NPO法人BIO de BIO (ビオ・デ・ビオ)  ~生物多様性のある循環の暮らしをめざして~

特定非営利活動法人BIO de BIO (ビオ・デ・ビオ)の活動レポートや情報をタイムリーに発信するためのブログです

明日は我が身の桜ライン

2013年11月08日 | ★イベントのお知らせ
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2013年05月29日 | ★お問い合わせ先
明日は我が身の桜ライン
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謹賀新年2013

2013年01月04日 | ★代表理事 黒田より 
福笑う春
東北の大地に充ちる日まで

黒田武儀


明日は我が身の桜ライン

作手は雪です

2012年12月11日 | ★その他
今年も冬本番となりましたね!
バケツの水が毎日凍っています。
屋外の水道も毎朝、凍ります。
薪ストーブの暖かさを、ありがたいと感じる季節です。

電気を可能な限り使わなくて済む暮らしを、一歩ずつ。
目先の経済(エコ)ではなく、長い眼で見た環境(エコ)&健康で選びましょう!
そして、原発は要らない! と、みんなで宣言しましょう。

NPO法人 BIO de BIO

2012年10月09日 | ★お問い合わせ先
BIO de BIOに関するお問合せはこちらです

特定非営利活動法人 BIO de BIO (ビオデビオ)
-生態系豊かな循環の暮らしを目指して-

(本社・事務所)
愛知県新城市作手黒瀬字下山37-30
TEL 0536-37-5000
FAX 0536-37-5115

(メールでのお問い合わせ)
mail★biodebio.or.jp(←★印を@に変えて送信)

(ホームページ)
http://www.biodebio.or.jp/


(出張事務局・窓口)
〒441-1423愛知県新城市作手高里字郷ノ根17
サローネ・デル・モンテ内


被災地巡礼行へのお誘い

2012年05月31日 | ★代表理事 黒田より 
黒田です。

東日本大震災とフクシマから、14ヵ月経ちました。
あの日いったい何が起きたのでしょうか。
フクシマは今、何がどうなっているのでしょうか。
復旧は、どこまで進んだでしょうか。
復興は、兆しが見え始めたでしょうか。

未だに行方不明者の数は、減っていません。
これから何をどうすればいいのでしょうか。

みなさん、ご自分の眼で、ありのままの現実をご覧
になっていただくために、「明日は我が身の桜ライン」
実行委員会は、桜の植樹に適さない5月から10月ま
で、毎月1回の予定で、被災地巡礼行を催行します。

奮ってご参加ください。
特別に提供された大型プライベートサロンバスの定員
は、20名です。
ゆったり楽々の巡礼行に奮ってご参加ください。




桜の移植には適さない時期に入りました。11月まで、植樹行はお休みです。
代わって、被災地巡礼行を催行します。奮ってご参加ください。

被災地に就業機会が失われているため、平日の昼間からパチンコ屋が大繁盛で、夜
になると居酒屋が大賑わい、の現状をお伝えしたところ、個人事業主の方々や、中小
企業主の方々から、復興支援のために、一度現地を訪れてみたいとの要望も、寄せ
られるようになりました。
私たちに求められていることは、数限りなくあります。
「明日は我が身の桜ライン」の使命のひとつは、「被災地が何を求めているか」を、ひと
りでも多くの「明日は我が身の」私たちが、自分自身の目で見て、感じて、考えることで
す。
ここから真の復興が始まり、日本社会が何を目指し、どこへ行こうとするのかが、はじめ
て国民的課題になるのではないでしょうか。
動機はさまざまであろうと、自分の目で見ることから始めましょう。
何かが始まるはずです。

深い絶望の先にしか、新しい希望など生まれはしない、被災地巡礼行です。

6月1日金曜日夜、仲間の提供する大型サロンバスが浜松から出発します。
新東名、東名を走り、首都高、東北道と、約800kmから900km走って、2日土曜日朝
には、被災地近くのどこかのICに着きます。
そこから巡礼行が始まります。
前回もそうだったように、首都圏のかたがたは、どこかのSAやPAで待ち合わせです。
被災地の現場を訪れ、最初の桜ラインの一本も見たりして、夜は温泉です。
東北のよさの発見行でもあります。
6月3日日曜日のうちには、帰着するようにしています。

参加会費は、マイ桜基金5000円を含めて、ひとり30000円です。
バスは、24人乗りですが、ゆったり行きたいので、定員は18名とします。

今回の目的地は、最大の被災地石巻市、南三陸町、気仙沼市あたりです。
ほかにご希望があれば、おっしゃってみてください。

フクシマ20km~40km圏内の、無人の村を巡る、巡礼行も計画します。
少量ですが、放射線被曝の危険性がありますので、希望者だけの参加とします。
奮ってご参加の希望をお寄せください。必見です。

東日本大震災・フクシマから9ヶ月半

2012年01月13日 | ★代表理事 黒田より 
東日本大震災・フクシマから9ヶ月半
どんなに冬が長く厳しくても、
春があまりに遠くにあろうとも、
春の来ない冬はなかった。
・・・・・・・・・・しかし、
どんな春かが問われている。



予期もしない、望みもしない死を、突然迎えることになった
2万人にも達しようかというひとびと、瞬きする間もなく壊滅した町並み、
見るかげもなく荒廃した国土、そしてフクシマ。
3月11日は、私たちから何もかもを奪い去った。

