いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

ないものを探してるひと あるものを見付けてくるひと

2023年03月25日 | 日記


いつも何か探し求めているような人で、

なんだかどうも順番をとばしたみたいに、

唐突な飛躍をした憧れ追い求める。

そういうときって、

うっかりして、見たくないものから、

自分が目をそらしたいから、

知らず知らずに、そうなってることが。

でも、着実・地道な歩み方っていうのは、

むしろ、そこらへんが違っていて、

仮にいまそこに、まだないものを、

探している場合にだって。いまあるものから、

足掛かりになるものを、見付けだしてきて、

まずここに一歩目を運ぶという。

そういう確かさを発揮するひとがある。

そんな賢さが持てる人間になりたいもんだと。

そう私も願ってみたりします。

それって、やっぱり見たくないものから、

逃れるために、目を瞑って達成をしようか。

それとも、それ克服してこそ、順番が叶ってるか。

そこのところの見極めなんだと思う。

だから、ある意味、愚直に構えてこそ。

そっちが実るのかもなあ。

かっこうは悪くても、カメやカタツムリたちが、

飛んだり、跳ねたり、できなくても・・みたいな。

そんな気もするんだなあ。

ということはだよ。

嫌なことでも、自分に巡ってきたものは、

逃げ出したくなっても、引き受ける。

そこの心積もりだしさ。

弱っちい自分が、そこを為すにはだよ。

やっぱり孤立無援なんかじゃなく。

励まされたり、愚痴も聞いてくれる。

そういう支援を活かせるような立ち位置を、

まずは固めておくことこそが、遠いようで、

一番に大事なことなんだろな。

そこは迷惑かけてるんじゃないんだからね。

むしろ、自分を励ます入り口から、

遠ざかれば遠ざかるほど、

のちのち自分にも、またひいては周囲にだって。

解決に骨折れる訳だから。





褒めること、叱ること、の結果?

