なんでも評論家

さまざまな分野についての評論・エッセイ等を書き綴る。
(大切な目を傷めないために、一定時間ごとに目を閉じましょう)

時事コラム。(3)

2011-01-29 | Weblog
 最も効果的な女性の地位向上のための方法のひとつはこれだ

 女性の地位向上が国際的に唱えられ続けられているようだが、何をどうすれば効果的なのかという具体策があまり見えてこない。
 多数の女児が殺処分されるインドや、男尊女卑の風潮の強い国では、やはり精子分離装置を普及させて男女の産み分けを普及させていくのが最も効果的だろう。中華国やインドその他の男子を欲しがる親の多い国では、男児が多数生まれて供給過剰に陥り、男の価値が下落し女子の価値が高くなるだろう。荒治療的な女性の地位向上策だ。

 薬物について

 ある歌手が薬物で逮捕されたらしい。もし音楽関係者をすべて抜き打ち検査してみれば、かなりの人数が陽性になることは確実だ。音楽自体が薬物みたいなものだが、いずれにしてもこれが氷山の一角であることは間違いないだろう。 

 男女悪平等

 政治家や役人や経営者や幹部その他の男女比率が不公平なのはけしからんというので、これらの男女の比率をほぼ同じにしようとする。これは行き過ぎると男女間の悪平等を招く。能力に関しても性差が存在することは統計上間違いはなく、両極端なのが男の特徴だ。だから高度な能力が要求される分野ではどうしても男の比率が多くなってしまうのだ。

 感動を与えてやる。

 朝たまたま見ていたテレビで、あるオリンピック選手が、東京への招致に関連して、「オリンピックで感動を与える。」ので、ぜひ賛同して欲しいというようなことを訴えていた。
 →税金を投入してオリンピックを開催させてもらう。のだろう。
 彼らがいかに知性が乏しく傲慢であるのかということを自己宣伝してくれているわ。

 辛坊治郎氏の遭難事件を聞いて

 比較的近かったからよかったようなものの、太平洋の中央あたりで遭難でもしていたら大変だったろう。しょせんはというのは言い過ぎかもしれないが、いつでも救助を要請できるという環境下なのなら、真の冒険ではないだろう。
 これを聞いてこのことを連想した。米国が中華国を意識して火星への有人飛行を企てているらしく、宇宙船内に1年間以上も閉じ込められて生活する訓練を初めてもいるらしいが、こんなことをしてもしょせん訓練は訓練に過ぎず、現実とは雲泥の差があるのだ。似たようなことを障害者と健常者との関係の項目で書いた。つまり、訓練用の船内で事故やら急病その他に襲われた時に、いつでも救出が可能なのだ。もしも本当に火星の軌道近くにまで出かけていったら、帰還まで数ヶ月かそれ以上を要するだろう。地球上ではどんなことをしてもこんな状況は再現できない。これはちょうど、健常者はどんなことをしても障害者の現実を理解することはできないことと同じだ。「太陽系」に倣い、地球の引力圏の範囲を地球系と命名することにすると(地球系には「月」という惑星だけが周回しているのだと考えればいい。)、地球系あたりまでは数日くらいで帰還できるだろうが、これより遠くに出かけるのはあまりにも無謀ではないか。考えただけで恐ろしい。何が起こるかわからないからだ。機械が故障するかもしれず、隕石が衝突するかもしれず、予定外の怪我や病気に襲われるかもしれない。どうやろうとも、地球に帰るまでに数ヶ月かそれ以上もかかってしまうのだ。あまりにも危険である。
 まず、地球系を完全に征服してからだろう。これでも大変なことだ。具体的には月旅行を完全に遂行できるようになることだ。少なくとも、今世紀中の火星への有人飛行は不可能ではないか。火星が太陽の向こう側に位置している時など、なんと月までの距離の1000倍くらいにまで離れてしまうのだ。

 似たようなことだが、「男は出産の痛みに耐えられない。」とか、「男が出産したら死んでしまう。」という言い回しがあるらしいが、仮定自体が不可能だ。たまたま、男が出産時の苦痛を体感できる装置を使って実験したことの記事を見つけたが、上述の通り、いつでも中止できるという条件下でしかできない。やはり現実とは雲泥の差だ。もうひとつは、男も女もいろいろであり、感じる苦痛と耐性にもさまざまな個人差が存在するだろう。
 女は出産に耐えられるように丈夫にできているから平均寿命も長いのだ。という言い方を散見するが、そのような要因はいくらかはあるものの、男の平均寿命が短いことの最大の原因は、おそらくテストステロンによる免疫の破壊作用だろう。