あのテレビからあふれ出たリアルタイムの映像に、衝撃をうけなかった人はいない。
この世の現実とも思えなかった。
それが自分の現実だったらと、身体の芯まで凍りつくような恐怖を感じながら、
みんな想いを馳せたにちがいなかった。


(写真)大船渡市 2011/11/16

あれよあれよと言う暇もなく、ひとの命も、家も、商店も、工場も、港も、役所も、
何もかもが、荒れ狂う水にさらわれていった。
ほんの少し前まで、ひとびとの日常があったのに、津波が収まると、そこは賽の河原に変わっていた。

私たちの支援は、生き延びたひとたちに、一瞬でもいいから、ホッとしてもらいたい、から始まった。
あの惨状を知って、それ以上のことができるような気がしなかった。


(写真)柑橘を採りに行ったときの生口島の風景 2011/04/19

日本ではじめてレモンを栽培してきた、瀬戸内海の島生口島には、
農薬も何も使わずかんきつ類を育てているひとたちがいて、季節の最後に、今、山に残っているものは、
ひとつ残らず被災地の人たちに食べてもらっていいと申し出があった。


(写真)南三陸ベイサイドアリーナにて 2011/04/20

愛知の山の中から、トラックと大型のバンとで、一晩中走って、朝早く現地に着き、
早速全員で収穫して満杯に積み込んだら、今度は1300kmナイトランして、翌朝被災地に入った。


(写真)宮城県登米市避難所-鱒淵小学校にて 2011/04/20

隣町の登米市に避難してきている南三陸町の人たち百人あまりに、最初のミカンを届けた。
大きな安政柑を両手に抱えるようにして、涙ぐんだ女性が忘れられない。
一日かかって、地域ごとに分散した避難所に届けて回った。

事態を受け止めることさえ難しくて、何も手につかず、
呆然と立ち尽くしているひとたちの姿の多さに、
私たちの想像の及ばない経験が存在したと感じるばかりだった。

 
(写真)南三陸町志津川地区 2011/04/20

かんきつ類の全てを配り終えて、私たちははじめて、被災地に入った。
二晩寝ないで走ってきて、当面の目標をはたして、のどかな早春の山里をドライブしながら、
私たちの会話は、一仕事終わったような気分だったような気がする。
右カーブを曲がり下り、さらに左にカーブした途端、目の前に拡がり、見たものは、
私がヒロシマで経験した、何もかもが焼き尽くされたモノより、はるかに生々しく、


(写真)東松島市 2011/11/15

ただただ凝視する以外にはない、地獄というものがあるとすれば、まさにこのようなもののことだと思った。
誰もが言葉を失った。
誰が言うでもなく、辛うじて車を寄せられる場所に車を止めて、現場に立ち、ただ何かしら祈った。
営々と築き上げてきたもの、積み重ねてきたもの、ひとびとの日常といっしょに、全て破壊されていた。
ヒロシマと同じだった。
コウベもそうだった。


(写真)東松島市 2011/11/15

それぞれの土地には、その土地だけの魂があり、場の生命があった。
そこにひとびとの長い年月をかけて培った暮らしがあり、言葉があり、
伝統と歴史が形成され、その土地だけの文化にまで高められてきた。
志津川は志津川だし、歌津は歌津、女川は女川、田老は田老だった。
http://blog.goo.ne.jp/salonedelmonte/e/d6764538681a5364abec3da24b26c16b

1896年と1933年の、二度の大津波を経験した三陸地方が、津波の怖さを知らなかったのではない。
事実、港湾や海岸のいたるところに、高さ10mを超えるような、防潮堤や防波堤が築かれて、
ひとびとは安心しきっていたとも言えるかもしれない。
鉄筋コンクリートの防災センターや、避難所もつくられて、町は安全なはずだった。
21世紀世界は、情報時代と言われて、確実な情報が瞬時に、どこまでも届く手はずだった。
ひとびとは守られていて、安全だと信じていたのではなかったか。


甚大な被害を伴う災害とは、常に想定外の規模で発生するから、大災害なのではないか。
それに備えるためにこそ、学術研究の専門家があり、政治の、経済の、産業の、
各種専門分野の専門家が存在したのではないか。
それらの膨大な叡智と尽力と、投下された多大な資金の結晶が、長年の念願だった、
さまざまな防災施設の数々ではなかったか。
ひとびとの生命や財産を護り、文化や伝統を維持発展させるために、
それらの専門家の職責があったのではないか。


(写真)東松島市 2011/11/15

何回か夜走りして通い、現場に立ち、現場を巡りながら、
私たちの支援の方向と形が、次第にはっきりしてきた。
当面の急務である、瓦礫や屋内の泥の片付けや、物的支援、炊き出しではなく、
このような悲劇を繰り返さないために、天災が人災にならないために、
この生きた現場から、洗いざらい学びつくすこと、次のために準備すること、
を中心の柱に据えることにした。その上でもう一度現場に立ち戻り、
真の復興再生とは、誰が、何を、どうすることかを、自らに問い、余さず学び取り、
共に考え、共に働き、共に答を模索することにした。
同時にそれらが、長い年月を必要とするであろうことから、継続的な支援の道を探ることともした。

成功したとは言えないが、私たちがいち早く、現地の山の木を使って、
現地のひとびとの協働によって、短期的な仮設住宅ではない、
永住も可能な復興住宅の提案をしたのは、私たちの方針の、ひとつの具現化だった。


(写真)南三陸町志津川地区 2011/11/15

しかし被災地の現状は、まだまだ復興というには、程遠い。
大手企業や、コンビニが、いち早く再開しているのに反して、市民の暮らしは、
まだ方向さえ定まらないでいる。
それでも正月は、来てしまった。