2022年06月15日 | 日記



褒めるべきか、叱るべきか、



ふとあることに気が付きました。

前置きから、まず書いておくのですが、

以下、すこしお付き合いのほどヨロシク。



私たちの身の回りには、

実に、いろいろな物事があります。

たとえ、それがどんな何であろうと、

「ひと」というものが生きていくのなら、

自分が遭遇をしたところの、相手であっても、

また出来事にしても同様ですが。

それらにつきまして、その人というのは、

自分の選びによって試行錯誤をするであろうし、

考えてみたり、決めたりをしていくことですが。

すなわち、そこでの選択の仕方というものが、

その人らしさの独自性も醸し出しきますし、

それらが、生き方として現れてくる訳ですね。

当然、そこで用いる自分なりの価値観だとか、

判断力などが、そのなかへ実を結ぶかっこうで、

その人をして、その人らしい人生を、

歩ませていくし、活きさせているという話です。

さて、前置きは、そういうことなのですが。



私が、ふと気付いたのは、次のようなことです。



あるひとが、物事を選ばなきゃいけない、

そういう分岐点に立っていると、

そう思ってみてください。



そのひとが、そこで何かを選ぶときにですが。

もし、このひとが、なにが駄目で良くないか、

それを知っている人という場合と。

何が大事で、どこを大切にすべきか、

そっちを心得ている人だというケースと。

この二つに分けてみたとしたら、

それらの違いがどうなってくるでしょうか。

そういう想定にして考えてみることにしますが。



まず、どれじゃ駄目で良くないのか。

これが飲み込めている人というのは、

ダメなものは除けるし、

不味いことを避けるだろうというのは、

まあ、それなりに行うにしても、

本当に自分にプラスになるような。

そういう選び方で、何かを手にするのでしょうか。

確かに避け上手、逃げ上手な、そこの点は認めます。

でも、もしかして困難の向こうに目的地があって、

その目的地を、果たして目指したりはするのでしょうか。



はい。もう、お気づきかもしれません。

そうなんです。何が大事で、

どういうものを大切にすべきかを、

そこを知っている人というのはですよ。

目の前にある自分が出くわすであろう、

そうした困難さについて、いち早く気が付き、

これを回避する器用さで敏捷でもないし、

ある範囲、疎い行動にもならざるを得ない。

でも何を目指せばいいのか知っていますから、

多少の困難が仮に伴う話であったにしても、

まあ、そこは愚直にとでも申しましょうか。

自身の目前の難敵を避けることよりは、

もっと先にある目指すべきものを指向します。

まだ求めるものは、手中にはしていないけど、

すでに狙いをつけて、もう見定めているのです。

このひとは、自分の求めるところへ、

すこしでも近付こうと、迫ろうとしており、

まだまだ先に進もうとするはずですよね。



その結果、この両者がどうなるのかといえば。

ダメなもの、良くないものが嗅ぎ分けられるより、

本来的に大事にすべきものを知っていたほうが、

何かを手に入れるには、賢い行動をするのです。



何を求めるべきかを正しくマッピングしていけば、

何をしたら、うまく行かなかったかというのも、

自動的に学ぶであろうプロセスとして含みます。

でも、どれが不味い、何がダメか、それだけでは、

目前の困難イコール避けるべき課題にしか映らない。



どういうのがダメだよと詳しく説いてあげても、

もし、それだけしか身につけていかなければ、

最終的に狙うべきものを見定めて掴み取るまでは、

到達などできないし、届く日が来ることもない。



目の前の人間に対して、ただただ詰まらなく、

それでは、駄目だと指摘しているだけなら、

不味いこと上手くないことを避けたり除けたりは、

身に着けられて、避け方の上手さは学べるかも。

でも、人生が何を築けるか、そっちが肝とすれば、

その人でも、消去法で残ったものを手にするとして。

目指すところまで、いつか辿り着くというのは、

かなり偶然な行き当りばったりに低い確率だろうし。

手にしたものの価値を推し量ることもできない。



目指すべきものを求めようとする感覚を、

もし少しでも強化させてやろうと思ったら、

それは良いことや、いま出来ている大事なことを、

それが尊いものだと気が付かせてあげるべきです。

その人が大事なものを知るということは、

良きことを褒められた体験ができた部分と、

きっと実に密接にリンクするはずです。



人というのが、何を入力されたら、

どういう生き方を選ぶようになるかが、

ここにあるんだなあと、そう思ったのです。

ひとは、きっと、そのようにして、

自分の人生を処していくことになるのです。

相手に対して、どう関わるかというのは、

結果そういう人生上の選び方をすることに繋がる。



そこが実際の人生なんだろうなと思う。

答案用紙の三択問題だったら、

消去法で解答を正解にすることが可能でも、

人生なんて

「人間の数」×「選択の可能性」=「ほぼ無限大」

これではダメ潰しから正解に辿り着くというのも、

限りなく小さな確率になることでしょう。



つまり、これがダメなことを叱る方法や、

学校で身につけさせる教え方だけでは、

一番に、欠けてしまうところになるんでしょうね。



要はダメダメ情報の列挙もこれなんですよ、きっとね。






忘れがちなこと

2022年04月27日 | 日記



某放送局の制作によって「ひきこもり」にまつわる事件を取り上げるかたちで、それをルポルタージュの形式にまとめた番組にして、TVで放映されたものがありました。本放送は昨年冬でしたが、これを録画しディスクにしたものを、家族が知人に貸してもらったので、私も一緒に視聴する機会がありました。

そこには支援が不十分で、本人の衰弱死という結果があったのですが。これが何ともはや真正直にというか、「あっけらかん」とでも言いたくなるような映し出され方にされており、こういう表現は番組のあり方としても、その適切性を疑いたくなるし。また報道の自由という観点から、何か物を言うつもりなら、そこは自ずと義務と責任の両輪を踏まえてしかるべきですが。これは、それすら履き違えた野放図な取り上げ方と叱られてもしょうがないような配慮のなさも感じました。

ただ、陰口を文言にし、ここへ長々書き連ねてみたところで仕方ないことで。

私の手で、ここへ記そうと思うのは、おそらく多くの人が番組を見ながらも、ほぼ見落としたであろうことを、私なりの視点から書いてみることにします。

なので、今回ここに、こんな書き出しで、こう取り上げてみた次第でありますが。
そういう訳ですから、早速そちらの本題へと、まずは内容を転じようと思います。
どうか、しばらくの間、私の話にお付き合いください。


