聖書と共に

イエス様のとりなし

まず、執り成し(取り成し)とは、
 対立する二者の間に入って、事態が好転する様に、うまく取り計らう事、とあります。
キリスト教適には
 仲介者として、神と人間との間を取り持つ事。

この点から見ますと、イエス様の生涯が執り成しの生涯でした。

 神様は霊なるお方です。肉体はありません。
神様は、ご自分の御子、イエス様を地上に遣わし
イエス様が私達と同じ肉体を持つようにされました。肉体がなければ、十字架に付くことは出来ません。又、血を流す事も、出来ません。

私達の罪の贖罪のため、償いのために来られました。日本にも古くから「死をもって罪を償う」という言葉がありますが、これは、あくまで本人の
罪です。これとは違い、イエス様の十字架は、他人の罪を償うものでした。

みことばが、それを示しています。
「彼は、我らの咎のために傷つけられ、我らの
不義のために砕かれ、自ら懲らしめを受けて我らに平安を与う。・・神は我ら全ての不義を彼の上に置かれた」        (イザヤ53-5~)

「神は罪を知らない方を、私達の代わりに罪とされた。これは私達がイエスにありて、神の義となるためなのである。」    (Ⅱコリント5ー21)

「父よ、彼らをお赦し下さい。」 (ルカ23ー34)

「人その友のために自分の命を捨てる事、これよりも大いなる愛はない」    (ヨハネ15-13)

「キリストは、私達がまだ罪人であった時、
私達のために死んで下さった。・・もし私達が
敵であった時でさえ神との和解を受け入れたとすれば・・」           (ロ-マ5ー9~)

「その子イエスの血、全ての罪より我らを潔む」
                (Ⅰヨハネ1-7)
「一粒の麦、地に落ちて死なずば、只一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし」
                (ヨハネ12-24)
「我に成さしめんとて、汝の賜ひし業を成し遂げて、我は地上に汝の栄光をあらわせり
                (ヨハネ17-4)
「ご自分の御子さえ惜しまないで、私達すべての者のために死に渡された方が、どうして御子のみならず、万物を賜らない事があろうか。・・
誰が私達を罪に定めるのか、キリスト・イエスは
死んで、否、よみがえって、神の右に座し、私達のために、とりなして下さる。」 (ロ-マ8-32)

「神は唯一なり、又、神と人との中保(なかだち)
も、唯一にして、人なるキリスト・イエスこれなり」              「Ⅰテモテ2-5」

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