(写真)南三陸町志津川地区 防災対策庁舎 2011/11/15

大震災以後9ヵ月半、「想定外」の一語によって、職務に伴う責任の何もかもが
問われることもない現状は、失われたものの大きさを思うにつけ、
不可思議きわまりない事態と言わざるを得ない。
また同時に、想像することも不可能な喪失の真っ只中にあるひとびとと、
ほとんど何も喪失しなかったに等しい善良なひとびととを、「絆」の一語でくくって、
生暖かい空気で包み込もうとするマスコミや、言葉で生きるひとたちの、安直な危うさも、
何かを生み出すエネルギーになるとも思えない。


(写真)東松島市 2011/11/15

復興とは、あの望まない死を遂げたひとびとの無念さや、希望や、夢や、志を、
体現するものでなければならず、それらのひとびとの累々たる亡骸の上に構築されることを忘れてはならず、
それ故に、生き残った者たちの目の前の利益に奉仕するものであってはならず、
ましてや巨大災害や、それがひき起こした大悲劇を、
願ってもないビジネスチャンスとみなすような者たちの荒稼ぎを許すようなものであってはならない。


(写真)東松島市 2011/11/15

疲労困憊の極にある現地のひとびとにとって、真の支援とは、
そのような復興への長い道のりの同行者であり続けることではないか。
どこにいようと、「明日はわが身」の私たちの支援は、自助に対する共助の形をとって、
今始まったばかりだと、私たちは自分の心に誓う。
そして、共に誓い合えるひとびとの輪が、もっともっと大きく強固になっていくことを、心の底から願っている。


(写真)陸前高田 2011/11/16

フクシマでは、もっと無責任なことが、起き続けている。
いちばん伝えられなければならない情報が、隠蔽され続けてきた。
形も見えず、無味無臭の放射線に、怯えることさえ知らないままに、
ひとびとはなすすべを知らず、何も知らされないで右往左往してきた。
もう10ヵ所以上も、避難先を移り歩いているひとたちがある。
この先がどうなるのかもわからない。何も見えない暗黒の中にいる。
住み慣れた家に戻りたい、と願っていても、それが実現しないのかもしれないと、
限りない不安にさいなまれている。
口先だけの安心が、振り撒かれている。
外部被曝のこともよくわからないまま、内部被曝も、はっきりと知らされないままに、進行している。
この先、何がどうなるのか、何年続くのか、何十年なのかもわからない。

ヒロシマ、ナガサキ、フクシマと、世界で日本だけが経験した、この深刻な放射能被害に、
国や県や専門家たちの、真剣に対応しようとする真摯な姿勢や対応を、誰も感じていない。
究極の無責任が続いている。

私たち日本人は2011年、国家から、行政から、経済界、政界、産業界、学問研究の世界から、
棄民されたと言っても、過言ではない。

私たちは、自立して、自律的に、協働して生きるよう求められている。
原発が要らないのなら、自分たちの力で、それを取り除くようにしなければならないと、私たちは教えられた。
誰かにお願いすればいい、のではないと教えられた。

自助と共助の輪を広げよう。


(写真)陸前高田駅の線路跡 2011/11/16


春の来ない冬はない、としても、どんな春を迎えるかが問われている。
無責任で、その場しのぎの、投げやりな春を迎えるくらいなら、まだ冬の寒さに耐えることを選ぼう。

東日本大震災から1年目の3月10日には、現地から遠い愛知県でも、これから続く長い支援のための
「菜の花コンサート」が開かれる。
私たちはここでも、既に風化し始めた東日本大震災やフクシマが、まだ何も終わっていないことを、
多くの人々に伝え、明日はわが身と覚悟を新たにし、東日本大震災やフクシマへの継続的支援が、
遠くないいつの日か、そのまま自分たちに跳ね返ってくることに、豊かな感性を働かせるよう呼びかける。



(写真)千羽鶴や花やお供えが積みあがった南三陸町志津川地区 防災対策庁舎。
黙祷を捧げる人々。 2011/11/15


共助は、いつかは自助になる。

そして、春が来る。


(写真)南三陸町志津川地区 防災対策庁舎 2011/11/15

text by 黒田武儀

「山の力」webマガジンをご覧ください。
http://yamanochikara.com/column/2905/


20世紀型の国づくり

2011年11月13日 | ★代表理事 黒田より 
高速移動から低速移動へ〜21世紀型交通

20世紀型の国づくり、高速交通網の整備を見直し、
環境の21世紀は、都市中心市街地から始めて、
日本中に「自転車専用道」網の整備こそが、
ふさわしい !!


最近とくに、新聞やテレビで、自転車がやり玉に挙げられることが多い。
事は、今始まったわけでもないのだが、「歩道を、わがもの顔に走る自転車が危ない」、
「ブレーキのないバイクが、猛スピードで走って来て、事故」、など、とかく
「自転車は、走る凶器」という論調が目立っている。
環境の21世紀象徴する代表格として、にわかに脚光を浴びたのも束の間、今度は、
警察による大掛かりな取締りの対象となっている。

確かに、バイクの側にも、問題がなくもない一面はある。
作手のような、山間僻地の交通量の少ない公道で、車も歩行者もいないと
決め込んでいるらしいライダーから、傍をすりぬけざまに「バカヤローっ !!」
と怒鳴られたりすることもある。
渋谷の駅前の歩道で、前から突っ込むように走ってきたピストバイクに
「どけーっ !!」とにらまれたこともあって、屈辱的な気持ちと、
同じバイク乗りとして、顔が赤くなる想いで
恥ずかしかった。
私たちのバイクライダーとしての、マナーやルールの欠如や、やさしさや節度のなさが、
多くの人々を傷つけている事実から、目をそらしてはならないと思う。