顕著に、あの放送のなかにも、伺える「あるもの」なんですが。
それは、意外と多くの人々が、「このこと」について考えずに、物事の組み立てをしようとする、あるひとつの「忘れ事」に関した部分についてなんです。

こんな持って回った言い方で中身が通じるはずもありませんから、具体例にしてお伝えしてみることにします。

例えば、ちょっと外出してお昼休みの食事にでも出るときを想像してみてください。
今日は、どこそこの「うどん屋」へ行って昼飯にしようと思ったとします。
もし、行ってみて休みであったら、別の考えが必要になるのは言うまでもありません。仮に休業日だったら、コンビニで買い物をしてこようというのもありです。
でも、そこをウッカリ代りになる案を持たずに遂行していたとしたら、これは下手すれば食事をし損ねる話になるのも見えていることです。
というか、どこで何を食べるかよりも、いかに昼食を入手するか、こちらの方こそ、この場合の核心になる部分のはずです。
もし遠くに出かけるとして、開いているか開いていないかを確かめる方法もなければ、また別の店なんかが周辺にないようなポツンと山中に一軒だけあるお店だったら、これはどういう結末になるでしょうか。
喰いはぐれるだけじゃなくて、空腹で動けなくなって、山の中で遭難しかけることになる危険さえ隣り合わせかも知れないですよね。

どんなことでもそうですが、もし仮に計画通りにいかなくても、その場合は、どうすれば困らないで済むのか。そういった下準備というか、ひとつの含みは常に用意をしておかないと不味いことになる場合は、よくあるものです。

何か商売の上で投機を考えたときでも、狙い通りなら儲かるはずだというのは当たり前だとしても。狙ったことが目算通りに行かない状況も視野に入れておかなければ、遠からず事業は失敗、立ち行かなくなるに違いありません。

上手くいけば儲かるから、だけで考えていたら博打打ちと同じくで、いつかはスッテンテンに身包み剥がれて借金まで抱えることになる意味です。

端的にはリスクの管理のようでもあるが、でもただそれだけではない。つまり、狙ってみるというのがチャレンジとして間違いだとは思いません。ただそこは、すべての事柄について、後先考えない捨て身のような一か八か式だけで決めていけば、それが思うように叶うことならいいとして、そいつが望み通りにはいかない場合も、そのときはコレコレシカジカにしておくという。これはどこかに必ず怠りなく備えをしておかないと、それは迂闊にすぎる人生設計でしかありません。

また、自分の努力でどうにかしようというのだって、一定のノウハウの持ち合わせがあって、はじめて実行ができるのであり、どうしていいかが皆目これを自分で分からない人なのに、それを頑張ればどうにかなるというのは、乱暴すぎた頭の使い方です。

そんな飛躍した論法によって世渡りができるほど、現実というのは絵空事の中にあるお話ではないですから。これでは直に息詰まるに違いないのも目に見えています。

つまりそこなんです。誰のどんなことであれ、何かに挑んでみようというのは、必ずそれは、できなかった場合も、見え隠れしつつ付いてまわるということなんですから。

頑張って試験を受けてみようと、この話と表裏一体にくっ着いてくるというのは、だから合格した場合は、こうなります、と同時に、不合格の場合は、こういう対処にしよう、それを考えおかなければ手抜かりです。
ここには、そういった少なくとも二つの面のいずれかが、すぐこれから出てくる、そうした可能性の分岐路にいるんだ。その状況にあるぞと、これが、こうしたことに認めうる局面なのです。

成功を夢見て何かを企てようというのも、成功に結び付かなかったら、その場合どこに繋げていけばいいのか。といった具合に、必ずそれは、こういった物事に着いて来ていて切り離しようがない、現実の事柄の持ち合わせた中身だということです。
でもなぜか、ひとは叶った場合は、どうなるけれど、もうただただこれのみで、これだけを頼りに、多くの計画を平気な顔してやってしまう。そういうのが、意外とあったりしますよね。

