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夢千年のナチュラル・ライフ

オーガニックな暮らしを求めて、愛知県の作手高原へ一家で移住して15年。スローライフ&スローフード実践中!

東日本大震災・フクシマから9ヶ月半

2012年01月02日 | 東日本大震災 復興支援
東日本大震災・フクシマから9ヶ月半
どんなに冬が長く厳しくても、
春があまりに遠くにあろうとも、
春の来ない冬はなかった。
・・・・・・・・・・しかし、
どんな春かが問われている。



予期もしない、望みもしない死を、突然迎えることになった
2万人にも達しようかというひとびと、瞬きする間もなく壊滅した町並み、
見るかげもなく荒廃した国土、そしてフクシマ。
3月11日は、私たちから何もかもを奪い去った。

あのテレビからあふれ出たリアルタイムの映像に、衝撃をうけなかった人はいない。
この世の現実とも思えなかった。
それが自分の現実だったらと、身体の芯まで凍りつくような恐怖を感じながら、
みんな想いを馳せたにちがいなかった。


あれよあれよと言う暇もなく、ひとの命も、家も、商店も、工場も、港も、役所も、
何もかもが、荒れ狂う水にさらわれていった。
ほんの少し前まで、ひとびとの日常があったのに、津波が収まると、そこは賽の河原に変わっていた。

私たちの支援は、生き延びたひとたちに、一瞬でもいいから、ホッとしてもらいたい、から始まった。
あの惨状を知って、それ以上のことができるような気がしなかった。


(写真)生口島の風景

日本ではじめてレモンを栽培してきた、瀬戸内海の島生口島には、
農薬も何も使わずかんきつ類を育てているひとたちがいて、季節の最後に、今、山に残っているものは、
ひとつ残らず被災地の人たちに食べてもらっていいと申し出があった。


愛知の山の中から、トラックと大型のバンとで、一晩中走って、朝早く現地に着き、
早速全員で収穫して満杯に積み込んだら、今度は1300kmナイトランして、翌朝被災地に入った。


隣町の登米市に避難してきている南三陸町の人たち百人あまりに、最初のミカンを届けた。
大きな安政柑を両手に抱えるようにして、涙ぐんだ女性が忘れられない。
一日かかって、地域ごとに分散した避難所に届けて回った。

事態を受け止めることさえ難しくて、何も手につかず、
呆然と立ち尽くしているひとたちの姿の多さに、
私たちの想像の及ばない経験が存在したと感じるばかりだった。


かんきつ類の全てを配り終えて、私たちははじめて、被災地に入った。
二晩寝ないで走ってきて、当面の目標をはたして、のどかな早春の山里をドライブしながら、
私たちの会話は、一仕事終わったような気分だったような気がする。
右カーブを曲がり下り、さらに左にカーブした途端、目の前に拡がり、見たものは、
私がヒロシマで経験した、何もかもが焼き尽くされたモノより、はるかに生々しく、


ただただ凝視する以外にはない、地獄というものがあるとすれば、まさにこのようなもののことだと思った。
誰もが言葉を失った。
誰が言うでもなく、辛うじて車を寄せられる場所に車を止めて、現場に立ち、ただ何かしら祈った。
営々と築き上げてきたもの、積み重ねてきたもの、ひとびとの日常といっしょに、全て破壊されていた。
ヒロシマと同じだった。
コウベもそうだった。

それぞれの土地には、その土地だけの魂があり、場の生命があった。
そこにひとびとの長い年月をかけて培った暮らしがあり、言葉があり、
伝統と歴史が形成され、その土地だけの文化にまで高められてきた。
志津川は志津川だし、歌津は歌津、女川は女川、田老は田老だった。
http://blog.goo.ne.jp/salonedelmonte/e/d6764538681a5364abec3da24b26c16b

1896年と1933年の、二度の大津波を経験した三陸地方が、津波の怖さを知らなかったのではない。
事実、港湾や海岸のいたるところに、高さ10mを超えるような、防潮堤や防波堤が築かれて、
ひとびとは安心しきっていたとも言えるかもしれない。
鉄筋コンクリートの防災センターや、避難所もつくられて、町は安全なはずだった。
21世紀世界は、情報時代と言われて、確実な情報が瞬時に、どこまでも届く手はずだった。
ひとびとは守られていて、安全だと信じていたのではなかったか。


