なんでも評論家

さまざまな分野についての評論・エッセイ等を書き綴る。
(大切な目を傷めないために、一定時間ごとに目を閉じましょう)

6 動画作成について再度考える。

2008-06-28 | Weblog
 話が行き詰ってしまったので、基本に戻って考え直してみます。

 『動画の自律的作品化は可能か?』

 音楽と動画の組み合わせ方を問題にしてきましたが、それとは別に重要な問題があります。それは、「動画だけで鑑賞に値する作品を創ることは可能か?」ということで、上記の自律的作品化とは、音楽の援助なしに、はたして動画だけで観賞価値のある作品を作成することはできるのか? ということ、及び、それが、どれだけの印象を及ぼしうるのか? ということです。
 というのも、いかに音楽と動画との組み合わせ方を工夫しても、動画自体が観賞価値が乏しければ、しょせんは音楽に依存した、せいぜいおまけ程度の効果しか望めないでしょう。つまり、音量を0まで下げて動画だけでどこまで観賞価値を持ちうるのか? ということが、動画を付加する意味を左右してしまいます。
 では、音楽を含む音の世界にはない、動画と画像の特性とは何か? 列挙してみます。

1とにかく静かである。なにしろ、音量をゼロにしても鑑賞することができるのである。どんなに静かな音楽や効果音でも、音量をゼロにして聴くことはできない。このことは、音楽よりも刺激が少ないということであるが、それだけ嫌味にもなりにくいと期待できる。ハードロックとかヘビメタとか、詳しいことは知らないが、やたらうるさい音楽は不快であるが、視覚の世界は静止画ですら作品として成立するのであるから、考えようによっては、音楽よりかはずっと優れた特性と考えることもできそうだ。
2時間的な変化の要素がなくても作品として成立する。とかく圧倒的な心情的影響力を及ぼす音楽と比較して、印象が乏しい動画の世界であるが、時間的な変化の要素を無くしてしまうと音楽は作品として成立しない。ところが、静止画は、印象派、超現実派、立体派その他もろもろ、音楽とは異質でかなり強い印象を及ぼす作品が可能である。
3情報の並列性が遥かに優れている。たとえば、数曲を同時に再生すると、何が何か分らなくなり鑑賞できなくなってしまうが、視覚の世界は、画面を2×2=4分割するとか、4×4=16分割するなどして、それぞれの分割された画面に別々の動画作品を表示し、好みの動画を指定してもらって購入するということも可能だ。
 このほかにも、たとえばどんな名曲でも、何度も何度も繰り返し聴いていると飽いてくるし、アレンジするにしても、せいぜい10種類くらいが限度でしょう。楽器編成を変えるとか、音色を変えるなどしても、どんなに多めに見積もっても数十種類程度が限度でしょうが、動画作品は、1曲について数百、数千、数万通り、あるいはそれ以上のさまざまな種類が用意できそうで、どれだけ作成してもきりがありません。

 動画の自律的価値は何か? ということについて列挙するとすれば・・・・
1別項ですでに指摘したように、音楽の要素との対応性があるのは、動きの要素だけであり、
2形には関連性は見つからない。そしてこのことは、形の要素だけでは、自律的な鑑賞価値を持ちにくいということを示しているように感じられる。次の段階として、立体画像に移行すれば、いくらかは印象深くなるような気がするが、これでも不十分であり、風景画像のような印象的な映像が出てきて、その光景に自分が入り込むような心象になって、ようやく観念の水準での対応関係が生じてきそうなのである。このことは、テラジェンに代表されるCG画像が強い印象を与えることに対応しているのではないか。

 このへんまでは何とか絞り込めたが、依然として遥かな隔たりを感ずる。ざっと列挙してみただけでも、
1そもそも、動画だけの自律的作品とはどういうものなのか? というこについて、具体的に思いつかない。音楽のような、文脈と物語性を帯びた動画作品など、そもそも無理があるのではないか。
 かりに曲のコードその他の部分部分の気分に対応した静止画像を特定したとしても、それを曲の進行に合わせてスライドショーのように次々と表示していくというのも、どこか釈然としません。この種の動画作品はいくらか投稿されていますが、音量を0にしてこのようなスライドショーのように次々と画像を取り替えていってはたして作品として成立するものかどうか、疑わしい。それどころか、むしろ逆に、やたらと画面を切り替えると、かつての粗悪なミュージックビデオみたいなものになる恐れがある。

 踊る風景画像??

 では一歩進めて、印象的な風景画像に動きを入れてみるとどうなるか? これは、手元に作成ソフトがないので詳しいことはわからないが、交通機関に乗って移動しながらの光景は、この種のひとつである。印象的だが、このまま音楽に適応することはできない。せいぜいスピード感を演出くらいだろう。

 話を戻す。画像の自律的観賞価値とは何か? 人間の顔や身体や踊りといった類と動きを除外すれば、風景画における、景観の中に吸い込まれていくような空間感覚が、というかこれこそが、あるいはこれのみが、音楽のコーラスや和音が引き起こす強烈な心象に対応する要素ではないかと感じている。これらとの直接的な相関性は掴めそうにないが、観念の段階での対応性は見つかるかもしれない。音楽を動画に座標変換するとどうなるのか? ということだ。 