 橋下氏の慰安婦発言について

 私はこの問題に詳しくないのでこの問題そのものには言及しないが、戦時のことはともかくとして、女性への性犯罪をいかにして減らしていくのかということについての議論や提案をするひとはあまり見かけない。「過去の痛切なお詫びと反省」ということよりも、今後いかにして性犯罪や性暴力を減らしていけるかということのほうが重要だろう。橋下氏を批判するひとたちは、それならどのような方法があったのかという代替案を出さない。批判のための批判というのは言い過ぎだろうが、慰安婦制度がなかったら余計に悪い事態になっていた可能性だって否定はできないのではないか。
 性犯罪者のほとんどは男だ。これは古今東西変わらない。どういう理由なのか不明だが、フェミニストやそれに近い女性たちは、なぜか性欲の性差の存在を認めることを極度に恐れているのだ。その必死に否定しようとしているところだけで、性欲の性差を暗示しているようにも解釈できる。別項にも似たようなことをあちこちに書いているのでこのブログの常連さんには、「またかよ。わかったっつうの」とうんざりされそうなのでこの項目は無視してもらってもかまわない。性犯罪その他の問題を減らしていく有効な方法は、男女の産み分けを普及させて、男の人口比率を減らして男の性欲の供給過剰状態を解消していくことだ。男の人口比率が高くなると、犯罪や暴力が増えて治安は悪化し、挙げ句の果ては戦争だ。歴史的にも枚挙に暇がない。とにかく、男の人口比率か増えるとろくなことにならないのだ。このことから考えると、男の人口比率が少なくなるほど社会は良くなるということだ。男が少なくなると男の市場価値が高くなるので男にとっても好都合なのだ。男女双方にとって有益であり、ウインウインの関係になるのだ。
 あまり適切な例えではないかもしれないが、(ブチハイエナの尿道出産は例外として)出産の苦痛が男に理解できないように、男の性欲というものがいかに始末が悪いかということを女性が理解するのは至難の業だろう。そもそも、女性に男の性欲を理解してもらおうとか、理解してもらうことを期待する男もいない。性ホルモンの性質の違いに由来するものなので、女性が男の性欲に無理解なのはある程度仕方ないとしても、そこに違いがあるということを感知するくらいのことはできてもいいのではないか。なにしろ、女性は男の嘘をすぐに見破るほど鋭い嗅覚を持っているらしいので。
 社会は実績しか評価しない。男の人口比率を減らしていくというのが、最も有効な方法の一つであることはほぼ断言する。ただし、国内だけでこれを実行しても、外国の男に食われることになってしまうので、全世界的な取り組みが必要になってくるだろう。人類共通の課題なのだ。

 オリンピック委員会の対応

 今回の暴力事件で、「臭いものに蓋」という印象を与えた。これが氷山の一角に過ぎないということは説明するまでもない。不謹慎な言い方になるが、私のようなスポーツが嫌いな人間にとっては有難い。というか感謝している。このほか、これだけ学校でのいじめが話題になっているのなら、まず部活こそ問題視すべきだ。
 スポーツ嫌いが増えてくることを期待している。これはかなり自信があり、というよりも、本来大多数の人たちはスポーツが嫌いな筈なのだ。理由は簡単で、運動は苦痛だからだ。これだけ交通機関が発達してきたのも、ダイエットに取り組んでもたいてい挫折するのも、そのことを如実に示している。

 脱原発は進まない

 マスコミに登場してくる知識人達は、申し合わせたかのように「脱原発」を唱えている。驚かされるのは、彼らのほとんどは発電について門外漢だということだ。専門知識のない者が論ずるなど、「私たちはバカです!」と宣伝しているようなものだ。日本の知識人の水準がこれでわかるだろう。
 脱原発はあまり進まないだろう。エネルギー発生効率が違い過ぎる。このほか、電気は貯蔵に向いておらず、この性質は永遠に変わらない。自然エネルギーの供給不安定性という問題をどうしていくのか? 納得できる説明を読んだこともない。
 蓄電性能の進歩など知れたもので、脱原発を唱えている知識人たちの恐らくほとんどが、電気はもともと貯蔵に向いておらず、誰がどのように工夫してもこの基本的性質は永遠に変わらないという、電気に関しての初歩的な知識さえも持っていないらしいというのを見せつけられて呆れた。もしもこのことを覆すような発見があるのなら、常温超伝導をも凌駕するほどの一大ニュースになる筈だが、聞いたことがない。
 なぜ、「地震が来ても破壊されないような原発を新たに建設しよう!」、そのためには、どこまで実現可能なのか、何をどうすればいいのか? といった建設的な提言が出てこないのか? 消極的な論調ばかりだ。情けない。

 管総理大臣へ

 原発や発電所についての、定見なき発言を繰り替えしていて、こんな人でも総理大臣が務まるのかと呆れる。発電についての専門知識のある人を呼んで、どういう事情があるのかについて説明してもらいなさい。あなたの何十倍何百倍もの専門知識を持っている。総理大臣の権限があればすぐに実現するだろう。こんな初歩的なことすら、いちいち指摘してもらわないと分からないのか? 