甚大な被害を伴う災害とは、常に想定外の規模で発生するから、大災害なのではないか。
それに備えるためにこそ、学術研究の専門家があり、政治の、経済の、産業の、
各種専門分野の専門家が存在したのではないか。
それらの膨大な叡智と尽力と、投下された多大な資金の結晶が、長年の念願だった、
さまざまな防災施設の数々ではなかったか。
ひとびとの生命や財産を護り、文化や伝統を維持発展させるために、
それらの専門家の職責があったのではないか。

何回か夜走りして通い、現場に立ち、現場を巡りながら、
私たちの支援の方向と形が、次第にはっきりしてきた。
当面の急務である、瓦礫や屋内の泥の片付けや、物的支援、炊き出しではなく、
このような悲劇を繰り返さないために、天災が人災にならないために、
この生きた現場から、洗いざらい学びつくすこと、次のために準備すること、
を中心の柱に据えることにした。その上でもう一度現場に立ち戻り、
真の復興再生とは、誰が、何を、どうすることかを、自らに問い、余さず学び取り、
共に考え、共に働き、共に答を模索することにした。
同時にそれらが、長い年月を必要とするであろうことから、継続的な支援の道を探ることともした。

成功したとは言えないが、私たちがいち早く、現地の山の木を使って、
現地のひとびとの協働によって、短期的な仮設住宅ではない、
永住も可能な復興住宅の提案をしたのは、私たちの方針の、ひとつの具現化だった。


しかし被災地の現状は、まだまだ復興というには、程遠い。
大手企業や、コンビニが、いち早く再開しているのに反して、市民の暮らしは、
まだ方向さえ定まらないでいる。
それでも正月は、来てしまった。


大震災以後9ヵ月半、「想定外」の一語によって、職務に伴う責任の何もかもが
問われることもない現状は、失われたものの大きさを思うにつけ、
不可思議きわまりない事態と言わざるを得ない。
また同時に、想像することも不可能な喪失の真っ只中にあるひとびとと、
ほとんど何も喪失しなかったに等しい善良なひとびととを、「絆」の一語でくくって、
生暖かい空気で包み込もうとするマスコミや、言葉で生きるひとたちの、安直な危うさも、
何かを生み出すエネルギーになるとも思えない。


復興とは、あの望まない死を遂げたひとびとの無念さや、希望や、夢や、志を、
体現するものでなければならず、それらのひとびとの累々たる亡骸の上に構築されることを忘れてはならず、
それ故に、生き残った者たちの目の前の利益に奉仕するものであってはならず、
ましてや巨大災害や、それがひき起こした大悲劇を、
願ってもないビジネスチャンスとみなすような者たちの荒稼ぎを許すようなものであってはならない。

疲労困憊の極にある現地のひとびとにとって、真の支援とは、
そのような復興への長い道のりの同行者であり続けることではないか。
どこにいようと、「明日はわが身」の私たちの支援は、自助に対する共助の形をとって、
今始まったばかりだと、私たちは自分の心に誓う。
そして、共に誓い合えるひとびとの輪が、もっともっと大きく強固になっていくことを、心の底から願っている。


フクシマでは、もっと無責任なことが、起き続けている。
いちばん伝えられなければならない情報が、隠蔽され続けてきた。
形も見えず、無味無臭の放射線に、怯えることさえ知らないままに、
ひとびとはなすすべを知らず、何も知らされないで右往左往してきた。
もう10ヵ所以上も、避難先を移り歩いているひとたちがある。
この先がどうなるのかもわからない。何も見えない暗黒の中にいる。
住み慣れた家に戻りたい、と願っていても、それが実現しないのかもしれないと、
限りない不安にさいなまれている。
口先だけの安心が、振り撒かれている。
外部被曝のこともよくわからないまま、内部被曝も、はっきりと知らされないままに、進行している。
この先、何がどうなるのか、何年続くのか、何十年なのかもわからない。