しかし、それらの改善されるべき事実の存在と、新聞やテレビの報道の姿勢や
論調との間には、相当な開きがあるような気がする。
社会の公器としての報道機関が、取締りを強化しようとしている警察発表を
受け売りして、バイクの凶器性だけを論じるのは、決して的を得た報道とは言えない。
地球温暖化やエネルギー問題が、21世紀に、人類が乗り越え、
解決に向かわなくてはならない根本課題のひとつであることは、
既に衆知の事実であり、バイクが、とりわけ都市部での、
中近距離移動手段の中心の一つになるであろうこともまた、衆知の事実と言っていい、
とすれば、誰にとっても安全で快適なバイクでの移動を、

どうすれば確保できるかに、焦点が絞られなければならない。

いったいバイクは、どこを走ればいいのだろう。
ひとが歩くことが前提の、歩道だろうか。
車と言っても、自動車専用道のように誰もが思い込んでいる、車道なのだろうか。
歩行者用道路でもない、自動車用道路でもない、第3の道は、ありえないのだろうか。

ほとんどのバイク乗りは、今は、車道を走っている。
誰もが、生命の危険を感じるような経験を、少なくとも何度かしながら、走っている。
大型トラックや、キャリアカーに、トンネルの中で幅寄せされて、
何100メートルか併走されて、生きた心地がしなかったという経験は、
そこらじゅうで耳にする。
都市の交差点での恐怖の体験、出会い頭の車の飛び出し、など数え上げればきりがない。
バイクは、自動車から、無視されているか、敵視されている。
バイクを敵視したり、無視する自動車の側もまた、もっと別の大きな力から、
無視されたり、道具扱いされているからなのかもしれない。

私たちは今、ひとが、安全に快適に移動する権利を、
社会的に確立する時に生きているような気がする。
歩行者は、身の危険を感じることなしに、安全に歩くことが保障されていなければならない。
同じように、ベビーカーや車椅子は、もっと手厚く保護され、
安全を保障するのでなければならない。
自動車は、自分が凶器になることのないよう、また自分の生命が
脅かされることのないよう、その通行が保障されなければならない。
今はまだ全く、その安全も快適性も保障されていないバイクにとっても、
その保障を確保されるのでなければならない。

環境の21世紀の交通政策とは、道路政策とは、高速移動よりも、
大量輸送よりも、ゆっくりと移動することを尊重し、重要と考え、
その安全と快適さを保証することが、第一義とならねばならない。
いったんは、超高速を手に入れた人類が、その結果として、
進化すべき次の段階とは、実は、低速であることの大事さの認識と回帰であった。

都市の中心市街地の中にも、まだ歩道の整備されていない場所は多い。
まして、バイクレーンやバイク専用道の整備は、ようやく始まりかけているだけで、
まだエピソードの域にも達していない。
このふたつの課題を、最重要課題として、自動車最優先から、
低速移動の重視へとシフトを促進することが、実は、日本の未来にとって、
必要不可欠な施策であることを確認しよう。

今日本では、過疎化、少子高齢化が、存亡にかかわる危機として言われて、
何の対策も効果を上げないまま、もはや、用語としては風化し始めている。
解決は無理、という認識が、一般的になりつつあると言ってもいいだろう。

歩行者やバイクのような、低速移動の重視は、そのあまりに大きな課題の解決への、
何らかの手がかりになりうるのだろうか。
交通弱者と言われる、乳幼児やこどもたち、妊婦や高齢者、
病弱者や障害者が保護され、大事にされるということは、
地域社会のありかた、ひいては日本社会全体のありかたを、
ゆっくりとではあっても確実に、変革する。ひとびとの意識も変わる。
こどもや高齢者や弱者に対する意識も、変化する。
こどもや高齢者の、社会の中での、存在意義が大きくなる。
社会的強者がよしとされる社会から、強者も弱者もひとつのコミュニティの
回復の可能性が芽生える。
大都市であっても、農山村であっても、自動車の普及によって
広域化するばかりだった傾向に歯止めがかかり、歩ける範囲、
自転車で行ける範囲の、小さな、真のコミュニティの再生に向かい始める。
この動きは、衰退傾向にあった地方都市にとって、再生の、
大きなきっかけになるかもしれない。
もともと地方の中小都市は、その地域の歴史と伝統と、
独自の文化に支えられた、その地域の中心だった。
何もかもが世界基準の大都市中心の流れの中で、その存在意義を失いかけていたのが、
もういちど見直される契機となることは、疑う余地がない。
ゆっくり移動することで見えてくる地方地方のよさが、いっぱい詰まっているのが、
そんな街なのだから、自動車や新幹線、飛行機での移動になじまないのは、言うまでもない。
大都市にはないよさが見直されれば、そして、弱者が手厚く遇される社会になれば、
高齢者は生き生きしていき、こどもを生みたくもなる。
ちいさな地域社会が回復再生すれば、これまでのように
多額の金銭を必要としない暮らしが、可能になる。
その傾向は、大都市よりも、中都市、中都市よりも小都市、
それよりももっと農山村に、顕著になる。
とすれば、過疎化の問題にも、ひとつの光が差し込むことにもなる。

