2月25日、ちょっと抜けて、長松寺城跡(A)史跡の発掘説明会に出かけました。
行ってみたらきついきつい(こちらでは「けんな」といいいます)山でした。
この城は、同士の諍いで立てこもる砦の役割だったとの話でした。中央では応仁の乱、その事はこちらにどのように伝わっていたのかとか知りたいです。また長松寺城跡(B)については道路用地ではないので掘ることは無いということでしたが堀が残っているとの事で見てみたい気がします。この(A)は国道56号線バイパスの堀切になり無くなります。
前々日の愛媛新聞、ケーブルTVに記事があり、当日の問い合わせに「ちょうまつじ」と言ってしまい、当日パンフレットみて赤面しました。「ちょうしょうじ」でした。
「一般国道56号宇和島道路の建設に先立ち、当センターでは、宇和島市保田に所在する長松寺跡の発掘調査を行いました。
今回の発掘調査では、過去に行われた分布調査で、その存在が知られていた長松寺城(長松寺城B)に隣接する城郭跡(長松寺城A)の調査を行い、その構造や時期が明らかになりました。
調査の結果、郭と考えられる平坦面や土塁、堀切といった15世紀代の城郭遺構を確認しました。また中世の遺物のほかに弥生時代の遺物なども出土しています。
遺構では郭が3面確認され、土塁を伴った主郭と腰郭ら構成されていたことが明らかとなりました。また、郭からは柱穴列やテラス状の遺構なども確認されています。遺物は主郭やその周囲から、土師器杯や備前焼のほか、青磁や白磁といった中国製の磁器などが出土しています。これらの遺物の時期から、長松寺城Aは15世紀頃の城郭で、16世紀後半頃に造られたと考えられる長松寺城Bとの間には100年程度の時間差があることがわかりました。長松寺城Bは、赤烏帽子城を本城とした友岡慶則の支城で、天正年間に土佐の長宗我部氏に攻め落とされた、との記録が文献(『宇和旧記』)にあるように、本格的な戦争に耐えうる防御施設を備えたつくりになっています。これに対し、長松寺城Aは応仁の乱(1467~1477年)以降に造られた戦国時代初期の山城で、地域の小規模な戦闘の際の逃げ城であったと考えられます。
長松寺城AとBの関係については、次の2つの可能性が考えられます。
①長松寺城Aが15世紀頃に造られて長松寺城Aが使われなくなったのち、16世紀に長松寺城Bが築城された。
②長松寺城AとBの一部が15世紀頃につくられ、長松寺城Bについては16世紀になって竪掘や横堀を備えた防御機能の高い城に造り替えられた。
当時の城造りの一般的なあり方からすると②の可能性の方が高いと考えられますが、真相は長松寺城Bの調査を行わないと何とも言えません。
今回の調査は旧宇和島市で初めての中世城郭の発掘調査で、当時の宇和島の政治情勢や社会の様子を知る貴重な資料と考えられます。」
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