ヒロシマ、ナガサキ、フクシマと、世界で日本だけが経験した、この深刻な放射能被害に、
国や県や専門家たちの、真剣に対応しようとする真摯な姿勢や対応を、誰も感じていない。
究極の無責任が続いている。

私たち日本人は2011年、国家から、行政から、経済界、政界、産業界、学問研究の世界から、
棄民されたと言っても、過言ではない。

私たちは、自立して、自律的に、協働して生きるよう求められている。
原発が要らないのなら、自分たちの力で、それを取り除くようにしなければならないと、私たちは教えられた。
誰かにお願いすればいい、のではないと教えられた。

自助と共助の輪を広げよう。

春の来ない冬はない、としても、どんな春を迎えるかが問われている。
無責任で、その場しのぎの、投げやりな春を迎えるくらいなら、まだ冬の寒さに耐えることを選ぼう。


東日本大震災から1年目の3月10日には、現地から遠い愛知県でも、これから続く長い支援のための
「菜の花コンサート」が開かれる。
私たちはここでも、既に風化し始めた東日本大震災やフクシマが、まだ何も終わっていないことを、
多くの人々に伝え、明日はわが身と覚悟を新たにし、東日本大震災やフクシマへの継続的支援が、
遠くないいつの日か、そのまま自分たちに跳ね返ってくることに、豊かな感性を働かせるよう呼びかける。




共助は、いつかは自助になる。

そして、春が来る。



text by 黒田武儀

「山の力」webマガジンをご覧ください。
http://yamanochikara.com/column/2905/


東日本大震災7ヵ月 現地からの報告

2011年10月18日 | 東日本大震災 復興支援
黒田です。
東日本大震災7ヵ月の、現場からの報告、をお届けします。
大震災から7ヵ月を経て、厳しい冬を間近にして、いろいろな動きが出てきています。
また、見えてきたこともあります。
ごいっしょに、このような大災害に、どう対応し、
対処したらいいか、考えたいと思います。
ご一読ください。



東日本大震災7ヵ月、現場からの報告


千年に一度の大災害には、
1000年後の暮らしを見据えた対処と対応が、必要なのかもしれない
見渡す限りの荒野が広がり、所有者があり勝手に処分できない
形骸となった自動車が、そこここに見える。


時に、小型漁船があったり、農機具の残骸が転がっている。
金属部分が真っ赤に錆び始めていて、7ヶ月の歳月を感じる。
あれだけあった瓦礫は、大分撤去が進んで、震災当時の、
あの生々しさと、あの鼻をつく匂いは、消えかけている。


日本で有数の穀倉地帯に、実りの秋は来なかった。
それでも、かけらほどにせよ、新しい発見があった。


海水と海砂と瓦礫に、滅茶苦茶にされた荒野の中に、異種の光景があった。
瓦礫に囲まれた小さな畑、青々と育ったダイコンなどの秋冬野菜。
そこだけが以前と同じ田んぼの、刈入れ直後の稲の株の列。
畦や水路を作り直そうとしている人たちの、軽トラックの群れ。


ささやかでも、部分的でも、ひとびとは動き出している。
1ヵ月前に比べたら、人の姿が見え、人の動きが感じられる。


そしてもうひとつの大きな発見は、
地盤沈下して、海水が溜まったままの水田群の広大な拡がりが、
バードサンクチュアリになっていたことだった。
人の姿が近くにないこととも重なって、水鳥たちの天国になっている。

生き物の存在を、身近に感じられるというのは、
ひとの気持ちをここまで高め、安らぎを与えるものかと、あらためて思い知った。
同時に、「そうか、ここはもともとそういう湿原だったんだ。
今ここに葦が生えはじめているように、もとはそういう場所だった。
川が氾濫すれば、遊水地となり、津波や高潮がくれば、
被害を最低限に食い止める、自然の防潮原だった。」とも思い至った。