「風が吹くと、桶屋が儲かる」という、分かるような、わからないような話がある。
しかし、「自動車道の整備はほどほどにして、日本全国、歩道を整備して、
バイク専用道を整備すれば、ライフスタイルが変わり、日本が変わり、
過疎化、少子高齢化に歯止めがかかる。日本は、奇跡的に再生する。」は、
もう少しわかりやすい。

やさしくて、ゆったりした町づくりが進めば、マナーの悪い、
下品なライダーたちも、品のいいレディやジェントルマンに変わって行く。
彼らのマナーの悪さや品のなさは、私たちの生きている社会の、
マナーの悪さや品のなさの、反映なのだから。

text by 黒田武儀「山の力」より
http://yamanochikara.com/featured/2801/

カーボンによる健康被害 米国の研究プロジェクトが報告

2011年10月26日 | ★ビオの学校 (エコール・ド・ビオ)
ナノテクノロジー業界において、その技術革新を支える代表的な材料の1つとされている
カーボンナノチューブに警鐘が鳴らされた。

 米国のナノテク研究プロジェクトであるProject on Emerging Nanotechnologiesによると、
特定の形状をしたカーボンナノチューブを人が一定量吸い込むと、
アスベストと同様の健康被害がもたらされる
可能性があるとの研究結果が科学雑誌
『Nature Nanotechnology』に掲載されたという。

 この研究は、カーボンナノチューブが中皮種(肺がんの一種で曝露から30~40年後に発症
を引き起こす可能性があるかどうかを調べたものである。その結果、
細長くて薄い形状をしたマルチウォールナノチューブがアスベスト繊維と同様な
健康被害をもたらす可能性があることが明らかになったという。

 英エジンバラ大学のKenneth Donaldson教授が率いる研究チームは、
長短のカーボンナノチューブ、長短のアスベスト繊維などについて、
それらが中皮種の前兆を示す病理学的反応を引き起こすかどうかを調べた。
それぞれの材料をマウスの腹腔に注入したところ、長い形状の繊維に対して
高い感受性の予兆が肺の内部で現れたという。Donaldson氏は、
「細長い形状をしたカーボンナノチューブは、細長い形状のアスベスト繊維と
同じような結果を示した」と説明している。

 人体にとって、アスベスト繊維が有害である理由は、アスベスト繊維が
非常に細いために肺の奥深くにまで入り込むことや、粉じんなどを除去する
肺の浄化機能にも悪影響を与えることなどが挙げられる。


 カーボンナノチューブは約20年前に発見され、その秘められた材料特性から
21世紀における驚異の材料とも言われてきた。プラスチックのように軽く、
鋼鉄より強度が高いため、新薬や高効率電池、次世代の電子機器などへ
応用するための研究開発が行われてきた。
その一方で、カーボンナノチューブの発見当初から、ナノレベルの材料は
人体に対して悪影響を及ぼす可能性があるとの指摘があった。

 Chemical&Engineering Newsは、「複数の市場調査会社の市場予測から、
今後4~7年でカーボンナノチューブの売上高は約20億米ドルに達するとされている」
と報じている。今回の調査結果は、今後のカーボンナノチューブ市場を揺るがす可能性があると言える。

ニュースより
http://ednjapan.cancom-j.com/news/2008/5/2438

今時の自転車産業界はカーボンフレーム、カーボンパーツで
大儲けしているようですが、こんな危険な素材を、
エコロジーの象徴でもあるはずの自転車に使ってよいのでしょうか!?

東日本大震災7ヵ月、現場からの報告

2011年10月17日 | ★代表理事 黒田より 
黒田です。
東日本大震災7ヵ月の、現場からの報告、をお届けします。
大震災から7ヵ月を経て、厳しい冬を間近にして、いろいろな動きが出てきています。
また、見えてきたこともあります。
ごいっしょに、このような大災害に、どう対応し、対処したらいいか、考えたいと思い
ます。
ご一読ください。



東日本大震災7ヵ月、現場からの報告


千年に一度の大災害には、
1000年後の暮らしを見据えた対処と対応が、必要なのかもしれない
見渡す限りの荒野が広がり、所有者があり勝手に処分できない
形骸となった自動車が、そこここに見える。


時に、小型漁船があったり、農機具の残骸が転がっている。
金属部分が真っ赤に錆び始めていて、7ヶ月の歳月を感じる。
あれだけあった瓦礫は、大分撤去が進んで、震災当時の、
あの生々しさと、あの鼻をつく匂いは、消えかけている。


日本で有数の穀倉地帯に、実りの秋は来なかった。
それでも、かけらほどにせよ、新しい発見があった。


海水と海砂と瓦礫に、滅茶苦茶にされた荒野の中に、異種の光景があった。
瓦礫に囲まれた小さな畑、青々と育ったダイコンなどの秋冬野菜。
そこだけが以前と同じ田んぼの、刈入れ直後の稲の株の列。
畦や水路を作り直そうとしている人たちの、軽トラックの群れ。


ささやかでも、部分的でも、ひとびとは動き出している。
1ヵ月前に比べたら、人の姿が見え、人の動きが感じられる。


そしてもうひとつの大きな発見は、
地盤沈下して、海水が溜まったままの水田群の広大な拡がりが、
バードサンクチュアリになっていたことだった。
人の姿が近くにないこととも重なって、水鳥たちの天国になっている。