クルマで行けば、早いし、楽だよ。けれど状況次第では、不測の出来事にも遭遇をするのです。それを頭のどこかに間違いなく用意しているかどうかなのです。

ゲームやスポーツなら万が一に賭けて思い切って楽しみを爆発させてみるのも面白いかもしれません。でもホンコの実人生を、そんな使い方をしていたのでは命がいくつあっても足りません。

もし一か八かに賭けて挑んでみて、悪くすれば、それで破産をしてしまうというのであれば、これはもはや遊びとか遊興の範囲なんかじゃないんですから。それは、れっきとした博打も博打の紛れもない大博打な賭け事に当てはまることなのです。それを口先で言いくるめるなんて、現実の社会の性質上これは通用しません。

まあ、ともかく物事これから何かしてみよう、そういう場合に、これは、それが出来たという状況と、できなかったという状況と、必ずどっちか間違いなくやってきてしまいますから。
何かが、できたという場合だけ、思い描いていたら、片手落ちがあまりにも酷すぎるんです。

やってみて、できなかった、というのだって。また、やってみればいい。

そうでしょうか。すべての場合に。

これも、そういうものばかりだとは限らないことです。
できなかったというのを、キチンと引き受けた上で、
次なるまったく別のものへ変更するほうに運ぶというのが、
正しい選択肢の選び方である、そうした場合もよくあるのです。

これは、諦めを含むようでもあるけれど。
もっと別のことを、始めなくてはいけない場合に、
単純な諦めだけではなくて、
新たな始まりに着手するスタートをも孕んでいますから、
シクジリというよりも、
それは新規な更なる決意にも結ばれる事柄です。
それを自前でこしらえる気概あってこそのチャレンジで。
手の届くところに、自分で手を伸ばす用意があって、
はじめて何かに挑むという行為が裏打ちされてくるのです。

「上手くいかなかった」というのは失敗のようであって、
次に繋ぐ用意を始める「入り口」でもある。


ひとは、勝手なものだから、自分のことを棚に上げたみたいに、
周りに、こうしたら、ああしたら、
誰だって、そういう風に声を掛けるものです。

あなたの口から、
もし、こうやったら、こうなるはずだから。
こういう風にしてみなさい。
そういう声をかけたかったら。

これが、そうならず、そうしてみても、そうできなかったら、
その時には、これこれ、こういうことも、考えておきなさいを、
本来なら、伝えておくべきだったでしょう。

でも、もしその人から、そこを伝えてくれていなかったら、
これは、言われて試しにしてみた側で、
上手くいかなかった人間が、
その場合は、どうしたらいいか、これを考えなければなりません。

確かに、そういう望みの託し方というのも、
これは酷く一人合点な虫の良いご都合すぎる下心だと。

こうしたらいいんじゃないかと、
そうやって、できなかったら、どうしなきゃ、いけないんだ。

これは二つで一つの1セットではある。
でも、リスクをすべからく用意して、
これを手取り足取りしていたら、
これはこれで誰が誰の人生を生きているんだか、
よくわかりませんから。

問題は、生きてる人生、失敗すること含めて、
何かがうまくいかないことが、必ずやある訳です。
大事なのは、上手くいかなくて、
困ってる、悩んでる、苦しんでる。
そういう時に、どういう関りを周りが用意して、
接してあげることが、できるかどうかです。

それは、社会という成員を為すところの、
人間には必ず付いて回ることですから。

困ってないときは、自分でできることを、
自分がするように、していくことですが、
自力で解決できないことは、
ひとの助けであるし、周囲のサポートですから。

敢えて、困っていない人に、ああしろこうしろ、というより。
困ったときに、どう支えてあげられるか。
むしろ、そっちが力量としては、ひとの本分なんだろう。

これをなぜか、ヒトは忘れるようだ、というのが今回のお話でした。





新年ですね、私も60うん回目でしでし。。。

2022年01月01日 | 日記


年が明けました、いかがお過ごしですか?