これは、千年に一度の大災害に対する
私たちの対処のしかたを示唆する、重要な発見かもしれない。

川が氾濫して、しばしば水路が変わってきたように、
海もまた、津波や高潮で海岸線や氾濫原や遊水原を変化させて来たのではないか。
そして人々も、その変化に適応し、順応しながら、
次の千年の暮らしを築いたのではなかったか、と感じた。

近代の工業世界が築き上げてきた、コンクリートと鉄で、
自然を固定しようという考え方そのものが、今、厳しく問われているのではないだろうか。
田んぼの真ん中に、巨大なコンクリートの防潮堤の塊りが転がる
荒涼とした風景の中の、鳥たちの平和な生命の営みは、
不思議ではあるが、とても自然なものに感じられた。


津波に家財道具の全てを流されて廃屋となり、吹き込む風に、
引きちぎられたカーテンがはためき揺れるのを見るのは、何回見ても辛い。
そのすぐ近くの家では、波に突き破られた壁を補修し、
屋直しして、新しいアルミサッシュを入れている風景もある。


また今回目立ったのは、壊滅した被災地の元の場所に、
新築された住宅だった。
行政が、住宅再建予定地の計画を示しきれないまま、
以前建っていた場所に自宅を新築したのが目立った。
どれもこれも3ヶ月で完成するプレファブ住宅ばかりで、
心が痛むが、家も何もかも失い、避難所や仮設住宅で、
厳しい東北の冬を迎えることを思えば、
プレファブ住宅であろうとなんであろうと、我が家が嬉しいに決まっている。


阪神淡路大震災の後、神戸や芦屋の高級住宅街に
プレファブ住宅が林立していった光景を、
いま再びここで見ることになるであろうことは、容易に想像できる。



これから百年後、二百年後、三百年後の日本の家並み、
町並みが、人の暮らしの風景が、どうあればいいか、
どうありたいか、ライフスタイル、資源、環境、廃棄物、
健康などなどの視点から、きちんと議論されるべき時が来ている。
建築にたずさわる専門家は多い。事業者も多い。
そこに生き、暮らすことになる市民を交えて、
関係する広範囲な専門家たちや、関心を寄せる全ての人たちの手で、
議論を尽くし、実験し、持続可能な新しい方向性を見出すのは、今だと思う。
とりわけ住宅建築にかかわる、研究者やデザイナー、
建築家の奮起を促したい気持ちが、身体から
溢れそうになるのを押さえきれない想いだった。


破壊されつくして、枡形の土台だけが続く、
かつての住宅地の中に、ぽつんと取り残された全壊か半壊の家がある。
隣の家は流失して跡形もないのに、半壊の家が何軒か立ち並んでいたりする。
この違い、この差が、どこから生じたのか、
どんな原因や理由があって、そうなったのか。
誰も感じるその不思議を解明することは、
これもまた、千年に一度の大災害への、私たちの対処と対応を考える上で、
大きな示唆となるはずだと思っている。

同じ大災害による「壊滅」と言っても、
家も何もかもが失われてしまうのと、家屋の基本部分が残存しているのとでは、
復旧の容易さが違う。
地域の形から作り直すのは、地域に培われてきた
歴史や伝統をも、作り直すことを意味する。
津波は、家屋といっしょに、地域の文化を流し去ってしまう。
全てを失うのではない家づくり、街並みづくり、
町づくりを模索するときではないかと思う。
高台に、全ての住宅を移転させることなど、考えることはあっても、
実現することは困難だとわかっている。
それが町の復興、再建、再生とは違うものになることも、わかっている。
全く違う、新しいニュータウン建設になることが、わかっている。
できることなら、これまでの町を再生、復興させたいと、
みんな願っていることも、わかっている。


何回も通いつめて、千年に一度の大震災に対する、
私たちの対処や対応が、もっと自然への畏敬と敬意に立脚して、
圧倒的な自然の力に、膨大なコンクリートと鉄で対抗するのではなく、
自然を受け入れ、自然に従い、自然の命ずるように、
柔らかい受け止めかたに転換することが、実は、
できた試しもない「災害を完全に防ぐ」ことではなく、
「災害を最小限にとどめる」ための、
最善の処方箋ではないかと考えるようになった。