生き物の存在を、身近に感じられるというのは、
ひとの気持ちをここまで高め、安らぎを与えるものかと、あらためて思い知った。
同時に、「そうか、ここはもともとそういう湿原だったんだ。
今ここに葦が生えはじめているように、もとはそういう場所だった。
川が氾濫すれば、遊水地となり、津波や高潮がくれば、
被害を最低限に食い止める、自然の防潮原だった。」とも思い至った。


これは、千年に一度の大災害に対する
私たちの対処のしかたを示唆する、重要な発見かもしれない。

川が氾濫して、しばしば水路が変わってきたように、
海もまた、津波や高潮で海岸線や氾濫原や遊水原を変化させて来たのではないか。
そして人々も、その変化に適応し、順応しながら、
次の千年の暮らしを築いたのではなかったか、と感じた。

近代の工業世界が築き上げてきた、コンクリートと鉄で、
自然を固定しようという考え方そのものが、今、厳しく問われているのではないだろうか。
田んぼの真ん中に、巨大なコンクリートの防潮堤の塊りが転がる
荒涼とした風景の中の、鳥たちの平和な生命の営みは、
不思議ではあるが、とても自然なものに感じられた。


津波に家財道具の全てを流されて廃屋となり、吹き込む風に、
引きちぎられたカーテンがはためき揺れるのを見るのは、何回見ても辛い。
そのすぐ近くの家では、波に突き破られた壁を補修し、
屋直しして、新しいアルミサッシュを入れている風景もある。


また今回目立ったのは、壊滅した被災地の元の場所に、
新築された住宅だった。
行政が、住宅再建予定地の計画を示しきれないまま、
以前建っていた場所に自宅を新築したのが目立った。
どれもこれも3ヶ月で完成するプレファブ住宅ばかりで、
心が痛むが、家も何もかも失い、避難所や仮設住宅で、
厳しい東北の冬を迎えることを思えば、
プレファブ住宅であろうとなんであろうと、我が家が嬉しいに決まっている。


阪神淡路大震災の後、神戸や芦屋の高級住宅街に
プレファブ住宅が林立していった光景を、
いま再びここで見ることになるであろうことは、容易に想像できる。



これから百年後、二百年後、三百年後の日本の家並み、
町並みが、人の暮らしの風景が、どうあればいいか、
どうありたいか、ライフスタイル、資源、環境、廃棄物、
健康などなどの視点から、きちんと議論されるべき時が来ている。
建築にたずさわる専門家は多い。事業者も多い。
そこに生き、暮らすことになる市民を交えて、
関係する広範囲な専門家たちや、関心を寄せる全ての人たちの手で、
議論を尽くし、実験し、持続可能な新しい方向性を見出すのは、今だと思う。
とりわけ住宅建築にかかわる、研究者やデザイナー、
建築家の奮起を促したい気持ちが、身体から
溢れそうになるのを押さえきれない想いだった。


破壊されつくして、枡形の土台だけが続く、
かつての住宅地の中に、ぽつんと取り残された全壊か半壊の家がある。
隣の家は流失して跡形もないのに、半壊の家が何軒か立ち並んでいたりする。
この違い、この差が、どこから生じたのか、
どんな原因や理由があって、そうなったのか。
誰も感じるその不思議を解明することは、
これもまた、千年に一度の大災害への、私たちの対処と対応を考える上で、
大きな示唆となるはずだと思っている。

同じ大災害による「壊滅」と言っても、
家も何もかもが失われてしまうのと、家屋の基本部分が残存しているのとでは、
復旧の容易さが違う。
地域の形から作り直すのは、地域に培われてきた
歴史や伝統をも、作り直すことを意味する。
津波は、家屋といっしょに、地域の文化を流し去ってしまう。
全てを失うのではない家づくり、街並みづくり、
町づくりを模索するときではないかと思う。
高台に、全ての住宅を移転させることなど、考えることはあっても、
実現することは困難だとわかっている。
それが町の復興、再建、再生とは違うものになることも、わかっている。
全く違う、新しいニュータウン建設になることが、わかっている。
できることなら、これまでの町を再生、復興させたいと、
みんな願っていることも、わかっている。


何回も通いつめて、千年に一度の大震災に対する、
私たちの対処や対応が、もっと自然への畏敬と敬意に立脚して、
圧倒的な自然の力に、膨大なコンクリートと鉄で対抗するのではなく、
自然を受け入れ、自然に従い、自然の命ずるように、
柔らかい受け止めかたに転換することが、実は、
できた試しもない「災害を完全に防ぐ」ことではなく、
「災害を最小限にとどめる」ための、
最善の処方箋ではないかと考えるようになった。

同じ津波を真っ向から受けて、辛うじて残った
家屋の仔細な調査と分析から、その原因と理由を探り出すことは、
今ならできる「被害の最小限をめざす、新しい対処と対応」への
基礎研究の根幹であり、出発点ともなると考えている。

今私たちが、全力を尽くすべきポイントが、はっきりしてきたように思う。
私たちが向かうべき方向と道が、見えて来はじめている。

膨大な作業が待っている。
中心になる人たち、いっしょに協働する多くの人びと、
組織、資金、どれもこれも重くのしかかる難問ばかり。
はたしてできるだろうかと思案するより、
今日の一歩を踏み出すことが、いちばん大切ではないかと、
勇気を奮い起こす人たち、「この指とまれ」。


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原発の要らない暮らし はじめよう !!!

2011年09月24日 | ★代表理事 黒田より 
written 2011年09月01日
みんなで考えてみよう、明日の私たちの暮らし。
BIO de BIO 代表 黒田武儀



原発の要らない暮らし はじめよう !!!
大震災に負けない暮らし はじめよう !!!



