実は最近、一時的に調子を崩し、これは「入院の必要あり」ではと。

周囲をヒヤリとさせてしまったのですが。

緊急の通院と、2週間連日の訪問看護を受けまして、

そのお陰をもって、入院には至らず自宅で過ごして乗り切りました。

また通院も続けられたので、辛くも何とか助かりましたが。

もう60代ですから、さぞキツ~い入院約束間違いなしです。

まったく今回も実に実に危なかったことでした。

特に今は簡単に面会や外出は出来ないような状況下ですから。

これで3か月を辛抱した日には、立て直しにも長年月かかったでしょう。

未だに危機的な事態が来ることだなんて、これは困ったことで、

この時期に私に一体何が起きたのか、それを明日から綴りつつ、

「お互いに気を付けて過ごそう」ではないですかと、

その思いを共有すべく体験をお伝えしようと考えた次第です。

では、また明日この続きを・・・・


追記 入院中、またこれから入院を控えていらっしゃる諸氏諸兄の皆様におかれましてもご養生のほど深くお祈り申しあげております。末筆にて、お許し頂きたくお断り致しました。どうかお大事に。




声に出さないと話というのは通じないから

2020年04月21日 | 日記
確かに現在、まさかまさかのこの状況ですからね。
この期に及んで、いったい何を書いておけばいいか。
私のような身でも、ふと考えこんでしまうぐらい。
まあ、そんな時期だからこそ、この文面に目を通してもらう。
そんな好機かも知れないかなと気を取り直して、
こうして続きを書き記すべく、心あらたにしています。
これは養生していく上に、まず第一の信条とすべきが、
日常のコツコツとした積み重ねが大事で、一番大切だからですよ。

この私と違い自分の連れ合いには別な考えもあったりします。
でも、少なくとも今の世の中の習いを真に受けているだけじゃ、
あんまり自分たちにプラスの足しになる見方ばかりでもない。
そんなところは、お互いで意見は一致していたりもします。

要は呼び方であるとか、区分の仕方とか、そういうのは
ハッキリ言って大した役には立たないということです。
いいですか。時代が変われば言うことが違うんだし。

見方・見做し方というのは、一面これは決めつけです。
それが実際には何なのかということは、たぶん
きっとこれはラッキョウの皮むきに近いことでもある訳で
そんなの、むき続けていって芯があるとか、種が出てくる。
そういうことじゃあないんですからね。

ただ、どういう工夫で生活していこうかとか、
どんな対処をしていくと、過ごしていく上で助かることなのか。
結構、こうした面は思ったよりも実りがあるものなのですね。

だって、今こういうものは、何が原因なんだよとか、
どういう理由や理屈で起きているんだからって。
これは全部みんな仮説だし、説明に過ぎない話ですから。
だから誰にも証明はできないし、検証もし兼ねる意味だけど。
もしかしたら、こういうメカニズムも想定が可能ですよ。
つまり、これが「仮説」というやつの正体です。
研究者や、理論家は、それを「仮説」として据えるもありです。
でも、私ら本人が何もかも、自分を仮説に明け渡していたんじゃ、
これは現実の生活を放棄してお留守にしてしまうだけです。

人間は机の上で暮らしてるんじゃないですから。
机の上で組み立てた理論を、実際に用いることもするでしょうが。
でも理論に、私らが利用をされていたら、本末転倒なのです。

例えば、これは病気です。でも、原因がまだ十分にわかりません。
治療方法も完成までに、もっと時間を要すでしょう。

これは病気の研究を相手にした治療を考える基礎医学であれば、
では続きは、研究の継続で、という連なりに齟齬が起きないとしても
「病気」に罹った患者である私たちには、現実の生活があります。
人間ひとりの人生は、時間的にも空間的にも限りがあることで
誰も、研究の成果が出るまで途中で待つ猶予の持ち合わせはない。

治療の仕方がありませんと、生活の仕方がありませんは、
これらは、それぞれに次元の異なった、まったく別個の問題です。
そこを混同していちゃいけません。つまり、譬えて言うならばですね。
お金がありませんと、食べるものが買えないので食べる必要がないです。
これは、味噌と糞の区別が出来ていない見方だなと、誰にも理解できます。

また、別の人が言う。これは「障害」ですから。
そういう問題として社会の側における対処が要る事柄です。
今度は、そんな定義をされたのだとしましょう。

では、制度の改革や、社会を構成する人々の意識に
過去と異なった見方・受け止め方が一般の間で常識となるまで、
私たちは、どこか時間の止まった山の上で待てばいいのですか。
やがて時期が来れば、山を下りられる時代が訪れてきて
その時から、われわれは自分らしい生活をするようになる話かしら。
夢想するのは可能でも、そんな時間、待つのは無理な相談です。