私も家族とゆっくり暮らしつつお正月を味わっていますよ。

年末に私たち夫婦、そして妻の姉、それら姉妹の老いた母とで、
都合この4人連れになって、近所のレストランで会食しました。
最近これは私たちが毎月の恒例にしている昼食の集まりですが。

この食事会、年寄りから振舞ってもらう名目で開いておりますが、
定期的に、こういう形で催して、お互いに声を掛け合えばこそで、
この面子が顔を揃え会うという機会にもなったりしています。

別に近所に住んではいます。でも、特に何か用でもないと、
一緒の場所に集まるというのは、設定なしに起こりませんし。
ましてや、今どきの住宅事情。自分で住むには足りていても、
何人も集まれる部屋の用意だなんて、貧乏所帯には望み難く。

身内で集まり外食は、一見贅沢な人聞きに取られそうでも、
そこはむしろ現実というのは、真逆な話がありまして。
だから、これは貧困社会にこそ、社会資源が充実していないと、
そこの厳しさについて、なおさらに救われないことです。

それは表面的に物質的な恵みに満ち溢れているようでも、
それを作ったり、運んだり、提供するための人々が、
それなしで生活は立ち行かない背景がある意味だし。

消費することが成立するというのは、そこでは、
使う側と、それを使ってもらう側で、一セットになり、
買いに行けば、売っていますというのも、同様で、
入り口と、その出口が、循環するように出来てます。

ここには選びようもなく、そこへ参加しないと、
誰しも、自分自身、生きること自体が行き詰まる。

仮に、私みたいに、ほとんど外出すらも少ない人間でも、
この社会のおかげで生活をしつつ、生活するから社会は、
こういう為し方で、自ずと為されいくという話です。

家にいる時間ばかりで、特段そこで社会との繋がりは、
薄いんじゃないかと考えちゃうけど、そうでもなくて、
街の中で生きてる以上、毎月まいつき私一人だけで、
直接間接に、金銭にして数十万の経済が生じてくる。

確かに、自分の手元で動いたお金は、10何万でしょ。
でも、医療にかかっても、自己負担こそ低額でも、
健康保険にしても、自立支援にしても、私一人は、
たかが知れてますが、こういう人間が一定割合で、
こうして居ること自体で、他の人たちの生活に繋がる。
その繋がった流れというので、世の中の動きを形作ってる。

正月早々、大風呂敷ではありませんが。
誰もが、そこに、そのようにして、ある。
そこに生きる。生活するということ、そのものが、
取りも直さず、この社会の成り立ちと、分け隔てようなく、
それ含んで、全てみんなみんな含み込んだ上で、
この地上の生活の一助を為して世界がある。
というお話でした。

だから、そのひと個人が何をするか、しないかと。
それは別の意味で、あなたも、そうやって、
生きていてください。あなたが生きていることが、
別の誰かを養う足しにもなるし、その人がいることで、
ほかの人も、今こうして、共に地上に、
こうしてあることが、できている。

そういう壮大で遠大なお話でした。

またね。今年もどうぞ宜しく。
旧年中は、ありがとさんでしたん~んんん!!!

 


蛇足として、でも、とやかく言って、
何があっても、文句や小言で、注文や要求が、
好きで好きで、大好きで止まない連中も、
そういう事で、そういう役割を務める立場を、
そのようにして帯びていることで、自己実現しとるんちゃう?
 まあ、ええよ。正月だし。好きにさせたるっちゃ。



はたして目標の達成がゴールでいいのだろうか?

2021年12月01日 | 日記


どうも行き成り奇妙なタイトルなのですが。
つらつら考えていて、あることに私は気が付きました。

例えば、病気って治すことを考えて、取り組むものですが。
じゃあ、それで病気を治せたらホントに解決しますかね?
もしも、そこで取組中の疾病を治せたというのならば、
これで所期の目的については、一旦の達成をするにしても。
ただ、病気なんて、いくらでも他にたくさんあるんです。
また治った病気についてだって、再発がおきたりもするし、
いずれまた違った疾患を被るみたいなのも、よくあります。
さらには、病気というのは治せるものばかりとは限りません。