 恐らく選択肢自体存在しない

 原発批判派の意見のひとつに、「われわれは間違って原発を推進してきた」というような印象を抱かせるものがあるが、そうやって議論する余裕があるだけでも幸福なのかもしれない。
 
 無意味な全国学力テスト

 教職員組合などは、「こんなことをすると学力格差が拡大する」と、例のごとく何とかの一つ覚えのような批判をくりかえしているらしい。日教組が気に入らない保守派は、沖縄の学力が最低であることを取り上げて、「ほれみろ」とばかりの批判を展開している。
 たしか秋田県が1位だったらしいが、これは違うと思う。まず、優秀な人材はたいてい都心部へと集中するし、親が優秀だと子どももたいてい優秀だ。遺伝の影響は間違いなく存在する。優秀なひとは収入も多いので、たいていは子どもを私立校に通わせている筈だ。私立校の大部分は学力テストに参加していないので、統計に出てこないのだ。地方で五段階評価で4を取っている子どもが都心部に引っ越すと2くらいにまで下がってしまうというのが相場らしい。したがって、おそらくは東京が最も学力が高い。
 予算と手間の無駄だという批判には賛同する。このほか、フィンランドの教育に見習えだの、インド式の暗算法がどうの、これらは平均値を上げようということで似ている。日本の最大の欠点である悪平等を改め、優秀な人材への集中投資こそ実行すべきだ。

 フィンランドの教育はそんなに素晴らしいのか?

 だいぶ前のことだが、フィンランドは教育で素晴らしい成果を挙げている。というのが話題になった。落ちこぼれを出さず(?)平均的学力が向上し(!)大学進学率が50%を超えている。
 驚くべき、というか呆れたおめでた話だ。試験が無いそうだが、それなら落ちこぼれないのは当然ではないか。見習う点はいくつかある。少人数制。学校を主要教科学習に集中していること。教員を雑用で忙殺させないこと。
 半数の生徒が大学まで進学するそうだが、本来大卒程度の学力を習得できるものは全人口の一割もいない。 

 沖縄から学ぶこと

 全国学力テストで沖縄が最低だったらしい。反面教師としての材料を提供してくれるかもしれないので、調べてみた。
 掲示板の書き込みを散読した限りでは、

・部活動にばかり力を入れる。
・学校行事がやたらと多い。

 まさに、学校の役目を主要教科に限定しているフィンランドと正反対だ。これは学校教育に限った話ではなく、スポーツさえできれば、他に問題があってもかまわないというような、スポーツ至上主義や部活至上主義は要注意だということだ。

 追加するとすれば、、、

・学校や教育など、しょせんは必要悪の一種に過ぎないものに過ぎないと、いい意味で軽蔑すること。したがって、学校を子どもたちにとっての楽しい場所にしようなどと考えないこと。
・詐欺事件が明るみになるたびに、「世の中には美味い話はない」ということがわからんのか! という批判が出るのに、教育の世界だけは例外であり、「子どもには無限の可能性がある」などという誇大妄想症が堂々と罷り通るのだ。

 金八先生への贈る言葉

 困難校勤務の教員が、自身のサイトで興味深い教育論を展開していたので紹介したい。曰く、
 「(中略)そもそも、学校教育なんて、人生の中でそんなに重要なものなんでしょうか? 世の中には、教育なんかよりも、ずっと感動的でひとを成長させ、世界を広げてくれるものがたくさんあるでしょう。」

 宗教の社会的価値

 「政治家は結果責任ですべての評価が決まる」という。当たり前のことであり、どの世界であれ、実力に基づく実績しか評価の対象とはならない。
 子供の世界でも例外ではない。成績・試験・コンテスト・オーディションなど、すべて実績のみが評価の対象だ。どんなに頑張って勉強しようが、点数が取れなければ評価されない。一日中遊んでいても、点数が取れればかまわないのだ。
 宗教の反社会性というと大げさだが、合格祈願などその典型だろう。合格するかどうかは当人の実力のみによって決まらなければならないのに、お祈りするかどうかによって合否が左右されては困るのだ。試験の意味がなくなってしまう。お祈りすることによって学力が向上するのなら問題ないが、おめでたいこと極まりない。
 宗教の社会的価値についても同様で、具体的な実績のみに基づいて評価されるべきだ。「神の存在を信じる。」「賛美歌を歌う。」「礼拝に出席する。」「戒律を守る。」これらの行為は極端に言えば自己慰労行為の一種に過ぎず、社会的評価の対象にはならないのではないのか。難病の患者を救うべく、神に祈った。しかし効果は無かった。それなら、社会的には価値は無い。実績のみが評価の対象だ。というのは、宗教にも当てはまるべきだ。

 本当のことを報道しないマスコミ

 地球温暖化についても同じで、これまでにどれだけの資金が投入され、実際にどれほど地球の平均気温を下げる効果があったのか、ということについて、すくなくとも私の知る限り、テレビも新聞も一切報道しない。なんやらビズで、たとえば排出量を100万トンほど減らすことができたと、自賛気味のコメントならちらほら聞いたことはある。しかし、全世界の総排出量は、2日足らずで1億トンを超えてしまうのだ。この調子で百数十年間も延々と排出し続けて、地球の平均気温は0.6℃ほど上昇したということになっている。普通に考えると、再生可能エネルギー用の発電装置による二酸化炭素の削減量と、平均気温の冷却効果など、あまりにも微々たる数値に過ぎず、温暖化対策の世論に良くないから報道しないということだ。
 原発の是非論やら再生可能エネルギーへの投資などについて論ずる前に、太陽光発電と風力発電に、これまでどれだけの金額が投入され、地球の平均気温が何度下がったのか。という、実績について取り上げるべきだ。社会は実績しか評価しない。
 この場で命令させてもらう。マスコミは、今述べた具体的な数値の実績について、一定の期間ごとに必ず報道すること