これらを平気で強いるような世の中があったとしたら、
一言で「それは偏見・差別である」は、どうみても明らかです。

世の人が、「偏見・差別」をなかなか止めようとしないのもありがちで、
とても残念ですが。でも往々にして簡単には消えないことです。
ただ、そこを知っている者は、主張をしなきゃいけない部分だよね。
であればこそ、われわれ本人の側。あるいは家族の立場が、
もし「偏見・差別」を、自分の生き方へ取り入れたままにしていたら、
それでは、自分を卑下してみたり、自らの価値を否定してしまうことです。
いわれのない日陰に隠れるようにして息を潜めるみたいな暮らし方
それを自分にも、また自分の家族に対しても、強いてしまうだけです。
よく思い起こしてみてほしい。そうしろと命令をされましたか。
それとも「常識」だと、自分に言い聞かせて行っていませんでしたか。
もう一度、考えましょう。これは自分がした間違いとは意味が違う。
これは私たちを理解しようとはしていない側の価値観なんです。
私たちは経験して知っているから従う必要はない価値観です。
あなたや私が犯した悪事でもなければ、落ち度でこうなったのでもない。
そこには、いつまでも、自分で自分を一生涯責め続ける理由がありません。
これは無駄なことです。あとへ続く者に果たすべき責任もあります。
今まだ知らない人、勘違いをした人、誤った意識を持ったままの人、
それらは、ある程度まだ大勢いるだろうは、私でも知っています。
あなたも、それを恐れているんだと思う。でも間違っているのは、
自分たちじゃないと、今ここで胸を張らないと、その多くが気が付かない。
黙ったままに従うというのは、続けてくださって構いませんという
その意思表示と同じです。黙認という言葉があるでしょ。
違うぞという発言を、ある意味これは待たれていて期待されてると
そこを汲んで応えてやらないといけない。今われわれの役目です。
まだ今のこの時代は。一度声が届けば、話は早いはずだと思う。
でも最初から、投げていたのでは達成しないのも体験済みですよ。

窮鼠猫を噛むというのを知っていますよね。
われわれだって、ここまで追い詰められ、そのままにきたのは、
ひょっとしたらネズミの勇気にも、劣ってたかも知れないと。
身を守るのは鼠でもするんです。酷いことをすると相手に思ったなら、
われわれは、小動物以上のことをやり遂げる知恵と力を授かっています。
ましてや、ネコ対ネズミでもなく。同じ人間同士として言葉があるんです。
声に出さないと相手に伝わらないのは、ここでも同じなんだと。
それだけです。黙ってしまったら、これは続くだけですから。
働きかけるというのは、してもらうことだけじゃ済まないんです。
自分で、自らそれを行うのとで一対になっていますから。
だから、相手とこちらという、そういう関係が、そこにあるし。
これはコミュニケーションという関係性なんですよということです。










なぜしなくていいこと、してはいけない働きかけを、ひとはするのだろうか。

2019年12月03日 | 日記


病気や障害というのは、その何かを呼んでいるところの名前の意味でしかない。本来的にそういう内容が、本当に病んでいると言えるのか。あるいは、非可逆的に固定したような状態で、そのままに継続をして続く相手かどうかというのも、実は付き合い方で決まる問題なのである。更には、それらの特性について、こうしたものが好ましい出来事か、それとも不都合と見做すべき現象かというのも、多くの場合、その人の暮らす社会や文化の状態、要するに時と次第によってなのであるが。その扱い方も、著しい左右を被る、という結果になる訳だ。



これは何事であれ誰しもが、その当該の立場におかれてみると経験するのだが。そうした時代の都合や社会の背景と、無縁な世界に生きていきたいと願っても、周囲からの要請というものは、これを簡単に放っておいてくれないのが現実だ。自分の思いだけで決めていこうとしても、世間というのは実にお節介に働き掛けてくる。しかも、悔しいことに知らない間に自分の内側へも世の習いというものが染み込んでしまっているから堪らない。これが蝕むようにして自分の判断をすら歪ませてくるし。自分の抱える不都合は、単に自分が困るだけに留まらず、不都合な一面を持っている自分の存在そのものが、疎ましかったり、ネガティブに感じられたりしてしまう。そういう不条理な辛さを味わう目になるので、本人としてはそこを苦しむという悩みに襲われる。



