なんやかや

とりとめのないブログです

黄砂

2006-04-26 11:55:11 | 自然現象

 4月24日(月)は、黄砂がすごかったです。

 岩松の港Img_1723_1_3_1 から、岩松新橋を撮ってみました。

 快晴なのに、もやがかかったようです。

 もう1枚は、岩松川河口の夕日です。

Img_1725_2_3_1

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4月南楽園探鳥会

2006-04-17 10:34:53 | バードウォッチング

 4月16日、南楽園の探鳥会でした。

 久しぶりの晴れ、風が強く少し肌寒かったですが、35種類観察できました。

 新緑の木々の黄緑が美しく、ツツジや藤も咲き綻び花木も楽しめました。

 午後、帰って天赦園の上り藤、保手川河口でバードウォッチングと休日を楽しみました。

 以下、南楽園と保手川河口の画像です。

P4160578_1_2_1 P4160580_2_1_1 P4160581_3_1_1 P4160582_4_1_1 P4160591_5_1_1 P4160593_7_1 P4160594_6_1 P4160595_8_1_1 P4160596_9_1_1 P4160597_1_4_1 P4160601_2_4_1 P4160604_3_4_1

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天赦園

2006-04-17 10:19:12 | まち歩き

ケーブルテレビのニュースで天赦園の白玉上り藤が満開と報じていたので久しぶりに覗いてきました。藤は満開、すばらしい眺めでした。

もうしばらくすると、紫の藤、続いて菖蒲と花が楽しめるようです。

以下、画像と財団法人伊達文化保存会のパンフレットの一部です。

【天赦園の由来】

本園は寛文12年(1672年)宇和鳥藩二代藩主宗利が造成した浜御殿の一部南東部を、七代藩主宗紀(号:春山)が退隠の場所として大改造を行い、慶応2年(1866年)に竣工しこれを天赦園と命名した。「天赦園」という命名の出来は、伊達政宗が退隠後群臣に示した述懐である

 馬上に少年過ぎ  世は平にして白髪多し

 残軀は天の赦す所 楽しまずんば是を如何せん

という漢詩から採って命名したものである。

 本園創設者である宗紀は、園内明心楼(明治29年取除)において八代宗城、九代宗徳の背後より真の実力者として国事に励み、維新四賢公の一人と云われた宗城をして、後顧の憂いなく維新の大業に参画せしめた。また、本園は西郷隆盛、大村益次郎、高野長英等勤王の志士との会見が行われ、文久、元治、慶応より明治に及ぶ宇和鳥藩の国事斡旋の源を発したところである。

【潜渕館】

 明心楼の附属建物として建てられた書院式茶室で、春山が茶道を楽しんだ所である。その茶庭には顕著な陰陽石が配され、春山の子孫繁栄を願う想いが見て取れる。また、当建物は太正11年昭和天皇が皇太子の時天赦園御成の際、御座所にあてられた。

【春雨亭】

 愛書家としても有名な春山は、余生を楽しみながらの書屋で書道を研鑽し数多くの貴重な書を残した。

 春山はここで穏やかな時を過ごしながら書道を愛し、明治22年、百歳の天寿をまっとうした。また、この春雨亭は釘が使用されていない構造の、貴重な建物である。Img_1686 Img_1687 Img_1689 Img_1691 Img_1692 Img_1693 Img_1694 Img_1695

コメント (2)
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