 日本や日本人と被災者とを区別しない有名人たち

 この種の批判はすでにいろんな人たちから指摘されているだろうが、いちおう書いておく。
 あきれたことに、村上龍までもが、ニューヨークタイムズに「日本には希望がなくなっていたが、これを機に希望を得た」とかいうようなことを寄稿していたらしい。被害に遭っていない大多数の日本人と被災者とを一緒にして、すべて日本人として扱っているのだ。こんな鈍感なひとによく作家など務まるものだ。他の有名人についても同様だ。
 
 猫も杓子も世界遺産

 いかにも日本的な現象だ。おらが村精神丸見えでみっともないと言ったら怒られるだろうか。世界遺産が増えてくれば、自ずと世界遺産の価値は下落する。この程度の知識は持ってほしい。

 書き込んでいるあなたも批評の目にさらされているのだ

 動画サイトや書評や教えてグーや知恵袋等への書き込みを読んでいると、批判しているあなたの書き込みも閲覧している人たちの目にさらされているということに気付いていないような印象のものが多数ある。違法性がない限りとりあえずどんな書き込みをしてもいいということになっているが、まさに自己責任なのだ。自業自得であり、あなた自身がその程度の書き込みしかできない人物だという評価が定着していくだけだ。
 (例) 
 動画サイトへの書き込みに、この曲の出来が悪い、感動しないなどの否定的なものを見かけるが、君自身に理解力や感動力が無いかもしれないということを疑ってみることはしないのか? 私はピカソの立体派の絵画を見てもその価値が分からない。しかし、かといって、ピカソに才能がないとか彼の絵に価値が無いとは言わない。現代音楽やクラシックについても同様だ。私自身に理解する才能がないからだ。豚に真珠というやつだ。

 自殺はなくならない

  自殺についてはいろんなひとたちがいろんなことを発言しており、「自殺など絶対に許されない行為だ。」とか、「自殺できるくらいなら、できないことなど何もないはずだ。死ぬ気になって生きてみろ!」とか、「自殺したらあなたの家族がどれほど悲しむか? そのことを思えば自殺などできない。」といった無責任なものや、「自殺を大量に作り出す社会が悪いんだ。」といった、外れてはいないもののやや的外れ的なものまでいろんな意見が出ている。
 書くと長くなりそうなので、とりあえず書く。自殺してしまった人たちや自殺未遂で助かった人。自殺についての文学的想像力のある人たちの実存と、「自殺するなんて考えられへんや。」といった幸福な人たち、想像力の欠如した人たちとは別の世界に生きているのである。ブラックホールみたいなもので、これらの幸福な人たちは、自殺の現実を一生理解しない。

 日本の責任

 「産業革命以前と比較して大気中の二酸化炭素濃度がどれだけ増えた」というのがニュースで報道される。具体的にどうなのか? 考えてみた。
 産業革命以前の二酸化炭素濃度が約0.028%で、2000年の濃度は約0.0369%ということらしい。増加分は約0.01%、ということは、約1万分の1増えたということだ。そのうち日本の占める排出量は約5%だから、これに0.05をかけると、0.0005%になった。なんと、100年以上も延々と排出し続けてきた二酸化炭素の総量の大気中濃度でも、たったの20万分の1だけ増やしたに過ぎない。これはかなりいい加減な数値でじっさいは違っているだろうが、いずれにしても極めて僅かな増加分であることは間違いなさそうだ。この程度二酸化炭素を増加させたことによって、誰にどんな損害を与えたというのか? しかも温室効果ガスによる気温上昇の大部分は、寒候期の寒冷地に起こるのだ。とすれば、台風の発生地や通り道である熱帯と亜熱帯と夏季の温帯域の気温上昇にはほとんど影響を及ぼしていないと考えてよいだろう。このことはマスコミは取り上げない。そのくせ、「真実を知る権利」だの「報道の自由がどうの」と言う。呆れたものだ。こんなんで炭素税だの地球温暖化対策税を導入せよと言う。
 地球温暖化の項目で、この、約20万分の1というのがどれほどの比率なのか、作図して表示してみた。同じ図をここに貼り付ける↓





 このブログを読んでいる賢明な読者殿。左上側の矢印の先にある小さな立方体分が約20万分の1だ(20万の立方根は約58.5なので、立方体のつもりの各辺の約58.5分の1の寸法を計算してみた)。
 この程度二酸化炭素を増やしただけで炭素税を導入せよだの、日本が先頭に立って25%削減するなどと宣言したりしているのだ。あほらしいと思わないか?