山でたきぎを拾い集め、かまどで炊いた、熱々ごはんを食べながら、
みんなで考えてみよう、明日の私たちの暮らし !!!

今後30年以内に、必ずやってくると言われ続けた東海地震。
過去の例によれば、東海地震と、東南海地震、それに南海地震も連動して、
いっしよにか、相次いでか起きるとも言われている大震災。
日本列島の中央部であり、人口の密集度も高く、基幹産業が集中し、
主要交通網も列島を東西に結び、浜岡原発を筆頭に、
西にも北にも東にも、原子力発電所が立地する関東、
東海、北陸、近畿、中四国、九州に、広範囲の大災害をもたらすと
予測されている地域の、真っ只中で暮らす私たち。

私たちは、逃げ出せばいいのでしょうか。
逃げ出したくても逃げ出せないひとびとは、どうすればいいのでしょうか。
私たちの備えは、じゅうぶんでしょうか。

あまりに大きな出来事だとわかっているだけに、
とても自分たちだけで対処できるわけもないと、
ほとんどあきらめ気分で、投げやりになって、
思考停止しているひとが多いのではないでしょうか。

私たちも、一個の生きものです。
周りの野生動物たちを見てください。
誰の助けも借りることなく生きて、繁殖して、
次の世代に生命を継承しています。
生きものには、それぞれ自分の生命を、自分で護り、
維持する力が備わっています。
私たちヒトだけが、いつの間にか金銭で、他人の力を借り、
誰かがつくったもので生き延び、代わりに、
自分の生存能力を売り渡していたのではないでしょうか。
貨幣というものが、あんな一枚の紙っきれが、
そんな大きな力を持っているなんて、信じられませんね。

大震災に備えるのに、いろいろと買い揃えたり、
避難に備えたりと、たいへんですが、今もっと必要なことは、
自分自身の内部にあったはずの「生存力」を取り戻すことです。
どんなことがあっても、生き抜く力です。

焦らずに、少しずつ取り戻しましょう。
そうする意思さえあれば、誰にでも、きっとできます。

9月から、少しずつ始めます。
ひとつひとつ、自分にできることを増やしていきましょう。

食べもの、水、エネルギーを確保すること、
雨露寒さを防ぐこと、これがほんとうの意味の「自給自足」です。
私たち山の力は、仲間の力も借りて、助け合う「他給自足」も含めて、
大きな「自給自足」のネットワークをつくりたいと考えています。

目的は、どんなことがあっても生き抜く力を養うことです。
目標は、当面予測される大震災の前までに、
生存力を具現する技術や技能を身につけることです。
昔から経験によって培われてきた智恵の集積である、
技術や技能を支える、すこしばかりの知識も必要かもしれませんね。



さぁ、始めましょう。
来年からは、もう少し本格的に、「食べるものを自給する」する予定です。
それまでにやっておかなくてはいけないことが、いろいろあります。

冬の寒さにも備えなくてはいけませんね。
薪づくりや、炭焼きの準備もありますね。

自分の力で生き抜くということは、忙しいということです。


text by Yamanochikara

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【オペレーションコドモタチ賛同者メッセージ】 山本 太郎 02

2011年09月24日 | ★自然エネルギー問題
【オペレーションコドモタチ賛同者メッセージ】 山本 太郎 02


文部科学省 包囲抗議集会 「福島の子供を守れ!」

被災地は今・・・

2011年07月19日 | ★代表理事 黒田より 
先週4日間、
BIO de BIO 代表の黒田が、自分の脚で被災地を歩いて見てきた
被災地の現状をレポートします。

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黒田です。

3月11日以来、日本は、国の存立の根底から、問題が噴出してしまいました。
思うだに怪しげな、なにやら意図的な「節電キャンペーン」の中、
ますます暑い夏になりそうです。

東日本大震災の被災地では、4ヶ月を経て、未だに何も起きていません。
ひとびとは、深い失望と絶望のあまりに、怒りさえも忘れたように見えるほどです。
瓦礫の片付けも、進んでいる地域もあれば、変化がないように見える地域も、
そこら中にあります。
とくに、報道されることもない、ちいさな集落などは、
ほとんど震災直後に近い状態です。
都市の中でさえ、今でも、電気も水もない地域があります。
高台で、難を逃れた家々のひとびとも、コミュニティは壊滅していて、
町の機能は失われ、仕事もなく、日常の生活を支えるすべもなく、
救援物資などの災害支援の対象からも外されています。
これは、仮設住宅に入居しているひとたちも、避難所を出た瞬間から、
同じ立場に置かれています。
行政は、そして給料を毎月支給されている行政マンたちは、一日も早い
「自立」に向かってもらうために、支援を打ち切るきまりになっている
と言い放ちました。

一時期は、全国からやって来た自衛隊、警察、消防、ボランタリースタッフの姿が、
瓦礫の町に溢れていました。
今は、その姿も少なく、ただ瓦礫と廃墟の町や村が広がっています。

「日本は、滅亡しかけている」と、私は強く感じました。

原発の大事故周辺地域は、もっとたいへんです。
強制的に避難することを命じられたひとびとは、明日の展望が全く持てないまま、
転々と避難所を移り住む日々が続いています。
避難地域の中に入れないため、報道されることもない荒廃が、
広い地域にひろがっています。

