聖書と共に

知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める

今日は、第1コリント8章からです。
まず、「静まりと黙想の朝に」(松木祐三著)から

 コリントの町には多くの偶像があり、そこに
献げられた、動物のいけにえが、市場に払い下げ
られ、売られていた。そうした中、ある人々
(ユダヤ人の信徒)は偶像に献げられた肉を食べる
と、汚れが移ると考えていた。
 そのため、偶像に献げられた肉だと分かると
食べようとしなかった。

一方、異教徒から信徒になった者は、気にせず
それを、食べていた。
これについて、パウロは偶像は、ただの木や石に
過ぎないので、霊的な意味で肉が汚される事は
ない、と言う。ところが、問題が起こっていた。

それは偶像への肉を頓着しないで食べる人が、
それを気にかけている人に向かい、信仰が弱いと
なじったのである。パウロはそれを聞き、愛の
ない行為だと戒めた。人の徳を建て上げる思いが
大切だと教える。

ここから「新約聖書1日1章」からです。

人を誇らせるだけの「知識」と「愛」との差を
説いたのである。彼は、弱い人、遅れた人の
立場に立とうとしたのである。

「食物は、私達を神に導くものではない」
とパウロは続ける。肉を食べようが、野菜だけ
にしようが、直接、神に何の関係もないのであ
る。
日本人のクリスチャンは酒、タバコを飲まない
事を一枚看板みたいにしている。しかし
パウロは食物は、信仰と関係ない事をはっきり
言う。何をしても自由である。しかし、それが
弱い者たちを、つまずかせない様にと言う。

「この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれた
のである。」

先日、九州で胡美芳という、中国の歌手の方と
出会った。彼女は入信して、一年足らずであった
が、神のこの恵みが分かった時、年末年始の
全スケジュールをキャンセルして、その20日間を
神に献げると言った。
私は
「本当に、えらい決心をされましたね」と言うと
「いいえ、私のために、イエス様が死んでくださ
った事から見れば、ほんの小さな事です」
と言われた。
私は主イエスの恵みが彼女に及んだ事に圧倒され
、言葉が出なかったのである。

私達は奉仕したとか、ささげたとか、さも大きな
事をしたかの様に言うが、それは、本当は、小さ
な事なのである。
それを、ビックリしているのは、まだ主イエスの
犠牲の大きさが分かっていないからである。

それが分かれば、弱い人のための生活が送れる様
になるのである。私達の隣近所にいる一人一人の
弱い魂が滅んで行くのを神は、どんなに痛んで
おられるか。その人の帰りを、放蕩息子の父の
ように、どれだけ待っておられるか。

それが、示されると、どんな事があっても、弱い
兄弟のために尽くしていく生活に入れられるので
ある。

信仰生活とは、失う生活でもある。
キリストは私たちの為に生命を失われたのだから
私達も、一つ一つ自分の大事なものを失いつつ
キリストの栄光にあずかって行きたいのである。

  **************

私が行っている教会に、昔、胡美芳さんが来られ
伝道集会が開かれた。そこに、ある婦人が初めて
来られ、胡美芳の歌と話に感動され入信。
現在は、教会の役員をされている。

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