 格差はなくならない

 人間の潜在的な諸能力の限界はほとんど生まれつき決まっているらしい。とすれば、能力格差を無くすことは不可能であり、能力格差は収入の格差と資産格差を生む。したがって個人間の格差は永遠になくならない。すくなくとも、この程度の覚悟と現実認識もなしに政治的議論や政策上の議論をしても意味はなかろう。

 赤い羽根共同募金について。

 この制度は、どういうわけか地区の役員が家を訪問して徴収するようなことになっている。おかしいと思わないか?

1本来任意のはずの募金活動が、納税のような義務行為になってしまっている。
2各家庭を訪問して集金すれば、どこの家が募金しているかしていないかが判ってしまうではないか。プライバシーを侵害しているではないか。
3募金しない家は村八分にされかねない。

 まるで「みかじめ料」の取り立てではないか。誰がどういう理由でこのような制度を考え普及させたのか。したい人はコンビニやら郵便局やらインターネットで募金するようにすればいいではないか。廃止してもらいたいものだ。じつに迷惑だ。
 法的根拠がないのに、こちらから金額を設定してお金を取り上げるという、本来組員さんがやる仕事を無料で引き受けさせられているのだ。

 NHKへの勧告

 「世界が注目する日本の○○」「世界初の○○」「若い女性に人気」といった広告用語を使うのはやめましょう。
 全職員の全収入について、役職ごとに番組中で放映すること。受信料という上納金から報酬をもらっている限り、責任は免れない。

  スポーツ至上主義を批判する。

 オリンピックとスポーツの今後について、日本の採るべき方向性と戦略について考えてみた。
 結論を書いてしまうと、その筋から顰蹙を買うことになるだろうが、言説者たる者はこんなことを気にしていたのでは存在価値が疑われてしまうのであえて書くが、「オリンピックやスポーツのもつ、社会的価値を下落させてしまう。」のだ。

1人間は、体型からしてそもそもスポーツに向いていない。

 とくに不向きなのは、陸上と格闘技で、短距離・中距離・長距離すべてについて、人間ほど走るのがへたくそな動物も珍しいのではないか。しいて挙げるなら、ナマケモノくらいだろう。遅いし安定が悪いのでよく転ぶし、二足歩行というのは、走る上で圧倒的に不利なものであるらしい。そもそも人間は、スポーツをするために二足歩行その他の進化を進めてきたわけではない。あらゆる動物の中で、最も走るのに向いていない、いわば落ちこぼれの種である人間が挑戦しているのだ。最低の偏差値の生徒でも入学できる教育困難校か底辺大学に入学した生徒と学生が、学内で誰が成績優秀なのか競っているようなものなのだ。副産物として、膝や腰の痛みという人間固有の問題も抱えることになった。
 格闘技にも向いていない。説明するまでもなく、他の野生動物と比較して、はるかに繊細で外力に弱い。肉食獣どころか、草食獣でも人間よりもはるかに皮が丈夫なため、体格が同じくらいの草食獣だと、蹴ったり叩いたりしてもびくともしないらしい。昨今ではこんなことをすれば動物虐待だと問題になるだろうが、むしろ逆であり、たとえばゴリラはメスのほうがずっと体が小さいが、そのメスでも握力が500kgを超えるらしい。その気になれば、人間を殺すことなど朝飯前なのではないか。骨格も華奢だし、動物よりも細い首と華奢な頭蓋骨の中に動物よりも大きな脳が入っている。それだけでなく、二足歩行をするため、急所である内蔵を前方に向けてしまっている。これは、動物では相手への服従の姿勢だろう。

2その中でも、モンゴロイドはとくに向いていない。

 日本人=モンゴロイドというわけではないが、以前よりだいぶ改善されてきたものの、平均身長が低めで、胴体が長くて手足が短い。日本の場合は、文化的な影響もあり、他人と競合することを避ける風習があり、なおさら不利である。体型の不利さが比較的少ないのは、器械体操や乗馬など、特定の種目に限られるのではないか。陸上競技など、ほとんど黒人の独壇場みたいになっているし、彼らが本格的に他の競技へ進出してきたらどうなるのだろう。

3人間の諸分野・諸活動の中で、スポーツは社会的価値が過大視されていないか?

 オリンピックが行われるたびに、やれメダルが取れたの取れないだのといって一喜一憂しているが、ひねくれ者の私などは1個もメダルが取れなくてもかまわないと考えている。われわれ一般国民に実質的に何らかの損害が生じるのだろうか? たかがイベントである。マクロ的にも、日経平均や為替や先物価格に影響があるだろうか? おもしろいのは、女子が男子の倍くらいメダルを獲得した場合である。「どうしたんだ日本男児は?」といった嘆きが聞こえてきそうだが、「それがどうしたの?」。これでいいのだ。
 100mを9秒いくらで走った。すごい! ただ、その能力の社会的価値と意義とは何だろうか? ようするに、スポーツマンとは、ある種の芸人なのではないか。人口が約1億人おり、メダル獲得者はせいぜい数十人だろう。そのために、百数十億円の税金を投入することの公益性とは何か? 納得のいく説明は聞いたことがない。

4人間が進化の結果、地球の覇者になりえたのは、知力によるものであり、体力によってではない筈だ。

 人間へと進化していく過程で、二足歩行、毛の喪失、尻尾の喪失、大脳の大型化等といった特徴を獲得していった。これらの大部分は、スポーツをするうえでむしろ不利である。人間の進化の方向そのものが、反スポーツ的なのである。

5文明が進歩すればするほど、知力の社会的価値は上昇していき、体力の価値は下落していくものである。このような社会状況の進展に逆行しないか?