放射能被害は、既に、もっと深刻です。
地域差も、個人差も大きいことは、ヒロシマの被爆者の私がよく知っています。
これからも拡大して、長く続きます。
原発は、世界中で、全てやめなければなりません。
どこの地域の誰が、同じような悲劇を経験しても許されない、
100%人為の災害だからです。
私たちが、電気を必要とする生活をしている限り、原発はなくなりません。
キャンペーンを張ることより、「原発の要らない暮らしの、実現と実践」こそが、
とくに都市住民の、そのような「実行」こそが、原発を廃止させる原動力です。
原発を支えているのは、経済と産業の構造そのものなのですから、
講演会やチラシでは、経済、産業構造への打撃にはなりません。

実践の広がりは、まず実践ありきです。
飛び歩いていてはダメなのが、反原発運動です。

ドイツがなぜ、原発全廃に到達できたかを、じっくり見極めることが必要です。

暑い夏の気晴らしに、クーラーの要らない作手は、最適です。
LEON BIKE Test V.4.0 も、試乗可能です。
都市の明日を変えるかもしれない、Forcal44も展示してあります。

夏休みは、被災地に立って、今自分がどんな位置にいる存在であり、
未来に向かって何をなすべきかを、じっと想うのも必要だし、
原発の要らない暮らしを、自分の暮らしの中で、どう実現するかを考えるもよし、
(だからと言って、熱中症はバカげているし)
疲れて、寝苦しければ、クーラー要らず、夜明けは寒いくらいの作手に来るもよし、
です。

この機会に、なぜ私たち一家が、何もかもを捨てて、作手に移り住んだかを、
自分自身の日常の上に重ねてごらんになるのも、何かの足しになるかもしれませんね。

今日のこの日は、必ず来ることが、誰にでも予測できました。



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世界に原発がある限り、明日は我が身

2011年05月06日 | ★代表理事 黒田より 
黒田です。

原発の問題は、放射能汚染の危険性や、その汚染が長期間に
わたって続くことの恐ろしさだけでなく、原発の立地そのものに
起因する、民の心を蝕み、曇らせ、腐敗させ、緩慢に殺してしま
う空恐ろしさに、満ち満ちていることです。

静岡の浜岡原発周辺の小さな町御前崎、柏崎原発、福島原発、
美浜原発、敦賀原発、伊方原発、、、どこでもそうですが、町の
たたずまいには似つかわしくない豪壮な公共建築群が、見る者
を圧倒します。
そして町のひとびとは、ほくそえむように、静かに笑うのです。
まるで幸せを、独り占めにしているように、豪邸の門前に佇むの
です。

死と、いつも背中合わせになった静かな平和の様相に、ぞっとし
ながら車を走らせていると、これこそが原発の、ほんとうの恐ろし
さだと、心が締めつけられるような息苦しさを感じます。
早く通り抜けてしまいたい衝動に駆られるのです。

福島原発は、思いがけない大震災で、はからずも仮面を剥ぎ取
られたのです。
平和と繁栄は、一瞬で吹き飛びました。
起きてほしくないことが、起きてしまいました。
原発の本質は、ひとびとの心の底の底まで蝕み、腐らせ、自分
自身で立ち上がる気力も底力も喪失させることです。

私たちは、自分たちの町や村に原発が立地するのではないこと
で、他人事にしてしまってきた「つけ」を支払わなければならない
時が、突然来たことを自覚しなければなりません。
実は原発は、立地している町や村のひとびとだけを蝕むのでは
なく、遠く離れた私たちをも蝕み続けてきたことを思い知らされる
ことになりました。
私たち自身の心の死と、向かい合う時が来ました。

安穏と平静を装うことはできない日が来ました。

ひとと生まれて、自分が真に「ひと」の名に恥じないように生きる
時が来ました。
余暇の支援者ではいられない日々を、今私たちは生きています。

今すぐ、全ての原発に、"NO !!!"を言いましょう。
その発言が実効力を持つように、原発の要らないライフスタイル
を確立しましょう。
情報を隠し通している政府や東京電力、そして中部電力をはじめ
とする電力各社に、"NO !!!"と言いましょう。
全ての真実を明らかにして、あらゆる責任を全とうするように要求
しましょう。
被害がこれ以上拡大しないよう最善を尽くすことを、日本中のひと
びとの責務だとして、確認し合いましょう。
そのために被災者と、苦労を分かち合う覚悟をしましょう。

世界に原発がある限り、明日は我が身です。

真実は、隠されているところにある。

2011年03月23日 | ★代表理事 黒田より 
黒田です。

私たち日本人は、ヒロシマ、ナガサキから、何を学んだので
しょうか。
ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキと叫んできたのは、何を
求めていたのでしょう。

美浜原発の細管破裂破断事故など、隠そうとしても隠し切
れない大事故が、これまでも何回も起きているのに、私たち
は何もしないできました。

ますます、電気がなくては困る暮らしに埋没しながら、見たく
ないことからは眼をそらし、聴きたくないことには、耳をふさい
できました。

ヒロシマの爆心地で、何十回も死ねるほどの放射線を、3日
間浴び続けて、生きていることが奇跡と言われる私は、
原水爆もNO !! なら、原発もNO !!
と言い続けてきましたが、誰も耳を貸しません。

以下に、原発工事現場で、20年現場監督として働いた、原発
メーカー日立製作所の(故)平井憲夫さんの「原発がどんなも
のか知ってほしい」(全文)を、ファイルしました。

http://www.iam-t.jp/HIRAI/pageall.html 
(原発がどんなものか知ってほしい)

少し長いのですが、読んでみてください。

そして今の、福島原発で報道されていることと、比較してみて
ください。