聖書と共に

ある者は戦車を誇り…我らは主のみ名を誇る

今日は、詩編20編17節です。
「ある者は、戦車を誇り、ある者は馬を誇る
しかし、我らは、我らの神、主のみ名を誇る」

現代風に言うならば、
「ある者はミサイルや戦車を誇り、空母や戦闘機
を誇る。しかし、我らは、我らの神、主の御名を
誇る。」

ここから、「旧約聖書1日1章」(榎本保郎著)から
です。
十字架を負って、私に従わなければ、私の弟子には
なれない。十字架を負うとは、自分を捨てる事で
あり、それは容易に出来る事ではない。

最初、弟子たちが、網も船も親も、捨てて主イエス
に従ったのは、メシアに従えば、何かいい事がある
、と思ったに違いない。
だから、その主イエスが十字架に付けられて、
殺されてしまった時、彼らは主イエスを捨てて、
逃げてしまった。

それは、やがて主イエスが世界を制覇された時に
自分達は、人々から信頼され、あがめられるとの
思いがあった。しかし、その思いが打ち砕かれた
衝撃に耐え得なかったからであろう。

戦車を誇り、馬を誇ったりするのでなく、主の名を
誇って行くというのも、実際に、戦車と馬が砂塵を
上げて攻め寄せる敵の前に立たされた時々、そこで
主を信頼しなければ出来ない事なのである。

私達も、十字架の愛の迫りを受けなければ、人々が
忌み嫌う十字架、極悪人の処刑に用いられる、
恥ずべき十字架にかかられた主イエスの贖(あがな)
いによる救いを、本当に、誇っていく者とは、なり
得ない事を忘れてはならない。

    **********

「我らの古い人がキリストと共に十字架に付けられ
たのは、この罪の身体が滅びて、もはや、罪に
仕えない様にする為である。」  (ローマ6-6)

イスラエルの民が、エジプトの軍勢に迫って来た時

モーセは民に言った。「あなたがたは、恐れては
ならない。固くたって主が今日、あなた方の為に
なされる救いを見なさい。」 (出エジプト14-13)
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