 だいぶ前のことになるが、在日のフランス人記者が、日本の格闘技ブームについて、「文明の進歩に伴ってこうした野蛮なものは縮小していくべきなのに、異常である。」といったようなことをニューズウィーク誌に寄稿していたような記憶がある。同感であり、そしてこのことは、日本だけに当てはまる事情ではなく、文明が進歩すればするほどますますそうなっていくべきなのだ。上述のように、スポーツとは、音楽や映画その他の娯楽のように、やりたい人だけが各人の事情に応じて取り組むべきだ。オリンピックやスポーツ関連への公費の投入も縮小していくべきで、日本は「知力立国」を目指すべきだ。
 ついでに、教育における体育の位置づけについて紹介する。これは、夏木氏らが提唱している学校制度改革案で、国家戦略上のスポーツの位置づけと重なるものと思われる。

1授業を午前中のみとする。
2主要教科(国語・数学・社会・理科・英語)の授業だけを行う。
3技能教科(体育・美術・音楽・技術家庭)を廃止する。
4学校行事(遠足・臨海・林間学校・運動会・学園祭・修学旅行等)を廃止する。
5学校に於ける部活動の存在を切り離す。

 3と4は抵抗が大きいと予想されるので、移行措置として自由参加か選択性としても良い。夏木氏も指摘しているように、体育を含む技能教科の能力は、大学や専門学校の入学試験に採用されていない。このことは、これらの能力が社会から要求されていないということを示している。「いや、勉強ができなくてもスポーツができればいい」という声が聞こえてきそうだが、和田秀樹氏が指摘しているように、どのような能力が社会的に価値があるのかということは、教育評論家ではなく、社会が決めることなのだ。また、「勉強のできる奴はスポーツも得意なんだ」という指摘も聞くが、これは当たってはいるが外れてもいる。人間が投入できるお金と時間と労力には限りがあるからだ。
 3と4、とくに4は、子ども「たち」にとっての楽しみなのに、それらを学校から無くすことなど反対だ。という声が聞こえてくるが、そうした、何でもかんでも見境なく学校に詰め込もうという発想こそが、学校を駄目にしているのだ。
・教育はすべて学校内で行われるべきだ。
・学校は子ども「たち」にとって、すばらしいものである筈だ。
 ほんとうに学校教育を良いものに変えていこうとしているのなら、まずこれらの固定観念を壊してもらいたい。これだけ多様化した現代社会で、あらゆる技能や知識その他を、学校の内部だけで教えるのは無理があるし、そうしなければならない必然性も存在しない。そもそも、準義務教育化した高校も含めて、義務教育とはある種の徴兵制である。徴兵制が素晴らしいものだと考えたり、素晴らしいものである筈だ、と考えるひともいないだろう。どうしてもスポーツ・音楽・美術その他を指導したいのなら、学校の外で行うべきだ。学校行事にしても、もともと似た趣向の人間が集まって学校に来ているわけではない。それよりも、掲示板その他で自分と考えや趣向の合う人たちを探して、そうした人たちと一緒に旅行に行くなり行事をするようにしたほうがいい。

 保守派のバカ教育改革

 武道必修化についてはいずれ書こうと思っていた。とりあえずまとめておくと、不謹慎な発言だという批判が来るだろうが、むしろこのことを歓迎している。こういうシナリオだ。柔道の授業中に事故が起きる。「ほれみろ!」という批判が起き、柔道=危険で恐ろしい競技という印象が定着する。武道嫌いが増える。
  このブログを熟読してくれている読者はご存知と思うが、学校は主要教科に限定して取り組むべきだ。
 
 学校教育の外側にこそ子どもたちと人類の未来がある。

 悪名高きゆとり教育や偏差値追放などの教育改革も、長期的視点から眺めれば、学校教育の社会的価値の下落に一役買ったということで評価できる。やるべきなのは、多くの親や大衆が学校教育に期待しなくなることであり、そのためには、いかにして学校教育の価値を下落させていくかということなのだ。退屈でつまらない学校教育などよりも、ずっと感動的で面白くて世界観が拡がるものが学校外にいろいろあるだろう。どのようにして、学校教育の外部の時空間を活用していくのかということを考えるべきだ。
 多くの親が学校教育などに期待するから、総合学習だの体験学習だのといった、効果があるのかないのかわからないような無駄な時間割が出てくるのだ。性教育や避妊の方法を教えろだの、金融教育を施せ。といった、以前詰め込み教育への批判があったが、これこそ悪しき詰め込み教育と呼ぶべきだ。学校教育の価値を下落させて誰も期待しなくなるようになれば、こうした愚かな詰め込み教育も減るだろう。それで結果として学校がいくらかはましになるのだ。 

