「ある者は、戦車を誇り、ある者は馬を誇る
しかし、我らは、我らの神、主のみ名を誇る」
現代風に言うならば、
「ある者はミサイルや戦車を誇り、空母や戦闘機
を誇る。しかし、我らは、我らの神、主の御名を
誇る。」
ここから、「旧約聖書1日1章」(榎本保郎著)から
です。
十字架を負って、私に従わなければ、私の弟子には
なれない。十字架を負うとは、自分を捨てる事で
あり、それは容易に出来る事ではない。
最初、弟子たちが、網も船も親も、捨てて主イエス
に従ったのは、メシアに従えば、何かいい事がある
、と思ったに違いない。
だから、その主イエスが十字架に付けられて、
殺されてしまった時、彼らは主イエスを捨てて、
逃げてしまった。
それは、やがて主イエスが世界を制覇された時に
自分達は、人々から信頼され、あがめられるとの
思いがあった。しかし、その思いが打ち砕かれた
衝撃に耐え得なかったからであろう。
戦車を誇り、馬を誇ったりするのでなく、主の名を
誇って行くというのも、実際に、戦車と馬が砂塵を
上げて攻め寄せる敵の前に立たされた時々、そこで
主を信頼しなければ出来ない事なのである。
私達も、十字架の愛の迫りを受けなければ、人々が
忌み嫌う十字架、極悪人の処刑に用いられる、
恥ずべき十字架にかかられた主イエスの贖(あがな)
いによる救いを、本当に、誇っていく者とは、なり
得ない事を忘れてはならない。
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「我らの古い人がキリストと共に十字架に付けられ
たのは、この罪の身体が滅びて、もはや、罪に
仕えない様にする為である。」 (ローマ6-6)
イスラエルの民が、エジプトの軍勢に迫って来た時
モーセは民に言った。「あなたがたは、恐れては
ならない。固くたって主が今日、あなた方の為に
なされる救いを見なさい。」 (出エジプト14-13)