同じ津波を真っ向から受けて、辛うじて残った
家屋の仔細な調査と分析から、その原因と理由を探り出すことは、
今ならできる「被害の最小限をめざす、新しい対処と対応」への
基礎研究の根幹であり、出発点ともなると考えている。

今私たちが、全力を尽くすべきポイントが、はっきりしてきたように思う。
私たちが向かうべき方向と道が、見えて来はじめている。

膨大な作業が待っている。
中心になる人たち、いっしょに協働する多くの人びと、
組織、資金、どれもこれも重くのしかかる難問ばかり。
はたしてできるだろうかと思案するより、
今日の一歩を踏み出すことが、いちばん大切ではないかと、
勇気を奮い起こす人たち、「この指とまれ」。

夢千年の暮らしWebマガジン「山の力」
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『被災地に温かい料理を届ける活動』

2011年06月17日 | 東日本大震災 復興支援
炊き出しで生まれた絆 『被災地に温かい料理を届ける活動』


当ブログでも紹介したヒルマン佐藤さんの活動
『被災地に温かい料理を届ける活動』をご支援ください!
21日からまた、店を臨時休業して登米市の避難所へ炊き出しへ行かれるそうです。
お気持ちだけでもいいです、応援メッセージや、支援金をお願いします!
ボランティアの息が切れることのないよう、(当面は日赤に寄付金を出す前に)、
ボランティアへの支援金をお願いします!
http://hillman.hamazo.tv/e2666142.html

【お問い合わせ】
浜名湖2&4スワップミート実行委員
◆Hillman's代表 佐藤利明 
メール 2e★hillman.jp(★を@に変えて送信してください)
TEL 090-4163-8115

【支援金の振込先】 
静岡銀行 入野支店 (普通)0331697 原 悟志 (ハラ サトシ)


今「支援」していいる人へ 「直接」寄付してください。

2011年06月09日 | 東日本大震災 復興支援
募金のしかたについて、
ひとつ、お願いがあります。


東日本大震災の、被災地支援についてですが、
募金活動をされている人、
自分のお金をせっせと募金している人、
実際に現地で支援している人、
さまざまなパターンがあります。
みんなステキな支援だと思います。

ただ・・・・

ちまたで話題にはなっていますが、
いくら日本赤十字に募金しても、
当分(数年?)避難生活している人の手には渡りません。
もう、3カ月も経つというのに。。。。
お金がない、家もない、支援だけを頼りに暮らしている人々の身にもなってほしい。
バカ政府。バカ赤十字。(あ、しまった 言い過ぎた?)

他人のお情けでいただく食事しか食べられない、
欲しい物があっても買うことはできない、
自分の車もない、、、、
毎日、ありがとうございます、ありがとうございます、と
頭を下げながら食事をもらって暮らさなきゃならないなんて、
辛すぎますよね。でも、現実、そうなんです。

今、日赤に募金しているみなさん、
それはそれで将来役立つお金かもしれませんが
現地支援を実際にしている人たちへ、今すぐ必要なお金を、
ダイレクトに渡すことが先決です。
応援のメッセージだけでも、嬉しいです。
モチベーションがあがります。


たとえば私の周りにこんな人々。

つくでMTB / 山の力 / サローネ・デル・モンテ
http://blog.goo.ne.jp/salonedelmonte/e/d6764538681a5364abec3da24b26c16b


ヒルマンさん
http://hillman.hamazo.tv/c567649.html

間宮邦彦さん
http://wanpakudream.com/index.html

八代正さん
http://www.846.info/


大手企業は 震災の支援活動をあまり露骨に公開すると
支援したくてもできなくて罪悪感に悩む人たちをよけい
苦しめることになるから、控えるのだとか。

冗談でしょ。
誰の苦しみが優先やねん!?

って思いました。



自衛隊も次々と現地を引き上げ、支援が打ち切られていきます。

ボランティアも、身銭を切って支援していますが
身銭が底をついてしまったらボランティアの息も途絶えてしまいます。
被災地へのダイレクト支援、ダイレクト募金、よろしくお願いします!