「旧約聖書1日1章」(榎本保郎著)からです。
私達は、毎日の生活で、はたして主をどこに置いて
いるだろうか。
「後ろに置く」
それは、いつも自分が先で、自分の為に神があり
神は自分を助けてくださるに過ぎない。
「私は、これをしたいのです。神様、どうぞ、
させて下さい。」と呼ぶだけの信仰。
「上に置く」
それは、神を奉ってしまう事である。そして、
私達の信仰の真ん中に主を迎えようとしない。
だから信仰は言葉だけで、実際の生活とは少しも
関わりが無い。
「横に置く」
これは相対的な世界の中で、神を考えていく
行き方で、これでは、いつまでたっても信仰は
与えられない。
「前に置く」
詩編の主人公は「常に主を私の前に置いた」と
言っている。この「前に置く」とは、私を導く方
私の従うべき方とする事であり、同時に、自分が
後ろに下がるという事である。
マルコの福音書に
「イエスが舟に乗っておられるまま」とあるが、
「イエスを舟に乗せたまま」でないと事に注意
したい。
信仰とは、私の舟に主イエスを乗せる事ではなく、
主イエスが私達の舟の船頭になられ、舵を握られる
事である。
常に主イエスが主であり、私達は従って行く者で
ある事を覚え、「主を前に置く」信仰生活をする
事が大事なのである。
主を前に置く時、私達は「いのちの道」を示される
(11節)
一生懸命に歩いていて、その行くべき道を知らない
ほど、むなしいものはない。
しきりに、生き甲斐を求められている現状の中で、
「いのちの道」を示されている幸いを覚え、日々
歩んでいく