 やればやるほどおかしくなる教育改革

 教育論や教育改革に夢中になる論者の殆どが、学校教育という枠の内部を改革すれば改善されるという錯覚に陥るのだ。今回の経緯を観察しても分かるように、学校教育の内部をどのように改革してみたところで、所詮は「教育改革ごっこ」で終わってしまうのだ。

 徴兵制度としての学校教育

 おそらく保守派の論客が発端となって今回の教育改革が実現することになったのだろうが、学校という一律平等で強制的に行われる場で、やれ武道を教えろだのダンスを指導しろなどと唱えているところを見ると、その悪平等主義性に於いて、彼らが目の敵にしている日教組とは、じつは同じ人種なのだということが分かる。彼らはよく徴兵制の復活も唱えるが、このような、向き不向きという個人差を無視して強制的に行わせるというのは効率が悪いのだ。保守派の論客というのは、どうも効率を悪くして国力を下げることを好むらしい。それどころか驚くべきことに、柔道その他の武術に門外漢の先生たちに講習させて指導させるということらしい。数学に無知な教員に数学の講習を受けさせて指導させるようなものではないか。正気か? ダンスについても同様らしい。「武道習得ごっこ」「ダンス習得ごっこ」というところか。これこそ時間と予算の無駄である。こんなことをするよりも、学校は主要教科の基礎学力の指導に限定して、残った時空間を外部の専門機関による指導その他に委ねて、個人の向き不向き、得意不得意に応じてそれぞれが各機関で学習なり修行なりをしたほうがいいのだ。そのなかのひとつとして、武道に向いていてその技を磨きたいという人がいれば、その専門機関に入門して修行すればいい。音楽教室・ダンス教室・語学教室・サッカー教室あるいは、小中学生が、高校や大学くらいの高難度の勉強に挑むとか、ある特定の特化された専門知識を習得するとか、いろいろな選択肢が考えられるだろう。それぞれの興味や得意分野に応じて対応するので、こうしたほうが効率も良いしやる気も高まるし、結果的に大きな成果が上がるだろう。それが社会や経済を活性化し、結局は国力の向上になるのだ。
 そしていっそのこと、部活も最終的に廃部の方向を目指すべきだ。どの程度の専門知識を持っているのか疑問であるし、どこまで責任を問えるのかということもはっきりしない。不毛な根性論や精神論を叩き込むような部活の顧問による指導などよりも、専門知識を有する学校外の教室に委ねたほうがよい。

 道徳教

 このほか、どういうわけか保守派の連中はやたらと道徳教育を公教育で指導させようと考えているようだ。おそらく社会規範や性行動の規範が崩れていくことへの反感があるのだろうが、それにしても、こうした複雑な諸問題を道徳教育によって是正できるなどと考える安易さには驚かされる。道徳教育の不毛性など、昔から幾人もの哲学者によって指摘されてきたことであるし、私自身小学校の頃に道徳の授業があったが、行動や人格への影響どころか、そもそも何を習ったのかということさえほとんど記憶にない。それに、道徳の授業を真面目に聞くような生徒は、もともと問題行動も少なくて、それなら道徳を教える必要もないのだ。

 教育真理教

 彼らがやたらと愛国教育を推進したがるのも、人間は教育次第でどうにでも変えていくことができるという思い込みがあるからだ。教育論を論ずる暇があるのなら、問題児の溜り場である困難校に行って、道徳教育で彼らの問題行動を減らすことができるかどうか、実際にやってみるべきだ。こういうのを「百年河清を待つ」と呼ぶのだ。
 読書離れが進んでいるというので、読書の時間を作って生徒に読書をさせる。こんなことをしても、読書嫌いの生徒はしかたなくいやいや読書をするか、読んでいる「ふり」をするだけであり、読書好きにはならない。卒業すれば読書のことは忘れて元に戻るだけだ。

 上野千鶴子とフェミニスト

 上野千鶴子らのフェミニストは、記事に依ればおやじ文化を破壊することにやりがいを感じているらしい。保守派は当然問題視しているが、フェミニストの記述を読んでいると、このひとたちは男だからとか女だからとかいった枠から開放されることを目標としているはずなのに、男女の分類に囚われているように感じる。性別による区別に囚われているのはむしろこのひとたちではないか?
 ところで私は、基本的に男性嫌悪症なので、男や男文化が滅んでもかまわない。それどころか、男女の産み分け技術を普及させて、男の数を減らしていくべきだと考えている。別項に詳述してあるので読んでいただきたい。

 平和真理教

 いわゆる「武器輸出三原則」について、これが実際にどの程度効果があるのか。それとも、「平和真理教」的な自己慰安に過ぎないのか。ということについて、客観的に検討し、廃案も含めて考え直すべきだろう。この問題に関しては無知なので、へたに口出しすると恥を晒すことになるので詳細は避けるが、指摘できそうなのは、これが効果を発揮するためには、日本だけが諸外国と比較してかなり技術的経済的な優位性を確保していなければならないということだ

 恩赦について

 その適用範囲について、誰がどのような経緯で決定したのか、あるいその理由について公開すべきだ。

 本当の問題とは?