しかし、事実として、それが在るというのは動かし得ないのだし。これを、見たくない、考えたくない、と強く思ってみても、けっして消えもしないし、否定できる訳でもない。嫌なことは、忘れてしまえば、済むものなのかといえば、それを忘れたつもりと、これが消えてなくなるは、まったくの別問題な話であって。認めることを拒みたいからと言って、その味わいたくない苦みを打ち消すための強硬手段の一助に、作り事の世界を創作せんと企てようと試みるとか、またこれを構築し続ける仕事へどれほど精魂傾け頑張り励んでみても、そういう目先の取って付けた下手知恵で戦おうという戦法は、結局は徒労に終わる話なのだ。そんな無理矢理な解決策には、キチンとした実効性が備わっているとはおよそ考えられないのだし。そうして必要に迫られ急ごしらえされてくる妄想というのは、これも確かに願望かも知れないが、所詮は虚構の産物であるからにして、これを用いるようでは周囲との折り合いは持てなくなる。いや畢竟、その隠れ蓑を使った戦術が、自分としては武装手段のつもりだとしても。これはしくじる。それが鎧と盾にできたとしても、この場合に戦うべき相手というのは、周りの外の世界に敵がいる意味ではないのである。正確には現実の持っている厳しさに、迂闊にも尻尾を巻いてしまっている己の弱味こそが、実は征服をしなきゃならない相手だから。鎧兜の中に立てこもり孤立無援に暴れようとしてみても、その解決策のつもりで打つ手は、自問自答するが如く、剣も矢羽根も全部がひっくるめて自分に返され、自分の刃に痛めつけられるのは己の身になるだけなのだ。



要は、初っ端の時点で、認めたくない事実という苦くて嫌な不味さを、これは避けて通れば済むことだという、その見込みそのものに、そもそも甘さがあった訳なのだ。



急がば回れである。せっかちな答えで遣り過ごそうという手抜きは、やっぱりそういう結果を招く。骨が折れるようだが、折らないといけない場合は、膝を正して厭わない生き方をするべきなのである。一度、折れた骨というのは、癒えて繋がったときには、折れる前より強くなる。そういうことである。



だが、この場合の本人を取り囲む諸兄に申し述べておくが、彼ら彼女らの弱さというのは、どこの誰からも責められる筋合いもなければ、何人からも咎め立てをされるような謂れは。どこにも、微塵もないことなのである。だから今ここで、貴方に問うことにする。貴方がそうしない、そうならない。という場合に。そこで避けられているのが貴方の手柄かと尋ねたなら。これは、とてもそんな話ではないのである。たまたまの、巡り合わせ、偶然の幸運が、あなたをして、そう導いてきただけの話に過ぎない。それこそ風の向きが違っただけで、あなたの力が及ばなくなり、あなたも同じことをしているのだから。いいですか。できない人に、できないことを迫る世間があるからこそ、彼ら彼女らは、そこで窮地に立たされているのです。頑張れと言って無理をさせると、その無慈悲な押しが相手を二度と立ち上がれないような状況へと追い込んでしまう。追い込まれるから、出てこられない相手に、それは行ってもいいような仕打ちなのでしょうか。



叩かれて死にかけている者に、死んじゃいけないと、引っぱたいたら、その一撃は命取りにしかならないのですよ。心臓が停止したら、蘇生させる目的で胸部をリズミカルに押すことがある。でも、肋骨を砕き、心臓を潰す強さで押し込めば、二度と生き返らせない条件を用意するだけになりますから。



むしろ、何もしない風で、丸で何の働き掛けもしないみたいで、だけど見失わず、絶対に見捨てたりもせず、いつも常に見届け続ける、そういう心意気を持ちつつ。その人々が始め出して動きだし、順調に任せ切れる時が来るところまで、これを粘り強く待ち焦がれ続け。いつも彼ら彼女らの傍らに居ながら気長に付き合えることに満足を覚える、そんな眼差しを向けて、見守り続ける強さを、ずうっとずうっと惜しみなく持ち堪えられること。その働きかけが一番に大事で必要なのです。また一番、今のわれわれの姿勢に欠けてしまっている部分が、そこなのです。育てるということは、仕向けることとは真反対です。どこまでも最大限に寄り添いながら、だけどせっかちに働き掛けて手を出そうという安易を退けて、傍らに居続けて働き掛けて、でも手を出すとか口を挟むという手を抜いた関わり方をしないという一番に骨の折れる仕事が、そこに求められているのですが。これを忘れてしまうから、育つ人が、育ちえない。救われる人が見捨てられていく。そういうことがおきてしまうのです。育つ力というのは、すべて、本来から、既にそのなかに宿している。そう、それは種に芽を出す力があり、命に息吹きする力があるのは、そこで。これは育てる人、育む者が、何かそこで与えたりするから、それがおこってくるものではないのです。育てる側が、育む働きかけが、何かでここを台無しにしない限り、それらは発揮をされるように、そもそもそこにそれがあることなのですから。



命は作れるものじゃないし、生み出せるものでもない。そこにある命とは、それが発揮させられることを秘めながら、拒まれない世界に生きようと待ちわびているのが、もしかして命です。