その場合は、病気を治せなくても、いかに付き合いながらで、
これから暮らしていこうかという話になりますけど。
もし仮に治せるような病気の場合にだって、
治るまでは、どう付き合って過ごすかなんですし。

まあ、なかには極端な考え方が好みのひとになると、
とにかく万全て病気が無くなりさえすれば、それでいいんだって。
そこまで拡大したがる向きも、結構おありでしょう。

じゃ、本当に病気の状態というのが、世界から消え失せたら、
それで究極ゴールになるのかと、そう思ってもいいかと問うなら。
私は、そういう風にならないだろうって思うんです。

いうなれば、何か一つ解決をしたら、また違う何かに新たに取り組む。
そういう何かが、必ずまた立ち上るようにして現れてきますからね。
要は、目先の敵を倒したら、次なる敵がまたやってくる。
そういう繰り返しが必ず来るのが現実と思ったほうが賢いです。

つまり取り組んでいくっていう、その何か相手というものは、
ぜ~んぶ当面の課題が、今はそいつだってことですよ。
それらは取り敢えず仮初めの目標に考えておくべきだって。
ええ。それは当たり前といえば、そうなのですが。

私が気が付いたと思っていることはですね。
何か目標を打ち立てて、
その何かをクリアしていこうとするのが、
これが生きるってことなんだという、
このスタンスそのものが、そもそも勘違いなんじゃないか。
錯誤して据えているだけじゃあないかって、
こっちの部分へ自分の目が行くんです。

つまり、何度ゴールを潜ってみても、次のゴールがあるだなんて。
それは結局ゴールなんかじゃないですから。
せめて障害物競技のハードル程度なことですよ。
まあ、陸上競技のトラックには、ゴールがありますよね。

でも、人生はそういう枠の設け方で言ったら、
もう少し違うスパンのあることだとも言えますし。
それはだから、無理をして競技になぞらえるとしたら、
そこは、いかにゴールに辿り着くかという面より、
この競技大会に参加したか、しなかったかの方が、
むしろ重要な眼目だと見るべきかもしれません。
そう金か銀か銅かの話じゃなくて、
自分はコースに出たか、出なかったか、みたいな。

多くの人は、へたな拝金主義で生きていれば、
悪くすると、その成果物で、意義や価値を考えるんで。
そのせいで勝ちか、負けか、そっちにだけ目が行くけど。

そういうのは結果の話として、取りようによっては、
そういう意味にも取れるに過ぎないだけなんで。
むしろ単純に並べて一様に比較をしてみるほど、
一人ひとりの人間の人生なんて単純化するのが不可能です。
それは言ってみれば、様々なジャンルがある音楽を、
どれが一番優れた曲でしょうかって、尋ねるような。
設問そのものが、「おまえ、音楽が何か知らないのか?」
そうセンスを疑われるような感性欠如な思考ですよね。

だから、一人ひとりが生きている人生というのは、
これを考えるとしたら、それはやはり、
どう楽しんだかとか、どう意義深く過ごせたのか。
それで何を経験できたか、やってみて、どんなことを味わえたか。

人生において、何を得られたかの中身とは、
これは、そっちの方だろって思いますよ。

だから、どういう目標をクリアできたかではないんで。
そもそもが、一人ひとりで違うことに勤しんで、
各々は、それぞれ別個の人生に挑んでいるんだから、
これは他との比較で評価できるような意味合いが、
ここには初めからあることじゃない、
個々の独自性に類した中身が本質ですから。

それは冒頭タイトルの、ゴールへ到達する問題じゃなく、
私は、こういうコースを走ってきました。
そうですか、自分は、どこの海を泳いできたんですよ。
ああそうですか。私たちは、あの山を登りましたから。
ほお、いいですなあ。私はそこの川を楽しんできました。
いやあ、私もそこに魅力はあったんですが、キャンプが好きで。

そういう多種多様が、比較して分かるというのが、
むしろ、われわれの生きている、意味だと思うんです。

さてと、近所にお買い物に行ってきましょう。
今夜は何を作って、カミさんを待ちますかねえ。

日が暮れるの早くなりましたから。
急がなきゃ。

じゃ、また。