 少子化も問題ではないわけではないが、それ以上に、能力の低い人ほど多産であるという傾向が、社会や経済にどんな影響を及ぼすのかということのほうが大きいのだ。少子化の問題も、男児が減っても女児が減っていなかったり増えていたりすれば、さほど心配ではないのだ。説明するまでもなく、女性の人口の方が次世代への人口への影響が大きいからだ。すなわち、女児の少子化が問題なのであり、男児の少子化は問題ではないのだ。それどころか、男児だけがさらに少子化していけばむしろ好ましいことかもしれないのだ。
 男の精力が減衰してきたから少子化が進んでいるなどと発言するバカ保守がいるが、あほなことをいうな。

 元号について

 分かりにくくて煩わしいので、免許証と保険証は西暦にしてほしいものだ。日本文化の衰退につながるなどという反論があり、西暦はキリストが起源だからどうのこうのという意見もあるが、たんなる便宜上の問題に過ぎず、そんなことはどうでもいいのだ。だいいち、元号の使用頻度が減った程度で衰退してしまうほど日本文化というのは脆弱なものなのか? それと、誰がどのような経緯で名称を決めたのかということについても公表すべきだ。

 脱獄者について

 動画で脱獄を見た。地下の排水管を通って脱出するというような内容のようだが、閉所恐怖症気味の私からすると、見ているだけでぞっとした。自業自得と言えばそれまでだが、そんなたいへんなことをしてまで脱出できるだけの体力と気概と技術があるのなら、なんで刑務所に入るような行為をすることを阻止できなかったのかと。他人事ながら気の毒になってくる。とはいっても、やってしまう人はやってしまうものなのか。「こういう人たちを見ていると、いかに自分が恵まれた環境にいるのか痛感する。神に感謝して、やるべきことはすべて全力で取り組み、あとは天命を待つのみ」ということだろうか。
 なお、例の向島の逃走犯についてであるが、脱走しなければならなくなるほど嫌な刑務官なら、塀よりも大きな塀だろう。とすれば、その気になれば逃げられる環境を用意することの意義も減殺するのではないか。

 偏見なのかもしれないが、学業成績よりも部活の実績を重視して採否を決める体育会系オヤジが減らない限り、ああいう監督や顧問やコーチも減らないのではないかという気がする。これが氷山の一角に過ぎないことも確実だろう。

 日本社会の病理

 任意である筈の部活とPTAがいつの間にか義務のような存在になってしまい、参加しない人間を村八分にしようとするような風潮が生まれる。という悪習がなくならない。みんなで一緒に同じことをすることこそが素晴らしく称賛されるべき美徳であるという思い込み、というか洗脳が解けないのだ。

 肥満について

 私の体重は標準を4キロほど超過している程度で、肥満までは程遠い。こんなことを書くと嫌味と感じる人がいるかもしれないが、肥満で悩む人についてはある程度は共感する。運動することが苦痛な人間なので、エクササイズとかウエイトトレーニングやジョギングなどの運動によって痩せるというのは大変なことだと感じる。そのうえ、運動することによるカロリーの消費は予想以上に少ないものらしい。逆に考えると、飢餓の問題はそれだけ解消されやすいということだろうか。いずれにしても、一定の比率で肥満で悩まされる人が出てくるのも無理もないだろう。
 ところで別項にも書いたように、腕というものは引っ張り力に向いているので、すくなくとも私にとっては腕立て伏せよりも懸垂の方が楽だ。ドアの上部に取り付けて懸垂ができる道具があるらしいが、あれがあれば私のような不精で運動嫌いの人間でも続けていけそうな気がする。(お分かりのように、腕を鍛えたいのなら、腕立て伏せやベンチプレスよりも懸垂がおすすめだ)

 論点を混同しないように・・

 鳶が鷹を生む→遺伝(定義次第でもあるが)の影響を否定することを意味しない。
 蛙の子は蛙→遺伝と同義ではない。
 生まれつきと遺伝も同義ではない。

 脳内の特定の領野が損傷したら、特定の能力が障害を受けた。このことは、その領野がその能力を担当していることを必ずしも意味するものではない。

 →発話を司る脳部位を同定することと、発話障害を引き起こす損傷部位を同定することとは別問題だ。

 学校法人日本部活大学

 巨人の星とかドカベンなど部活至上主義の典型で、部活のために進学し、日々登校しているという感じだ。メガネをつけた秀才が、「学生の本分は勉学にあり、」と言うと、岩鬼が「なにい!」とかいって怒る場面があるが、このような漫画やアニメに違和感がないということが部活主義の根深さを示している。日大のアメフト部はしばらく休部になるらしいが、これを好機として勉強に励むべきだろう。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。