 音階と画像の異質性について。

 うだうだとうんざりするような文章ばかり書いて申し訳ないが、しばらく続けてこの問題にこだわってみる。これだけしつこくこの問題にこだわるのも、音楽の及ぼす感動をさらに強化できないか、その可能性を探っているからである。
 よく考えてみると、音楽の音階の要素、つまりメロディー、ハーモニーといったものと画像の形との対応関係が見出しにくいのは、むしろ当然ではないかと考えられる理由がある。

・あくまで音の世界の音楽に限定した話であるが、異なった周波数を同時に鳴らすと、相互に干渉を起こすが、映像の世界にはこのような性質はない。むしろ逆に、接近したすぐそばの画像情報でも、完全に区画されており、別物である。情報の並列性が優れていると書いたが、完全な並列情報であり、互いに独立しており、干渉を起こさない。たとえば不・協和音に相当するものも起こらない。
 これは動画に潜む、むしろ反音楽性・非音楽性と考えたほうがいいのかもしれない。それぞれの画素同士ですら、相互に独立していて干渉しない。

 この項目の「題」から外れてしまうが、この問題を「共感性」から考えてみる。

 さて、音楽と動画という組み合わせで、なぜ画像の形の要素だけ(色の問題は後回しにする)が音楽との対応関係が感じられないのか? ということについて、現象面としてどうのこうのということよりも、むしろ共感性の問題ではないのかという見方もできそうだ。『演奏者と歌手─観客』という構図で、演奏者と聞き手とは、対立しているのではなく、一緒になって曲に共感する、というか一緒に演奏して歌っているのだ。身体反応としても、思わず口ずさみたくなったり踊りたくなってきたりするものだ。音楽のリズムと音階という要素のどちらにも当てはまる。動画の中で、なぜ動きの要素だけが音楽との対応関係が見出せるのか? ということについても、動画の動きの要素だけは、見ている者に共感を呼び起こすからだと考えることができそうだ。たとえば、踊っているのを見ていると自分も踊りたくなってくる。

 とすると、動画付き音楽の作成に於いて、形の問題をどう考えるべきかといえば・・

1観客に共感を呼び起こす形体を作成する。
2形体の異質性はそのままにして、音楽に動画を追加することの意味と価値を探る。

 現象面での、音階と画像の形体との関連性を調べることにはあまり意味がないのかもしれない。

 話を戻すと、、
1動画と音楽を、いかにして組み合わせるか? その対応関係についての研究。
2動画の自立的鑑賞価値の創出。いかにして音楽に頼らずに、動画のみで観賞価値を創り出せるか? ということ。

 1よりも2のほうが重要な気がする。まだ動画作成用のソフトウェアも未熟で、取り掛かる段階ではないが、いわゆるコンセプトを固めておこう。まず、音楽への依存を断ち切るため、無響室のような部屋で、生活に必要な音以外はすべて遮断し、純粋に動画だけで観賞価値のある作品が創れるかどうか。挑戦してみる必要があるだろう。

 とりあえず「見切り発車法」で・・

 よく考えれば、音と画像は根本的に異質なもののため、現象面で合わせようとすること自体が意味がないのかもしれない。心象の次元での対応関係があればとりあえずそれでよしということにする。そもそも両者が本質的に異質なものであるということにこそ、両者を組み合わせる価値があるのではないか。

 音楽や曲における、それぞれのパートの組み合わせ方と、動画そのものや動画と音との組み合わせ方とはまったく異質なものになってくるだろうから、常識が通用せず、新しいもの好きや試行錯誤を求めている人たちにとっては、じつに刺激的で面白いのではないか。しかも、自作の動画を投稿して公開できるという申し分のない環境にいるのだ。

 鬼滅の刃について

 動画でいくつかの場面を視聴した程度で、詳しいことは知らないのだが、この作品に限らず、アニメーションというのは静止画を一枚作成するだけでもかなりの手間がかかる筈で、まして映画となるといったいどれくらいの枚数を作画しなければならないのかと、考えただけで気が滅入るのだ。私など怠け者で不精な者だから、作画どころか一枚の紙に文章を手書きするのでさえ面倒なので印刷で済ませようとするといったありさまだ。したがって、その苦労に対してはただ頭が下がるし、ご苦労様と言わせてもらいます。国内の映画館は入場料が高いという不満があるらしいが、それは手間に対する慰労金と考えて納得してもらえばいいのではないかと思います。
 ついでですが、ご存知のように英語と日本語とでは、文法や発音のみならずその背景がまったく異なり、日本語にしかなくて英語には存在しない意味や概念やそれを表す単語がいろいろとあるし、その逆も然りだ。鬼を「悪魔」と英訳しているようだが、両者は概念が異なるし、そのことを知らずに英訳したのだとしたら呆れたものだ。

『鬼滅の刃』はなぜこれほど日本人の心に響くのか

 こんなつまらない映画評しか書けなくてみっともないとは思わないのか。そんなことは個人差があるので千差万別だろうし、観賞している人たちにとってはどうでもいいのだ。

 『鬼滅の刃』実写化の可能性と問題点について

 これについても批判的な意見が多いが、私は映画やアニメはあまり見ないので具体的な問題点については言及できない。こうしたやり方は行ってみれば、株の高値掴みか、いわゆる「提灯買い」みたいなもので、もしあえて私がやるなら、今は誰にも注目されてはいないが、面白くて感動する何かを探してそこに投資するなり販売増に向けた営業やら宣伝ができないかということに取り組むだろう。



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